□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 さて、やっと本題だな。
 カップの中身を楽しむ唇が呟く。なぁに、何と言う事はないさ。
 「"振り"は簡単だよ、昨夜の通りだ。一番重要な事を、前置き無しに言う。今回は標的の名と役職。根拠は言わない。それで良い。
 標的の名も役職も、お前さんは本来知らない情報だから、先方は度肝を抜かれる。充分身構える。情報ソースが不明の"正しい情報"には、それだけで破壊力がある。そして先方が驚きから現実に戻ってくる瞬間に付け加えてくれ。
 ジェノサイダーから聞いた」
 呆れる。冬馬が父親の事を白状させられた時も、この男はこの手を使ったのだ。言葉一つ一つはそれ程突飛な物では無いのに、組み合わせとタイミング、それだけでこちらの平常心を奪うに余りある威力を持つ。あくまでも穏やかに、時には聞き手の親身になって語られる話の内容に、こちらはすっかり警戒心を解いているというのに。その隙を狙って入り込んで来る。
 「それだけ伝えてくれれば完璧だ。今日中にでも先方から会議を持ちかけて来るから、明日以降じゃ無きゃ無理だとつっぱねてくれ。
 今夜、一応は練習しよう。はったりなんてきっかけだけで、後はノリと勢いと、お前さんがどれだけ空気を読んで行動を変えられるかだけ。要はハナと本能だよ。その点、野生児の冬馬君は間違いないだろう。大した事じゃない。思う存分好き勝手やって良い。
 確保したいのは俺の通信手段だけだから、本能の赴くままに掻き回しちまえばバッチリ上手く行くよ」
 今朝のニュースを語るような穏やかな声が、戦略をやんわりと指示する。己のカンを信じろと言うだけの大雑把な戦略だが、この男に信じて間違いないと太鼓判を押されると、何でも出来そうな気になるのだから不思議だ。
 「通信手段?」
 「うん。作戦途中に俺が活動部隊……つまりお前と連絡を取るための通信手段。他に活動部隊が何人いるかは知らないが、俺がつなぎを取るのはお前だけで良い。
 ああ、決して作戦に加わらせろなどとは言うなよ。釈迦に説法だとは思うけど」
 その通りだ。冬馬は頷く。
 どの部隊も、作戦をこなすまでには部隊として出来上がっている。イレギュラーに首を突っ込む部外者を仲間扱いすれば、当然そこに不都合や不満が出る。長沢は傍観者として加わるべきだ。部隊ではなく、冬馬とのみ関わる傍観者として。
 「俺の肩を必要以上に持た無くて良いから。あくまでも活動部隊を優先させて俺を使えばいい。情報交換の方法さえ確保すれば、自ずと道は開けるさ。後は……まあ運だなあ」
 苦笑が零れる。嘘だ。冬馬は思う。
 有象無象が運、などと嘯(うそぶ)けば、必ずその日の内に彼らは凡て消えていく。だが、冬馬の眼鏡にかなってこの言葉を平気で口走る人間に、運に頼る者などは居ない。運に縋る者など見た事は無い。
 必要なファクターは凡て集め、細かく調整した後で、彼らは言うのだ。後は運だね。いつ頃からかそれは、冬馬に取っての合図になった。人事を尽くして天命を待つ。俺のやれる事は全部やった。準備は完了した。いつでもいいよ。後は運だね。
 こいつとなら、やれる。
 「岐路に立ったらどうする。仲間か啓輔か、どちらかを選ばねばならない時は」
 「聞くまでも無いだろ」
 きょとんとした顔が答える。確かに。決めるのは冬馬だ。その時に選べばよい。今問うても意味は無い。
 凡てに理由と理屈を求める理論派の長沢は、究極の所でリアリストだ。考えても詮無い理屈は議題に出さない。最後に明暗を決めるのは己の本能だとちゃんと知っている。
 「"振り"は分かった。では真相は。お前がその標的に辿り着いた理由を教えてくれ」
 「簡単さ。今半屋。それだけだ」
 髭に包まれた口許があっさりと答える。

 今半屋。それだけ伝える事だ。それで充分だ。

 大貫が伝えた言葉が耳に蘇る。無感動に、捨てるように言われた一言が、冬馬にとっては何の意味も持たぬ一言が、長沢にとっての突破口になる。早急にアピールして足場を固めたいと言った長沢の決定打になる。
