□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 
□ 事件 □

 泥の中から這い登って目を醒ますと、通常の起床時間の5時を大きくオーバーした9時15分だった。
 いつもとは違う白い光と独特の匂いに包まれて目を開け、状況が分からずに周りを見まわす。
 長沢を取り囲んでいるのは、白一色の室内だった。頭上に有るのは、鉄筋コンクリートの頑丈そうな壁。白いだけの無愛想な壁に見えるが、その中ほどに何種類かのギミックを詰め込んだ20cmほどのアルミ板が通っている。左手方向は頭上から足下までカーテンで遮られていて、何も見る事は出来ない。足下には大きなガラス窓があった。
 そのガラス窓の向こうに見えるのは外ではなく、廊下。多くの人々が行きかう、無機質な廊下だった。
 見覚えが、有った。
 病院だ。幾度も珈琲を届けに来た事がある大学病院。
 眼鏡橋を超えて直ぐ、広大な敷地に立つ、爛天堂大学病院。その外来の一部に、自分は今いるのだ。
 SOMETHING CAFEから歩いて10分足らず、急げば五分の距離にある、ご近所の大総合病院だ。昔ながらの、むき出しのパイプと凹凸だらけの鉄筋の外観。緑の多い中庭。キャンパスに続く小路の脇には、ガラス製の温室が有り、植物園になっている。休みの日には若者や近所住民の小洒落たデートコースになる、そんな造りになっていた。戦前からある教育機関が、一番潤沢に持つ資産は土地かもしれぬ。
 珈琲を入れたポットと軽食をジャイロXの後部に積んで、幾度と無く通った廊下が、今、自分の足下に見えていた。
 この場所は本館一階、外来の奥にある「恒温室」だ。入院前の患者を適湿適温に保たれた部屋で数時間休ませ、その間に患者の動揺を鎮め、本来の病状を観察する為の静置室だ。
 と、CAFEの常連客(なじみ)の医師が言っていた。自分が今いるのは、入院前の患者が入る部屋なのだ。
 ぼんやりと廊下を見ている長沢を、ぬいぐるみを噛んでぶら下げている少女が見返していた。目が合って、決まり悪く愛想笑いする長沢に気付かず、母親が少女を連れて消えていく。
 改めて、ベッドの上に身体を休めた。足下を覗き込むような姿勢を伸ばして、天井を見上げる。空気清浄機のモーター音が微かに聞こえた。
 情況の掴めない朝を迎えるのは連続で二日。人生の中でも数える程しかないと言うのに、しかもその殆ど全てが学生時代の馬鹿呑みの翌日だと言うのに、この年になって連日とは恐れ入る。記憶を辿ろうとして…諦めた。
 「目が覚めたか、マスター」
 聞き覚えのある胴間声が、足下から入って来た。どうやら窓ガラスの並びに、これまた大きなガラス窓のついた引き戸があって、そこから入って来たらしい。長沢が、数え切れないほどいらっしゃいませを繰り返した顔がそこで微笑んでいた。
 「酒井先生……」
 口を開いて、自分の声に驚く。ガサガサにひび割れ、かろうじて聞き取れるくらいの音声。風邪にしても、ここまで声を潰した経験はかつて無い。
 「あー、酷ぇ声だね。しゃべらなくて良いよ」
 何故、ここにいいるんですか。そう聞こうと口を開けると同時に、医師の手がそれを制した。
 「明け方に、誰かがあんたを救急窓口に運んで来たんだよ。傷だらけで意識も無いし、高熱だしで、応急処置後に救急のベッドに居たのを、僕が今朝出勤して受け取った。診察を終えて投薬、恒温室にて経過観察。9時半から外来を始めるので、その前に最終点検に来たのが今と言うわけ」
 お世話になりました、という意味で頭を下げる。声を使わなくてもきちんと伝わる物で、医師はいやいやと、小さくかぶりを振った。
 「ああ、先に伝えておかないとな。早紀ちゃんから伝言が有るんだ。SOMETHING CAFEに警察が入ったので、刑事さんが事情を聞きに行っても驚かないで下さいね、だそうだよ」
 ぎょっ、として医師を見上げる。警察? 何故警察が入るのだ。
 声にはならなかったが、長沢の動揺と困惑は医師にストレートに伝わったらしい。医師は苦笑交じりに綺麗とは言えぬ髭面をこすって呟いた。
 「あんたがここにいる事、一応言っといてやらにゃと思って早紀ちゃんに電話したんだよ。そしたら妙に電話先がざわざわしててな、今皆で警察を呼んだ所だったんですと言うんだ。CAFEのマスターがウチに来とるぞと伝えたら、良かった、マスター、さらわれたり殺されたりした訳じゃないんだ、だとさ。
 最近ではCAFEのマスターと言うのは、そう言う危ない仕事をしてるのか?あんた一体何をしてるんだね」
 両手で面を覆う。
 恐らくは従業員は、昨日今日の出来事にパニックになって警察を呼んだのだろう。店長が傷だらけになっている上に、怪しい人物が店に現れ、しかもその翌日、当の店長が姿を消す。想像力豊かな奥田早紀辺りが、すわ事件だの陰謀だのと有難迷惑な心配をした挙句、警察を呼ぼうという事にでもなったのだろう。気遣ってくれるのも、心配してくれるのも有難い。有難い、が。
 実に余計な事をしてくれた。
 こんなプライベートのごたごたに警察が介入するというのか。冗談じゃない。
 「その方が良いんじゃないかな、マスター」
 長沢に、静かな医師の声が降り注ぐ。面を覆っていた手を外すと、医師の苦笑が有った。
 「診察開始時間まで間がないんで、気を遣った言葉は省略させてもらうよマスター。あんたの私生活をどうこう言うつもりは無いし、あんたの事だから危ない仕事をしているとも思わんがね。だが、あんたに肛門性愛の趣味が無いなら、これは明らかに暴行傷害だ。と言うか、あっても、余程のSMプレイ好きじゃないなら、全身の傷は紛れも無くそうだがね。違わないだろ?」
 相手は医師なのだ。人事不省に陥った情況を、ここまで回復させてくれた一団の一人なのだ。今更の嘘に何の意味も無い。長沢は渋々頷いた。
 「病名は肺炎だが、今のあんたの症状は全身性の感染症。あんたの年で一気に来た原因は、素直に考えて一連の暴行。
 一日じゃないだろう、暴行は。一回目の時に感染症を起こしたんだね。昨日、腹は下ってなかったか?相当の高熱もあった筈だし、節々が痛んだり、食欲が無かったり、酷くだるかったり、咳が途切れなかったりした筈なんだが。」
 言われてみれば。長沢は驚いた。
 あんな滅茶苦茶な行為の後だから、腹を壊すのも腰が痛むのも食欲が無いのも、何となく納得していた。何日か経てば治るのだと勝手に思い込んでいた。症状に他の理由が有るなどと、てんと思いも至らなかった。
 「それを放置した上に、恐らくは重ねて暴行が有った為の全身症状だろうが、肺は真っ白だわ、熱は42度だわで、少々他の条件が無いか気にかかる。あんたを暴行したのは外国人か?」
 首を振る。冬馬と言っていたし、顔立ちも駆使する日本語も日本人の物だった。
 「外国帰りである場合、危険な感染症のケースも考えられるから、検査が終わるまで二三日泊まっていきなさい」
 医師が、分かったね、と確認の意思をこめて布団の上の長沢の手を上から掴む。長沢は頷いた。言葉ではなく、視線と態度で再度、ご面倒かけましたと詫びる。医師は廊下の先の、恐らくは壁時計を確認してから、頷いて出て行った。
 お大事に。
 医師にとっては単なる日常の挨拶が、その時の長沢には妙に暖かく感じられて、胸の奥に染みた。

