□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 是非、と言われて、目の前の男は満足そうに笑う。
 度のきつい眼鏡の中で温和な目が微笑む。髭に包まれた口許も、全体的な顔立ちも、仕種も立ち居振舞いも静かで優しげなこの男に。鷲津はどうにも違和感が拭えずにいた。
 一般人なんだから丁寧に接してくれ、被害者なんだから無茶言うな。楢岡には幾度と無くその手の注意を受け、その度に分かったと返して来たし、実際実践して来たつもりだ。だが。どうにも胸騒ぎがするのだ。この一般人を信用してはならないと、頭の奥で声がするのだ。
 本来、そうした直感が強いのは楢岡の方で、およそ根拠があるとは思えない警句や指摘を零すのは楢岡だ。それがまた良く当たっていて、鷲津としてはこの友人の戯言には、それなりの敬意を払っている。だが。今回に限りその機構は全く機能していない。
 「では、行きます。
 渡された資料の中では一番最初の被害者となっているのは金山町之、66歳。小売店勤務で卓袱台に突っ伏して死に、発見は四日後。典型的な孤独死の様に見えますが、さて。では質問です。
 彼の死体は、今何処にあるでしょう」
 え。
 ソファの二人の口から同時に同じ声が漏れる。それは調べなかった。身内は居なかった筈だから、無縁仏扱いになっているのだろうと、その程度にしか考えなかった。
 「この問いに明快に答えられるのは、受け取った本人と渡した警察だけですから、後で調べて見て下さい。俺に出来るのは調査と推測だけ。だからこれは単なる推測ですが。
 死体があるのは恐らくは、中国の福建省。です」
 「長沢!」
 間髪をおかず、鷲津が叫んだ。驚く長沢の表情を見て鷲津自身も驚いたと見え、小さく咳払いをする。
 「……さん。どうしてそうなる」
 人懐こそうな笑みが漏れる。鷲津の渡した資料の中から、金山込みの集合写真を引き出しテーブルに置く。元のデータから資料用に強化されたものと見えて、セピアに染まっているがキャビネサイズのそれは、年月に負けず明瞭な写真だった。
 「一人ではありませんが、これが金山町之氏の写真です。5、6人写っていますからどの人か分かり辛いと思いますが、一応新聞発表時のキャプションでは右端が金山さんです。まずはこの写真を見て置いて下さい。そしてこちら。これが金山さんのお姉さんからお借りした町之さん個人のお写真です」
 鷲津が持った二枚の写真を、楢岡が覗き込む。二人共に渋面になって写真を見比べた後、鷲津が声を上げた。
 「長沢!」
 「はい」
 「…失礼、さん。同一人物が写真の中に居ないぞ」
 「もう良いですよ呼び捨てで。そう、仰る通り。一人で写っている方が本物の金山町之さんで、正確には"昌之"で"まさゆき"さんとお読みします。もっとも。亡くなったのは2007年ではなく、遥か前の1988年なんですけどね」
 楢岡が、写真を睨みながら低くうなる。殆ど吐息の声でマジかよと呟く。
 「88年って。……じゃあもう20年も、こいつは他人になりすまして暮らしていたって事じゃないかよ。何で分かっ……」
 楢岡の独り言のような呟きを、笑顔の長沢が継いだ。
 「ま、正直きっかけは違和感なんだ。"まちゆき"って名前って微妙だと思わない?日本人の名前なら普通、ここは"まさゆき"でしょう。芸名でも無く本名なんだからさ。で、気付いたわけ。
 この名前、どこかで、"ち"と"さ"を書き間違ったんじゃないかと。この手の間違い、在日外国人及びその二世に非常に多い。日本人がやる間違いじゃないからね。超有名な宗教家で、親が届出の際に字の真ん中に間違って点を打っちゃって、読みは"だいさく"なのに、漢字が"だいさく"で無くなっちゃった元在日外国人も居るし」
