□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 生きるかも死ぬかの瀬戸際など結局は運否天賦だ。
 穴だらけの計画も運さえ良ければ成功するし、周到な計画も砂粒ひとつで破綻する。破綻即ち死。何も特別な事では無い。生死などそんなものだ。
 ただ、所詮運否天賦の人生も、確率を問えばそれは別だ。杜撰な計画の何万倍も、緻密な計画の方が生存率や成功率が高まるから、長沢は計画を練るなら周到に、緻密に行う。人智の届く部分は、精々自分の限界までは努力する。自らのミスで己が首を絞める屈辱だけは、出来れば味わいたくは無い。だから精一杯の手は尽くす。尽くしたら。以降の要素は諦める。運否天賦。人事を尽くして天命を待つ。
 一日のピーク時を終えて、SOMETHING CAFEが塾及び予備校及び補習開けの学生達のたまり場となる時間になる。
 学生達の、必要以上に高い声の直中で、長沢は気付かれぬようにそっと溜息を吐いた。自分の命運を決める折衝が、あと少しで始まって終わる。自らの与り知らぬ所で。気にしても栓無いと分かっている。分かってはいるが、そうそう楽しい物でもない。
 学生達が店の内外で其々にはしゃいでいる。いつもそうと言う訳では無い。今年の年末は特別なのだ。
 世の中で騒がれた履修単位不足の所為で、中高生に最大70時間の履修時間不足者が出た。東京も例外ではなく、公立で最大70時間、私立でも最大50時間の履修不足が報告されている。都心にある公立私立の中高、および大学付属高も、補習だの合宿だのと言う言葉は日常語になっており、自然、学校が多い猿楽町界隈も十代の人口数が上がっているのだ。
 学校だけでは無い。履修不足に追いやられた本来の予備校の授業は、夜間及び年末に押し出される。当然、予備校や塾は宿泊施設と食事環境を整え、合宿と言う動きに出る。そうなれば周辺の産業に、食品群の補給と、生活に必要な店舗の類が要求される。
 だからこの年末、学校も予備校も多い都心の区々は、俄かに学生生活支援の方向で盛り上がっているのだ。猿楽町の片隅に在るSOMETHING CAFEも、当然ながら例外ではない。
 尤も、メニューが少なく、軽食には強くとも学生の旺盛な食欲に対応しきれぬ喫茶店だから、それなりの対応だ。本格的な食事では他店に負けるのは必至なので、おやつタイム、及び自習時のデザートに力を入れる事にした。
 ケーキ搬入元の"プティ・オレンジ"と話し合い、二種のケーキを1ホールずつ入れるのではなく、数種類のケーキをハーフホールずつ入れる事にした。最近ではデコレーションカップケーキと言う物も流行っているので、それも取り扱う事にした。ケーキは凡てハーフカットサイズにして、客に二種類のケーキを組み合わせて選ばせるようにした。これは奥田早紀の「太っちゃうの嫌だから、ちょっとづつ色々食べたい」と言う我侭を実現した形だ。
 結果から言えば大正解。期間限定の若い常連もつき、商品の償却率も高値安定で移行している。やや問題なのは回転率だが、しょっぱなの対応が悪くなかった所為で、長沢がそろそろ帰れと口走っても拒否されないのは強みとなっている。
 ゆえにSOMETHING CAFEの最近のラッシュピークは朝の7時台、昼1時近辺、夕刻5時近辺となっている。
 七時を回るとめっきり客足が減るのは以前からだが、最近では客が居るまま閑古鳥と言う状況が多い。オーダーは一切無いが、閉店時間まで学生がだらだら居座ると言う状況だ。こうなると従業員は要らないので、最近はラスト30分〜1時間は店主だけが切り回している。
 
