□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 
□ "話" □

 日本は八百万の神の国だと言う。
 事象の凡てに神秘性を抱く感受性豊かな大和民族は、森羅万象に神が宿ると信じた。土に、太陽に風に水、凡てに在る神を敬い、感謝する傍ら恐れた。神は全能で荒ぶる存在であり、人間は小さく、無力な存在だ。
 空に海、実りと滅び。凡てが神と言う不可侵で絶対の力が司る世界の中で生かされている。水にたゆたう藻か、風に弄ばれる木の葉が即ち人間だ。流されて光を求め、定着して繁茂する。そして時に枯れて行く。すべては神の掌だ。そうした畏怖の心が日本人の"自覚"と"道徳"の礎となった。
 お天道様が見ている。月が見ている。一人一人の心に住まう畏怖が、道徳であり神なのだ。"八百万の神"とは、万物に神が宿ると言う意味だ。当然ながら人間にも。
 日本人にとって神とは、人、一人一人の中に其々に在るものであり、固定した人格ではない。
 クリスマスが訪れた。
 凡ての神を容易く受け入れる日本と言う土地に有って、異国の神の子の聖誕祭も当然として受け入れられた。それどころか、最もメジャーなイベントの一つとなっている。本来の意味は後付けとなり、まずは煌びやかな電飾や、美味しい食事、ワインを味わうイベントとして成り立っている。
 店舗も街も住宅地も、目につく物は凡て色とりどりのネオンやモール、愛らしいフィギュアで飾り付けられ、異国の神の子の生誕を祝う。
 それはショーでイベントでビジネスチャンスの一つであっても、そこに宗教色は殆ど無い。異国の神々は、日本人と言う一種独特な宗教観を持つ人種には実におおらかにファジーに"楽しみ"として受け入れられているからだ。
 クリスマスと言う「祭り」は二段構えだ。
 一段目はイヴ。恋人たちが集い、仲間で盛り上がり、パーティと喧騒で溢れる、この日が日本でのメインイベント。二段目のクリスマス当日は、この島国では"祭りの後"程度にしか受け取られていないのが現実だ。
 SOMETHING CAFEもクリスマスを迎えた。
 外食産業の片隅に在る喫茶店にとって、当然ながらクリスマスイヴは非常に重要だ。
 "恋人"達がこれからの一大イベントの助走として"待ち合わせ場所"に利用し、年若い"仲間"達は低予算の"プチパーティ"を開く。仕事途中のビジネスマンや塾に向かう学生達にとっては、移動時間の一部として立ち寄り、美味い珈琲とケーキでお手軽に感じられるマイクリスマスとなる。あるいは常連にとっては。
 自分には既に関わりの薄くなった世間の大はしゃぎを、ぼんやり眺める為の大事な場だ。
 先代の竹下珈琲から、長沢の代になって既に十年以上。記憶の限り最初から幾度と無く繰り返されて来た、これはいわば小さな伝統なのだ。
 今年も同じように24日の浮き足立った賑やかな夜が訪れ、恋人達と学生達、ビジネスマン、業界人、雑多な人々が古びた木の扉をくぐり、珈琲の香りと軽食やケーキを味わい、店主と語らって帰って行った。行く当ての無い常連数人の為に、閉店時間を一時間余り延ばしたのもいつもの事だ。24日。クリスマスイヴ。雪も降らず、風も吹かぬ、極々平凡で穏やかな夜だった。
 24日が暮れ、日が昇る。25日が訪れる。
 12月25日。クリスマス。キリストの聖誕祭。そして。
 徳永 虎之助を裁判長とした最高裁判所第一小法廷、「平成18年(受)第9987号 損害賠償等請求事件」の公判期日である。
 
 師走の25日ともなれば、通常であれば小中高生はとうに冬休みに入り、学生街・神保町界隈は閑散とする時期だ。
 忙しなく動き回る企業戦士と、未だ休みが取れぬビジネスマン達のお陰で、町は僅かにダークを着込む。学生達の緑や茶や紺地のブレーザー、色とりどりのマフラーや派手な模様のバックやソックスが形を潜めてしまうからだ。
