□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 「要求を、言うが良い、冬馬君」
 この季節は特にそうなのかもしれぬ。
 光量を抑えられたホテルの白熱灯の下で、標的の姿は鮮烈だった。
 部屋の中にでんと横たわる天蓋ベッドは、クリスマスカラーに縁取られた部屋の内装に合わせたと見える。ポールが白でカーテンはワインレッド、ベッドカバーが緑と言うエキセントリックな色合いだ。標的はその只中に、楽しげに身を横たえていた。おもちゃの様な色合いの真ん中に転がる体は、まるで一枚の絵のようだった。
 抜けるように白い肌、周りを気遣って色を加えたと思える黒味がかった銀髪、両の真紅の瞳。紺地のワイシャツにシルバーのダブルのスーツ。むしろ服など着けていなければ、伸びやかなその様は古典主義派の絵画のようであったに違いないのだ。
 整った貌の中で、皮肉な笑いを浮かべる口許が言葉を繰り返す。
 要求を。言うが良い。
 全く、願っても無い事だ。冬馬は深呼吸をした。
 
 本日の冬馬の主眼は、長沢の要求を通す、その一点である。
 作戦実行中に、冬馬-長沢間に通信手段を与え、それを支援すると言うただその一点。作戦自体に加わる訳ではない。計画を変える訳ではない。ただ通信を許す、それだけなのだ。主メンバーがこの要求を呑めば、その時点で目的は完遂だ。
 冬馬が要求を述べ、相手にそれが承認されれば。承認されればすべて滞り無く終了だ。だがしかし。

 相手ノ誘導デ要求ヲ口ニスルナ。特ニ。
 アノ人ノ誘導デハ口ニスルナ。

 苦笑が零れる。出窓から天蓋ベッドを見晴るかす。百戦錬磨の強者の、余裕たっぷりの無表情を見つめる。
 折衝が始まって僅か十分足らず。互いの席がやっと決まった直後に出されるメインディッシュなど、熱くて食えた物ではない。
 「……… ステージ1クリア」
 「…ん?」
 赤い瞳が出窓のステージを見つめたまま瞬きをする。冬馬はゆっくり深呼吸をした。
 「ステージ1クリア。そう言うことですか? 吊るし上げを覚悟して来たが、俺への追及はこれで終わりって言う事だ。俺の要求を聞くと言うならね。違いますか」
 落ち着き払った顔には、反応らしい反応も無い。冬馬の言葉に頷くでも、首を振るでも無く、悠然とした微笑を湛えた貌がこちらを見ているだけだ。微かに動くのは恐らくは脈動の為で、単純な生物の生理だ。冬馬が唯一つよすがとする呼吸は、天蓋つきベッドに半ば寝そべる格好の所為で殆ど読み取れない。心中で舌を打った。
 厄介な相手だ、と意識の表層で改めて思う。この標的を外せば、ただ外したでは済むまい。撃ち落されるのはこちらだと言うのに。
 いきなり的のど真ん中に佇んで撃てと言う。罠だと言う事だけは分っても、対処法など到底分からない。
 「シカト、ですか?」
 赤い慧眼を見つめたまま吐き出す。長沢は彼を猫と称した。こちらは鼠で、延々彼にいたぶられる存在らしい。
 「おや。聞き方が悪かったかな。追及は終わりでしょうか、答えてもらわないと困るな大貫主計官どの」
 「…要求を聞くと言っているのに、そこに拘るのかね?」
 「――ああ、失礼。官僚には官僚の呼び方があると聞いたな。ええと……」
 待ちかねた相手の言葉に被せる。厚みの有るバスバリトンを冬馬のハスキーボイスが遮る。睫毛の厚い目元が静かに開閉した。
 「――閣下、……か? うん、そうだ。大貫閣下」
 すう。
 他者の呼吸が不意に冬馬の鼓膜を揺らした。大貫に集中していただけに酷く動揺して一瞬標的を見失うが、幸いにも先方の動揺の方が冬馬より僅かに大きかった。
 瞳を巡らす。乱れた呼吸の主を探す。それは直ぐに知れた。
 ベッドの大貫からずっと前方右へ瞳を巡らせる。鏡台とロウチェスト、その傍らに設置されている、小じゃれた折りたたみストール。そこには、いつもキッチリと背筋を伸ばして居る男の、やや前かがみな身体が蹲っていた。
 桐江一等陸佐。中央即応集団士官、朝霞駐屯地勤務のエリート。大貫に心酔する若き自衛官。そうだ、そちらを忘れていた。
 「桐江一佐どの。大貫閣下はああ仰るが、俺はステージ1クリアですか」