 ベルと共にドアが開く。常連の一人がひょいと顔を出して店の中を見渡し、店主に視線を戻す。言いたい事はそれだけで伝わった。
 「うん。俺一人なんだ。でも大丈夫だよ。どうぞ」
 奥の席を指し示す。少し待っていてと言う代わりに注文を問う。首元を大きく包み込むストールを解きながら、ピンク色のグロスの口許がウインナ珈琲と告げた。
 「マンデリン?」
 「うん。インドネシアのなら他でも良いかな」
 「アイサー」
 「…何それ?」
 長沢の耳を指差して、つやのある唇が言う。ラジオ、とたった三音で答える長沢に、興味を失ったように黒髪が翻る。無造作に片耳に突っ込まれたイヤホンは、現時点ではただの飾りだ。
 素早くドリッパーを引き寄せる。本当はサイフォンと行きたい所だが、客の時間を慮って通常のドリップとなる。中挽きにしてネルドリップ。ホイップクリームを一固まり。小皿に載せたチョコレートを一欠と、珈琲カップを銀盆に載せる。カウンタの中から進み出ると、それ迄隣同士で盛り上がっていたカウンタの女子高生が、一斉に不服の声を上げた。えー、逃げんのォ、マスター。裏切り者ー。可愛らしいとは言い難い大声に、軽く手を振ってカウンタを出る。
 奥の席に盆の中身を並べ、改めて一礼して、失礼します、と向かいに座ると、涼しい目許が持ち上がった。
 「相変わらずマスター、女の子にモテるんだぁ。恨まれちゃいそう」
 「ああ言うのはモテてるって言いません。はっきり遊ばれてます。今時の高校生は、質問はえげつないし、容赦ないし。おじさんは堪らんな」
 「そう言うのモテてるって言うんじゃない。ま、もっとも、マスターがモテるのは女の子だけじゃないか。男にも」
 別段責める気配も無く、葛木 時子のハスキーなアルトが呟く。長沢は返答に窮した。
 時子はSOMETHING CAFEの三年来の常連で、三年来の楢岡の恋人である。大手出版社の経理担当のビジネスウーマンで、そろそろ28の声が近い。楢岡との結婚が噂され出してから、既に年単位の月日が経っているが、変動の兆しは無い。プライバシーには極力嘴を挟まない方向で来たが、彼女においては別である。
 彼女の恋人と、何かしら変動が有るのは、他ならぬ自分なのだ。
 「…っと、それは……」
 「うん、今だから言うけど、私は最初っから、全部荘太に聞いてる。…って言うか。三年前にそれ聞いた後に、私たち二人始めたから」
 心底驚く。この世には多種多様の恋愛がある事は承知しているが、そのバラエティのみならず許容量にも時々酷く恐れ入る。何も言えずに居ると、クールな目元が和らいだ。
 「私が7:3で女の子が好きだから、荘太は私にちょうど都合が良かったのよ。私の方の事情はマスターも知ってるでしょ?当時、彩ちゃんと上手く行かなくて随分相談に乗って貰ったもんね。その最中に荘太と付き合い出した。あれはお互い都合が良かったからなのよ。本命が居て、その他にお互いが居た訳だから。
 でもマスター、荘太の方の事情は知らなかったのよね」
 押される様に頷く。全くその通りである。時子の事情は知っていたし応援もした。自分に関わらぬ若者同士の恋愛は、いつだって凡て上手く行って欲しいと願う物だ。
 「でもマスターは、まさか、自分がそこに引きずり込まれるとは思ってなかった。荘太に口説かれるなんて思ってなかったでしょ?」
 また頷く。まさしく仰せの通り、である。
 「そうよねぇ。私ももう、荘太は一生言わないんだろうと思ってた。肝心な人にはカミングアウト出来ないで、打ち明けられずに諦めるんだろうなって。私達には良くある事だから、まぁそんなモンか、と。