 だが今年は違った。秋ごろから騒がれ出した履修時間不足問題の所為で、近辺の高校の多くが補習時間が消化出来ずに続行中、オマケに各種予備校は本来の授業と補習対応授業に当たる所為でいつも以上に騒がしい。25日になっても、それらが収束する気配は一向に見えなかった。
 街は喧騒の中に在る。学区は凡てそうだ。直中に居る長沢には、東京中がそうであるように思えた。だが。
 官公庁街は?特に最高裁判所の所在地、隼町、平河町の辺りはどうなのだろう。長沢は心当たりにリサーチをしてみた。
 「ああ、そうねぇ。流石にそりゃ街中とは違いますよ。お堀間近で民家も無いし。高架で四号線通ってるし、その下の都道も流石に広いし。でも、それなりに今年は混んでるかなぁ。ほら、あの側、民庶党本部やら、会社党本部やら何やらあるでしょう。あの中って割と安く借りられるんですよね」
 24日も暮れる頃、一人で訪れた佐野と言う名の教師がそう言うのに、プティ・オレンジお薦めのダブルケーキを出しながら長沢は頷いた。話好きで口が軽いので、長沢にとって便利な情報源の一人は、嬉しそうにプティ・オレンジ主人の労作を味わっていた。
 ホワイトチョコと生クリームで包まれたフルーツババロアの"ホワイトクリスマス"と、チョコレートスポンジで三種のベリーを挟んだ"ノエル"の組み合わせのダブルケーキ。評判はかなり良いのだが、少々手間がかかるので、クリスマスの期間限定商品である。
 また、SOMETHING CAFEも、二種類のチョコの甘みとコクがブレンドされたケーキに合わせて期間限定のブレンドを用意した。
 ハワイコナ・エクストラ・ファンシー。本場ハワイでは、焙煎を深めにして、苦味を楽しむ珈琲だが、マイルド好きの日本人に合わせてハイ・ローストに押さえ、中細挽きででマシンに合わせた。少々単価が高いので、こちらも期間限定。期間限定コンビの「クリスマスケーキセット」の出来上がりだ。
 「隼町交差点の手前に民庶党で、三宅坂の辺りに会社党が有るんでね。民庶党は教育関係者団体と仲良いですから、学校関係だと割と安く借りられるんですよ。今年は25日もフル稼働じゃないかなあ」
 教育関係団体と言う単語に思わず吹き出してしまったのを、朝のラッシュが徐々に終息するタイミングで思い出す。
 佐野の気持ちは良く分った。彼がその団体の一員で無いのは知っているが、教職に身を置く者には口に出し辛い名なのだろう。団体を揶揄すれば、学校に巣食う団体の教師に攻撃される。自身は攻撃を厭わないくせに、武力を罪悪のように言う矛盾した団体なのだから性質が悪い。言わずもがな、それは、日本の将来を担う若き学生達に、韓国、支那などへ謝罪行脚をさせる教師一団の事である。
 リサーチは、何も佐野だけに行った物では無い。長沢自身も、幾度と無く配達用のジャイロXを飛ばして現地周りを走って見た。昨夜などはちょっとした御土産もして来た。
 母親の作ってくれた弁当を片手にやってくる補習授業生徒、予備校生、臨時の若い教員にも一通り聞いて見た。周囲の店、建築物、イベントを総ざらいして当日に挑んだ。当然、国家組織が掴んでいる情報とは質と量が違うが、土着の情報はなかなかどうして馬鹿にならないのだ。
 25日の朝のラッシュが終わり、仕込み時間を終わらせて11時の再始動時間を迎える。長沢は、ここ数日耳に入れ放しのイヤホンを入れ直した。
 通信に加わらせてくれと行動を始めた日から、正確には冬馬が折衝を行った日から、ずっと店に居る間はイヤホンを片耳に突っ込んでいる。作戦当日はどうしても耳に通信機の一端を装着する必要が有るので、客の目を慣れさせる為だった。
 そんな物が慣れるかと言うと、これが存外直ぐ慣れる。事実、初日こそ客の何人かにそれ何、と聞かれたが、二日目からは触れる者も無い。ジーンズのポケットに放り込んだITプレイヤーと、それに連なる細いラインに好奇心をそそられる者は、二日目で既に居なくなっていた。
