□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 
□ 素人 □

 

 過去は捨てれば捨てられる物だと思いかけていた。
 思い出したくない過去にはきっちりと蓋を閉めて自分の奥底深くに埋めてしまえば、それで終わると思いかけていた。事実、平穏な十年を経て上手く行き掛けていたのだ。
 自分はバブル期に銀行に居たちっぽけな男で、不景気の波に飲み込まれて溺れた人間だと。その所為で家族も何もかも全て失った弱者で、気の毒な被害者の一人だと、本気でそう思い込みかけていたのに。
 蘇る。
 弱者だの、家族を失っただのと言う有り難くない条件はそのままに、もう一つそこに加わる。
 ジェノサイダー。
 陳腐だと当時思った。創意工夫のカケラも無い、ストレートでつまらない呼び名だと当時は軽蔑した。自分に向かってその言葉を叩きつける人間に平然と返事をしたし、その人間の恨み言も涙も少しも心に響かなかった。どころか。
 死んでも、保険額しか思い浮かばなかった。胸が痛むなどと言う感覚は遠い昔に消え失せていた。
 残された妻子に掴みかかられて罵声を浴びた時も、平気で振り払えたし、保険金で自由の身になれた遺族に祝辞さえ述べた。
 ジェノサイダー。悪魔。あんたなんか人間じゃない。
 言イタイ事ハ、ソレダケデスカ?ソレガ何カ?
 

 眠る事を諦めて頁を繰る。
 布団に潜ると、かつて何も感じなかった恨み言や悲鳴に飲み込まれそうになる。妻や娘に抱いた、不信と不満が蘇る。そんな自分から逃げ出して来たのに。十数年もかかって逃げ延びたと思ったのに。結局は過去は連綿と現在に続く鎖なのだ。鎖を断ち切れるなど、恐らくは幻想で、ただの思い込みだったのだ。 それならば。
 向き合うしかないではないか。
 衰えた身体で。現役を離れて錆びついた頭で。
 俺が過去を飲み込むか、過去に俺が潰されるか、どちらかしかないのなら、そのどちらかに行き着こう。行き着いてやろうではないか。
 長沢は、知り合いの古書店の倉庫でひたすら頁を繰っていた。取り敢えず潰せる可能性は虱潰しに潰して行くしか方法は無い。まずは可能性のある部分を一つ残らずメモに書き出した。次にそのリスト一つ一つに横線を引いて消して行く。備考があればその脇に書き込む。二日前からずっと、SOMETHING CAFEに居る時以外はずっと繰り返して来た動作がこれだ。
 繰っていた分厚い本を閉じる。大きな溜息が漏れた。おもむろに最後の項目に横線を引く。全滅だ。ゆっくりと本を元の棚に戻し、そして。
 思わず、笑みが零れた。
 倉庫から出て店に回ると、シャッターを降ろしたままの店内に店主が座っていた。
 「おう、マスター、終わったのか」
 「早いですねえ玄さん。まだ四時台ですよ。はい、お陰さまで助かりましたー。玄さん居なかったら手も足も出ないもんね俺」
 言いながら伸びをする。古書店の店主はニコリともせずに、爺に早朝なんてモンはねェんだよ、と呟いた。
 いつも仏頂面でとっつき易いとは言い難い主人(あるじ)なのだが、この近辺の知恵袋の一人で、何か分からない事があると長沢はこの主人の許を訪ねる。仏頂面は変わらないが、あれこれと細やかに教えてくれ、余計な詮索はしない。その雰囲気が在りし日の竹下珈琲の主(ぬし)、竹下翁に似ていて何となく長沢はこの主人が好きなのだ。年の頃は80代も半ば。ギリギリ、大東亜戦争に出征していておかしく無い年齢だ。
 主人の身の上話は聞いた事は無い。
 「有んのは、真夜中と朝と昼だ。黄昏なんつーのもねェな。ありゃ夜。……で。知りたい事は分かったのかい」
