□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 会議が開かれたのは、通常業務終了後の夜八時。実行日を三日後に控えたタイミングだった。
 そもそもいつも会議は実行日近辺に開かれ、そこから駆け足で、準備、訓練を経て実行に移る。情報の公開から実行まで、長くても精々十日、最短では三日と言う時もあった。情報の漏洩を防ぐ為と、万が一情報が漏洩した場合も、先方が確認する前に凡ての過程を終了できるように設定されたシステムである。
 今回も、動議が各自に知らされてから実行日までは9日。実働隊の訓練は当然ながら既に始まっていた。
 急遽設定された会議場所は千葉県浦安。恋人でごった返す遊園地の直ぐ傍のホテルの一室だった。
 華美に飾られた駅からの道は、気の早い恋人達で溢れている。肩を寄せ合い、二人の世界を撒き散らす人の群れを横目に冬馬は進む。190近い長身の、整った顔立ちの青年が行き縋れば、カップルの女性の何人かは振り返る。中にはあからさまに凝視して来る女も居る。恋人が移り気なのは、何もラテンの国々だけでは無いのだ。
 実があるかどうかは兎も角、これだけ多くの恋人達と争って、良くこの時期に部屋が取れた物だと感心しかけて思い直す。恐らくは逆だ。別の目的で取っていた物を、急遽こちらに融通したのだ。融通したのは羽和泉基、今も愛人を切らした事の無い、この男に違いあるまい。
 指定された部屋に着く。扉を開ける前に左手首に目を落とす。
 何の変哲も無い、黒いタオル地のリストバンド。右手で握って目を閉じる。深呼吸を一つ。
 カードキイを差し込む。
 ピ、と言う電子音と共に錠が解除になる。戦場への扉が開かれる。大股で進み入ると、いつものように桐江が迎えた。
 「君が最後だ。また」
 六人分の瞳が降り注ぐ。思わず、笑った。
 「今日はこれで良い筈でしょう、桐江一等陸佐。何しろ今日は俺が、宴の主役だ」
 

 八戦八敗。
 長沢が組んだジェノサイダー売込みのステージ練習は、凡て「冬馬」が「団体側」に粉砕されて終わりを告げた。何度繰り返しても5分と保たずにボロが出る。
 一回などは、「何故一般人が情報を掴み得たのか」と言う問いに、ストレートに「俺が白熊から聞いたから」と答えてしまい、長沢にふざけるなと怒鳴られた。ふざけているのではない。上手く取り繕おうとすればする程訳が分からなくなるのだ。
 「でも本当の事じゃないか。いっそそう答えてしまえば良い」
 「そんな事を言って見ろ。先方は店の名を言っただけだ、追い詰められるのはお前さんの方だぞ。雑談まで逐一一般人に報告しているのか。とんでもなく口の軽い奴だ、粛清してしまえ、ってな」
 「一度助けてくれたんだ、もう一度あいつが助けてくれるだろ」
 冬馬のふてくされた台詞に、意外そうな表情が持ち上がる。助けた?と鸚鵡返し訊ねるのへ冬馬が頷くと、わざとらしい程に深いため息を吐く。ゆっくり首を振る仕種に妙な説得力があった。長沢は言ったものだ。
 「それはお前の勘違いだ。あの人は俺を助けたりしないぞ。…そうだな。……そう、試しているとか、観察しているとでも言えば良いか。
 猫が鼠を捕らえてつついているような物だ。右へ逃げれば左へチョイ。左に逃げれば右へチョイ。鼠がどこまでしぶとく逃げるか、それを冷静に眺めてる。だからいいか冬馬。猫の爪につつき殺される前に」
 