 昨日まではITプレイヤーのイヤホンだったが、今日、長沢の耳に入っている物はDII通信機だ。
 昨日までの装備とイヤホン部分は変化が無い。ジャックも共用出来た。長沢が実際の通信機の形状を知っていた訳ではない。ただ、耳に入れる物の形にそれ程のオリジナリティが有るとは思わ無かったに過ぎないのだ。実際、非常にシンプルなそれは、何の違和感も無く、現在長沢のジーンズの尻ポケットに納まっている。
 客に、長沢のして居る事を気取られてはならない。
 平々凡々な喫茶店の店主が、まさかテロリズムに加担しているとは誰も思わぬにしても、"いつもと違う"と思われずに非日常業務をこなすのは難しい。客に気取られずに、通常の喫茶店の業務をしながら、テロに加担するのは少々厄介だ。どうしても緊張感が漂う。一寸した隙に、耳の中の音声に心を奪われている己を自覚する。いつもどおりの装いの下で、そっと深呼吸をした。直ぐ、慣れるさ。慣れなければ。
 
 折衝のあった夜、冬馬から"話"の概略を聞いた。
 形式上、部外者である長沢には"話"の全容を知る事は許されないが、元々選択的な知識しか与えられていない冬馬の知る部分だけは他のキャストも目を瞑ったらしい。特に規制は無かったから、現時点で俺が知る事はざっと話しておく。布団の中で、まだ荒い息を持て余す咽喉が、長沢の耳に囁いた。
 近視の長沢にも良く見える至近距離から、奇妙な銀色の瞳を見上げる。この男の役目は良く知っている。対象に死を運ぶ実働隊。アサシン、殺し屋、始末人、名前は何でも良い。方法を選ばずに最短距離で日本を変えようという一団の、その"方法"の実行者だ。そして自分は。
 その実行者をサポートする外部の一般人。滑稽といえば滑稽だった。
 連日、死が身近に佇んでいた時期も有ったが、自らの手で直接他者に死を与えた経験は、長沢には無い。思わずストレートにどうやるんだと問うと、邪気の無い瞳が真っ直ぐに長沢を射た。
 「老人の死は、他に重篤な病でも抱えていない限り、肺炎か心不全と決まっている。今回は心不全だ。簡単な物だ。俺が眠らせる」
 
 店の戸口のベルがコロコロと聞きなれた音を立てた。
 軽く目を上げて、昼の部の挨拶を口にして、目線を手元に戻す。隣で看板娘の奥田 早紀がお冷とお絞りを盆に乗せて身を翻す。日常の中で長沢はゆっくりと"話"を反芻した。
 今日の天気を語るように、夕飯のメニューを語るように、揺らぎの無いハスキーな低音が死の方針を語った。つい先程まで熱に浮かされていた瞳はそこに無く、真正面から見る銀色の瞳は夜の薄闇の中で澄んでいた。
 「時間は12時10分を予定している。実行者は二人。一人が事務官を制圧、一人が標的を仕留める。俺は標的を受け持つ。
 時間はあくまでも概算だ。可能な限り穏便に、速やかに使命を終えるには、相手の日常に合わせる必要が有る。俺達実働隊には、ギリギリまで"話"の内容は知らされないが、知らされたらその日から行動に移る。訓練も、実施もだ。今回は、標的に近付いてからまだ三日目。実効当日までに俺達は俺達の予備行動を完成させる。言われるままに動く。
 使命を果たしたら、後は速やかに身を隠すだけだ。捕らえられてはならない。存在も捕まれては……ならない」
 捕らえられれば、彼の背後の存在が知れる。例え自ら命を絶ったとしても、実働隊が捕らえられれば、その団体の存在が明確になる。神秘性が失われる。"彼ら"秋津の"対象"は見えない脅威に脅えるのではなく、現実のテロリズムに対抗する"被害者"になりかねない。
 いずれ存在がクローズアップされるにしても、現段階でそれは時期尚早なのだ。
 秋津と言う団体の、最も外側に位置する実働隊は、最も影の存在だ。不思議だと思った。
