□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 ……驚いたな。
 誰からとも無く、呟きが零れた。
 水を打ったような静けさの後。退屈した冬馬が出窓の下の黒い海を遠くのタンカーの灯りまで見上げた後。誰とも無くそんな言葉が漏れた。面白いものだ。
 驚く時、"息を呑む"と言うが、本当だ。その場の六人が全員、一瞬息を止めた。正しくそれは"呑み"込まれて、ホテルの一室はほんの束の間、深い静寂で満たされたのだ。
 隙間を埋めるように、青年は大きく息を吐いた。眼下の海を見晴るかして、手首のタオル地に指を食い込ませる。俺は上手くやれているのか、啓輔。胸中で呟く。さっぱり分からなかった。
 「それを……一体どこから」
 垣水の低い呟きに首を振る。
 「興味が湧いたでしょう、垣水部長。俺がこの男を相棒兼ネゴシエータとして入れるべきだと言った意味が少しは分られたんじゃないかな」
 「その情報を何処から、彼は手に入れたのかな。それも分からない、のか冬馬君」
 同じ手を二度使えば怪しまれる。冬馬は頷く。「分からないのか」の否定疑問文は、日本語では「分る」場合はNOだが、冬馬の感覚では否定が必ずNOで肯定は必ずSi。「分る」と言う意味の肯定だった。
 「警察の末端です。名前は知らないが、二人組の所轄の刑事からだ。データを得て依頼を受け、啓輔が分析した。基本データは揃っていたから辿るのは存外容易かったそうですよ。人選と場所設定からアピール行動だと言うのは直ぐに分かったし、アピールの主目的もメッセージも良く分った。次の標的もマクロでなら当てられる。一番苦労したのは、朱 義関連の情報だが、神保町土着のデータを軽んじるな――だそうですよ。
 実際、俺は啓輔の言う事の半分くらいは良く分からない。俺の気付かない細かい所から関連性を読み取って、大掴みに大局を掴んで真相に寄せてくる。その読みのルートを聞いても、なるほどと思う時も有れば、まるで理解できない時も有る。でも言えるのは。
 常に啓輔の側に真相がある事だ。啓輔には真相に辿り着く力があると言う事だ。だからこそ。彼はここに居るべき人間なんですよ。俺には絶対必要な人間だが、ここの全員にとって必要とまでは敢えて言わない。ただ、いたら便利な人間である事は確かだ。
 垣水部長、貴方が興味を持ったなら、正しく彼の力を知りたいなら、会うべきだ。知るべきだ。俺の要求を呑んだ上でメンバーの一人として」
 一気に言い切って反応を待つ。
 垣水は大きな溜息を吐いた後に黙り込んだ。頭髪の薄くなった頭を、思考の淵に沈み込ませる。冬馬は、そのまま動かなくなった公安調査庁第一部長から視線を外した。
 部屋の中をぐるりと見回す。四人の人物と目が合った。
 面白気に動向を見守る羽和泉と、責めるように青年を凝視する唯夏、憮然とした表情の桐江。全員が、らしいと思える反応だ。呼吸はいずれも比較的安定しており、動揺は鎮まっている。天蓋ベッドの上も同様だった。
 つい先程、他の五人と共に息を呑んでいた筈の男は、今はそんな動揺など微塵も無かったように冷ややかな笑みを浮かべている。丸きり最初と同じ、余裕の笑み。そこに圧迫感を感じないのは、恐らくは状況が冬馬よりに動いた所為だ。恐らくは、上手い方向に動いている。
 黙して語らぬリストバンドにそっと指を滑らせる。恐らくは進んでいるのだ。正しい方向に。
 今日の標的は大貫宥吏だ。それは間違いない。だが分ったのだ。これはあくまで最後の獲物だと。
 他の獲物を凡て落とすと、初めてフィールドに現れる影の存在。あるいは、コンプリートの褒美に添えられる景品。大貫はそれなのだ。直に狙っても絶対に落とせない。冬馬の攻撃は大貫には届かない。
 ならば、周りから突き崩すしかないではないか。
 改めて、不満顔の自衛官に視線を戻す。
 「さて、桐江一等陸佐殿。俺が現段階で出来る説明は全部したと思うけどな。後は何が足りませんか」
 「子供の遣いだ」
 「分ってます。が、慣れてないんだ。俺みたいな端っこの兵隊が貴方みたいな上級仕官と折衝するなんて普通、有り得ないから」