 ところがある日、打ち明けたって言うじゃない。告ったどころかベッドインも済ませたぞって。最高だったから俺頑張るなんて張り切っちゃって、もうそりゃ嬉しそうに」
 店主が慌てて周囲を見回し、無反応なのを確かめてから面を覆う。幾ら学生達がいるのは戸口近辺で、この席が奥まった位置にあるとは言えど、こんな形のプライベートの暴露は万が一にでも避けたい。長沢の動揺に、時子も慌てて口をつぐむ。ごめん、と言いかけたタイミングで、パタパタと赤い液体がテーブルの盤面を打ち、店主が慌てて顔を上げた。
 一種のパニック発作のような物だ。動揺がそのまま鼻血になる。店主の癖は聞いた事はあるが、じかに目にしたのは初めてだ。
 慌てて出した時子のポケットティッシュで鼻をつまんだ店主が、天井に顔を向けたまま、こっちこそごめん、と呟く。顔を下げる事が出来ずに、視線だけで謝罪の意思を伝えようとする仕種に、不意に笑いがこみ上げた。
 「御免ねマスター、ヤだ大丈夫?これじゃ私がマスター苛めているみたい。どう考えても、同情されるべきは私の方だと思うのにぃ…」
 全く、まさしく。仰せの通りだ。
 パニックを起こすと直ぐに反応する己の鼻が恨めしい。きちんと予想済みの事態には対応も出来、相当に追い詰められても情け無い事態にはならないのだが、虚を突かれるとどうしようもない。不意打ちに対する反応は殆ど本能だから、こればかりは理性では如何ともし難いのだ。どうしようもない自己嫌悪が押し寄せた。
 「御免なさい。本当にすまない、時子ちゃん。俺は二人の邪魔をするつもりなんか毛頭無いし、二人が幸せになってくれれば一番良いと思ってます。これは嘘じゃない。本当の本心なんだ。
 ただあの日はその……俺、馬鹿みたいに酔っていて、何と申し上げたらよろしいのか……」
 目の前の顔が、困ったように微笑んでいる。小さく相槌を打って、知っていると呟く。
 「多分、私の方がマスターよりその時の状況、良く知ってる。もー、荘太に自慢されまくったから」
 冗談だろう。どっと汗が吹き出た。
 何処の世界に、自分の彼女に浮気の状況を事細かに報告する男が居るのだ。全く理解が出来ない。
 「理解できないとか思っているんでしょう」
 言い当てられて、鼻をつまんだまま時子を見つめる。さぞや情け無い顔をして居るだろう。ティッシュで顔を半ば覆い隠すようにして、そっと顔を元に戻す。圧迫したお陰で、新たに血が流れ出す事は無かった。肩口まで覆うつややかな黒髪の向うに、寂しげな笑顔が有った。
 「私達ね。荘太も私も両性とも好きだから、そこらが少し変ってるの。お互い、同性の恋人については応援しようって言い合ってる。
 私が女の子と付き合う時、荘太は応援してくれるし色々気を使ってくれる。反対に荘太が男性と付き合う時は、私がフォローしてあげる。今まで三年、そうして来たの。納得づくだったし、それで上手く行ってた。モットモ。荘太の馬鹿は女の子にもしょっちゅうちょっかい出してたけど」
 動揺が退いて行く。動揺に振り切れた感情が落ち着くのと同時に、時子の感情が流れ込んでくる。言葉のままの思いも、その裏も。何故か、ストレートに感情が流れ込んでくる。納得づくと言う言葉の裏に、波のようにひいては寄せる熱い思いが、長沢の思いの扉を叩く。その感情には覚えがあった。
 「…てゆーか。荘太がちょっかい出すのは女の子ばかりだった。私が知る限りこの三年、男に関してはずっと"Kちゃん"一筋。私の恋愛に荘太は色々協力してくれたけど、私が荘太の恋愛に協力した事……有ったのかな。
 ねぇ、マスター」
 覚えがある。これは慕情だ。恋情だ。時子から楢岡への、素直な思いだ。
 「………はい」
 「荘太、あんまり苛めないで。あいつ、真剣なんだよ、本当に。弄ばないで」
