□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 「―― 答えて下さい」
 クローゼットの前に居る大貫からは、桐江は逆光になっている。彼の背後下方にネオンで溢れ返る夜景がある。その灯りのきらめきが、彼の稜線を舐めていた。
 筋肉の流れの良く分かる、鍛えられた体の頬や首、広い肩に光が撥ねる。均整の取れた体躯に良く似合った制服の首許で、窓から入り込むネオンに襟章が微かに輝いていた。
 防衛大卒。隊付き教育期間にレンジャーを体験し、国際貢献の名の元にスーダンのPKO部隊に赴き、この秋からは中央即応集団の司令部に属する。齢僅か33にしてその幕僚副長に任ぜられたエリート、桐江 伸人。こうした部品の一つ一つが、大貫は気に入っていた。優れた若い士官の将来を邪魔する気は毛頭無い。ただ一時を。
 その夜の一時を、充足させてやろうと言う、それだけだ。
 他人を律する以上に自らを厳しく律する桐江が、自分から大貫を誘う事はそうはない。熟考した挙句の切羽詰った問いを、大貫はクローゼットの傍に佇んだまま楽しんだ。真面目な男の動揺も焦燥も、実に美味だ。その姿を目で楽しんだ後、ゆっくりと近付く。その間、桐江は微動だにしなかった。
 右の掌で、幾度と無く愛撫した首筋から頬を辿り、短く刈り揃えられた頭に辿り着く。力をこめて後ろへ引く。鍛えられた首が衝撃に耐えた。
 短く整えられた頭髪に指を食い込ませる。桐江も決して小柄ではないが、大貫に比べてしまえば10cm以上も小さい。そのまま後ろに引かれ、真上から紅い双眸に見下ろされると、身動きが取れなかった。
 「私に命令か。偉くなったものだな、一等陸佐」
 財務官僚とは思えぬ体躯と、冷たく整った風貌には絶対的な威圧感がある。思わず首を振り掛けると、大きな掌がよりきつく頭を握った。痛みに薄められる瞼と、悔しげな表情は嗜虐心をそそる。強引に口付けると微かに拒むのも面白かった。
 「安心するが良い。私は部外者にターゲットの名をわざわざ教えてやる程優しくはない」
 ぴくりと手の中の頭が反応する。真っ直ぐに目を見つめてくる。歪みのない人間はこうした仕種も歪みがない。
 「本当でありますか」
 「そう言った」
 「信じて良いのですね」
 「くどい」
 勁い光の宿る両瞳で暫し大貫を見定め、少々長めの躊躇の後、深呼吸をする。強張っていた肩から力が抜ける。大貫は警戒を解く身体を抱き寄せた。容易い物だ。
 嘘ではない。ターゲットの名など、大貫は誰にも伝えていない。全く関係ない言葉を呟いただけで、先方が何を思おうが、それは大貫の知った事ではない。
 ただ、情報漏洩元は誰かと言えば、それは大貫に他ならない。その質問に答える気は、大貫には無い。
 「シャワーを…」
 「必要ない」
 制服のズボンに手をかける。ジッパーを下ろして中に手を入れる。既に反応を始めているものをしごく。息を呑む気配が楽しかった。

