□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 点けっ放しのTVから、ワイドショー以下とも思えるニュースが流れている。
 数多くの情報に触れたくて、インターネットで新聞を眺めながら、TVの音声に耳を遊ばせる。二つの情報のギャップにも慣れて久しい。
 ネットの情報が正しいとは言わぬが、雑多過ぎてバイアスがかけられない分、生粋の情報が多い。犯罪を起こす分だけ金を出す、特定の団体に対する気遣いが多少なりとも軽減される所為も有るのだろう。
 公序良俗などと言う言葉は、経済が大きく絡むマスコミでは、とうに意味が違ってしまった。本来、広く凡てを表す筈の「おおやけ」には、もはや一般日本人は含まれなくなって久しい。
 マスコミの言う「おおやけ」、いわゆる「大衆」とは、スポンサーの取引相手である強力な華僑団体と彼らの母体、金融業とパチンコ業界を牛耳る在日朝鮮人団体、差別利権に絡む部落民や少数民族、またはその応援団体全般を指すのだ。平和に茶の間でTVを楽しむ平々凡々な日本人は、「国民」と言う言葉と共に、とうにマスコミからは忘れ去られてしまった。
 この国から「公」の本当の意味が消え、「国」と言う意識が消えてから一体どれくらいの時が過ぎたのだろう。
 左胸に右手を置き、国家、国旗など、国を象徴するそれらの物に敬意を払う事を忘れた「国民」は、「世界」の中で日本人だけだ。世界と言う舞台において、自らの国を愛すると誇りを持って言えぬ人種は日本人だけだ。確たる知識も主義主張も持たぬままに、自らの国を貶める事に快感を覚える国民がいるのは、この日本と言う島国だけなのだ。
 相も変らぬ、恍けた平和主義を撒き散らすTVの電源を切る。時計は23時半を回っていた。
 口寂しくなってカップを握る。美味いカプチーノが飲みたい所だがマシンを起こすのも気が引ける。インスタントで良いかと、喫茶店店主に有るまじき事を思いながら何の気なく窓の外を見下ろした。
 ―― 冬馬?
 街頭の下、ぽつんと灰色の頭が佇んでいた。
 戸口の前数メートル離れて、扉を開けようとしているのかそのまま立ち去ろうとしているのか、どちらとも取れる姿勢だった。
 冬馬の属する団体、"秋津"での折衝が始まるのは八時と聞いていた。単純な折衝であるから、乗るか反るかしかなく、その間はありえない。それ程長く懸る道理がないから、結論はとうに出ている筈だ。真っ直ぐに伝えないのは青年らしからぬ事だ。逃げられても困るので上から声を掛ける事はせず、そっと階下に降りて扉を開く。
 青年は上から見た時と同じ姿勢でそこに居た。
 「冬馬」
 返事は無い。
 「お前、何してんの?来たならベル押せば良いし、この前鍵も渡しただろ。そんなに堂々と不審人物されるのも、ご近所の手前アレなんだが」
 俯いたまま動かぬ青年に付き合ってその場に立つが、室内から不用意に出て来た服装は薄く、クリスマスシーズンの深夜の温度にはそぐわない。
 「冬馬」
 呼びかけに、青年の、ポケットに入れられたままの右手が持ち上がる。灰色の不燃布に包まれた物をポケットから引き抜き、そのまま長沢の目の前に突き出す。長沢は理由の分からぬままにそれを受け取った。
 「何?」
 通信機。青年のハスキーな声が、低くそう呟いた。長沢は慌てて不燃布のファスナーを開いた。
 「DII(防衛情報通信基盤:Defense Information Infrastructure)対応のイヤホンセット。オープン系の情報網の方だから、普通に電話と同じく聞こえるし使える。作戦開始と同時にビープ音が鳴る。使用法説明書も入ってる」