 「自分にその男を信じろと?」
 「……さぁ、どうかな」
 桐江の目に怪訝の色が宿る。尤もだ、と冬馬は思った。
 この会合での冬馬の役目は、新しいキャストを、正規メンバーに加えてくれと言う請願だ。その為に多少強引に、メンバーさえ現段階では知り得ない情報を晒して見せ、それを釣り餌に全員を釣り上げたのだ。
 釣り上げたからには、すべき事はたった一つ。売り込みだ。新キャストが如何に優れ、如何に利用価値の有る男か、信頼に足る存在か。それを大袈裟に過大評価して喧伝し、ここに居るメンバーを取り込まねばならない。冬馬の役目は、長沢のプレゼンターだ。広報主任だ。CMプロデューサーだ。良い、素晴らしい、絶対だと、言いまくる事こそが役目なのだ。
 それを。
 信頼性の是非を尋ねられて保障しないと言う法は有り得ないのだ。
 「――俺の同志には、それこそ色々な奴がいましたよ。
 俺を裏切った奴も、売った奴も居た。俺は信用出来ない奴を同志とは呼ばないから、皆信用していた。それでもこう言う事は起る。仕方ない事だ。裏切った奴には逃げた奴も殺された奴も居る。これも仕方ない。人間にはその人間それぞれの事情が有る。事情はぶつかり合う。不都合が起きる。それは仕方ない。その不都合を整理する、それも仕方ない。俺はそう思っている。」
 「それでは困る。我々は君達のような寄せ集めのゲリラではない。シビリアンコントロールは有って然るべきだし、裏切りなど以ての外。情報の漏洩など最も有ってはならない事の一つだ。ああ、漏洩ではなく、掴んだのだったな」
 「そうだ。貴方の言う事は良く分かる。俺はこの七人をゲリラだとは思っていない。文字通り食う為のゲリラが持つ革命論は生きて行く為の理屈だ。日本人の持つ論理は全く違う。入り組んでいて、穏やかで、緩い。それでも。
 俺はこの七人は上手く統制が取れていると思う。ここに裏切り者は居ない」
 「裏切られ続けてきた君に何故分る?」
 皮肉に笑って見詰めた出窓で、灰色の瞳が赤いネオンに揺らめいた。瞬間、赤く煌くそれが大貫の物と被る。人の嘘を許さぬ、勁い慧眼。
 「俺の、生涯最後の同志だ。この六人は。――啓輔も」
 たかが。
 たかが、齢24の青年の戯言だ。そう笑い飛ばせば良いのだ。だと言うのに。どきり、と心臓が喚いた。青年の気持ちが伝わった。
 「貴方に信じろと、俺は言わない。それは貴方が決める事だ。ただ、俺が信じたと言う事は分って欲しい。俺は、今迄会った誰よりも、俺が信じた人間を貴方に紹介しているんだ。
 兵力としては全く使い物にならないが、情報を掴み、解析し、それを伝え、説得する。それにかけては啓輔は最高の人材だ。少し情報を与えれば、何倍も掴んでくる。それに何より。
 俺と違って、啓輔はこの日本と言う国を愛している。…心の、底から」
 真一文字に唇を引き締めたまま、青年を見つめる。幼少時にペルーの荒野に放り出された青年に、日本を愛せとは言わない。日本の将来を案じる人々と共に、身を投げ出している青年に今以上の気持ちなど求めない。
 「啓輔はここに居るべき人間だ。後は貴方が判断してくれ。桐江一等陸佐」
 反論出来なかった。青年の言葉に満足した訳では無いのに、返す言葉がみつからなかった。唇を引き結んだまま黙り込む。
 室内が静まり返った。
 窓の外に汽笛が流れる。夜の気配が忍び込む。微かに、人の息が揺れた。
 人の息の振動。肺から漏れる呼気の振動が空気を揺らす。動揺でも怒りでも無い。これは…笑いだ。
 冬馬が目線を運んだ先に、天蓋ベッドの上で笑いに震える大貫が居た。
 「お見事」
 大きな掌が、ぱんぱん、と、小気味の良い音を立てる。笑いに微かに肩を揺すりながら、ブラヴォーと呟く。この男の物言いは分かって居る。攻撃的だが性急ではなく、知性的で皮肉。一言で言って慇懃無礼だ。恐らく拍手の後は、実に素晴らしい見世物だったとでも言うのだろう。
 青年は出窓の上で軽く右手を胸に置き、左腕を広げるお辞儀の真似をして見せた。彼にとっては面白くも無いが、標的には気の効いた対応だったらしい。