  改めて思い知る。冬馬はあの時点で何も考えていなかった。ただ、長沢を"同志"と喧伝出来る事が嬉しくて、それ以降の事を何一つ考えていなかったのだ。
 冬馬の同志宣言が、"新入りの同志"と言う組織の障害を生む事。そこに思い至らなかった。組織は障害を排除する。排除対象に長沢の名が入るなど、想像もしなかった。それを回避するために必要な"付加価値"についても、考えもしなかった。そのアピールも、交渉法も。それらを何一つ考えず、気付きもせずに一歩を踏み出した自分は、何と不用意で、何と幼い。
 長沢は考えていただろう。そしてあの男も。
 恐らくは元々考えていた物より、男のくれた物の方が有効と踏んだから、長沢はそれを利用したのだ。押し頂いて。あの男の投げ与えた物を、フルに利用する事を選んだのだ。それをさせたのは自分だと―半分は自分なのだと―今気付いた。唇をかむ。
 「単純なんだ。"今半"はヒントじゃない、答えだ。もう十五年…も前の、あの時代の記憶が俺に活路をくれた。それは、俺達の符丁なんだ」
 俺達。
 半ば俯いて聞いていた耳に、何と言うことは無い単語が突き刺さる。
 妬ましい。悔しい。
 敗北感と劣等感の中で、初めて心の底からそう思う。
 冬馬が気付きもしなかった最初の一歩を、たった一言であの男は与えた。たった一言。長沢と、ひいては冬馬の足場を固めるに足る礎を、あの男が投げ与えてくれたのだ。冬馬の与り知らぬ遠い時間を、歴史を共有し、長沢はあの男との事を俺達、と口走る。それら凡てが妬ましくて仕方無かった。あの男が。あの男。
 長沢を"使い古し"と称した、大貫宥吏が。
 「今半と言うのは、浅草を起源とするすき焼きやしゃぶしゃぶの店の名でね。今半自体に罪は無いが、その名を昔、符丁にした。
 と言うのも、まあ。財務省…当時の大蔵省では色々有ってさ。大蔵の接待は大体高級な銀座辺りの料亭やら、老舗のすき焼き屋だったから、それでそんな符丁を使った。直接関係無い今半には申し訳無いが、有名税って事で勘弁してもらいたい。97年になって、本当に"ノーパンしゃぶしゃぶ"で大蔵が不祥事を起こした時には呆れたモンだよ。
 世界のどの国でも共通だが、国の組織の中で一番強いのは情報…いや、金を握る組織だ。財力が凡てを動かす。金のある所には情報も、人材も集まる。日本人は、国の政の中心は国会だと思っているが、それは違う。金を握るものが権力を握り、権力が国を動かすんだ。政治家に出来るのは、その権力に媚びる事くらいだ。つまり。
 政の中枢は、官僚達が集う料亭やら風俗街やらにある。官僚は政治家など自分のコマ程度にしか思っていなくて、酒をすすりながら国を売る算段を立てるんだ。
 今じゃ大蔵省は解体されて金融庁と財務省に分かれちまったが、かつての大蔵は国の金の流れを一手に握っていた。日本の省庁の中で最強なのは一点の曇りもなく大蔵省だった。日本を裏から動かしていたのは大蔵省で、その杜撰な管理が大蔵解体のきっかけになったんだ。マスコミ的にはきっかけはさっき言った通りノーパンしゃぶしゃぶだが、実際の理由はそんな所だ。
 だから俺達の符丁では"今半"は大蔵省を指した。さて。では"今半屋"が何を指すのか」
 痛む胸を無視する。敗北感に蓋をする。後悔自体に価値は無い。価値をつけたければその轍を踏まねば良い。意識を耳に集中する。
 「90年代、わが世の春を謳歌する大蔵省にも色々とあやをつける外敵がいた。ちょっとやそっとの数じゃない。権力の裏側にはそれに与するのと同じ数だけ敵も現れる。金も情報も文句なしに有する大蔵に、後必要なのは法的な解釈、根拠を主張し強弁を弄せる人材だけ。と言う訳で、大蔵の外部には、大蔵問題担当の法吏もそれこそわんさと居た。
 徳永 虎之助も、その中の一人だ」
 大蔵省。
 現在、財務省主計局に居る大貫宥吏の元の職場。日本に置ける権力の場。大貫がそこに居た事は驚かない。傲慢なあの男を支える絶対的な自信は確固たる権力に裏打ちされた物だ。それより驚くのは、その男と恐らくは対等に渡り合い、今も拘らざるを得ない傷を男の内に残した目の前の長沢だ。嫉妬や慕情以外の感情がわき上がる。冬馬は小さく頷いた。