 ぐるりと部屋を見回す。
 クリスマスに向けて装われた白と緑と赤基調の部屋。やたら大仰な天蓋つきのベッド。そこに身を放り投げている白熊が、意味ありげな笑みで両腕を上げた。これ見よがしに掌を見せ、ゆっくりと拍手する。
 猫の爪につつき殺される前に。
 「仰る通りだ冬馬君。桐江一佐、一本取られたな」
 冬馬、窮鼠猫を噛め。
 ターゲットの名など冬馬は知らなかった。長沢から聞いてもまだ何処の誰とも分からなかった。いつだって自分はただの実行者で、ターゲットが処理される意義もその重みも分かってなどいない。だが。
 だが今日のターゲットについては分かっている。少なくともその価値も重みも手強さも理解している。今日のターゲットは。間違いなく目の前のこの男だ。
 ターゲットは大貫宥吏、この男なのだ。
 

 いつも立食パーティ然として行われる会合なのに、今回は席が決まっていた。
 一人がけの椅子が二脚と、三人がけのソファが一脚あるソファセットには、順に羽和泉、垣水、畔柳、唯夏が腰掛け、鏡台脇の小じゃれた折りたたみのストールには桐江が。そして天蓋つきのベッドには。
 寝そべっているとも座っているとも付かぬ姿勢で寛いでいる大貫が居る。
 全員の視線が指し示す所によれば、冬馬の指定位置は、鏡台の傍のロウチェストの上辺りらしい。
 まるで吊るし上げだ。実際そうなのだから仕方ないが、先方の決めたルールに、何も大人しく従う必要は無い。
 冬馬は部屋を見回した。ドアの脇には左にウォークインクローゼットがあり、右の壁はバス、トイレ、洗面の水周りが収納されている。そのスペースを通って中に入ると、右手にロウチェストと大きな鏡台。その手前、部屋のほぼ中央にソファセットが有る。足下に敷かれる絨毯の毛足は長く、全体的にゆったりとした上級な作りだ。
 左側の壁には大きな出窓。通常の家屋ならここにTVなどが設置されそうだが、ここには立派な蘭の鉢が置かれていた。そして。
 部屋の奥、ベランダに繋がるスペースには、大仰な天蓋つきベッドがある。
 無意識だった。
 ぐるりを見回して出窓に目が引かれる。
 その一角だけが、漏れ入るネオンの光で三色にうつろっていた所為で、蛾のように光に吸い寄せられたのかも知れぬ。出窓に身を乗り出して見下ろした先には、黒い海と不自然に明るい地面が広がっていた。
 ペルーの黒い夜景を思い出す。あそこには闇と光はあったが色彩は無かった。点る光は富の象徴のホテルや商店の照明と、泥で固めた建築物の狭間で煮炊きをする命の灯火のいずれかだった。そこにはネオンのように移ろう色彩は存在しない。
 腰を下ろして、出窓から夜景を見晴るかす。背後に羽和泉の吐息が零れた。
 「冬馬、今日は随分と勿体ぶるんだな」
 勿体ぶる…?
 「そうですな。勿体ぶらずに説明して頂きましょうか。
 僕がターゲット名を事前に漏らす事など有り得ない。即ち冬馬君、君自身もターゲット名は知らなかった。だと言うのに、何故部外者が知っているのか。その情報のルートは、ソースは。一体何処から、どのようにして漏れたのか。まず明確にそこを教えて貰わねばならない…!」
 羽和泉の言葉を、垣水の声が追う。なるほど、と思った。
 
 「いいか冬馬。お前さんは折衝にかけては素人だ。本来こう言う事は時間と経験が必要で、一朝一夕に出来る事じゃない。だからお前が掴む物と、やるべき事をたった一つずつ、決めよう。良いか、一つだ。欲張るなよ。
 まず、一つ。掴むもの。それは、相手の呼吸。それだけだ」
 