 最初にこうした時、少ないとは言えない粘液質のものが掌に触れて、らしくも無く驚いたのを思い出す。
 95年の冬だった。お互いの関係が無償の了解から変わったのは、95年も終わろうと言う頃だった。
 バブルはとうに弾け、銀行や金融機関は迷路を彷徨っていた。絶対に下がらないと思われていた地価が崩れ、破綻と言う言葉すら知らなかった日本内の金融機関は、唐突にその言葉の意味を思い知る事になる。
 銀行に破綻や倒産など有り得ない。それは常識で、永劫に変わる事の無い真理だった筈だ。地価は永遠に上がり、この平和で安全な市場は続く。そう信じ切っていたからこその、乱脈経営、拡張主義。それが当時の日本の姿だった。だからこそ唐突に起きたこの事態に、凡ての金融機関は対処出来なかったのだ。
 円高によって発生した日本国内の投機熱は、それを支える資産価格が崩れると同時に終わりを告げる。永遠に価値を上げ続けるはずだったリゾートや施設が不良債権に姿を変える。宝の山がゴミの山に姿を変えて行くのを、誰も止める事が出来ず、この年、戦後日本で初の破綻銀行が出た。かつては絶対安全と言われていた地方銀行の一つであった。
 当然、新都銀行にも暗雲は立ち込めていた。元MOF担は姿を見せる事もめっきり減り、金策に駆け回っていると言う噂だけが大貫の元を訊ねて来た。
 都銀様は付き合う相手が変わったね。昔は歯牙にもかけなかったような手合いと、今じゃすっかりお手々繋いで仲良しだ。そんな揶揄を良く聞いた。もっとリアルに都銀の名も、手合いの名も実名の噂も多かった。新都銀の名も元MOF担の名も聞いた。だから。
 大貫は囁いたのだ。そんなに城を守りたいなら、差し出せばどうだ。"つて"なら知っている。お前を酷く買っている相手が、お前と一対一で会えるなら、考えようと言っているぞ。どうする。
 彼は逡巡した後に頷いた。相手は米ヘッジファンドの若きCEOだった。
 何処まで内容を理解していたのかは分からない。様々な相手と様々な交合を楽しんで来た大貫とは違い、彼は知らなかった筈だ。
 決して人受けの悪い外見ではなく、むしろ警戒心を呼び起こさせない外見も雰囲気も人気はあったのに、本人にその気が無かったのだろう。一人の女と恋をして結婚した、子煩悩で平凡な男は、極々一般的に女性との、平凡で正当な交わりしか知らなかったに間違いはない。
 大貫に礼を言い、とにかくやれる所までやってみます、と彼が口走った時、大貫は止めなかった。CEOと元MOF担の意識に、大きな隔たりがあるのに気付きながら、大貫はその事を彼に一切伝えなかったのだ。
 その夜。

 「はっ……!」
 桐江の部分を解す。受け入れる事に慣れた身体は、オイルに濡れた指を柔らかく飲み込む。その刺激だけで立ち上がっている場所にも、オイルに濡れた手を這わせる。桐江から零れた別の液体が、オイルの上から大貫の指を伝った。
 根元まで指をねじ込んでやる。探るように中で動かすと、堪えかねた声が零れ出た。
 「う……あっ、焦らすのは……っ…もう…」
 引き締まっている癖に柔らかい。探る指に絡まる部分を押し広げる。苦悶に似た表情で見上げているが、この男の中に有るのは苦痛では無く快感だ。目の前に有る身体は快感に酔っているのだ。
 引き寄せる。解した場所に身体を合わせる。喜ばせてやろう。今迄もずっとそうだったように。男も女も、幾人もの愛人がここで享受して来た快感を、与えてやろう。そうだ、凡ての夜の快感を。

 その夜。
 大貫はずっと待っていた。
 まだその時は、自らの意思が良く分からなかった。助言を避けたのは、いつものように軽く情報を隠しただけなのか。それとも別の意図が有ったのか。それも明確に分からずに、ただ待っていた。
 彼が長沢のためにセッティングしたミーティングは、極普通のディナーミーティング。当時はやりのシティホテルのレストランだった。20時から2時間の予約。彼がしたのはそれだけだ。ただ、それだけで終わるとは、大貫もCEOも思っては居なかった。
 自らの業務を済ませ、大貫はホテルに向かった。時間は既に11時を回っており、当然ディナーは終わっていた。だが当然ながら、彼らはまだホテルに居る。その情報も既に掴んでいた。それから数時間以上。自らのセッティングしたホテルの、ロビーやラウンジで、大貫は妙に長い、居心地の悪い時間を過ごす事になる。
 CEOが部屋を後にしたのは深夜も終わろうと言う頃で、元MOF担が姿を表したのは未明、と呼ぶのが正しい時間帯だった。
 中っ腹でその姿を見、しかし姿を認めた途端、大貫は自覚したのだ。ああ、自分は初めから目的を持って助言を避けたのだと。それどころか。
 恐らくはCEOの長沢に対する言葉を聴いた時から、既に明確に目的は設定されたのだ。それに基づいて二人を引き合わせ、待ち構えた結果を手に入れたのだ。
 元MOF担はゆっくりとした足取りでエレベーターを降り、ロビーのソファに腰を下ろした。スーツを整え、自らのワイシャツに散らばる紅い飛沫に気づいたのか、襟元を直し始める。ポケットからハンカチを取り出し、何度も何度も襟元を拭う。時の経った血の飛沫がそんな事で拭える訳も無いのに、幾度も幾度も同じ所作を繰り返す。いつもは器用な手が、不器用に襟を擦る。自然、俯いて落とされる視界に、大貫はゆっくりと入り込んだ。
 しゃがみこんで、襟に手をかける。襟の上の手を掴んで初めて、その身体が震えている事に気づいた。
 焦点を失った真っ赤な双眸が持ち上がる。血の跡の残る鼻と、半開きの口許が大貫に向き直る。瞬間、胸郭の奥で心臓が軋んだ。
 懺悔や反省や悔恨の念で、ではない。痺れるような喜びで。