 冬馬自身と、桐江と大貫を抜いた四人分の視線がまるで音を立てて桐江に注がれる。大貫と冬馬だけに注がれていた注意が、一瞬にして他者に引き継がれる瞬間だ。前かがみに、膝に肘をついた姿勢のままの自衛官の咽喉から、深いため息が漏れた。
 「すいませんね。大貫閣下に乗せられて、危うく本職を蔑ろにするとこだ。
 俺達"実働隊"の管理責任者は当然貴方だ。凡ての訓練、装備、作戦の作成は貴方を通じて俺達にもたらされているんだから、俺は当然貴方と先に話をすべきだ。ここに居る方々は、垣水部長を除いて、俺達が実際どう動いているかもご存じない完璧なホワイトカラー。実働隊の事なんて何も…失礼かも知れないが分かりっこない。大貫閣下なんてその最たるモンだ。
 どうですか桐江一佐。俺への追及は終了で良いですかね」
 深呼吸。ゆっくり瞼が持ち上げられるのと共に、見慣れた姿勢に戻る。真っ直ぐな瞳が冬馬を射る。力強く頭が振られた。
 「とんでもない」
 思わず苦笑する。やっぱりと零す。桐江は冬馬の軽口に眉を顰めた。
 「とんでもない。これで追及が終わったなどとは図々しいにも程が有る。勘違いも甚だしい。追及など始まっても居ないじゃないか。垣水部長がお聞きになった事に、君が答えたのは"知らない"と言う事だけだ。代理だから、全く知らない。知りたければ皆さんが直接聞いてください?これでは子供の遣い以下だ」
 心中胸をなでおろす。周りを突いてみる物だ。突破口が向うからやって来た。
 大貫の口車に乗っていたらと思うとぞっとする。彼の言葉に従って要求を口にしていたら、その後の桐江の言葉に凡てが押し流されていた。ご破算になっていた。
 得体の知れない部外者の勝手な要求と、メンバーである一等陸佐の真っ当な追及とでどちらが説得力があるかなど、論ずる余地も無い。
 冬馬が触れなければ、桐江はあえて己の手の内を晒す必要は無いのだ。今になれば分かる。桐江の必要以上に静かな呼吸はこの為だったのだ。長沢の言葉が蘇った。
 冬馬。お前だけが頼りだ。
 どうやらその通りらしい。
 「そう言われても仕方ないな。知らないものは知らないんだし」
 「君はこの会合の意義が分かっているのか?良いか。情報の漏洩など、万が一にでも有ってはならない事だ。特に我々の間では絶対に有ってはならない。これは、その有ってはならない事が起きた為の緊急の会合――何だ?」
 言葉の途中で冬馬が大袈裟に掌を振り回すのに、桐江は律儀に反応する。語尾に苛立ちが漂った。
 「漏洩、じゃない。啓輔が"掴んだ"んだって」
 「どちらでも同じ事だ!」
 一度乱れてしまうと、呼吸のリズムは簡単に平穏には戻らない。桐江が必死にかみ殺す怒号は、余剰分が呼気になって空気を震わせる。冬馬は肩を竦めて見せた。
 「漏れたにせよ掴んだにせよ、本来我々七人以外が知る筈も無い……現段階では三人以外知る筈も無いターゲットの名と作戦実行の期限を、全くの部外者が知っていた、この事実が大問題である。どうやって、何処から長沢啓輔はそれを知り、何故それをわざわざ我々に知らせ、作戦にまで関与しようとしているのか。
 この会合は、我々がそれを君から聞く為に組んだ会合だ。答えて貰わねば会合は終わらない。君が答える迄追及は終わらない。君には答える義務がある。それが道理と言うものだ」
 「啓輔曰く」
 上着の内ポケットからメモ帳を取り出す。A5サイズのキャンパスノートで、長沢が手ずから重要な点だけを纏めてくれた物だ。
 冬馬に一度音読させ、重要な箇所、混同し易い箇所にはマーキングと注釈までついているという、至れり尽くせりのシロモノである。どれだけこれが活かせるかは微妙だが、人事を尽くして天命を待つ、のモットー通り、備えるに越した事は無い。こうして一度は役に立った訳だから、長沢の努力は実っている。
 このまま、安全な終着駅に到着できさえすれば。
 「平成18年(受)第9987号 損害賠償等請求事件……の第一回公判が最高裁で開かれるのが、12月25日の13時。だから、これまでに片をつけようと思うのは、標的が分かれば誰でも思いつく事だ。
 ――だそうだ。俺には良く分からないが、それが啓輔の判断基準だ」
 垣水が身構える。一人がけの椅子の肘掛を両の拳が握るきゅう、と言う音が室内に響いた。
 待て。何と?