 なるほど、と思う。
 呼吸を掴めと長沢は言った。折衝なんて結局は騙しあいで、折衝相手を乗せて転がして、相手より僅か1ミリ競り勝った者が勝ちなのだ。大勝する必要は無い。総合点で僅か一点相手に勝ればそれで良いのだ。相手の条件を呑みつつ、自分の条件を上乗せし、それを相手に承諾させる。
 ほんの1ミリ勝れば良い。1ミリ勝る為に必要なのは他ならぬ。相手の考えを知る事。
 とは言え、人の心など読めはしない。それが出来れば最初から交渉も折衝もこちらの物だ。神ならぬ身、相手を知るには相手の出す信号を必死に読むしかない。その為に長沢が指定したのは呼吸だった。
 折衝の最中は熱くなった方が負け。傍から見て滑稽な状況も、折衝の渦中に有れば脅威以外の何物でもない。常に"傍"に立って相手の呼吸を読め。お前さん、これは得意だろう。言ってたよな、俺は狙撃手だったと。
 優れた狙撃手は、ターゲットの呼吸に自らの呼吸を合わせると言う。風を読み、ターゲットの呼吸を読み、風に煽られる弾道と、呼吸に揺れ動くターゲットの身体の位置を制御するのだ。そうしてこそ、初めて狙い通りの位置に弾丸は命中する。スコープの中のターゲットの呼吸を読む。共に息を吸い、共に吐く。確かにそれは、冬馬がかつて毎日していた事だ。
 なあ冬馬、お前さんは優秀な狙撃手だろう。なら呼吸は読めるよな。それで充分だ。それだけで良い。呼吸を読め。
 随分と茫洋とした注文だと思ったが、傍に立つとそうでもない。他人事の羽和泉の呼吸と、当事者である垣水の呼吸は酷く違うのだ。それがはっきりと分かる。それならば。そこから突くしか無い。
 左手首のバンドに唇を寄せる。行くぞ、啓輔。
 「…違うな」
 は……?
 垣水が身構える。もっとも、一人がけの椅子の中で、姿勢も変わらず、視線さえ動かない。僅かに一拍、呼吸が遅れただけだ。
 「何が違うのかな?」
 こちらも一拍。呼吸を遅らせる。ほんの一拍。
 「そろそろはっきりしませんかね。情報が漏れたのは"部外者"じゃない。それに情報は"漏れた"んじゃない」
 部屋の中の全員の怪訝の瞳が、出窓に蹲る一人の人間に集中する。意識が、その人間の言葉に集まる。眼下に広がるのは黒い海とネオンの地上。青年が留まる出窓は、部屋の中とは別の。そう。ステージだ。
 「情報は"一般人"に"漏れ"てなどいない。情報を、"ジェノサイダー"が"掴んだ"んだ。
 "ジェノサイダー"の名は"長沢啓輔"。良いですかね。
 先ずそこをしっかり認識して貰わないと話にもならないな。」
 今度ははっきりと垣水が息を呑んだ。羽和泉が深呼吸をし、全員の間で軽く視線が交換される。全員の感情が動くのがビビッドに伝わる。冬馬は今日何度目かのその言葉を胸中で転がす。なるほど。
 ほんの少し離れただけだ。傍に立つ。ただそれだけで、その場の風が、呼吸の動きが読み取れる。長沢の言っていた事が今なら分かる。呼吸を読むとは恐らくはこうした事なのだ。
 ただ。
 「……良く、分かった。それは…失礼した。言い直そう。
 説明して頂こうか冬馬君。何故、ジェノサイダーは、長沢啓輔は。ターゲットの名を掴んだのかね。その情報のルートは、ソースは。明確にそこを教えて貰いたい…!」
 垣水に向き直る。面相からでは分からない。落ち着いた姿勢と瞳、その口調。警察組織のトップクラスに上り詰め、今は公安調査庁の第一部長に納まった男に大きな動揺は無い。有るのは小さな躊躇だった。だがそれで充分なのだ。
 「残念ながら、俺は知らない」
 「なっ……!」
 全員が色めき立つ。言葉ではなく、動きではなく。その呼吸が。
 「ふざけて貰っちゃ困るな……!」
 「ふざける? とんでもない。俺はかつてないくらい真剣ですよ。ただ。俺は啓輔じゃない。啓輔の相棒だ。何でもかんでも凡てを掴んでいると思われちゃ困る。俺は今日、あくまでも啓輔の代弁者としてここに居る事をお忘れなく。決定的な真相は、啓輔がこのメンバーに加わってから、じっくり皆さんが聞き出してくださいよ」
 全員の呼吸に五感を澄ます。矢面に立つ垣水の呼吸は今や冬馬の耳の中にある。一時は乱れたリズムが、冬馬の言葉をピークに早いタイミングで落ち着いていく。動揺が有ってもそれを引き摺らない辺りは流石だ。
 面白いのは、垣水以外の人間の動揺だった。
 間違いなく揺れ動きっ放しなのは唯夏。読めない状況に対する警戒心で、臨戦態勢の証拠。青年にとっては最も馴染み易いリズムがこれだった。逆に全く動揺が無いのが桐江一等陸佐。冬馬の言葉をハナからシャットアウトしているのか、あるいは他にもっと気がかりが有るのか、冬馬の餌に食いつく気配が無い。羽和泉は、いつもの事だがこの男が見せる反応は動揺ではない。
 冬馬の言葉を楽しんでいる。出窓の上で行われるちっぽけなトークショウを、この男は楽しんでいるのだ、子供のようにワクワクして居るのだ。付き従う畔柳は、呼吸までも羽和泉を追う。なるほど。
 ただ。
 「クス……」
 部屋の片隅に、笑いとも着かない息が転がる。ただ一人、呼吸を読めぬ相手の息だった。
 天蓋着きのベッドに寝転がる人物だけが、読めない。寝そべった姿勢のまま半身を彼の体勢では左手の、出窓方向に向けて転がし、微かに見上げる。出窓に向けられる視線はいつもの、紅い慧眼だった。
 「どうやら良い先生がついたようだねぇ。君にそんなきちんとした話の組み立てが出来るとは。いっぱしのはったりだな。冬馬君」
 整った顔に、くすんだ銀髪が零れかかる。口許とは違って、瞳は微塵も笑っては居なかった。
 「手間を省いてあげようかな、青年。要求を、伝えるが良い」

