□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 「余るより有り難かったよ」
 気づくと、呆れたような長沢の笑みが目の前にあった。
 長沢の申し出は、今から思えば有り難かったのだ。丁度良かったと迎え入れられ、卓袱台の前に座らされてハムサンドを出され、レギュラ ータイプの珈琲を出された迄は、良く分からないままに流されただけだった。
 だが、言われるままに一切れ口に放り込んだ後は、止まらなかった。
 作戦会議では殆ど何も口にしなかったし、珈琲も飲まなかった。だが別段空腹は感じていなかったし、喉の渇きも無かった。ややこしい話を聞かされ、冬馬なりに考えをまとめながらここに着いた時も、空腹などと言うものすら頭に無かった。だが。
 それなりに脳をフル回転した後で、腹が減らない訳は無い。一口後は、終点までノンストップだった。グリコーゲンを最も消費するのは、筋肉ではなく脳なのだから無理も無かろう。
 「珈琲……まだあるかな」
 「ああ、淹れて来る。マシンは落としちまったから普通のドリップだけど」
 言いながら立ち上がって、階段ホールに消える。朝方ぎこちなかった動きは、すっかり元に戻っていた。まだ身体を捻るのは駄目なようだが、あれだけ騒いでいた割には復帰が早い。
 腹のポケットの中の長沢の資料を引き出す。20年以上も前の長沢の写真を引き出す。黒くてしなやかな髪と、張りのある頬の長沢の写真に指を這わせる。
 1991年。29歳の長沢 啓輔が、今、冬馬の指先に居る。
 新都銀行本社営業部員。やり手の銀行マン。やがてはジェノサイダーと呼ばれる男。そこに居るのは、場末のCAFEのマスターではない。野望に燃える、新進の企業家だ。
 頬の位置が高い分、幾分か目許が凛として爽やかだ。髭の無い口許も整っていて、口角が僅かに上がっているのが犬を連想させる。充分、見目良い男の範疇だが、何かが物足りなかった。
 ……俺は今の啓輔の方が好きだ。
 「で?どうだった?」
 階段ホールから声が上がって来て、冬馬は慌てて資料を隠す。長沢はそんな様子には全く気づいていない。
 「ん?ああ、美味かった。ご馳走さん」
 「違う。会議の方だよ。俺の名、上げたんだろ。どうだった」
 ああ、と呟いたまま声を呑み込む。
 「大丈夫だぞ。非難囂囂だったと言って。とんでもない、どこの馬の骨とも分からんモンを拾うなと言われたんだろ?それは普通の事だから気にするな。最初から受け入れられるほうがむしろ恐ろしい」
 驚いたような表情のまま、冬馬はその通りだと頷く。長沢はそうかと笑った。
 「だから、今はまだ会議の事は啓輔に何も話せない。俺自身、まだリアルな"話"を聞いていないから、今は未だだ。でも直ぐだ。一回"話"を共に片付ければ啓輔の力は全員が認める。そうしたら誰にも文句は言わせない」
 「……"話"と言うのか。"仕事"や"任務"よりずっとナチュラルで他人の耳に残らない。言葉を選んだ人、センス良いね」
 静かな言葉の主を、思わず振り返る。大きくて穏やかな目許に段を作る不恰好な黒縁眼鏡、半端に伸びた髪に隠される横顔を見つめる。口許から顎を包む髭、経年で削げ落ちた頬のラインを目で辿る。
 飽き足らずに、そのラインに手を伸ばす。口許から耳へ、咀嚼の為に上下する頬のくぼみを指で辿る。
 その冬馬の仕種を誤解したのか、このサンドイッチは俺のだから、と言わんばかりに向けられる瞳に、つい吹き出してしまう。普段の長沢からは、いつぞや冬馬を追い詰めた時の圧迫感は全く感じられない。才気も、気迫も、微塵もない。ただの、普通の、喫茶店店主だ。
 「――やっぱり。俺は今の啓輔の方が好きだ」
 「は?」
 頓狂な顔が向けられる。冬馬は苦笑した。
 「会議の内容やキャストについては話せないが、お前の事については少しなら話せる。お前はさっき自分の事を"どこの馬の骨とも分からん"から反対されたと言ったろ。実は逆だ。
 お前の過去のデータは全部調べられた。お前が新都銀行本社の営業部に居た事は、俺は今日初めて知った。データのお前に、俺は今日初めて会った。お前の昔の写真も見た。
 お前は良い男だ。少し、格好を構えばいいのに」
 ああ。戸惑った声が答える。
 青年に取られないようにと考えたのか、皿ごと抱えられていたサンドイッチが卓袱台に戻される。そうか、そうだな。そっちの方が順当だなと呟く声は小さかった。空いた片手で口髭を弄る仕種は、長沢が何かを考える時に出るのだな、と青年はふと思う。
  髭を弄る手に指を絡める。柔らかな毛を弄ぶ指を捕らえる。
 「ジェノサイダーと言う渾名も今日知った。」
 引き寄せる。
 「惚れ直した」
 引き倒せると思ったのに、予想外の抵抗が有った。怪訝に思って長沢の表情を覗き込み、そこで手を払われる。近寄ろうとすると、両手で制された。そこまで来てようやっと気づいた。
 「啓輔……?」
 先程までの穏やかな表情はそこには無かった。
 そこに有るのは、初めの頃の表情だった。いや違う。初めではなく、冬馬がSOMETHING CAFEの「客」ではなくなった頃の表情だった。接客用の穏やかな表情ではなく、人懐こい笑みではなく。あからさまな、恐怖の表情。
 本人も戸惑ったのか、慌てて面を伏せる。更に戸惑ったのは冬馬の方だった。訳が分からない。一体何がどうしたのだ。今、何があったのだ。
 「啓輔?」
 青年の呼びかけに、まるで驚いて目を丸くする。一瞬、冬馬の視線を捉え、直ぐに俯く。眉根に寄せられる皺と、きつく閉じられる双眸が何かを振り払う。戻された瞳には微塵も余裕が無かった。
 「……すまんっ。冬馬は何も悪くない。俺の考えが足りなかった。そうだ。当然予想して置くべきだったのに、何で考えなかったんだろう」
 青年の動きを制するように、自らの顔を覆うように掲げられる両手を強引に掴む。にじる様に払われて片手を取る。不安になって身を寄せる、俯く顔を覗き込む。その全てを拒否するように顔が伏せられる。不安が募った。
 「今、俺も別の方向から冬馬の組織の事を調べてる。未だ、何も分からないが、お前さん達の組織は精鋭ぞろいだが小さい。恐らくは相当小さい。けれど、中枢に居るんだな。
 ……俺の事、全て調べたって? ……… そんなに、カンタンに…」
 どくん。心臓が頭で脈動した。真っ黒な不安が鎌首をもたげる。一体、今俺は何を言ったのだ。
 冬馬は、目の前で俯いたままの長沢を見つめた。いつか自分を真っ直ぐに見てくれるようになった、複雑な個性を見つめた。鋭くて、頑固な癖に、脆い男を見つめた。冬馬が求めたのは、怯えた瞳でも、眉間の皺でも無い。唐突に目の前で分厚いシャッターを降ろされたようで、うろたえる。目の前に居る長沢を支配しているのは恐怖だ。そんな物、冬馬は与えたつもりは無かったのに。
 唐突に、大貫の言葉が耳に蘇った。