 「はい。昨日お借りしたアレで多分確定です。今日は徹底的に"潰し"です。本当に有り難う御座いました」
 そりゃ良かったな。詰まらなさそうに言う店主に会釈してさっさと去ろうとする長沢を、主人はちょいちょいと手招いてみせる。引き寄せられるように主人の傍の丸椅子に腰掛けると、熱いお茶と小さな饅頭が出て来た。
 古本屋店主の指定席はどうやら非常に便利に出来ているのだ。直ぐ脇にはポットが設置された棚が据えられ、そこに茶葉や茶碗などがコンパクトに収納されている。背後にある仏壇には朝と夕にお茶とお菓子が供えられる。一度供えた後は主人の口に入るそれは、今は客に供されている。
 「疲れたろ。ちょっと休んで行きなよ。今からじゃどうせ眠る事も出来ないだろ」
 「あは、助かります。頂き」
 熱い茶に口をつける。倉庫で冷え切った身体に心地よい熱い茶は、恐らくは玉露で、天然のアミノ酸とタンニンの甘い渋みだけが舌に残る。世に氾濫している、グルタミン酸が添加された安物とは根底から違う。茶碗を見つめながら溜息をついた長沢に、主人が初めて愛想を崩した。
 「美味ェだろ。茶葉が違うからな。玉露じゃなくてかぶせ茶だがよ、宇治の和束で出来た茶だよ。ほれ、熱湯玉露とか言う銘がついてる奴がこの頃有るだろ。あれは大体このかぶせ茶だよ。ネット被せて作って、機械で摘むんだ。玉露は手積みだからな、そこが違うのよ。
 こりゃ100g1500円。玉露に比べて安いが、かぶせの中じゃ一級品だな。味は玉露に劣らねぇよ。だろ。どうよ。珈琲に負けねェくらい日本茶も深いだろマスター」
 全くだ。
 主人の自慢気な解説の間に一杯飲み終わってしまった長沢が茶碗を差し出すと、嬉しげに注いでくれる。共に茶をすする主人は嬉しげなのに、相変わらず仏頂面なのが妙におかしかった。
 饅頭にかじりつく。こちらは甘さ控えめで、またこれが茶に合っていた。
 「お前さん、若いからって無理すんじゃねぇぞ」
 不意に言われた単語が耳にひっかかった。若い。誰が。
 「俺、四十六ですよ玄さん」
 「俺から見りゃ小僧っ子みたいなもんだ。孫と大して変わらねェやね。この三日くらい、殆ど寝てねぇだろ、お前ェ。俺ん所と吉ん所とに詰めっぱなしだ。吉も気にしてたぜ。何調べてるか知らねェが、お前ェは全〜部自分で背負い込むからいけねェ。俺に頭下げてチッと頼みゃいいじゃねェか」
 饅頭を食べ終わってしまう。ごくりと飲み下すと、主人がお代わりは俺が食っちまったからねぇぞ、と小さく零した。
 「玄さんに頼んで良いの。そんな事言うと、本当に俺頼みに来ますよ」
 「たまには面白そうだなァ、それも。お前さん、楽しそうだからな。まぁ、本当によ、……無理はすんな。長生き出来ねぇぞ」
 苦笑交じりに頷く。有り難う御座いました、ご馳走様、と立ち上がると、主人がそっぽを向いた。
 「長生きはしてみるモンだぞ。お国の為に死ぬなら兎も角、小っせぇ自分の事で生き恥晒して、晒しまくって、もうこれ以上の恥は無いと思っても死んじまうのは卑怯者のする事よ。命ってのは手前ェのモンじゃねェ。お天道さんのモンだからよ」
 狭い裏口の扉から神保町の町に出る。明け始める薄暗い靖国通りに立つ。師走の町が視界に広がった。
 背中に浴びせられた主人の言葉が胸の中で鼓動を刻んでいた。
 主人はかつて、「お国の為に」死ねなかった過去があるのだろう。自らが「生き恥」と感じた過去があるのだろう。それでも生き延びて今、長生きは良いと言う。命は自分の物ではなく、お天道様の物だと言う。苦笑が零れた。
 肚を据えよう。過去に蓋が出来ぬなら、思い切りぶつかって、使える物は全て使ってやろう。過去の恥がこれからの可能性になるのなら、それはとことん活用しよう。泥でも血でも幾らでも被ろう。諦めの悪いお天道様が俺を見限るその日まで。
 