 「大蔵省が金と言う強固な腕力を持って国を牛耳る闘士とするなら、法曹界…法務省は法と言う盾で国を縛るフィクサーみたいなもの。我が物顔に攻めて出る大蔵より、中身はずっと闇だ。しかも、タチの悪い事にあの中に日本は無い。法務省の中にあるのは露西亜と支那の権力の構造だ。
 徳永 虎之助は支那の先兵。まぁこいつが。人権屋で、とんだ左巻きのエロ爺でね。聞くに堪えない似非人権論を振り回すわ、ハニートラップにまんまと引っかかって、幾人もの支那人を助けただけじゃ飽き足らず、官は売るわ国は売るわ。雑食で強欲で、女だけじゃなく男にも手を出す節操の無さに、転じて今半屋と呼んだんだ」
 なるほど、答だ。
 「まさか啓輔も……、手を出された口か」
 「俺はいわゆるMOF担(銀行の大蔵折衝担当者の事)で、直接的に接触を持っていたのは大蔵官僚だったから、何度か会った事はある。でも幸か不幸か、法吏に尻尾を捕まれるようなヘマはしてない。したら、大蔵に見捨てられる。俺が担当する大蔵官僚はそりゃあ厳しい人だったから、それは無いよ」
 その大蔵官僚とは、他でもない大貫宥吏の事だろう。訊ねかけて、止める。
 「今回の話には期限が設定されている。12月25日の13時まで。冬馬もこの言い方をしたとなると、いつもはこれ程に明確な期限は設定されていないのだろう。だが今回は明確に規定されている。それもその筈。これは公判日時だ。
 この反日売国奴裁判官は今までにも、首相の靖国神社参拝で誇りを傷つけられたとした訴訟やら、自衛隊のイラク派兵は違憲やらと言った裁判の裁判官を務めて来たんだが、そのいずれもが地裁で原告の訴状が却下されている。ものの。問題はここからでね。こうした反日裁判にありがちな手法がここでも余す所無く発揮されている。
 控訴棄却、あるいは敗訴。しかし"傍論"にて、首相の中立性と政教分離を声高に唱え、"傍論"でイラク派兵は違憲と吼える。新聞各紙はこぞって"政教分離判断""違憲判断"と傍論をまるで判決のように書き立て、オマケのように敗訴と書く。そうするとどうなるか。裁判自体は国の勝訴なので控訴は出来ず、しかしつまらない傍論が判決として人々の意識に残る。全部国が悪いと不注意な一般人に思い込ませる。
 実に単純で下らない方法だが、これは非常に有効だ。一般の国民は"判断"でも"判決"でも同じだと考える。つまり、首相の靖国参拝も自衛隊のイラク派兵も、その裁判自体が棄却されながら、人々の記憶には首相は政教分離を取り違えた犯罪者で、自衛隊は法に反して戦争に協力したいけない団体、と言う事になる。この国の法曹界も放送界も、全く偏っていて腐ってるって事だ。
 遠回りだが確実な判決による反日プロパガンダ。この男はそれをずーーーっとやって来たと言うことさ。その男が。
 何をまかり間違ったのか、最高裁まで上がって来ちまった「南京事件関連名誉毀損訴訟」を受け持つ事になっちまった。その第一回公判の日時が」
 「12月25日、13:00時」
 「そう。丁度良い舞台だろ。支那の傀儡法吏の幕を落としてやるのに」
 なるほど。青年は心中で会議での会話を反芻した。垣水第一部長が、歳の割りに良く通る声で言っていた。
 今回は僕からの動議だ。今回のターゲットは僕に…公安調査庁に深い関係を持つ人物なものですから。そう。――法曹会の人間です。
 長沢は法務省を闇だと言った。日本にありながら日本の無い、支那と露西亜の利権の構造だと。法務省管轄の公安調査庁に籍を置きながら、叛乱分子に加わった垣水第一部長の心根もそんな所に起因するのかも知れぬ。
 「以上。これが凡ての真相だ。後はこの情報を、冬馬君が上手く料理してくれれば、それでオシマイ。何かご質問は?」
 穏やかな声に訊ねられて顔を上げる。
 左の席に穏やかな笑顔が座っていた。首を振る。充分な説明だった。むしろある一点に置いては充分過ぎるほどの。見つめて問いかけ…そのまま項垂れて首を振る。