 「いやいや。実に素晴らしい舞台だったよ冬馬君。君は垣水部長と桐江一佐と言う、実務派のお二人を悩ませた。お二人は今君の要求を検討中のようだ。なので、敢て私は自分の立場を表明したいのだがね」
 肩をすくめて見せる。この男がこう言う時、冬馬は楽しかった覚えが無い。
 「私は長沢啓輔をメンバーに加えるのには反対だ」
 なるほど、と思う。
 長沢は言った。あの人は俺を助けたりしないぞ、と。ただ、試しているんだと。
 不思議な間柄だ。冬馬が長沢の事を羽和泉に伝えて、最初に反撃したのは大貫だった。長沢の過去のデータを持ち出して、秋津にはふさわしくないと、そう主張したのだ。しかし同時に。
 メンバーに揺さぶりを懸ける為の情報を渡したのも、他ならぬその大貫なのだ。二人だけが理解する過去の符丁を使って、冬馬を飛び越して長沢にだけ、標的の名を伝えた。理解した長沢はその情報をフルに使いながら、それでも大貫を信用するなと言う。大貫の情報を信じた癖に、味方で無いという。そして今。
 確かに大貫は言った。メンバーに加えるのは反対だと。
 なるほど。
 それ以外に適当な言葉は何一つ見当たらなかった。
 変った間柄だ。実に奇妙だ。理解が出来ない。日本人は分り辛い。いや、日本人、と言うのは適当では無いかも知れぬ。長沢は、分かり辛いのだ。昨夜の事を思い出す。
 
 昨夜、正確には今朝まで続けられた即席の折衝講座とディベートの最中、冬馬は幾度も長沢を寝所に誘って見た。言葉でも態度でも、何度も果敢にチャレンジしたのだが、とうとう受け入れられなかった。
 最初の内こそふざけている場合じゃないとやんわり断っていた長沢も、終いには怒り出した。長沢の怒りと言うのは奇妙で、これまた分かり辛い。憮然と黙ったりもしないし、怒鳴ったり、手を出す事は更に無い。むしろ穏やかに、笑み等を浮かべたりするから勘違いしかねない。
 昨夜は、そんなに俺を殺したいなら好きにすれば良いと満面の笑みを浮かべられた。徐々に長沢の反応が分って来た冬馬は、その笑みに肝が冷えた。流石にストレートに通じた。ぞっと手を引いて、それ以降は一切長沢にちょっかいをかけていない。
 だから、手を出す替りにストレートに聞いたのだ。冬馬自身が意識的に避けてきた答を、長沢に求めたのだ。長沢と大貫、二人の関係の説明を。
 二人の過去などは問わない。その時の関係も心情も問わない。長沢が今も囚われる過去の様々な事柄に恐らく最も深く関係しているのはこの男なのだろうし、語れぬ傷を掘り起こす気も無い。ただ。今をクリアにしたい。この男を標的とせねばならぬなら、せめて己の立ち位置を掴まねば心もとない。
 「お前はあいつを味方では無いという。助けたりしないと。では敵なのかと言えば、お前はそれにも頷かない。第一、これからメンバーになろうと言うのに、敵と言うのは有り得ない。では、お前達は一体なんだ。友か、愛人か、同志か。それとも……説明してくれ啓輔」
 きょとんとした表情が瞬時に渋面になった。首をかしげ、難しいと呟く。固唾を呑んで答を待つ冬馬に、やや暫くして長沢は笑った。
 「誤解されると嫌だから最初に言っておくが、愛人ではない。正直言うが……。
 俺は正真正銘、あの人の能力を信頼しているよ。心底、尊敬してるけど、愛とか恋とかそう言うんじゃない。他に厳しく、己に更に厳しい精神も誇りも、俺には無い素晴らしい物だ。一度思い込んだら退かず、曲げず、初志貫徹する精神力には痛み入る。今の日本には稀有の、真に必要な人材だよ。出会った最初から今迄ずっと、俺の意識はこのままで変ってない。そして恐らく。
 あの人にとっては俺が取るに足らない虫けらだってのもずっと変ってない。どころか、恐らく今は汚らわしい裏切り者と思われてるだろう事が悲しいよ。関係は……そうだなあ。
 一生、会うべきじゃない人間かな。俺にとっても、あの人にとっても」
 その時の長沢の笑みが寂しげで悲しげで、冬馬は思ったのだ。長沢にとって、笑顔と言うのは凡ての感情表現であるのだと。では、この笑みの持つ本当の意味は一体何なのだ?
 この男に、こんな表情をさせる大貫と言う存在は、一体何者なのだ?