 ホワイトグレイの髪も、涼しい目許も、バランスの取れた長身も、いずれも人目を惹かずにはいられない筈の容貌の青年が実行者だと言うのも不可思議だ。だが、その青年が実に良く影の役目を果たし得ている現実は更に不思議だった。じっと見ていた視線から、長沢の意図を汲み取ったのか、青年がらしくも無く苦笑した。
 「俺達に顔は無いんだ、啓輔」
 「……え?」
 「お前は意外に思うだろうが、普通の人間は無意識に自己アピールをしている。だから人の印象に残るんだ。不審者として捕らえられるのは、不審なアピールをしているからだ。犯人が捕まるのは、無意識に己の存在を顕示しているからだ。だが俺達は違うんだよ。
 俺達は、木で泥だ。地面で、壁。有るべき所に有る様にして埋もれれば、誰の目にも映らない。記憶にも残らない」
 
 イヤホンから、ビープ音が響いた。
 唐突の事に思わず飛び上がり、慌ててボリュームを調整して、今一度しっかりと耳に押し込む。たまたま狭い厨房に居たタイミングで良かったと、反応してしまってから溜息をつく。不用意な自身を呪う。しっかりしろ、長沢啓輔。心中で自身に喝を入れる。こんな事では客の誰かの印象に残る。それでは駄目なのだ。
 これから恐らくは一時間程、耳許の音に鈍感に振舞い、尚且つ機敏に行動せねばならない。"話"のコアタイムが、SOMETHING CAFEの混雑のコアタイムをかすっている事をかすかに呪ってから首を振る。
 いや、それは違う。それは却ってラッキーな筈だ。
 混雑の最中であれば、人は一人一人の動きに注意を払わない。店主が不用意な反応をしたとして、それを気に留めるものはまず居ない。それに、恐らくは。
 現地の情報を携帯と言うアトラクティブなツールで掴んでいる団体がやってくる。混雑はむしろ味方であって、利用すべき物の筈だ。恐らくは敵ではない。敵にしてはならないのだ。
 徐々に混み始める店内に対応する長沢の耳許に、幾人かの会話が注ぎ込まれる。短くて簡潔な、英語だった。
 ―― We Recieved it. From Commander to All. The order was Organic1.Sakure-set.as usual.Start a strategy.over(着信。指令からオール。オーガニック1、さくらセット。いつもどおりだ。開始。オーヴァ)
 ――Copy.This is Asa-giri.It's115200 I start Story.(あさぎり。コピー。115200開始。)
 ―― I copy. (コピー。)
 ―― The state that cannot reply has her "Yuu-nagi", but is all Green.(ゆうなぎ、応答不可だがオールグリーン。)
 ―― Copy.(コピー。)
 声の主は二人。クリアな音声が始まりを告げる。状況は良く分からない。わかっているのは、"実行者"が"対象"からの注文に応じて、これから最高裁に入ると言う事だけだ。
 "あさぎり"と名乗っているのが冬馬で、"ゆうなぎ"はもう一人の実働隊。"指令"は秋津の別キャスト。短い会話で長沢に推測できるのはその程度だ。指令の声は、以前に聞いた覚えが有る気がしたが、思い過ごしかも知れぬ。
 「マスター。A二つ、アメリカンで。B一つカフェ・オ・レです」
 「コピー」
 「何ですかそれ?」
 「知らない?了解、って事」
 奥田 早紀が、知らなぁい、と答えながら奥の座席に消える。厨房でプレートを整えてカウンタに運ぶと、北村がアメリカン用の大きな丸いマグと、カフェ・オ・レ用の寸胴なマグを乗せる。バイトがそれを受け取るのと同時に、耳の奥で冬馬が I go と呟いた。
 ―― ぱちん。
 かち、こん、がさがさ。
 幾つかの雑音が響いて静かになる。後に続く衣擦れの音と規則正しい足音を、長沢は息を呑んで聞いていた。