 合法の大量虐殺者、ジェノサイダー、だ。
 …… 私の使い古しだ

 まさか。そんな。
 「ジェノサイダー……か、啓輔?」
 大きな目が不意に冬馬を射る。責めるような、縋るような、ともすれば泣きそうな瞳が下から睨みつける。胸が冷たくなった。
 「何で……!」
 言葉が胸に詰まる。俯く肩を握り締める。上手く言葉が出ない。大貫のような語彙が自分に有れば良かったのに。この空気を埋め、壊してしまうだけの言葉のマシンガンの持ち合わせが有れば良かったのに。
 「何でだよ。何で、今更そんな昔の事気にするんだ。お前はお前の立場で必死で戦っただけだ。何も悪く無い」
 俯いたまま、頼りない肩の上で首が振られる。青年に取られた片手を引き剥がせないままの体が、首を振る。言葉が出ないのは恐らく冬馬だけではないのだ。冬馬に比べて遥かに饒舌で、相手を煙に撒く事さえ苦で無い長沢も、今は言葉の弾丸はジャミングしたままつかえて出て来ない。
 「戦いなんだ。何をしたって当たり前だ。勝つための方法など、選ぶ必要は無い。汚い手を使ったと責めるのは、いつも戦わない奴だけだ。そんな言葉、聞く必要は無い。生き残るために何をしても仕方ないじゃないか。戦いなんだ、敵が居れば、自分が生き残るために殺すのは当たり前だ。敵になったそいつが悪い、俺だって…!」