 「おー! おおおぉぉお、凄ぇ。おー、へー。へぇぇぇえ。こう言うんだぁ―。凄ぇー、小さい、ってか普通だなぁー。DIIって、……へぇ!本当に少数精鋭なんだなぁ、お前さん達。いやー、凄いよ。凄い凄い。大成功じゃないか、お手柄だ冬馬。中入れよ」
 腕を引こうとして、硬い身体に阻まれる。硬直した腕は長沢の腕の動きに従わなかったのだ。苦笑が漏れた。
 「冬馬くん、俺寒いんで中に入りたいんですけど。丁度カプチーノ飲みたかったんで付き合ってくれませんか」
 はぁっ。
 呼気が青年の周りに広がる。雲のように渦を巻いて、均整の取れた身体を覆う。一瞬で消えるその雲が、思いの他大きくて長沢は驚いた。
 「啓輔、……っすまないっ…」
 「お前、もしかして今、息止めてたのか?」
 「俺は、お前を追い込むばかりだ。
 条件を呑ませる代わりに、こちらも条件が付いた。失敗したら、お前を……こ……」
 「あ、上出来」
 さらりと言われた言葉に、今度は冬馬の方が驚いた。毒気を抜かれて顔を上げると、含みの無い笑顔が自分を見上げていた。
 
 その後は手を引かれるままに中に入り、暖かいから上で待っていろと促されて階段を上った。所在無くノートPCの前に蹲る。画面にはワシントンポストが映っていた。
 程なく、鼻歌と共にカップを両手に持った人影が上がって来た。小脇に通信機の袋を挟み、そのまま冬馬の手前に腰掛ける。
 「はいお前の分のカプチーノ。お前さん、晩飯食った?」
 「……いや……」
 「晩飯の残り有るけど、食う?おでんだけど」
 「……いい」
 「何で暗いんだ、首尾は上々なのに」
 「!…おまえは!」
 分かっていない。
 首尾が上々な訳は無いだろう。そう叫ぶときょとんとした顔で何でと返され、一気にまくし立てた。
 情報源を聞かれて、結局最後まで"知らない"で通したこと。子供の遣いと揶揄された事。開始五分で大貫に要求を言えと言われて迷った事。何とかやり過ごして長沢から受け取った情報を盾にOKを貰いかけたのに、再び大貫に潰されかけた事。余りにも腹が立って、担保に長沢の命を差し出そうなどと口走ってしまった事。
 「お前を消せと言われたから、それが担保だと答えた。お前の命を担保に、話に加わらせろと。それで有害と思うのなら、それから担保をどうとなりするが良い。ただし、その時は俺の手で殺すと、そう言ってしまった。
 お前は相棒を助けるに決まってると言われたから、この店に置いて来れば客がすぐ見つける。誤魔化しは効かないと答えた。結果は…了承された。
 つまりお前は、役に立つと思われれば生き残って、人を殺す仲間になる。駄目だと判断されれば死ぬ。俺が、殺す。……お前を。もう、二つに一つしか道は無い。俺が…潰した」
 ホテルを後にして電車に乗った。東京まで真っ直ぐ出る急行に乗って、窓ガラスを見つめた。夜闇をバックに鏡になった電車の窓に、情け無い顔が映っていた。最悪だと思わないか。誰にとも無く呟いた。自分は全く最悪だ。
 誰よりも守りたいと思う人なのに。守りたいと思う人の命を担保に要求を飲めとはよく言った。
 何とかしたかったのだ。ゴールから遠ざかって行く話を、強引に元のルートに戻したかったのだ。自分には無理そうで、どうして良いか良く分からずに長沢ならどうするだろうと考えた。考えたつもりだったのに。馬鹿げてる。まったく自分は馬鹿げている。
 頭に手が押し当てられる。柔らかい掌が頭頂部やや前方に乗り、そのまま頭の丸みに沿って動かされる。掌と頭皮の間で、硬い毛がぐしゃぐしゃと逆らった。
 「凄い。お前さん才能有るよ。さっすが政治家の息子だなー。無口で口下手かと思ったら、意外や意外、弁舌爽やかじゃないの」
 「啓輔、分ってるのか、俺はお前を殺すと誓ったんだぞ」
 「えらいえらい。イヤ本当、そのお陰で確実に暫くは生き延びたよ」
 「啓輔…!」
 「俺、ちゃんと言ったじゃないか。忘れちゃったのか?」