 戸口のベルが鳴る。
 「いらっしゃいませ、メリークリスマス」
 言いながら目を上げ…… どくん、と心臓が撥ねる衝撃を呑み下した。
 混雑のコアタイムが味方になると思ったのは、その人数だ。
 客と主人、客同士、標的の数が大きくなればなる程、個人に注がれる注意力は必然的に減る。人間の観察力も記憶力も、それ程大した事は無い。人数分に意識を分散してしまえば、殆ど何も残らない。それが普通だ。ただし。
 一般的な間柄には、だ。
 では、一般的な間柄ではなかったら? 先方が恐ろしく注意深く用心深い、元公安の刑事だったら?しかもその公安が、特定の人物、つまり長沢自身に一般的では無い感情を抱いているとしたら?話は全く別である。
 人数など何人いようが大した問題ではない。記憶?それは永遠のメモリーに等しい。
 乱反射する昼の陽光が、本来逆光で影になる筈の顔の造作を、はっきりと見せていた。決まり悪そうな笑顔を浮かべ、暫し戸口から動かない。
 このまま立ち去ろうか、それとも入るか。そんな悩みがはっきりと読み取れる動作だった。ネイビーのシャツにグレイのスーツ。ノーネクタイでボタンを2段まで外し、着崩しているのが逆に似合っている。
 意を決するように首を振り、大股でカウンタ席に歩み寄る。ドカンと腰を掛けた後で、人懐こそうな顔が初めて間近で真っ直ぐに長沢の眼を見上げた。
 「どぉも。Kちゃん、お久」
 この男の目を気味が悪いとか、怖いなどと感じたことはかつて無かった。だが今は。
 ちゃらんぽらんに見える慧眼が、心底恐ろしい。
 どんな小さな動作から、この男は理由を読み取るのだろう。ちっぽけな失敗が、自らの死に直結する。自らの生にそれ程の固執が有ると思って居なかったのに、体の芯が震えた。この男の目を通じて持たらされる物に背筋が凍る。気取られたら。
 何の事は無い反応で、小さな失敗で。日常からのほんの1mmのズレで。自分のやっている事が気取られたら。
 行われるのは粛清だ。他でもない、同志の手で。たった一人の同志の手で。このSOMETHING CAFEが墓標となる。
 思わず、笑みが零れた。
 滑稽だ。たった一人の常連の前で縮み上がって居る店主と、その店主の思いも知らず、反応をオドオドと見守っている客と。そのギャップに吹き出しそうになる。全く、滑稽だ。
 「……な、何だよ。いきなり何笑ってんのよ、常連に対して失礼な店主の態度」
 分り易い指標が出来たではないか。この男をやり過ごせれば成功、生き延びられると言う事だ。失敗すれば死。THE END。それだけの事だ。分り易くて丁度良い。
 含み笑いしながら、お絞りとお冷をカウンタに置く。何と言う皮肉か。
 十年来、この男は女好きの人の良い自称"探偵"で、最も気の置けない常連の一人だったのだ。日本映画を守る会会員で、陽気なお調子者。それがつい二月程前に刑事になった。店に最初に訪れた時から刑事で、その嘘の理由を「十年来思っている長沢に嫌われたくないから」だと告白した。剥がれ落ちた嘘の一つ一つが、長沢が今まで見ていたこの男と言うものを変えた。
 女好きで、人の良いお調子者だった筈の男は、計算高く、用心深い、元公安に変った。悪い人間だとは思わない。根は純真で情に厚い、長沢よりは余程の正義漢で実直な男だ。だが。
 死神だ。
 皮肉な物だ。らしくも無く真剣な顔で、本気であんたが好きだと言ったこの男が、自分に死をもたらす死神になる。彼自身自覚も無く、その意思も未だ無く。
 笑みが零れた。
 「ごめんごめん。だってなあ。河岸変えたのかと思えば、クリスマスに一人っきりで来るなんて。君もつくづく酔狂な男だよ。
 ―――なぁ、楢岡くん」
 

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