 「…Kちゃん、危ないぞそのネタ。フォローしとくが某、太作だろ」
 「フォローになってないぞ楢岡」
 つまり。
 「本物の"金山昌之"氏は1988年に亡くなっている。これは、幸いにして金山さんの住民票が東京にあって、そこから本籍辿ってご親族に連絡を取って確認しました。あ、法律は破ってませんよ。住民基本台帳法第11条で、閲覧は可能ですからね。
 これで"昌之"さんは解決。さてでは"金山町之"さんは誰でしょうか。手がかりが無いので、家の常勤の北村君のバイクを借りて、住民票の住所に行って見ました。八丁堀です。すぐ隣に話好きなおばさんが居て、その方の家で昼の休み時間中ずっとお話聞いてきました」
 ソファの上で二人の警察官が黙る。素人の発想力と行動力に、一言も無かった。いや、素人の、と言うのには語弊がある。長沢啓輔と言う個人の、だ。物腰は柔らかく、腰が低い割りに押しが強い個性に黙らざるを得ない。
 「…Kちゃん、昼日中から、そのオバさんの家に潜り込んだのかよ……」
 「うん、俺昔営業やっていたから、飛び込みは割と抵抗無い。むしろ、"良い男が家を訪ねて来るなんて何年振りかしらァ"なんて、物凄く愛想よくして貰って、飯もご馳走して貰って非常に有り難かったよ。
 オバちゃんから得た情報は、金山さんは"どっかの地方の訛り"がきつくて"無愛想な人"。"あいち"から来て色々苦労した人で、良く何日かふらっと居なくなっては、帰って来ると暫くはぶりが良かったそうだよ。
 話は物凄く多かったんだけど、その"来た"と言う言い方が気になったので詳しく聞くと、"あいち"から出てきて64年に"あいち"を卒業したっていってたわよと言う。64年って事は大学ですかと聞くと、そうなんじゃないのぉ、と言う。なので"愛知"とつく大学で、64年には既に有った大学の名簿を片っ端から浚ってみました。64年を中心に十年ばっかり」
 長沢! 待った!と二人から同時に声がかかる。互いに譲らずにクロストークとなった内容は、つまりは、個人情報保護法が隆盛のこの時代にそんな事が出来る訳がない、第一無茶だと言う苦情である。人差し指をたてて、ちっちっちと舌を鳴らす長沢の仕種に、鷲津から今一度長沢、と声が上がった。
 「嘘は言いませんよ、俺。それに一言言わせて貰えば、神保町とその界隈の宝の山を見損なってもらっちゃ困る。名簿っつったら神保町の古本屋ですよ。個人情報保護法が有るから売りませんよ。売りませんけど有るんです。俺、あそこの人間ですよ。
 で、調べました。愛知医科大学、愛知産業大学、愛知学院大学……金山町之、居ません。と言うか多過ぎて苦行。俺の方が死ぬ。でも一つ、面白い事が分かりました。
 愛知にもともと、上海を起源とする大学があったんですね。交換留学生を数多く出していて、中国各地と交流がある。特に交流のある地名が列挙されていて、引っかかった。
 "安渓"って所があるんだよね。これ福建にあります。発音は"anxi(アンツィー/アンシー)"。ちなみに烏龍茶の産地で有名なところで山ばっかです。まあ、田舎だよね。そこでさっきの言葉が蘇ったんだ。"あいち"から出てきて64年に"あいち"を卒業した。つまりこれ。
 "あんち(安渓)"から来て、"あいち(愛知)"を卒業した。彼はそう言ったのじゃないだろうか。彼の"きつい訛り"と言うのは日本の"地方"じゃなく"外国"の物だったのじゃないだろうか。ここらはオバちゃん、外国語なんて話してなかったわよ、と言いながら、周りの料理店なんて中国人と韓国人ばっかよと続けるから良く分からない。
 なのでここは、彼を、中国の交換留学生として日本に入り、それから成りすましたと仮定してみよう。これだったら外務省の留学者データにも有るだろうから、何だったら後で探って。蛇頭なんかのブローカーを通じて入られたら、素人の俺だけじゃなく、恐らく警察も辿れないだろうけど、これなら俺みたいな素人にも辿れるかもしれない。