 SOMETHING CAFEの通常の業務が始まる。
 朝のラッシュを終え、ランチまでの二時間の休み時間、通常ならランチの用意に取り掛かったり、従業員達と楽しく語らったりする店主は、申し訳ないけど一時間半寝ます、と奥に引っ込んでしまう。この四日ばかりずっとそれが続いている。
 最初の二日は単なる寝不足かとも思ったが、今日の面相は酷かった。真っ赤な目の下にどす黒いクマを浮かせてお早うと迎えられて、従業員が引いた。このまま接客をされたら客が引く。従業員全員から苦情が出た。下拵えは北村と奥田が責任持ってしますから、兎に角二時間ばっちり寝て下さい、と説き伏せる。でも、と言い募る店主の言葉を、奥田早紀ががんと突っぱねた。
 「マスターの顔色、キモチワルイ。キモイ通り越してキモチワルイ。寝て下さい」
 少なからずショックを受けた面相の店主が大人しく、はい、と答えたのは言うまでも無い。
 従業員達も、特に店主に言われずとも店主の離婚の話は知っていたし、その所為で身辺が色々と忙しないのも気づいていた。だからと言ってSOMETHING CAFEに何か悪い条件が付加された訳でも無く、従業員達が動揺する事もなかった。
 例の暴行騒ぎから僅か二月足らず。ただひたすら平穏だった筈の職場と、穏やかなだけの店主には微かに変化が訪れた。だが、活気は昔よりある位だし、新メニューが一つ増え、またそれが好評で、お小遣いが出たりして、従業員達は存外この変化を喜んでいたのだ。
 11時ジャストにSOMETHING CAFEは再起動する。二時間、泥のように眠った店主は、それなりにすっきりした顔で戦線に戻ったが、下拵えは充分とは言い難かったらしく、始動から半時間ほどはいつもより盛んに動き回っていた。
 一時を回る頃にはZOCCAのパンが掃け、追加注文を出す。この所の人の入りは少々異常だ。
 「何だろね。この間の日曜からおかしい。大きい進学塾が出来たのと、例の履修時間不足騒ぎと何か関係あるのかな?」
 奥田 早紀が呆れた、と言う。
 「関係あるのかなどころか、それですよマスター。世の中は冬休みですよ。受験生がどっかと詰め寄せて来てるんですよ。それにね。ここだけの話ですけどウチ(洋大)の付属高や隣の都大付属高、履修時間不足でこれから補修の嵐だそうですよ」
 そこまで言われて思い至る。
 「ああ、そうだそうだ。"定食カロリ"が、150食、"キッチンおかず亭"が160食、夜に弁当で出すのよって悲鳴を上げてた。今年はクリスマスも家には来ないって。ああ、イカンな俺すっかり忘れてた。そうか。それで混んでるんだ。じゃあ、ウチもちゃんと対応しなきゃ。えっと……学校の事なら中垣さんと佐野先生に聞けば大体分かるな…」
 しっかりと手だけは動かしながら店主が言う。後半は殆ど呟きになった。
 メニューを絞った喫茶店であるから、多少の混雑があっても対応出来る。注文が被るのは当然なので、一気に作って放出する事が出来るからだ。それでこそこの少数人員店舗である。メニューが変わるのは好ましい変化として受け入れられるが、品数が増えるのは不安も付きまとうのだ。
 「マスター、張り切るのも良いですけど、あんまり無茶するのは駄目ですよ。体壊しちゃいますよ。そうしたら折角のクリスマスにデート出来なくなっちゃいますよ」
 長沢が三つの皿を差し出す。今日はミスの無いアルバイタが鼻歌交じりに浚って行く。慣れてくれたのは、兎にも角にも良い事だ。
 「調べ物は今日で終了したのでもう無理はしません。それに、クリスマスにデートする相手も居ないしなぁ」
