□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 「なぁ。Kちゃん怒ってるみたいなんで、お前の話、明日じゃ駄目か」
 扉が閉じた途端におろおろする友人に溜息をつく。
 鷲津の中での楢岡と言う存在は、呑気で大らかでちゃらんぽらんな個性の持ち主だ。頭脳はなかなかに明晰だとは思うが、世間一般的に認められるタイプかと言うとそれは違う。規格外の不良品の中に埋もれた原石、そんな表現が当っている。
 しかも本人がそれを是とし、受け入れる所か享受して居る嫌いが有るのが個性的だ。
 取り柄や長所と言う物は、活かして初めて長所足りえる。だと言うのに、それらを敢えて全て無視するのが楢岡なのだ。眼のある人間がそれと認めて観察し、ようやっと認識できる長所は、世間一般では長所とは言わない。脳ある鷹は爪を隠すと言うが、脳ある鷹は爪を隠し過ぎて忘れるとなれば、それは決して褒め言葉にはなりえない。
 才能の無駄遣い。鷲津から見て楢岡の個性は、まさしくそれ、なのだ。癖が強く、奔放で、上司の寛容さを最も必要とするタイプの一人だろう。
 そのちゃらんぽらんな個性が、今は至って普通に、極々平凡に、一人の人間の事でうろたえている。その相手が見目麗しい妙齢の女性でもなく、愛くるしい小悪魔でもない所が、これまた彼の個性と言って良いのだろう。
 「その長沢さんの話だから駄目だ」
 ええぇ、と非難の声が上がる。いいから上がれと手招くが、楢岡は扉の方向ばかり気にしている。やれやれ、だ。つい深々とため息が零れた。
 「お前の、長沢さんに対する態度、どうも妙だぞ。もしかして、そう言う、関係か?」
 ピクリと肩口が反応する。一回深呼吸をして向き直る。さりげなく鷲津の細君がキッチンへ消えた後なのを確認して、鷲津に目を戻す。
 珍しく、感情あらわな険しい瞳だった。
 「だったら、何だよ。お前には関係ないだろ?」
 上がれ。何度目かの手招きをする。楢岡は観念して仏頂面のまま、元来た道を辿る。鷲津も黙っていた。
 大学在学中は、二人に殆ど接点はなかった。同じ学部で同じキャンパスに居たものの、ただそれだけだ。会えば挨拶程度は交わしたが、話し込んだ事など無い。互いに名と顔を知っているだけの存在。それ以上でも以下でもなかった。
 ただ、真面目一方の鷲津と違って、楢岡は何かと話題になる男であったから、さして興味の無い鷲津の耳にも楢岡の様々なプライベート情報は届いていた。学生の時分であるから、一番口さがなく騒がれるのはSEX関係の事だ。どこの学部の誰が可愛い、だれが軽い、誰が誰と付き合ったの別れたの、修羅場になるのならないだの、そうした話題が良く取り沙汰されて居た。興味のない鷲津も、取り敢えず浮かない程度には聞いていたが、それらの噂に特に感心を持った事もない。
 楢岡についての情報は多種多様だった。よくもこれだけ情報の更新が有って、普通に学生生活を送れるものだと感心したくらいだ。
 芸術学科の子と付き合ってるって。別れたって。例の講師と付き合ってるのって楢岡? え、楢岡って今、教授と不倫してるんじゃなかった? 美人局にカモられたって。刃傷沙汰を起こしたらしいよ。
 ソファに腰掛ける。楢岡は立ったままだった。
 「関係ね。お前が俺の同僚でも同期でも無かったら関係はないが、残念ながらその両方なんでね。一度は言って置く。そうじゃないと寝覚めが悪い。楢岡、お前あの人と付き合ってる訳か」
 ホラ、楢岡って両刀遣いじゃない。彼氏と彼女が部屋でカチ会って、女の方が包丁持ち出して相手を刺そうとしたんだって。それを庇って楢岡、病院に担ぎ込まれたらしいよ。
 大学の頃にそう聞いた。節操無ぇな。そう思った。感想はそれだけだった。
 「だったら、何」
 「警察官続けたいなら、本庁行く機会に別れた方が良い」
 「はぁ?」
 語気も荒くそこまで答えて、鷲津の態度に口を閉じる。この男が考えなしに適当な事を言うタイプではない事くらい、楢岡とて良く知っている。冷静で実直で誠実な男なのだ。そうした面を知ったから、深く付き合うようになったのだ。