 辿ってみました。」
 ソファの上は先ほどから静まり返っている。神保町の古本屋の話辺りから、二人の警察官は押し黙ったままだ。
 彼らとて神田署に居るのだから、そこらの事情が分からない訳ではない。だがそれだけに。あの膨大な古本の倉庫に入り込もうとは誰も思わない。奥が深くて、入り込むも抜け出すも難そうだ。
 四つの瞳が長沢と、その手が示す資料の間を行き来するばかりで、衣擦れの音一つ零れ出ない。しゃべり詰めの長沢は、二人がすっかり固まったままでいる様子にも気づかず、不意に言葉を切る。湯飲みに手をかける。ほぼ徹夜の後の集中講義に水分は必須だ。長沢が茶で喉を潤す僅かな時間に、ようやっと鷲津が深呼吸をした。
 「……おい、楢岡」
 脇の人間にそっと顔を寄せる。
 「この人、いつもこんなか。本当に喫茶店の店主か。俺は今、相当この人が気味が悪いが」
 ほぼ息だけで囁いた言葉は、楢岡にはしっかり届いた筈だ。だが、脇の人間は何の反応も返して来ない。怪訝に思って目をやると、黙ったままの友人は、一心に長沢の方を見つめていた。
 その瞳が余りに真摯で、熱っぽくさえ感じる。日頃、どこか気が抜けている感が付きまとうのが楢岡なのに、どうにも不似合いだった。
 「64年に。だから今度は愛知大学の名簿を調べて見ました。で、これ。1965年」
 長沢が大事そうに薄手の冊子を広げて渡す。
 鷲津が受け取って、二人で覗き込む。色あせたフルカラー写真を薄紙と厚紙で防護した、昔懐かしい写真館の写真冊子だった。大きさはA5版ほどの大きさで、そこに学生達がずらりと並んでいた。楢岡の方が先に、あ、と声を上げ、先ほどの金山町之の集合写真を引き寄せた。
 恐らくは卒業記念写真であろうその集合写真の二段目、右から3番目に居る青年が、セピア色の写真の右端に居る男性に酷似していた。二つの写真をテーブルの上で指差す楢岡の横で、今度は鷲津も異議を唱えずに頷いた。
 確かに。間違いない。そこに居るのは金山町之、そう名乗った男の顔だ。二つの写真の間に流れた年月を物ともせず、二つの顔は全く同じ人間の物と断言出来る。歳を取っただけで、何一つ変わってはいなかった。陰気そうな姿勢も、暗い眼窩も。
 今は鷲津をしっかりと認識している友人と、やったなと言う代わりの視線の交換をして、長沢に目線を運ぶ。分厚いレンズの向うから、満足気な瞳がその視線を待ち構えて笑った。
 ほぅらね、みつけた。
 ぞくり。
 鷲津はそっと息を呑んだ。誰だ、こいつは。背筋を冷たい物が走り抜ける。震えが背筋から全身を走って四肢に抜ける。改めて、怖気を奮った。
 誰だこいつは。データの男の事ではない。目の前で笑むこの男の事だ。俺はいつ、こんな得体の知れない男を家に招じ入れたのだろう。
 「彼の名は朱 義(ちゅう いー)。安渓から日本にやって来て、1965年に愛知大学に在籍し、その後に金山町之になった男です。
 八丁堀に住み、"何日かふらっと居なくなっては、帰って来ると暫くはぶりが良い"小売店勤務の男。キツイ"どこかの訛り"を話す、なり済まし。
 ただの一般人? ありふれた孤独死? ふん、とんでもない。
 もはや疑問はない。彼はスパイだ。どこの国の、かは敢えて言いませんよ。中国独裁政党か北か、はたまた他か。そこらは国家権力が調べれば直ぐ分かる事でしょう。あるいはもうとうの昔に知っていて、放置されているのかも知れませんね。
 最初に死んだのが彼ならば、これは偶然ではありえない。彼の死をゴング替わりに一連の事件は始まっている。彼が例外なのは、彼が始まりだからですよ。
