「余るより有り難かったよ」 気づくと、呆れたような長沢の笑みが目の前にあった。 長沢の申し出は、今から思えば有り難かったのだ。丁度良かったと迎え入れられ、卓袱台の前に座らされてハムサンドを出され、レギュラ ータイプの珈琲を出された迄は、良く分からないままに流されただけだった。 だが、言われるままに一切れ口に放り込んだ後は、止まらなかった。 作戦会議では殆ど何も口にしなかったし、珈琲も飲まなかった。だが別段空腹は感じていなかったし、喉の渇きも無かった。ややこしい話を聞かされ、冬馬なりに考えをまとめながらここに着いた時も、空腹などと言うものすら頭に無かった。だが。 それなりに脳をフル回転した後で、腹が減らない訳は無い。一口後は、終点までノンストップだった。グリコーゲンを最も消費するのは、筋肉ではなく脳なのだから無理も無かろう。 「珈琲……まだあるかな」 「ああ、淹れて来る。マシンは落としちまったから普通のドリップだけど」 言いながら立ち上がって、階段ホールに消える。朝方ぎこちなかった動きは、すっかり元に戻っていた。まだ身体を捻るのは駄目なようだが、あれだけ騒いでいた割には復帰が早い。 腹のポケットの中の長沢の資料を引き出す。20年以上も前の長沢の写真を引き出す。黒くてしなやかな髪と、張りのある頬の長沢の写真に指を這わせる。 1991年。29歳の長沢 啓輔が、今、冬馬の指先に居る。 新都銀行本社営業部員。やり手の銀行マン。やがてはジェノサイダーと呼ばれる男。そこに居るのは、場末のCAFEのマスターではない。野望に燃える、新進の企業家だ。 頬の位置が高い分、幾分か目許が凛として爽やかだ。髭の無い口許も整っていて、口角が僅かに上がっているのが犬を連想させる。充分、見目良い男の範疇だが、何かが物足りなかった。 ……俺は今の啓輔の方が好きだ。 「で?どうだった?」 階段ホールから声が上がって来て、冬馬は慌てて資料を隠す。長沢はそんな様子には全く気づいていない。 「ん?ああ、美味かった。ご馳走さん」 「違う。会議の方だよ。俺の名、上げたんだろ。どうだった」 ああ、と呟いたまま声を呑み込む。 「大丈夫だぞ。非難囂囂だったと言って。とんでもない、どこの馬の骨とも分からんモンを拾うなと言われたんだろ?それは普通の事だから気にするな。最初から受け入れられるほうがむしろ恐ろしい」 驚いたような表情のまま、冬馬はその通りだと頷く。長沢はそうかと笑った。 「だから、今はまだ会議の事は啓輔に何も話せない。俺自身、まだリアルな"話"を聞いていないから、今は未だだ。でも直ぐだ。一回"話"を共に片付ければ啓輔の力は全員が認める。そうしたら誰にも文句は言わせない」 「……"話"と言うのか。"仕事"や"任務"よりずっとナチュラルで他人の耳に残らない。言葉を選んだ人、センス良いね」 静かな言葉の主を、思わず振り返る。大きくて穏やかな目許に段を作る不恰好な黒縁眼鏡、半端に伸びた髪に隠される横顔を見つめる。口許から顎を包む髭、経年で削げ落ちた頬のラインを目で辿る。 飽き足らずに、そのラインに手を伸ばす。口許から耳へ、咀嚼の為に上下する頬のくぼみを指で辿る。 その冬馬の仕種を誤解したのか、このサンドイッチは俺のだから、と言わんばかりに向けられる瞳に、つい吹き出してしまう。普段の長沢からは、いつぞや冬馬を追い詰めた時の圧迫感は全く感じられない。才気も、気迫も、微塵もない。ただの、普通の、喫茶店店主だ。 「――やっぱり。俺は今の啓輔の方が好きだ」 「は?」 頓狂な顔が向けられる。冬馬は苦笑した。 「会議の内容やキャストについては話せないが、お前の事については少しなら話せる。お前はさっき自分の事を"どこの馬の骨とも分からん"から反対されたと言ったろ。実は逆だ。 お前の過去のデータは全部調べられた。お前が新都銀行本社の営業部に居た事は、俺は今日初めて知った。データのお前に、俺は今日初めて会った。お前の昔の写真も見た。 お前は良い男だ。少し、格好を構えばいいのに」 ああ。戸惑った声が答える。 青年に取られないようにと考えたのか、皿ごと抱えられていたサンドイッチが卓袱台に戻される。そうか、そうだな。そっちの方が順当だなと呟く声は小さかった。空いた片手で口髭を弄る仕種は、長沢が何かを考える時に出るのだな、と青年はふと思う。 髭を弄る手に指を絡める。柔らかな毛を弄ぶ指を捕らえる。 「ジェノサイダーと言う渾名も今日知った。」 引き寄せる。 「惚れ直した」 引き倒せると思ったのに、予想外の抵抗が有った。怪訝に思って長沢の表情を覗き込み、そこで手を払われる。近寄ろうとすると、両手で制された。そこまで来てようやっと気づいた。 「啓輔……?」 先程までの穏やかな表情はそこには無かった。 そこに有るのは、初めの頃の表情だった。いや違う。初めではなく、冬馬がSOMETHING CAFEの「客」ではなくなった頃の表情だった。接客用の穏やかな表情ではなく、人懐こい笑みではなく。あからさまな、恐怖の表情。 本人も戸惑ったのか、慌てて面を伏せる。更に戸惑ったのは冬馬の方だった。訳が分からない。一体何がどうしたのだ。今、何があったのだ。 「啓輔?」 青年の呼びかけに、まるで驚いて目を丸くする。一瞬、冬馬の視線を捉え、直ぐに俯く。眉根に寄せられる皺と、きつく閉じられる双眸が何かを振り払う。戻された瞳には微塵も余裕が無かった。 「……すまんっ。冬馬は何も悪くない。俺の考えが足りなかった。そうだ。当然予想して置くべきだったのに、何で考えなかったんだろう」 青年の動きを制するように、自らの顔を覆うように掲げられる両手を強引に掴む。にじる様に払われて片手を取る。不安になって身を寄せる、俯く顔を覗き込む。その全てを拒否するように顔が伏せられる。不安が募った。 「今、俺も別の方向から冬馬の組織の事を調べてる。未だ、何も分からないが、お前さん達の組織は精鋭ぞろいだが小さい。恐らくは相当小さい。けれど、中枢に居るんだな。 ……俺の事、全て調べたって? ……… そんなに、カンタンに…」 どくん。心臓が頭で脈動した。真っ黒な不安が鎌首をもたげる。一体、今俺は何を言ったのだ。 冬馬は、目の前で俯いたままの長沢を見つめた。いつか自分を真っ直ぐに見てくれるようになった、複雑な個性を見つめた。鋭くて、頑固な癖に、脆い男を見つめた。冬馬が求めたのは、怯えた瞳でも、眉間の皺でも無い。唐突に目の前で分厚いシャッターを降ろされたようで、うろたえる。目の前に居る長沢を支配しているのは恐怖だ。そんな物、冬馬は与えたつもりは無かったのに。 唐突に、大貫の言葉が耳に蘇った。 合法の大量虐殺者、ジェノサイダー、だ。
まさか。そんな。
ぱん。 息を呑む。
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