 言われている事が飲み込めずに身を固める冬馬に、長沢は長い指を差し出した。ゆっくりと、かつて言った言葉を繰り返す。
 
 お前が守るのは"俺の要求"だ。"俺"じゃない。そこを良く分かっていてくれ。これが凡てだ、冬馬。お前だけが頼りだ。
 
 銀色の瞳が長沢を射る。初めて言葉の意味を理解した、とその色が言っていた。
 「そう言う事。お前さんの選んだ道は正しかった。どころかお前さん、非常に上手いぜ。
 かいつまんで説明してくれた所しか分からないけどな、子供の遣いとか、そう言う言葉を上手く利用してるし、メインディッシュの前にきちんと前菜平らげてる所なんか、実にセオリー通り。野生の勘は本当に侮れない。ってかお前さん、相当に才能有るぞ。
 根拠の弱さや危険性やら何やら責められるだろ。で、担保が無いと先方も際限なくどんどん責められる。ところがきちんと凡てをご破算に出来る担保を出して、その担保がご破算どころか利点も有るとなると、人間、大概驚いて黙るもんだ。その隙に馬車道を駆け込んでしまえば、存外ゴールまでの道は短いんだよ。
 その隙を作る為には、ちびちび利点を小出ししてちゃ駄目だ。最悪な所まで一回落として、一気にプラスに転じるのが理想だが、普通は中々そうは行かない。でも今回のお前さんのはそれに近いね。あらゆる意味で最良のタイミングで最良の押し方したと思うよ。
 よくやってくれたな。予想外のお前さんの計算高さに救われたよ。お疲れさん、冬馬」
 頭に乗ったままの掌が温かい。ゆっくり前後に動くのも、もどかしくて気持ちが良い。笑顔で労われて、初めて嬉しさと恥ずかしさに気付く。俯くと、掌の感触がもっと強くなった。
 頭をなでられるなどと言うのは、一体いつが最後だろう。日本に来て、頭を撫でた教師はいない。同志にそうされた覚えも無く、思い出す手は恋人の手くらいだ。暖かさが嬉しく、くすぐったい。
 思わずその手を握って頬に寄せる。そのまま口付けると、目の前の髭面がくしゃと笑って気障、と呟いた。
 大きく溜息をつく。ほっとした。
 無我夢中で走ってゴールに飛び込んだ。そこはゴールで有る筈なのに、テープを切った自覚が無かった。優勝カップも迎えも見当たらなくて、目の前のステージの向うに考えが回らなかった。得たのは不安だけで、掴んだのは空だったのだ。成功の実感など、皆無だった。余りにも不安で、一番被害を受けるであろう長沢の元に飛び込む事が出来なかったのだ。
 だが、今。長沢によくやったと言われて初めて実感した。そこがゴールだった事を。この男が言う事ならば正しいのだ。心から安堵する。嬉しいのと同時に、僅かばかり悔しかった。
 何の事は無い。自分は、長沢がいなければ正誤の判断すら出来ない子供なのだ。銃や刃で闘う術は知っていても、簡単な騙しあいすら知らないのだ。それをたった今、思い知った。
 長沢の掌を握ったまま放さぬ冬馬に、長沢は愛想を崩す。揺すってみても、引っ張ってみても、掌は引き抜ける気配が無い。物言いたげな瞳を向けたまま黙りこくる青年の掌に、がっちりと握りこまれている。苦笑が零れた。
 全く、その姿は舌先三寸で獲物を奪い取った論者の物とは思えない。慣れぬ討論で言葉を凡て使い切り、空になった子供のようだ。
 「……そうか、なるほど。計算じゃないのか。だよな。じゃ、思わず口走ったんだな。なぁ冬馬」
 相変わらず掌を抱いたままの無言の瞳が長沢を見据える。言葉に素直に反応する様は、まるで猫か犬のペットのようだ。銀色の硝子玉の瞳。幾ら話しかけても、お前には俺の言葉は理解出来ないし、お前の言葉も俺にはわからない。そんな錯覚さえ覚える。
 「計算じゃなく、売り言葉に買い言葉で、お前が俺を殺すと言ったのか?この手で殺すと口走って、ゴールまで駆け込んだって言うのか?そんな事、出来るのか?