 
 「聞いているかね、冬馬君?」
 ゆったりとした口調のバスバリトンが思いを引き裂く。肩をすくめて見せるのは、一体今夜何度目だったろう。
 「……ああ、勿論。聞いてますよ。やっとステージ1クリアしたと思ったが。未だかな」
 「いやいや、なかなかどうして」
 大きな身体が反動も無く持ち上がる。仕立ての良いスーツを翻して、改めてベッドの上に乗る。背もたれに深々と身を沈め、靴を履いたままの足を組んで放り出す。一つ一つの動作が妙に決まるのは、その外見と体格の所為なのだろう。
 「ステージ1はお二人の実務派が黙った時点でクリアと見て良いだろう。良い先生がついたようだ。実に、真実をごまかすのが上手い先生がね」
 垣水と桐江が居住まいを正す。思考に沈んでいるのは変らないが、参考意見を聞く耳は休ませていないと言う主張だ。一人がけのソファで寛いでいた羽和泉も、変らず楽しげな瞳を今は大貫に向けている。
 「長沢啓輔には驚かされたよ。何の後ろ盾も無い一般人が、よくそれらの情報をつかんだ物だと感心する。だがね、ここがポイントだ。
 君の連れて来たその男は、今やただの一般人だ。何の情報網も援助も無い、普通の市民だ。思想も信条も持たぬ、何の証明も持たぬ愚かな国民の一人だ。何でも、猿楽町の喫茶店の店主と聞いたが、本当かね」
 無言で頷く。愚かと来たか。
 「情報の元は所轄の刑事と君は言ったな。データを手に入れて分析をしたと。では聞こう。
 長沢啓輔が解析したと言うそのデータ、それは所轄の刑事に渡ったのではないのかね?」
 身体を強張らせる。首を振りも頷きせぬように。
 「データを手に入れ、解析して返す。常識的に考えれば、そこ迄が一連の動作だろう。だとすれば、長沢は我々のデータを真っ先に警察機構に渡した奸物ではないか。
 しかも、だ。今回はたまたま警察経由で情報を得る事ができたが、彼にはパイプが無い。となれば後続データなど期待出来よう筈が無い。では、我々が彼と行き来する事で得られる利益は何かね。何か一つでも挙げられるなら大した物だ。
 また、君はこれまでの彼の解析力を絶賛し、ここにふさわしい人物だと言うが、忘れていないかね。我々はアピール行動をしているのだよ。敵にも味方にも部外者にも、他より目敏い者に気付いてもらい、それを喧伝して貰わねばならない。むしろ君の主張は、彼を野に置くほうが正しいと証明するに過ぎない。
 自らは下町の喫茶店などに潜り込み、一切矢面に立たない男だよ冬馬君。君を遣って我々と折衝させ、例えそれが失敗したとして、彼にどんな痛手がある?危険を感じれば身を隠せば良い。凡てを置いて逃げ出せば良い。それだけの事だ。それだけの男だよ。
 君は最後の同志と言うが、それは君だけの感傷だ。君のちっぽけな感傷を、それを負うだけの相手を我々に信じろと、君は言うのかね」
 反射的に、手首を背の後ろに隠した。繋がっている気がした。聞かれている気がした。
 ここで繋がっているから、いつでも聞いてくれ。そう言って手ずから手首に着けてくれたリストバンドが、長沢に凡てを伝えている気がして思わず後ろに追いやる。リストバンドの目を、耳を覆い隠す。有り得ないのに。
 目の前の男の言葉が凡て届いている気がした。汚い裏切り者と思われているのが悲しい。そう長沢が言った男の言葉が。会ってからずっと変らず尊敬していると長沢が言った男の言葉が。長沢の耳に届いている気がして遠ざける。
 長沢の笑顔が脳裏にこびりついていた。
 目の前の男は、最初に長沢が話題に上った日に、彼を使い古しと称した男だ。合法の大量殺人者と呼び、今また奸物と呼ぶ。臆病者と、愚かと、卑怯者と。
 「我々にとって、長沢啓輔の存在が邪魔な理由は、少なくとも三つ。 
 まず一、所轄警察と繋がる奸物と我々が交渉を持つのはハイリスクノーリターンである事。
 二、後続データが期待できない対象に、こちらの情報を一方的に渡すのは漏洩の危険が高い事。
 三。外部の人間を入れる事の危険性に見合うだけの担保が何も無い。
 以上三つの理由により、メンバーの追加、変更とも……」
 「消去、すべきです」
 大貫の言葉を、くぐもった呻き声が切り裂く。声の主は、今迄一言も発せず、ただ羽和泉に付き従って来た私設秘書、畔柳だった。