 「質問は…無い。良く― 分かった。今日の俺の役目は、司令官を驚かす事だ。それ以外には何もしない」
 左手でくすり、と笑いが零れる。
 「俺が長々と話した事を一言で纏めたね」
 「…間違っているか?」
 「いや、大正解だ。非常に満足だよ」
 「……啓輔、俺達は"秋津"と呼んでいる。口にした事はほぼ無いが、一応お前には伝えておく」
 「秋津? 何の事?」
 「作戦名……あるいはチーム名……あるいは……ただの言葉だ」
 「ああ、―分った。有り難う」
 時計は六時半を回っていた。長沢がストールを降りる。タイムリミットは直ぐそこだった。
 立ち去ろうとする身体の腕を引き寄せる。不意を突かれてよろめく身体を腕の中に抱き止める。逆らわずに見上げる面が愛おしかった。
 半端に伸びた髪は、今はヴァンダナで纏められている。少しばかり垂れ気味の眉と、いつも人を伺って居るような両の瞳。不細工な黒縁眼鏡の奥に有る瞳は、青年の背から見下ろすと眼鏡に邪魔はされない。どう見ても優しげな、善良極まりない面持ちなのに。この顔の奥にある思いは全くの別ものだ。
 「啓輔、お前が好きだ。お前は複雑で、秘密だらけで、俺には理解出来ない事ばかりだ。俺は時々それが怖くなる。
 でも、お前は俺達を、俺を尊敬すると言ってくれた。でも俺の方がもっと、ずっとずっと、啓輔を尊敬してる」
 「分からないのにか?」
 くすぐったげな笑顔が優しい。いつからこんな表情を見せていてくれていたのかと、どきりとする。いつから、などと言う細かい事は冬馬には分からない。ただ慌てて頷く。
 「頭では分からなくても、本能が知ってる。本能は間違わないだろ。きっとお前が群れのボスで、俺はボスに従順なNo2だ」
 「よっわいボスだなー。その群れが心配だ」
 「大丈夫だ。No2が強いから」
 揉み上げから顎の下に伸びる柔らかい毛のラインを手の甲で辿る。苦笑する口許を引き上げて口付ける。逆らわずに自然に閉じられる双眸が嬉しい。だが、許されるのはこのラインまでだ。これ以上一歩でも押せば、さっさと出て行けと言われるのは必至だ。
 名残惜しく唇を離す。何を言って良いか分からずに背を向ける。と。
 あ、と長沢が呟いた。
 「その、冬馬。昨夜はその……有り難う」
 振り返る。
 昨夜?何か特別な事をしたろうか。いつものように待ち構えて、幸運にも寝床を共に出来た。それ以外に何か有ったろうか。
 「その、はっきりして置かなきゃいけない事が幾つも有るだろう、俺達には。例えば、俺とお前は同志であって恋人じゃない。
 お前とはその、こう言う関係になってはいるが、俺は多分、男を色恋沙汰の対象としては見られない。だからお前も、俺に囚われる必要は全く無い。若いんだから幾らでも恋をすべきだし、誰とどんな関係になるのも俺に気兼ねは一切無用だ。お前は自由だ。俺はこのまま変わらない。同志として、良い関係を築けたらと思ってる」
 言葉を連ねながら、長沢が何事かに逡巡し、戸惑っているのが伝わる。だがその何事か、が何であるのか、冬馬にはサッパリ分からない。
 「啓輔は俺と距離をおきたいのか?」
 「そう言う事じゃない。お前は俺と組織を繋ぐ、唯一のよすがだ。連絡は密に取るべきだ。まあ、無難にSOMETHING CAFEの客に加わっておくくらいが不自然じゃなくて理想かな」
 「それなら、同志と恋人とで、何かが大きく変わるのか?」
 「だから、お前は俺に気兼ね無く、誰を選んでも自由だよと……」
 「俺は啓輔が好きだ。啓輔を選んでる。お前が俺を嫌いでも、これは変わらない。これを変えろと言う事か?」
 「……いや…」
 「なら、同志も恋人も、俺には何も変わらない。俺はお前を守る。力の限り。それで問題が有るか?」
 何かを言いかけた口をそのまま閉じて、眉根に皺を寄せる。無い、と呟いて言い淀む。ヴァンダナに包まれた頭を軽く掻く仕種が、らしくも無い困惑を漂わせる。
 その…。視線をそらす。長沢の躊躇の訳が分からなかった。
 「その……つまり。上手く言えないな。兎に角、お前に礼が言いたかったんだ。昨夜、そのぅ……