 さぁ。彼一人の死が、一体幾つの死に繋がるんでしょうね。彼を殺した一団は、幾つのアピールをする気なんでしょうね」
 穏やかな瞳が鷲津にぴたりと合わされる。微かに見上げる。気味が悪い。こいつは一体誰だ。一体、何者だ。
 「鷲津さん。これが俺がこの事件から手を引くべきだと言った理由の全てです。一、地方公務員がこの一件を扱えると思いますか?」
 言い切って資料を閉じる。双眸を閉じて深呼吸し、改めて、どうでしょう?と上目遣いに付け加える。全員が黙っていた。
 

 
 「そこまで分かるなら、勿体ぶらずに是非、次の標的をお教え願いたいね。そうすれば犯罪を止められるぜ」
 数分も続いた沈黙を破って鷲津が言う。怒気を含んだ声だった。
 鷲津の反応をずっと伺っていた長沢が、肩をそびやかして溜息をついた。
 「そりゃ、幾らなんでも、……無茶ですよ。俺、預言者じゃ無いんですから、分かりっこありませんよ……」
 ワンクッション有るから怒ったりはしないと言いながら、やはり鷲津は怒っている。長沢自身、その怒りは尤もだと思うので抗議は出来ない。ただ困るだけだ。鷲津は暫し長沢の答を吟味した後、大きく溜息を吐いた。
 「分かった。仕方ない。認めます。一地方の事件と思って捜査していたのに、支那スパイが出て来たんじゃお手上げだ。これは俺にはどうしようもない。手に余り過ぎる。長沢さんの仰る通り、諦めましょう」
 その言葉にほっと胸をなで下ろす。疲れた顔に、穏やかな笑みが広がった。
 「しかしまあ、良く調べたよな〜〜〜。こりゃ顔色、土気色にもなるわ」
 ソファを降り、今は長沢の脇に座り、共に資料を床に広げて凝視している楢岡が呑気な声で言う。長沢は苦笑した。
 「まぁ……、楢岡君の言うとおり、妙なハマリ方してた部分、あるけどな」
 自虐的な物言いに目を上げる。湯飲みを手に溜息をつく長沢を認めて、その頭を撫でる。長沢と鷲津の両者が、その行動に固まった。
 「お疲れ。偉い偉い。マジで偉い。俺、Kちゃんと随分長い付き合いになるけど、新しい面見てチョイ惚れ直した。」
 「はぁ……」
 頭を撫でられる事自体は不快ではない。別に髪の乱れを気にする方でもないから、温かい掌がゆっくり頭の上を行き来するのはむしろ心地良いくらいだ。それより何より、何かをして、人に労われると言うのは無条件に心地良い。報いを期待していた訳でなくとも、良くやったと言われるのは心地良いのだ。特に今はそうした気分だった。撫でられるままにして湯飲みを傾ける。
 「絶対悪の道に走るなよ、あんたが敵だと相当手強そうだからさ。……まあ、今日はぐっすり休んでよ」
 「うん……そうする」
 鷲津が大っぴらに溜息をついた。
 「となるとこの一件はどうなるんだ。本庁に頼むにしても、つてが無いぞ」
 「あ、俺が持って行くよ。俺、そろそろ帰るんだと。内示来た」
 再び長沢と鷲津の両者が固まる。今度は鷲津の反応は早かった。
 「そうか。長かったもんな。6年?7年?まあ、おめでとう、だな」
 「目出度くも無いなぁ。今度は何年保つのかな。次飛ばされる時は、確実に関東じゃないね」
 話が読めずに暫く二人のやり取りを聞く。総合するとどうやら楢岡はもともと本庁(警視庁)からやって来て、またそこに戻るという事らしい。ちゃらんぽらんに見える楢岡の方が本庁勤務とは恐れ入った。神田署から本庁異動であるなら、恐らくは目出度いことに違いあるまい。目が合ったので、取り合えず曖昧に笑うことにした。
 「そうか、じゃ、楢岡くん霞ヶ関行くんだね。ちょっと寂しくなるな」
 「へ?俺、警視庁に居た時からずっとSOMETHING CAFE通ってるけど。だって俺、竹下翁の時から知ってるし、Kちゃんになってから10年だろ。神田署来てから俺未だ7年だし。変わんないよ」
