□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 全ての「作業」を終えて、青年は同じ部屋で眠る事にした。
 青年の名は冬馬。
 水上と言う立派な苗字も持ち合わせているが、24年の人生の中で使われた覚えは殆ど無い。フルネームが必要な機会は殆ど無かったし、他人から呼ばれる名は、精々が「冬馬」か「トーマ」だった。かつては親しみをこめて「Nino(ニーニョ)」や「ムチャチョ」と呼ばれた事もあるが、そんな日々は遥か彼方に霞みつつある。
 自分が心行くまで味わった身体を布団に寝かせる。
 倍近く生きている男の顔を見下ろす。引き攣れた傷一つ無い、痣一つ無い顔だ。この男は飢えて震えた事があるのだろうか。一切れのパンの為に、誰かの命を奪った事があるのだろうか。
 随分と時代がかった木造モルタルの、純日本風室内の大きな押入れから掛け布団を引きずり出す。冬馬はそれに包まり、そっと長沢の横に横たわった。
 どんなに熟睡しても3時間以上連続で眠り続ける事はないから、長沢がどんなサイクルで生活していようが対応できるだろう。小さな物音にも直ぐ覚醒するから、邪魔になる可能性はまず有り得ないし、2DK以上の造りの家には、まだ幾人もの人間が寝泊りできる余剰スペースがある。
 以上の理由から、冬馬は一つの結論を導き出した。一人くらい増えてもどうと言うことは無い。
 我ながら筋の通った理屈に納得して目を閉じる。直ぐ耳元に穏やかな呼吸が聞こえて、深い嘆息を吐く。人の呼吸音に包まれて眠るのは久しぶりで、胸の奥が、ぽっ、と暖かくなった。
 こんな夜が続けばいい。
 平和な、夜が。
 日本には、泥と排泄物で出来た建物は無い。城のように積み上げられたバラックの街も、マンホールの中の子供の家もない。自動車爆弾の破裂音もしなければ、遠くに響くAKの音もない。道端で眠ったからと言って、首筋を食いちぎるコヨーテもいない。強盗傷害が増えたと言っても、「増えた」等といっている内は、まだ大した事はない。
 車の排気音と、人々の嬌声。若者たちの歌声と笑い声。
 こんな夜が続けばいい。ずっと、永遠に続けばいい。

 何かが気になって目が覚めた。瞬時に覚醒して身構える。腕時計のデジタル画面は5:04。冬馬は横になったまま周りを探った。
 窓の外には平穏な街の音が広がっている。カーテンの隙間から覗く外からは、冷えた夜の空が見下ろしていた。外部に敵の気配は無く、内部にも無い。湿気を含んで重い夜気の底で、冬馬はまだ動けずにいた。これと言った異変もなく、こんな唐突な目覚め方はしない。自らの感じた異変の源が分からなかった。
 アンテナを広範囲から近距離に縮める。慌てて身を起こした。
 呼吸音だ。この、呼吸音で目覚めたのだ。
 耳を長沢の口元に近づけて確認する。酷く短い呼吸だった。吐く息が強くて短く、吸う音は殆ど聞こえない。ミヤという名の少女を思い出した。
 マルコ・ロドリゲス・ウェルタのDINCOTEに行く手を阻まれて、命からがらセルバ(ジャングル)に逃げ込んだ夜だった。仲間の一人が腹を撃たれた。赤い頬のミヤ。年の頃は正確には分からないが、12.3かそこいらだろう。もう駄目だとは分かっていたが、見守った。手を握っていてくれと言うので握った。初めての経験ではなかった。
 かつての仲間が、よくこの呼吸をしながら死んでいった。
 傷づいた獣の呼吸だ。短く、激しく、やがて静かになる。
 長沢の頭からシャツをかぶせ、毛布でくるみ、バスタオルとタオルで自らの背に彼を固定する。人影が裏口を滑り出すまでに、5分とかからなかった。
 

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