 先程と逆に、全員が何かを言いかけた。呼吸音がざわめき、そのまま凡てが言葉を結ばずに途切れる。冬馬は微動だにしなかった。
 いつも静かで穏やかな秘書の声が、老人特有の呼吸と共に続ける。
 「危険な部外者は、消去、すべきです」
 ほう。大貫が楽しげに呟いて、秘書を指し示す。冬馬にどうだね?と問いかけているのは明らかだった。
 「名で呼ぶ必要も無いではありませんか。冬馬様、貴方はお父様をどうお考えか。
 その男は貴方の行動を知っている。その意味も、意義も、我々の事も知っている。貴方の素性もご存知なのでは有りませんか。となると、その男は主要メンバーを確実に一人知っている事になる。他でもない。
 貴方のお父様、羽和泉基様だ」
 畔柳の推測は正しい。長沢が冬馬の事で最初に言い当てたのは、他ならぬ彼の素性だった。
 一晩足らずで彼の少ない言葉から、父親の素性まで辿り着いた。団体についても同じ事だ。精鋭ぞろいだが相当に小さい。しかし中枢に居る。長沢はそう言った。根拠の一つに冬馬の素性が含まれない訳など有り得ない。畔柳の言う通り、長沢はメンバーを掴んでいる。
 ただし一人ではない。羽和泉基と、大貫宥吏。二人まで掴んでいるのだ。
 「それがどう言う事か、貴方が分からない筈が無いでしょう、冬馬様。その男は、基様…代議士の凡てをめちゃくちゃにする事が出来るのですよ。
 そんな危険分子は消去すべきです。利点が有ろうが関係ない。冬馬様、貴方の為にもそうすべきだ。今すぐに。
 完全に。後腐れなく。完璧に。消去、すべきです」
 垣水と桐江は、未だ思案から開放されては居ない。畔柳の言葉の終わりにも反応は見せない。大きく反応したのは羽和泉本人だった。
 「私は恐ろしい秘書を持ったものだなあ。脅す、でも黙らせる、でもなく消去すべき、と来たか。今時の日本でこんな物騒な話を堂々としているのは、某宗教団体と、ここくらいではないかな」
 畔柳が微かに呼吸で諌めるが、羽和泉は笑い声を上げた。
 「大貫君、家の秘書の過激な申し出が君の言葉を遮ってしまったようで申し訳ない。だが、興味があるな。君は家の秘書の考えをどう思う」
 白い貌に浮かんでいるのは、さっきからずっとこちらを蔑んでいるかのような微笑だ。形の良い唇を歪め、もともと微かに下がり気味の両の瞳が緩やかな弓形を描く。赤い瞳は真っ直ぐに冬馬に向けられていた。
 整った薄色の唇が、
 「私も……」
 動いた。
 「賛成ですね。
 我々には目的がある。大儀が有る。凡てはその為の行動だ。その障害になる物は、除去すべきです。冬馬君の訴えも分からないでは無いが、これは面倒ごとだ。
 大事の前の小事は、消すに限りますよ。」
 後ろに追いやっていた両腕を引き戻す。出窓に凭れ掛った格好のまま、両の拳を握り締める。寒気が走った。全身が総毛立つ。
 「……ク」
 音がするんじゃないか。両手の骨の。あるいは全身の毛穴の。
 「クククク……」
 「冬馬?」
 唯夏が怪訝な声を上げる。名を呼ばれてもまだ、その意味が分らなかった。桐江と垣水が顔を上げ、全員の不思議そうな瞳が集まって初めて、奇妙な音に気付いた。先程から響いている耳障りな呼吸は。押しつぶされたような奇妙な声は。
 俺の咽喉から出ていたのか。
 横隔膜を震わせる奇妙な振動は、鳩の鳴き声のようだ。くっく、くっくと仲間を呼んでいる。少しも可笑しく無いのに、勝手に漏れる笑い声が止まらない。それが可笑しくなって吹き出し、手放しで笑うと唯夏がもう一度名を呼んだ。
 全員の顔に目を走らせる。心配気な唯夏の表情と、強張った畔柳の顔が可笑しかった。
 深呼吸をする。
 「消去しろ。除外しろ。消せ?
 よくもまあ、そんな事が平然と言えたモンだ。日本人はもう少し平和主義なのかと思っていたが違うらしい。消せ、か」
 食いしばられたままの奥歯が嫌な音を立てる。笑い声は収まらなかった。
 「俺も全く同感だね」
 
 息を呑む、と言うが本当だ。
 騒々しい出窓のステージから、まるで遠く離れたホテルの一室を、今夜何度目かの深い静寂が満たしていた。
 

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