 押しつぶされた低い呻きの主を確認し、もう一度ノートに目を落とす。
 「平成18年(受)第9987号 損害賠償等請求事件。一般的に南京事件名誉毀損訴訟と言われる物。昨年の、別件だが同系列の損害賠償請求事件と同じく徳永 虎之助が裁判長を勤める。暴論な傍論。…故に、思いつきさえすれば、期限日時は誰でも推測可能」
 「……誰でも思いつく。…と、そう言う気かね。本当にそう言ったのか…?」
 怒りを秘めた言葉に、冬馬は無頓着に頷いた。
 「東京高裁のHPにも公判日時くらい載ってる。最高裁ともなると、流石にWEBには載らないので電話連絡を取らねばならないが、それだって何処からでもかけられる、誰でも聞ける。誰でも調べられる。傍聴券だって、並びさえすれば誰でも手に入れられる。誰にだって可能だ。
 ―― だそうですが違いますか」
 違わない。そう言う替りに頭を振って見せる。俯いて思考に沈む。のも束の間、薄い頭髪の頭が持ち上がった。
 「長沢は、他に裁判について何か言っていなかったかね」
 ノートを見るまでも無い。冬馬はまっすぐ垣水に視線を合わせた。
 「法曹界…法務省は法と言う盾で国を縛るフィクサーみたいなものだ。タチの悪い事にあの中に日本は無い。法務省の中にあるのは露西亜と支那の権力の構造だけ。徳永 虎之助は支那の先兵だ。
 人権屋で、とんだ左巻きのエロ爺で、聞くに堪えない似非人権論を振り回すわ、ハニートラップにまんまと引っかかって、官は売るわ国は売るわ。雑食で強欲で、節操が無い。
  丁度良い舞台だろ。支那の傀儡法吏の幕を落としてやるのに」
 その場の全員が冬馬の言葉に押し黙った。
 互いに視線を交換し、改めて出窓の上のステージに目線を戻す。明らかに今の言葉は青年の言葉では無かった。それは長年、日本と言う国に生きて暮らし、数知れない不条理に暗い憎悪を抱いて来た男の言葉に相違ない。短い言葉に織り込まれた怒りの火種がそれを如実に表していた。
 青年の言う"ジェノサイダー"の、長沢啓輔の、言葉だ。暫しの沈黙の後に、羽和泉が小さく吹き出した。
 「法務省に日本は無いと来たか。……うん、分かってるね。私は割りとその男が好きになれそうだ」
 垣水が深呼吸をする。椅子の中で姿勢を直し、改めて背もたれに深々と寄りかかる。
 「確かに……"掴んだ"のかも知れませんな、その男は。確かな情報からか、あるいは推測か」
 馬鹿な。桐江一等陸佐が反射的に切って捨てる。
 「相手は一般人ですよ。警察でも公安でも関連省庁の職員でも無く、ごくごく一般の人間がどうやって情報に接触出来ると仰るのですか。インターネット全盛の時代だから、一般公開されている無数の情報から、必要なデータを抜くのが上手い下手は有ると思います。ジェノサイダーがそれに長けていて、正確な推測が出来たとしても、情報の"芯"が無ければ結果に辿り着ける訳が無い。無数にある犯罪や事件の中から、関連性を導き出すには"芯"を掴まなければムリだ。それだけはインターネットには転がっていない筈です。
 情報の"芯"はどこだ冬馬君。我々はそれを知らせろと言っている。そこから絶てば済む話だ」
 「だから。俺は知らない」
 「子供の遣いめ。マグレで当ったなどとは言わせないぞ」
 「啓輔曰く」 
 ぎろり、と桐江が冬馬を睨む。冬馬は肩をすくめた。
 「東京だけで過去五件。この団体は"アピール"をしている」