 
 突き入れる。
 限界まで突き入れて胴をつかむ。急激な動きに、桐江が微かに悲鳴を上げた。
 「はぁっ、激し……っ、ん、んんっ」
 突き動かす。大貫の動きを受け入れても尚しなやかな身体を引き寄せる。無駄の無い腹の筋肉のラインを辿り、指を食い込ませる。胸の突起に辿り着いて爪を立てる。甘い声が漏れるのが滑稽だった。首を捻らせて口付ける。慌ててむしゃぶりついてくるのに合わせて、抉り込む。口中で嬌声が漏れた。  

 
 首尾はどうだった。
 一言だけそう問うた。彼も一言、はい、と答えた。いつもはくっきりした声が酷い鼻声で、そんな短い単語にさえ幾度も息を呑んだ。
 ダメージは良く伝わった。良く伝わったから。
 その夜、大貫は初めて長沢を抱いたのだ。
 その頃はこんなマンションなどなかった。書斎兼仮眠所として借りていた部屋に、そのまま家族の元に帰る訳には行かないだろうと言い含めて、彼を招じ入れた。
 処理してやろうと囁いた。酷い匂いだ。顔を見れば直ぐに、女房に何があったか悟られるぞ。凡て洗い流してから帰るがいい。
 そう言ってズボンのジッパーを下ろした。どちらのものとも分からぬ粘液でずるずるになった部分をつかみ出し、凡て脱がして洗ってやった。そうしてから改めて、解された場所に入り込んだ。
 抵抗どころか、まともな反応すら出来ない身体をその部屋で抱いた。力弱く、泣いて、止めてくれと懇願するのを、大丈夫だからと宥めて抱いた。
 CEOが何をどう用いたのかは知らない。ただ、初体験の男の身体を、あそこまで開くには時間も手管もドラッグも、さぞや必要だった事だろう。奇妙な程に長かった時の謎が氷解した。だが、こうした行為に辿り着くまでの時間を問題にするのであれば。
 一体自分は、どれ程の時を費やして来たのだろう。
 肌のあちこちに残る交わりの痕の凡てに自分の痕を重ねながら、自らの心を自覚する。そうだ、これは思い付きではなかったのだ。
 事の始まりは、明確な説明を避けた時でも、CEOから話を聞いた時でもない。恐らくはもっと以前、長沢に初めて情報をリークした時。いや、大蔵省で再会した時。いや、もしかしたら ――。
 解された場所に入り込む。強いられた行為に解け、熱を持つ部分に突き入る。泣き声を上げる体を包み込み、先の相手より強く抱き締める。より深く。より長く。貫いて流し込む。
 うわ言のように繰り返された呟きは無視した。零れる涙は凡て舐め取ってやった。透明な物も、鮮血の赤も。耳許に囁き続けた。私に任せておけば良い。安心しろ、大丈夫だ。お前も新都銀行も救ってやる。私が。必ず。
 嫌だ、嫌だっ、嫌、いやだ、いやだ。いやだ、いやだイヤダイヤダいやだイヤダ、イヤ………。
 後にも先にも、大貫が長沢の中に入れたのはこの夜だけだ。