 一言も無かった。
 時子の純真な思いに比べ、長沢の胸の中にあるのは打算ばかりだ。最初は純粋に、楢岡の告白にはただ驚いた。応えられない思いを拒みもしたし、一常連との関係に、余分な要素を引き入れるつもりも無かった。だが。
 彼が警察組織に居て、一連の事件の真相に近い場所に居ると知り、利用しようと思った。これに公安になりえる可能性が加わった今、長沢が考えているのはその一点だけだ。公安と言う立場の楢岡から、情報は引き出せるのか否か。その付き合いは続けて得になるのか否か。ならぬなら、後腐れなく切ってしまえ。なるのなら。
 汚い手などと言う物はこの世に存在しない。目的の為の裏切りなど、この世には溢れている。そしてそれは、楢岡自身も良く承知している事じゃないか。
 「マスターに、男と付き合う気は無いって言われたって。それは本当?」
 周囲を慮った小声で時子が尋ねる。長沢は頷いた。
 「それは、荘太と、と言うこと?男と、と言うこと?」
 「どっちも。俺は普通に女性が好きだから。勿論今更、そっちの快感が分からないなんて嘘はつきません。その気になれば出来るし、正直、楽しめる。でも好きになるのとは違う。俺は男にも、楢岡くんにも慕情を抱いた事は無いです」
 「荘太が嫌い?」
 「嫌い…ではない。優秀で、優しい、良い男だと思ってますよ。嘘つきで、冗談が過ぎるけど、面白い良い奴で、一番気の置けない常連の一人だ。…った。そのままで…いて欲しかった」
 ずるいなあ、時子が笑う。マスターは、ずるい。
 「マスターって、凄くカンが働くでしょう。言った憶えも無い人の誕生日知っていたり、好きな花知っていたり、好みの食べ物や飲み物を知ってて出してくれたりして、皆を喜ばせたり驚かせたりしてる。そう言うのって、普段何の気なしに言う事を覚えていて、繋ぎ合わせて読み取っている訳でしょう。それって凄い気遣いよね。物凄い努力だと思う。普通の人はなかなか出来ない。勿論、好きな人は別よ。努力じゃなくて自然に、その人の一挙手一投足を目で追って、記憶して、囚われてしまう物だもん。だからね、私は最初、マスターって物凄く皆の事が好きで、優しい人なんだと思ってた。
 でも違う。マスターって凡て計算でそう言うことが出来る人なんだわ。究極的に計算高い」
 呼吸を読め。
 冬馬にそう言った。多くの事を気にしても、凡てが散漫になる。だからたった一つだけ、呼吸を読めと言った。その方法が有効だと、今改めて思う。時子の呼吸が、心情の高まりを良く表していた。
 「本当に気を配って居るならば、何故荘太の"探偵"だなんて言う嘘を見抜けなかったの?貴方を見つめていた熱い瞳に気付かなかったの?これって、計算や記憶じゃない。心が感じる事だもの。好意が響きあう事だもの。マスターにとってお客さんは大切なお客さん。それ以上でも以下でも無いの。
 例えば、常連さんが九州や北海道から貴方に助けを乞うとする。貴方は助けに行くと思う。凄く優しい。本当に有り難い。でも、例えばその常連さんが貴方の助けの手が間に合わなくて死んだとしても、貴方の心は痛まない。やるべき事はこなした。結果は得られなかったが、世間的にも法的にもこれでよし。たとえその常連が。
 荘太でも、貴方は涙の一滴だって流してくれない。―― 違う?」
 ごくり。
 思わず生唾を飲み込む。あからさまな反応だと我ながら思う。呼吸どころの反応ではない。長沢自身驚いていた。
 その通り。思わずそう口走りそうになるのを、慌てて飲み込む。一言も無かった。100%その通りだ。思わず俯く。