 離婚したばかりだし、と言う一言は言わずに飲み込む。ホットココアの上に生クリームを絞り出しながら看板娘が微笑んだ。
 「私、クリスマス空いてますよー。マスター」
 カウンターとアルバイタから驚きの声が上がる。看板娘に向けられるのは、じゃあ俺と予定を組もうと言う声と、けしからんと言う声が半々で、少なからずどきりとした長沢に向けられたのは全て無言の怒りの瞳だった。分かっていると思うけれど、看板娘に手を出したら二度と来ないから。そんなはっきりした意図を感じて苦笑する。看板娘と常連客を一緒に失うのだけは絶対に避けたい。
 「冗談にならないんだから勘弁してよ早紀ちゃん、ここの皆さんと酒井先生に殺されるよ俺」
 銀のトレイに完成したホットココアと長沢の入れたカプチーノを載せて、身を翻す。屈託の無い笑みには失恋の影は無かった。冬馬に失恋したと店を休んでから僅か半月ばかりだが、立ち直りが早いのも若さの良い所だ。
 微笑ましくその笑顔を眺める長沢の前方でドアベルが軽やかな音を立てる。見慣れない制服二種と私服の混合が、バラバラと店に入って来る。いらっしゃいませ、と声をかけると何人かがびくりと向き直る。その反応が仲間内の親密度が未だそれほど濃くは無い事を知らせた。つまりこれが、例の進学塾の生徒達と言う事だ。進学塾で初めて会って出来上がった団体と言う事だ。
 頭の片隅に幾つかのメモを書き込んで厨房スペースに戻る。未だ暫く昼のラッシュは続きそうだ。
 

 ZOCCAのパンは二度発注した。追いつかないので町会長、常連の教師、教育委員、から周辺の大体の事情を聞き出し、年内の発注量を決めてZOCCA店主に相談した。長沢にとっては幸いにして、ZOCCAは進学塾の発注の嵐からは反れていたらしく、店主に二つ返事でOKを貰えた。
 学校関連者に聞いても判らない事は、店に訪れる学生達本人に当たってみた。
 いつもは二分割するサンドイッチを六分割して大量に作り、大変だなあ、学生さん?そんな一言と共にサービスだと差し出すと、存外嬉しげにスケジュールを教えてくれる。元より隠す事ではないから口は軽いのだが、サービス品にはリップサービスが返却される事が多く、付加情報が一緒に付いて来る事が多い。進学塾がコンビニ店よろしく、一気に三校増えた事、それがこの小川町と九段北、平河町である事。特に平河町が規模が大きいと言う事。そんな情報を零してくれるのだ。
 同じ方法で何組かの高校生をリサーチすると、大体の情報は掴む事が出来た。小さな店でも、地元情報は割りと集まるものなのだ。
 手にした情報を元に今後のスケジュールを立てる。年内は学生中心のスケジュールになるのは必至のようだ。
 一日の繁忙期を超えて、緩やかな夜がやって来る。
 客の波が喫茶店から、レストランや飲み屋街に移る時間がやって来る。"カロリ"や"おかず亭"のお弁当が行き渡る頃、SOMETHING CAFEは終業への準備にかかる。学生が退くと、店内はいつも以上に静かだった。
 これならば一人でも大丈夫だからと、少し早めに常勤の北村にお疲れ様を言う。相も変わらず酷くうれしそうな理由は、きっとこの後に彼女と会うからだろう。上手く行っているのだなと、小さくほっとした。
 自分が不幸な時は他者の不幸を願うと言うが、あれは嘘だ。妙に風が吹きぬける胸を、従業員の笑みは微かに塞いでくれる。空っぽの筈の腕の中に、ZOCCAやSOMETHING CAFEを取り巻く人々の小さな幸福だけが零れずに残っている。誤魔化しても誤魔化しても、誤魔化しきれない空しさを薄めてくれるのは、身近な他人の小さな幸福だけだ。
 ネオンが威張り始める時間。長沢は静かになったカウンターで一人、溜息をついた。