 「はあっ、あぁっ…宥吏、宥吏っ………! もっと、もっと…!」
 引き締まった腰を抱き締める。その上に乗るようにして突き立てる。受け入れられる行為は快感が突き動かす。誰の身体でもそうだ。今一つきりのお気に入りの身体が、大貫の物を深く飲み込んだまま震える。それを許さずに股間を強く握ると、思わぬ嬌声が零れ出た。
 「何、を…!」
 「だらしが無いな。私より先に行くのか、一佐殿」
 桐江が首を振る。達する事を許さずに突き動かす。きつくなる部分に一際大きく動かす。快感がゆっくりと足下を満たして行く。叩き付ける。締め付けて来る中に。
 救ってやると言う言葉に首を振った。組み敷かれて抵抗できぬまま、嫌だと言い続けた。凡てをくれてやったではないか。過分の物を与えてやったではないか。お前に。お前だけに。だと言うのに。
 一言もなく姿を消した。
 突き入れる。己の物を深く刺し込む。相手の急所に。身体の中心に。
 同時に手の戒めを解いてやる。
 「はあッ…! ん、あ、あ、あぁぁあ……ッッ…!」
 掌に白濁した液が散る。身体全体が、おこりのように震えて引き締まる。締め付けてくる身体の中に、同じタイミングで注ぎ込む。これ見よがしに、深くへ突き入れながら。
 この行為はSEXだ。それ以上でもそれ以下でも無い。欲望と快感の共有。純粋な交歓だ。ただそれだけだ。
 行為が終われば桐江は宿舎に帰る。大貫は家庭に帰る。精神的な依存も無ければ、独占欲など更に無い。桐江だけではなく、相手が誰でも同じことだ。相手が誰でも、変りはしない。
 ただのSEX。快感の共有。後腐れも責任も何も無い、純粋な交歓。それだけの、筈だ。
 ただ、それだけだ。今も ―― かつての時も。
 
 