 俺はお前が居てくれて嬉しかったんだ」
 呼吸が止まる。
 瞬間、言葉の意味が分からなかった。
 たった今、男は色恋沙汰の対象ではないと言った口が嬉しいと言うからには、それは慕情ではないのだろう。恐らくは家族愛とか父性愛とか、恋愛とは全く違うステージに有る感情なのだろう。それでも。
 嬉しいと。お前が居て嬉しいと。確かに今そう言った。
 「昨夜な、俺は警察関係者の家に行ってた。そこが実に、何と言うか、ありふれた、…暖かい家庭で。可愛らしい女の子と腕白そうな男の子が居て、優しそうな奥さんが居た。俺にはもう関係無い場所なのに、居心地が良くてね。しみじみ、良いなあ、と思ったんだ。
 人の体温で温まった家って良いよな。そこを離れて俺が帰る先は、冷え切った小屋なんだ。走り回る足音も、人の気配もない家に帰るんだと思ったら帰りたくなくて。うだうだ歩いていたら、戸口にお前が居た。
 何かなぁ。妙に、嬉しかったんだ」
 言いながら、長沢の躊躇が解けて行く。改めて礼を言う気恥ずかしさに躊躇していたのだと言うのが伝わる。言いながら上げられる面は、照れの所為で少しばかり赤い。
 「だから。有り難うな、冬馬」
 心臓が胸郭の中でのた打ち回った。長沢の躊躇が照れだったのだと顔色で分かったが、冬馬は既にその段階を過ぎていた。
 最低の事をした最低の男だと言われた。憎む気持ちは変わらないと、された事は忘れないと、そう言われた。だから、憎み合っていたって同志にはなれると掻き口説いた。
 本能でお前が怖いから、いっそ関係してみようと言われた。
 理由はどうあれ、関係した事で近付いたとは思った。同志であると言う言い訳はその感を強めた。不安はあったが不満は無かった。嫌われていても気持ちは変わらない。なのに。
 お前が居て、嬉しかったんだ。
 「それで…」
 「そこまでだ啓輔!」
 加速する。気持ちが。欲望が。
 長沢の細かい心情など知りはしない。本意など分からない。ただ、どうしようもない。身体は勝手に反応していた。一言でも何か言われれば、加速する感情に火が点く。本能が走り出す。
 「一言もしゃべるな、何も言うな。お前の声、今もう一言でも聞いたらヤバイ。その、来てるから。続きは夜聞く。俺の今日の役目で聞いていない事、無いな」
 黒縁眼鏡の奥の眼が、きょとんとして青年の顔から目線を下ろし、爪先まで降りて気まずげに納得する。小さく頷く。同時に青年が踵を返した。
 言葉も無く、しなやかな身体がSOMETHING CAFEを滑り出す。店から階段室、そこから裏口へ。二つの扉が音を立てて閉じるまでに長沢が出来たのは、ヴァンダナを整える事だけだった。
 
 朝の匂いに動き出す街に滑り込む。
 いつしか街灯に整えられたクリスマスリースと、夜になれば輝き出す電飾の飾りつけの通りにまろび出る。
 クリスマス。もう一月近く前から街頭に括りつけられたそんな文字に、初めて気付いた気がする。頬が緩んで、改めて驚く。
 一体今の自分はどんな顔をしているのだろう。間が抜けた赤い顔をしているのは確実だし、恐らく不気味ににやけているに違いない。
 自分の感情を明確な言葉にした事など、冬馬には無い。有っても精々、単純な喜怒哀楽と、眠い、痛い、寒い、熱いという五感に毛が生えた程度の物だけだ。それが今の自分はどうだ。頭の中に湧き上がる熱と、胸の中に暴れ回る雑多な思いを、凡て纏めてたった一つの明確な言葉にする事が出来るのだ。
 今まで何度も恋などして来たのに。激しい恋も、身勝手な恋も、人の命さえ奪った恋もあったのに、今までこんな思いに満たされた事は無かった。
 人で混み始める神保町交差点を足早に通り抜ける。冷たい風が頬に心地よかった。
 どうしよう。
 うろたえる。自らの思いに、ストレートな感傷にうろたえる。今の自分の思いは、とてつもなく雑多で、たった一言で表せる。どうしよう。
 幸せだ。どうしよう。
 

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