 流石にこの数日は疲れたなあ。そう呟く代わりの溜息だった。
 本当に、僅かの期間に様々な事があった。
 十数年、会う事も出来なかった恋女房が唐突に訪れ、彼女との長い時間が終わりを告げた。代わりに、同志と言う珍しい存在を手に入れた。
 鷲津お手製の「一連の事件」のレポートを貰い、同志の所属する団体から、自らが蓋をした「過去」と、「一言の伝言」を受け取った。
 あれ程変化を喜んでいた癖に、気持ちは乱れた。改めて妻を失って、喪失感に慄いた。空になった腕が不安で不安でどうしようもなかった。追い縋る自らの過去から逃げたくて、空っぽの腕を埋めたくて、レポートのデータ調べに没頭した。酷く忙しくしていれば、痛みも怯えも感じずに済んだから、寝る間を惜しんで没頭した。じりじりとしか過ぎてくれない時間が、それでもいつか束になり、一日になる。日が沈み、また上る。お陰で幾分気持ちに整理がついた。身体の方はすっかりグロッキーだが。
 最後の客が7時40分に店を出る。閉店時間前に誰もいなくなる事は珍しいが、丁度良かったのでそのままシャッターを降ろし、扉に錠を下ろした。
 一人きりの店内を見回す。がらんとした店内に溜息をつく。今の俺みたいだ、そう思って床に座り込んだ。
 SOMETHING CAFEの外扉は、通りから良く見えるよう斜めに取り付けてある。そのために入り口には台形の小さなスペースがあって、そこに観葉植物が置かれている。長沢はその観葉植物の直ぐ脇の壁に凭れ掛った。
 閑散とした店内を見渡す。疲れたなあ。そう呟く代わりに目を閉じた。
 ほんの数秒。
 目を閉じただけのつもりだったのに、唇に何かが触れた。生暖かくて、濡れた物がそっと触れ、そのまま離れた。
 意識がぼんやりと覚醒する所を見ると、自分は寝ていたのかなと自覚する。ぼんやりとした自覚が確信に変わる前に、今度は強く押し付けられる。暖かさが熱さに変わり、そのまま、その熱に口の中に潜り込まれて一気に覚醒した。
 目を開けると、長くて濃い睫毛が視界を塞いでいた。
 反射的に腕を突っ張る。胸板に両手が触れて、それをそのまま押しのける。思ったより抵抗のあるそれを、力いっぱい押しのける。長沢の舌を絡めたままの熱い舌が、ぬるりと口から抜かれた。唇を、どちらの物ともつかない唾液が濡らしていた。慌てて口許を拭う。
 その仕種に、目の前で見慣れた顔がにやりと笑った。
 「んなっ……、な、楢岡く…っ、」
 「よ。おはよう」
 「ひ、卑怯だぞ、今の」
 「卑怯じゃありません。俺、宣言済み。俺の前で眠ってるあんたが悪いのよ」
 「シャッター下ろしたのに、どこから」
 「シャッター下ろしても、裏開けて置くから中入って待っててって言ったのKちゃんだろ」
 どうも今一つ脳が覚醒しきっていない。そう言った憶えはあるが、その理由がぼんやりと寝ぼけている。驚いて起きた所為で、酷い鼓動が思考の邪魔をする。生々しい感触を訴える唇を手の甲で押さえると、接触した粘膜が鼓動を訴えた。
 「だからって……卑怯だ…」
 長沢の非難を楽しげに笑って受け流す。床に座り込んだままの店主に合わせて、自らもそこに胡坐をかく。
 「鷲津君の所に遊びに行きましょーって迎えに来たらさァ、寝てんだもんよKちゃん。あ、俺ちゃんと声かけたよ。起きてくれって言ったよ。本当だぜ。それでもまー良く寝てるからさぁ。口半開きにしちゃって。そうなれば。
 眠り姫ってのは口付けで起こすもんと相場が決まっています。な。すっきり目覚めただろ」
 

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