 桐江が息を呑む。大貫に視線を運ぶ。天蓋ベッドに寝そべったまま頬杖をつき、今や楽しげに部外者然として出窓を眺めている男に視線を運ぶ。大貫の反応はなかった。
 「ああ、予め言っときますが、俺はこの件について何も啓輔に言っていない。ただまぁ。
 俺が啓輔の許を訪れたのがたまたま、富士野忠明がオライアンズ駿河台で死んだ日だった事と、横井孝道の一件の時、赤坂まで啓輔が迎えに来てくれた事は言っておかないとフェアじゃない」
 「お前は馬鹿なのか」
 今までとは違う高い声が部屋に響く。声の主以外の全員がびくりとした。
 女性としては決して高い声ではない。それでも、男性陣の中に有ってはやはり異質だ。メンバーの中の紅一点、唯夏は呆れたといわんばかりに大きく溜息をついた。
 「作戦終了後にその男の許を訪ねたのか。それであっさり気取られたと言うのか。お前はどこまで間が抜けている。お前、一体何をしに行った」
 情景が頭の中を転がる。苦い記憶と甘い感触が蘇る。感情が傾きそうになって記憶を押しやる。確かに訪ねたが、あっさり気取られたと言う訳でもない。相応以上の行為に出た為に、聡い男の注意を喚起した。本能を揺り起こした。そしてこの結末に到る。
 ただの客と、喫茶店の店主ではない"出会い"を作ったのは冬馬だ。その続きを強引に書き込んだのも冬馬だ。気付けばいつ頃からか書き手は長沢に移り、彼を冬馬の現在に組み込む為に必死になっている。
 凡ての思いを纏めて息を整える。
 「……珈琲を飲みに」
 唯夏がはっきり舌を打った。
 「嘘をつけ。珈琲を飲みに行ったくらいで"アピール"まで話が及ぶ訳が無い。お前は一体…」
 「失礼、私は先が知りたいんだがね」
 垣水の一声で唯夏が口を閉じる。不満気な表情には納得の色は微塵も無いが、己の階級を良く理解している。実働隊の地位は最下位なのだ。
 「君と彼との出会いは、いずれ必要な時が来たら聞こう。だが今、事はもっと進んでいる。恐らくはハイスピードでね。過去について云々しても仕方有るまい。余りに冬馬君が不用意なら、後日、処置を考えよう。だが兎に角後日だ。
 今は先ず、その五人の名を知りたい。その男……長沢啓輔が言う五人とは誰の事かね。それによっては長沢の要求についても考えよう。先ずは五人の名前だ。その名前を挙げてみなさい」
 唯夏から視線を垣水に戻す。望ましいルートだ。
 この一件では最も非難の対象足り得る、問題の渦中のど真ん中に居る垣水が興味を持ったのだ。"一般人"ではなく、"長沢"と呼び、要求についても考えようと言った。要求に"応じよう"でもなく"呑もう"でもなく、"考えよう"と言う物言いがリアルだ。
 冬馬はノートに目を落とす。手首のバンドに指を這わせた。
 「新しい方から。……先ずは、さっき言った横井孝道、富士野忠明……」
 「それについての咎はお前に有るぞ、冬馬」
 「そして?」
 唯夏に垣水の声が被って静まる。
 「高綱 より、林 操一、そして最初の一人が、金山 町之。……本名」
 ごくり。
 天蓋ベッドの上の人物が唾液を飲み込む気配が、冬馬に届く。今日はじめての。
 「朱 義(ちゅう いー)」
 標的の動揺。大貫宥吏の、猫の呼吸だ。長沢の言葉が蘇る。
 冬馬、窮鼠、猫を噛め。
 

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