 冬馬がSOMETHING CAFEに着くと、もう店は閉じていた。閉店時間よりまだ一、二分前なのに、こんな時も有るのかと少し驚く。
 店主の居ない店は無愛想で冷たく、つまらない。だが、今日は少しばかりほっとした。
 朝、長沢に言われた通りに司令官を揺さぶった。手応えは充分だった。メンバーの動揺が、羽和泉の一言に溢れていた。今から直ぐに来い。こんな事を言われたのは初めてで、だから簡素に答えた。
 授業が有りますので。
 授業をサボる事は許さないと何度も言った同じ口が、授業なんかどうでも良いと言った。頼むから来てくれと宥めまでした。冬馬はそれらの電話を、聞こえない振りをして切った。一度では無く、幾度も通信を拒んだ。会議は冬馬の要望どおり明日になった。非常に順調だ。一団に関しては。
 いつもの場所に落ち着いて溜息をつく。
 順調ではないのは、冬馬自身の情緒だ。朝の高揚が余りにも異常で、一日の業務を終える頃には逆に、すっかり沈んでいた。自分は全くどうかしている。
 十代の子供でも有るまいに、嬉しい、などと言う長沢の一言で、何もあそこまで舞い上がる事は無い。幸せだなどとはっきり思ったのは、どう考えても生まれて初めてなのだ。我ながら呆れる。やはり、余りに楽観が過ぎるのだ。深く悪く考える必要は全く無いが、どうかしている。
 同志を得ただけで十二分だ。最低な男と言われたままで良いではないか。それでも好きなのだから。全力で守る事に変わりは無いのだから。
 坂の方角から、見慣れた姿が現れる。JR駅の方角だ。遥かに眺めると、右手に持った白い塊を口に運び、何度か咀嚼してからゆっくりと首をかしげる。胸の奥が疼いた。
 今朝の感覚が蘇る。自分はどうかしている。どうかしているのに。
 「んお、よぉう、冬馬。な、お前夕飯済んだ後?」
 程近くまで来てやっと存在に気付いた長沢が、もぐもぐと顎を動かしながら言う。冬馬は黙って首を振った。
 「じゃ、これ食って」
 今まで自分が食べていた物を突き出す。そうしてから気付いたのか、他人が口をつけた物は駄目とか言わないよな?と上目遣いに聞いてくる。そんなやわな感覚で、セルバを生き延びられる筈も無い。差し出された長沢の手の中の物に、そのまま噛み付く。手に包み紙だけ残して引き抜くと、長沢が小さく笑った。
 「そう言うの、似合ってるねぇ、お前」
 咀嚼する。口の中に甘辛く煮た豚肉の肉汁が広がった。
 「美味い」
 「そうか、美味いか〜。このとこやたら学生が増えてな。そいつらが口を揃えて駅前に出る屋台の、"豚の角煮まん"と"にら餃子まん"が美味いって言うから妙に食いたくなって買いに行って来たんだ。まあ、味は悪くないけど、でもやっぱ微妙に脂っこいな。俺にはちょと合わない。普通のが良いな」
 それで首を傾げていたのか。
 くすぐったくなって目線を落とす。恐らく胸に抱えている白い包みはお目当ての物なのだろう。数が多目なのは、今夜訪れる客の分も入っているからだろう。客とは当然冬馬の事だ。
 「ああ、そうそう。冬馬、お前ちょっと左手出して」
 元は植え込み用だったと思える出っ張りの縁に腰を下ろす冬馬の膝に白い包みを乗せ、同じ手に持っていた黒い包みを開ける。白と黒のコントラストが強くて、遠くからはっきり見えた10cm四方程のビニールの小袋。器用な指で中身を取り出すと、冬馬の手首に通す。何の変哲も無い黒いタオル地のリストバンド。呆気に取られる冬馬の前に、長沢は同じ物をつけた自らの左手首を突き出した。
 「お前さんにおまじないだ」
 蘇る。
 「今日俺が教える事は大した事じゃないが、どんな些細な事でも人間、呑まれると失敗するもんさ。相手を呑んで行って貰わんと。
 はったりについちゃ、俺のが慣れてる。先輩だし、お前の先生にもなる訳だ。で、先生はここにいる」
 ぎゅっ。
 リストバンドを巻いた手が、リストバンドの上から冬馬の手首を握る。朝の感覚が蘇った。
 「俺はここ、お前の手首に居るから、迷ったら聞いてくれ。いつでも答える」
 言って歯を見せて笑う顔が、不意に悪戯っ子のようだった。同じリストバンドをする事で、繋がっているからと暗示をかける。ただの暗示だと分かっていても、本当にそこで繋がっている気がした。
 握られた手首が温かい。頼りない筈の男の掌が、思ったより大きく手首を包み込む。蘇った感覚は、青年の凡てを包み込んでいた。生ぬるくて、柔らかくて、何と心地よい。
 「啓輔……」
 「ん?」
 「俺は、お前に会えて幸せだ」
 口に出して、その響きに再確認する。幸せだ。そうか、これがそうなのか。
 「生まれて初めて、幸せだ。あったかくて、気持ち良い」
 そうだ。自分は今、恐らくは生まれて初めて、幸せなのだ。
 母との時は忘れてしまった。父との時は覚えていない。恋人との時はそれどころではなく、同志との時は種類が違う。日本に来てからは、教育も受け、住居も金も得て安定したが、ずっと一人だった。俺は。
 「俺は幸せだ、啓輔……」
 「そこまで」
 冬馬の言葉に、丸くなったままだった眼鏡の奥の瞳が、不意に伏せられる。深い溜息が漏れた。
 「お前。先にムード作って雪崩れ込もうって気だろう。そうは問屋がおろさないぞ。
 良いか。今日は練習なんだぞ練習。幾らお前さんに野生のカンが有ってもそれだけじゃ済まないだろ。シミュレートすっから。ディベートすっから。時間なんか幾ら有っても足んないぞ。温い事は一切しないからな。そのつもりでいろ」
 膝の上の物をさらって踵を返し、鍵をあけながら入れという。冬馬は後に続きながら思う。
 それは無理だ。どう考えても。こんなに幸せな気分にさせておいて、このままで済む訳、ないじゃないか。
 

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