 自らの利己主義も計算高さも、百も承知だ。自分と、その周辺にさえ上手く行っていればそれで不満は無い。心が動く相手などそうは居ない。心が動かない相手の生死になど、正真正銘興味も無い。世間の常識に合わせて相手を慮りはしても、心の深い部分にかすりもしない。いつも自分が囚われるのは自分に関する事柄だけで、"関する事"の範疇はと言えば、精々が家族と庇護すべき存在くらいの物だ。そこに客は入らない。
 そうだ。だからかつて殺せた。
 十年来の得意先も、子供の居る家庭も、平気で壊せた。心も痛まなかった。興味が無かったから。
 一言も、ない。
 「私ね、マスター。もし貴方が荘太の為に泣いてくれるなら、潔く身を引く。綺麗ごとに聞こえるだろうけど、割と本心なんだ。だってね。
 笑っちゃうんだけど私、今、初めて真面目に男に恋してる。今迄真剣に付き合ったのは女の子ばかりだったのに、今の私、女の子が好きじゃない。今は荘太に真剣みたい。だから、あいつが本当に好きな人と結ばれるなら、邪魔、出来ない」
 分かってる。言わずに頷く。彼女の呼吸に嘘は無い。
 「だから、弄ばないで。荘太に真剣に接してやって。…どっちに転んでも。お願いします」
 必要なくなったティッシュを丸めて手の中に握る。かすれるように消える語尾が寂しげだった。
 「時子ちゃんは、良い女だなぁ。楢岡くんには勿体無いよ……」
 へへっ、寂しげな顔が笑う。そうでしょー、私もそう思うのよ。
 「それが一番分かっていないのは、楢岡くん本人だな。こんな打算的なおっさんが良いって言うんだから、目が曇ってるよ。
 なあ、時子ちゃん。逆に俺からお願いします。楢岡くんの手、どんな事が有っても離さないで下さい」
 「……え?」
 気持ちは変らない。今まで培ってきた手段も方法論も、恐らくは変らない。土壇場で変える事など出来ないだろう。それ程自分は器用では有りはしない。だとしたら。
 相手を深く傷つけても、恐らく退く事など出来はしない。相手を慮る事など出来はしない。
 「時子ちゃんが今言った事、殆ど合ってると思います。俺は自分が必死になったら、周りの人の痛みも苦しみも、究極な所生死も気にしないかもしれない。楢岡くんをどうこうする気は無いけれど、彼がどうかなっても気にしないかもしれない。本当に…申し訳ないけれど。だから、捕まえておいて。
 これだけは嘘じゃない。俺は、二人が上手く行ってくれるのが一番良いと思ってます。二人の幸せを願ってます」
 カウンタの高校生が奇声を上げる。マスター、注文とってと騒ぐ声がけたたましい。はい、と答えて腰を浮かす店主の手を、奇妙に冷たい手が握った。
 見慣れた顔が振り返る。珈琲の湯気の向うで微笑むのに似合う顔が振り返る。
 「マスター。……あなた、は。大丈夫……?」
 ありえない。
 有り得ない受け答えだと、脳の表層が拒否をする。
 この日本で。平和で幸せな現代日本で、たった今目の前の男は、殺されたくないなら、愛おしい男の手を離すな、握っていろと言ったのだ。
 勿論、言葉は違う。言葉の解釈など無限にある。だが、確かにそう聞こえた。究極な所生死も。どうかなっても気にしない。
 必要以上の力をこめた時子の手を、柔らかな掌が一瞬包み込む。確かめるように力をこめてから、ゆっくりと剥がす。長い指を時子の細い指の裏に通し、愛撫するように丁寧に剥がす。大丈夫、と答える声は何時もどおりの穏やかで伸びやかな声だった。
 「ごめんなさい、時子ちゃん。……行かないと」
 人懐こい笑みを浮かべて踵を返すその姿は、何時もどおりの、極々普通の、喫茶店店主の姿だった。
 

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