 
 「やるべき事もたった一つ。俺の通信手段を確保してくれ。作戦中に通信が出来れば良い。お前とだけで良い。手段もお前が良いと思もので良い。ただし。
 相手の誘導で要求を口にするな。特にあの人の誘導では口にするな。それだけは絶対駄目だ。再度言う。あの人は俺を助けたりしない。俺を助けられるのは冬馬、お前だけだ。そして。
 お前が守るのは"俺の要求"だ。"俺"じゃない。そこを良く分かっていてくれ。これが凡てだ、冬馬。お前だけが頼りだ」
 
 左手首のバンドを握り締める。
 折衝は相手の1ミリ上を行くだけで良い。大勝する必要は無い。ほんの1ミリ。1ミリだけで良いのだ。
 その為には呼吸さえ読めれば良い。――では、俺の呼吸は。
 俺の呼吸は今、乱れているだろうか。相手は今、それを読み取っているだろうか。
 長沢の台詞が耳の中に蘇る。要求を一つだけ呑ませれば良い。ただし。相手の誘導で口にするな。特に「あの人」の誘導では。
 あの人。
 視界の奥、中央。大仰な天蓋つきのベッドの上で今、青年に真紅の慧眼を突きつけている男、大貫宥吏。この男の誘導では口にするな。判断に迷う。躊躇する。と、男の大きな瞳が、笑い含みにゆっくりと薄められた。
 整った口許から、悠然とした呼気がシーツの上に零れる。
 「要求を、言うが良い。言って見給え、冬馬君」
 

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