 だってなぁ冬馬。お前さんはかなり冷静だ。感情の振り幅は大きいが、コントロール力は高い。周りも良く見えてるし、分析力もある。そのお前さんがそこまで熱くなるって…よっぽどの煽りが無きゃ無理だ。
 むしろ、その煽りしてくれた奴に感謝だ。それは相当凄い。と言うか、想像に難い。一体お前何言われたの」
 ペットが不意に人間になる。灰色の瞳が険を帯びて長沢を見つめ、分り易く目を反らした。その仕種で逡巡が伝わった。特定の人物への。
 「ああ……煽ったのは先輩なのか」
 先輩、と呼ぶのか。
 「なるほど、なるほど。あの毒舌に煽られたか。青二才だの、役立たずの若造だのと、罵られたか」
 頷く。正確には違う。長沢は大貫が冬馬を罵ったと思っているが、実際に槍玉に挙げられたのは冬馬ではない。
 「あの人の毒舌は他の追随を許さないからなぁ、確かに。毒舌と言うか、辛辣な批評なんだ大概。物凄く的確で、オマケに一言も二言も多い。しかも情け容赦がなくて、かなりの率、本心からの言葉だ。あの人の言葉、気にしても始まらんぜ」
 罵られたのは長沢だ。
 使い古しと、奸物と、卑怯者と。
 大貫の事を笑顔で語る長沢の事を。会ってから今まで変らず尊敬していると言った相手が。
 汚い裏切り者だと思われてる事が悲しいよ。
 大事の前の小事だ。消してしまうに限る。
 
 腕を力任せに引き寄せる。難なく持ち上がる胴に腕を絡める。抱き寄せて、抱き締めて、両脚を絡み付ける。唐突に全身を抱え込まれて、細い身体が硬直した。
 「……っと、冬馬っ……?」
 呼吸を読め、と長沢は言った。自身が言ったことなのだから、実践出来るのかも知れない。これだけ至近距離で、嘘のつけない呼吸をしている今、青年の思いは凡て長沢に筒抜けなのかもしれない。それでも。口に出せずに抱き締める。動けずにしがみ付く。
 耳許で、小さな笑いが漏れた。
 「冬馬、お前が傷つく事じゃないだろ」
 どうせバレているのだろう。
 「それで怒ったのか。ゴールまで駆け込めるくらいに? 馬鹿だなぁ冬馬。今に始まった事じゃないんだよ。俺の扱いはいつだってそんな物なんだ。今更怒ったり、落胆したりしやしないよ。……でもまあ。―有り難うな」
 ゆっくりと腕を剥がす。決まり悪そうな笑顔を、肩口から下ろす。ほっとしたように目の前に腰を落ち着ける男の顔を覗き込む。
 「お疲れさん、冬馬。結果オーライだ」
 人懐こそうな笑みを浮かべた顔を、そのまま押し倒す。まだ言葉を唱える口を、大口を開けて咥え込む。
 「急に腹が減った、啓輔。」
 「そ、そうか。おでんなら有るけど、食う?」
 首を振る。
 「お前が食いたい。腹いっぱい、食いたい。良いだろ、啓輔。良いだろ。頑張ったって褒めてくれたんだ、ご褒美くれても」
 語尾は長沢の口の中で、彼の舌を使って言う。大きめのジーンズとシャツの隙間から腕を滑り込ませて、背中と腿を掴み寄せる。びくりと拘る身体を構わずに腕で辿る。
 待て、落ち着けという言葉は凡て飲み込んだ。ゆっくり、と言う言葉には頷いた。
 ゴールはここだ。間違いない。
 

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