 相手のプライバシーに必要以上の興味を持つ事もない。口さがなく、面白おかしく他人の生活を喧伝する事も無い。尾鰭をつけて笑い飛ばす事など更に無い。この男がワザワザ相手の領域に踏み込むのは、仕事か、純粋に善意でだけだ。
 ソファにどっかとしゃがみこむ。鷲津が続けた。
 「俺は、お前のカンって奴を信用してる。お前には俺に無い直感が有って目端が効く。優秀な警官だと思う。だがお前のそのカン、あの人には全く効かないのは何故だと思ってた。その理由は…今日何となく分かったよ」
 不満と憤りが急速に萎む。鷲津が善意で言っているのが伝わった。
 「お前は怒るだろうが、俺は長沢は危ないと思う」
 「…とうとう呼び捨てかよ」
 「悪人だとは思わないが、犯罪者にはなるかも知れないな。近づかない方が良いぞ。特に。"その一件"追うなら、もうあいつに近寄るな」
 何で。答えを予感しながら問う。その通りの言葉が返って来た。
 「調査する側が、対象と接しちゃ元も子も無いからだよ。
 楢岡、お前は長沢を善良な一般人だと言う。極々普通の一般市民だという。現段階でそうであると言う所までは、まあ、異論は挟まない。だが、未来はどうかな。
 見たろ?あいつ、犯罪者の資質、充分有りだぜ。二課担当の知能犯。詐欺師向きだ。舐めるとこっちが利用される。この一件の資料を渡したのは俺の咎だが、それで良く分かった。これ以上は一切渡すな。何も漏らすな。絶対お前の命取りになる。どう見てもあの親父、食えん奴だ」
 鷲津の言葉をゆっくり反芻する。飲み込む。そちらに向き直ると、鷲津も真っ直ぐに見つめてくる。やましい所のない人間と言うのは強いものだとつくづく思う。
 「良く、分かった。お前はちゃんと俺に伝えた。俺は聞いた。これでいいな。今後、この事で何か有っても、それは100%俺の責任だから。お前に責めはない。これで納得してくれ」
 一瞬、目を丸くして、鷲津は深々と溜息をつく。ゆっくりソファを立ち上がる楢岡を、今度は鷲津も止めなかった。
 「お前は優秀で良い奴だと思うよ。出来ればこのまま同僚で、お前がどう思ってるか知らんが俺は友人で居たいんだがね」
 振り返る。ソファの上の鷲津はキッチンの方角を見ていた。
 同感だ。
 鷲津の善意はストレートに伝わる。いつまで経っても身も固めず、ふらふらとしている同期を鷲津は純粋に気遣ってくれている。不器用な気遣いにいつも感謝しているし、今もそうだ。だが。
 「同感だよ。お前みたいに良い奴はいない。俺はいつもお前の友人にふさわしい人間で居たいと思ってる。……有り難う」
 家を出る。鷲津の"家庭"と言う足枷から逃げ出す。さっさと時子さんと結婚しちまえよ。それが良いよ。そんな言葉を振り切って夜に逃げ出す。
 都心と大差なく、見にくい夜空の星を見上げる。もう、長沢には間に合うまい。追う気も既に無かった。五分ばかり夜の中を小走りに走って立ち止まる。車の警笛がドップラー効果を響かせながら背後を通り過ぎた。
 鷲津は正しい。
 鷲津の言葉は、恐らくは何よりも正しいのだ。長沢の思惑がどこに有るにしても、恐らくは長沢から離れる事が、全方向上手く収まるのだ。万全の方法なのだ。だが。
 それが出来ない。思い切ろうと思った。可能性の薄いものは、潔く諦めてしまうのが互いの為を信条に、今までずっと実践して来たのに。一番活用すべき時に活用出来ない人生の信条など、全く間が抜けている。何と無意味で役立たずで、自分にお似合いなのだろう。
 深く、傷つけ合う事になるのかも知れぬ。望む未来など、十中八九無いに決まっている。それでも。
 できないのだ。今は未だ。それだけはどうしても、出来ないのだ。
 携帯を手にする。ボタン一つで隠れ家に繋がる。暖かい声が、端末の中で今まで放っておいて何よう、と笑った。
 「時ちゃん、そっち行ってい?………ん、ごめん。うん、…うん。……慰めて」
 

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