 ぱん。

 息を呑む。
 暖かい部屋に不似合いな、冷え切った掌が、冬馬の顔に当てられていた。言い募った口許に。声を塞ぐために。
 いつか酷くきつく握り締めていた長沢の左手を、ゆっくりと放す。顔に押し当てられた右手が、同時に緩んだ。
 「…違う」
 いつもの伸びやかな声とは別物の、低い声が小さく呟く。半端に伸びた前髪の所為で、全く表情は窺い知る事が出来なかった。
 「敵じゃない。そこに、敵はいなかった……!」
 長沢の声に息が詰まる。間をおいて小声で連ねられる、敵じゃないという言葉が呪文じみていた。もはや冬馬に一言も無かった。
 理由など分からない。是か非か、白か黒かだけで世の中を計って来た冬馬には、恐らく長沢の理屈は分からない。理屈も理論も、そこから生まれる感情も。きっと一々が細かく説明できる長沢の煩悶や苦痛も。どうせ理解出来っこないのだ。
 冬馬は、自らの頬からおずおずと離れて行く掌を見つめた。先程まで口を塞いでいた冷たい指先を、見つめた。冬馬に分かるのは。
 その苦痛は長沢にとっては依然、過去では無いと言う事だけだ。
 「何故だ」
 聞いてもきっと分からない。それでも。
 「何故だ、啓輔。悪いのはお前じゃない。お前は戦っただけじゃないか。」
 それでも聞かずに居られない。
 「何故、お前が苦しむ必要が有るんだ。俺だって。俺にもお前と同じ力があれば同じ事をした」
 いつか。
 不意に強い語調で発せられた言葉が、空中でそのまま途切れる。夜の底で深い溜息が尾を引いた。
 「いつか……お前には話すよ冬馬。お前には…話せると思う。
 …だがすまん。それは今じゃない。まだ今の俺には無理だ。情け無いが正直……俺自身驚いてる。とうに終わった事だと思うのに。割り切ったと思っていたのにな。まだまだ俺は。全く俺は…仕様も無い。
 悪い、冬馬。お前は何も悪くない。俺が情け無いだけだ。…頼む。今日は帰ってくれ。俺に時間を…… 四日間、くれ。」
 予想がついた言葉だった。今の長沢の言葉に、一切の嘘も装飾も無い。理由も状況も分からなくても、たった一つだけは冬馬にも分かる。それは。
 痛みだ。体の、心の、どうにもならない痛み。黙って頷く。
 唐突に目の前で降ろされた分厚いシャッターは、容易く開ける事は出来ないだろう。無理をしてこじ開ければ、その無理がどこかに来る。心を、身体を 歪ませる。そんな事は望んでいない。無理強いなど、もうしたくなかった。欲しいのは長沢の苦痛ではなくて、知性で、笑顔で、喜びなのだ。屈託ない笑みで、心地よい声で、温かい掌なのだ。
 無言で席を立つ。長沢も共に立ち上がるのが救いだった。階段ホールを下り、裏口に辿り着く。同じ速度で後ろからついてくる気配が温かい。振り返ると、俯いたままの姿がそこにあった。拒まれている訳ではないのだと思うと救いになる。ならばもう一つ。
 柔らかい毛並みの口許に掌を這わせる。びく、と微かに拘るが逆らわない。それだけでも、今は良しとしよう。だからせめて。
 「せめて、俺を見てくれ。…啓輔」
 初めの頃は穏やかな笑みだけを見せていた瞳が、ある日を境に恐怖と憎悪を映し出すようになり、いつかもっと生々しい物を覗かせるようになった。妻や子供への慕情や、自身への嫌悪や憐憫、庇護の情や策略、羨望や焦燥。そしてもっと色濃い失望と諦観の色だ。
 おずおずと頤が持ち上がる。上目遣いに瞳が向けられる。これで良い。今日はこれで充分だ。
 「すまない、冬馬」
 首を振る。充分だ。
 いや、まだひとつ。
 「お前に、伝言がある。これだけ伝えろと言われた。たった一言。これだけで充分だと」
 幾分落ち着いた代わりに、沈んだ瞳の色で、うん?と長沢が首をかしげる。冬馬はその瞳を見つめて背を向けた。
 「今半屋」
 言うと同時に背後の気配に五感を塞ぐ。闇の中に滑り込む。不思議だった。
 あの男の言葉を伝えた。
 今半屋。それだけ伝える事だ。それで充分だ。
 だからそれをそのまま伝えた。
 あの男の言葉に、胸の痛みなど微塵も感じなかった。それはただの言葉に過ぎず、恐ろしい物ではなかった。何をどれだけ言い募られても、恐らく心に漣すら立つ事は無い。動揺などと言う物とはまったく無縁だ。なのに。
 長沢の反応は恐ろしい。長沢があの男の言葉にどう反応するのか、それが酷く恐ろしかった。
 "ジェノサイダー"と言う過去にあれだけ動揺した長沢が、あの男の言葉に反応すると思うと…見たくなかった。それがどんな反応であれ、想像するだけで手足の先がちりりと燃える気がした。だから。
 五感を塞いで逃げ出した。闇の中へ、長沢の居ない場所へ。
 「…えっ……」
 言葉と同時にしなやかな身体が扉を抜ける。そのまま素早く夜に溶け込んでしまう。長沢は息を呑んだ。
 慌てて背中を追うが間に合わない。言葉が耳の中で暴れ回った。納得出来ずに戸口に寄りかかる。
 脳に電流が走った気がした。遠い昔の一連の会話がぐるぐると頭の中で回転する。明瞭なようで漠然としているようで、混乱する。
 「待て待て。そうなると……話が違うぞ冬馬。それって……」
 答を探す。
 頭の中でばっちり繋がった記憶以外の答を。
 

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