 言われた事を反芻する。なるほど、この男はつい二ヶ月前までは自称"私立探偵"であって、10年間ずっと変わらず常連で居る。つまり。
 「君一体、どういう仕事の仕方してんの?霞ヶ関から猿楽町、幾ら近いと言ったって皇居挟んで逆だぜ。君、ほぼ毎日来てくれてたけど、今は兎も角五年前はおかしい。警視庁の生活安全課って暇なのか?」
 鷲津が首をかしげる。
 「本庁に居た頃、お前公安だったよな。暇な筈ないだろ」
 今度こそ本当に固まる。血の気が引く。ごくりと生唾を飲む。公安。公安と言ったのか。目の前の男は公安課の人間だと言うのか。
 長沢が手っ取り早くつながりを持ちたいと思っていたのは、まさしくその警視庁の公安課か、公安調査庁の人間である。会いたいと思っていた。どう繋がりを着けようかと考えていた。大歓迎の筈だった。今日以外なら。
 今日は事情が違う。今日だけは別だ。今日は相手の底を見たくて懐に入り込んだ。つまり、こちらも相手に底を見せた事になる。初めから。よりによって公安に、こちらの手の内を晒した事になる。
 読み違った。徹底的に読み違った。キャストを。楢岡と言う男を。
 自らの不用意さが恨めしい。不注意さを呪うのと同時に、力が抜けた。
 「ん?どうしたKちゃん。それどういう表情?」
 10年間。客のプライバシーに触れずに過ごして来た。それでも大概の客は、一喫茶店の店主に嘘をつく必要が無いから、大体の事情は読める。人間の生活と言うものは、ふとした言葉の端々に零れ出るもので、そのカケラを掬い集めて復元するのはさして難しい事ではない。長沢は自然にそれをやって来たし、今までそれで見誤った事は無い。
 客が喜ぶように、そっと連れてきた客の恋人にケーキのサービスをしたり、常連の古女房の記念日に、さりげなく御土産を持たせたり、読み取った情報を利用して小さな好感度を得られたし、SOMETHING CAFEが無難に続いてきたのも、そんな小さな所にあると思っている。
 だと言うのに。
 してやられた。完全に騙された。最も気の置けない常連だと思っていた相手に、手玉に取られていた事実に脱力する。しかもタチの悪い事に、本人には全く悪気はないらしいと来た。
 「お疲れ様でした。俺帰ります。何かもう、………お邪魔しました。」
 鷲津家から退散する。動きを察知して出て来た細君が、お構いもしませんで、と笑うのへ、ご馳走様でした、長々とお邪魔して済みませんでしたと返して靴を履く。楽しげな楢岡が続いて靴を履くが、そちらを見る気にはなれなかった。
 「楢岡、ちょっと話がある。残ってくれ」
 え、と背後で不満気な声が応えるが、長沢には好都合だった。
 「何だよ。Kちゃんここ初めてだし、駅まで送ってから来るよ」
 「大丈夫です。川口自体は初めてじゃないし、駅から大して遠くないのに迷ったりはしません。友達同士の話もあるでしょ。俺、先にお暇します。じゃ、本当にご馳走様でした、失礼します」
 「ちょっ、Kちゃん!」
 厚みの有る掌が肩口を掴む。振り返らず、そのまま家を出ようとすると引き戻される。何とはなしに腹立たしくなって引き剥がすと、意外そうな瞳が見下ろした。
 「警視庁の周りにも美味い喫茶店有ると思うから、サボるのはやめてそっちへ行けよ楢岡くん。じゃ、お先」
 言い捨てて外へ出る。後ろ手に扉を閉め、夜の中に歩き出す。時計は11時半を回っていた。振り返りかけて……やめる。

 ね、ここにしよ?

 甘えたような比沙子の声が、耳の中で蘇る。頭を振ってみても、その甘い余韻は消えなかった。
 持て余して空を見上げる。街の灯に霞んでよく見えない夜空の遠くで、クラクションがパァンと鳴った。
 

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