 一人になった清浄な室内で深呼吸をする。
 普段なら、モーニングの客をこなした後の短い休憩で、ランチメニューの用意がてらブランチと言う名の余り物をぱくついている頃だ。取り囲むのは木造とレンガの茶色い風景と珈琲の香り。今はそのどちらも無かった。
 まったく、みっともない。こんなみっともない事態を、覚悟した事などあったろうか。
 希望に溢れていた若い時期があった。自分の可能性も能力も未知で、知識も経験も無い癖に野望だけが空回りして、喜んだり悲しんだりで駆け抜けた時期。社会人になって初めての季節だった。
 仕事を覚えて徐々に成果を上げ、信頼してくれる人の数も増え、俺はもしかしてかなり有能な人材ではないかと冗談半分で思った。いつしか、自らを鼓舞させる意味もこめて、"これからが俺の時代だ”と信じた。仕事の選択肢も増え、日々のノルマをこなした後に新しい仕事のみならず、趣味にまで手を伸ばせた。出会いがあって結婚をし、子供も生まれて、世界はなんと俺に容易いのだと思った。
 バブルと呼ばれる時代。金融界は絶好調だった。地価も株価も、経済全体が青天井に上昇していくと信じられていた。銀行は手当たり次第に融資をし、今迄は合格ラインに遠く及ばなかった未知数の小企業にも怖い物知らずに援助をした。この好調は普遍なのだと。事業が広がって行くのは、宇宙が膨張するのと同じくらい間違いの無い事実なのだと誰もが信じた。信じ切った頃。
 あっさりとバブルは弾けたのだ。
 人間の想像力や覚悟など、実にちっぽけな物なのだ。広い視野を持っているつもりで居たのに、つい隣の窓の景色が見えていなかった。一秒に24コマ切り替わるフィルムの、ほんの数コマ先すら見えていなかったのだ。金を掴み、善意を振りまいていると思っていた両手が血の色に染まるまで、二年とかからなかった。
 忘れられない。尋ねた先の工場で工場長の首吊り死体をみつけ、それを報告に行った工場長宅で横たわっている彼の妻と、子供たちを発見した日の事を。
 自らを呪った。視野の狭さを、想像力の無さを、覚悟の浅さを呪った。連日債権者の許に通い、債権者の哀願と怒号と困惑に頭の上迄沈む日々を過ごした。増える死に懺悔した。ある日訪れた債権先がもぬけの殻になっていた時、怒りより安堵を感じた。生死と金はこんなにも近い物だったのだと、呆然と悟った。
 無理な融資をした。バブルが弾けた。では、耳を揃えて即刻金を返せ。それが長沢の業務だった。こなした。必死でこなした。家で彼を待つ家族の為にこなした。だがそんなある日、帰宅すると妻と子供が消えていた。
 慌てて四方八方を探しに出たが見つけられず、悄然と家に帰り着くと、留守番電話が点滅していた。妻と子供からの電話だと思い、テープを回すと、流れ出したのは呪詛の言葉だった。

 返せと言われても無い物は返せないのよ、鬼。
 死ねば良いのか?死ねば保険金で賄えるのか?じゃあ、今から死んでやるよ。
 お前のダンナが何をしてるか知ってんのか。貸しはがしだ貸しはがし!! 悪魔の手先め!!
 死ね!私の夫のように死ね!
 このままじゃ、家の人、死んでしまう。お願いだから力を貸してよ、貸してください。貸して下さい!お願いよぅ…
 パパを救って。パパに酷いことしたら、私が懲らしめてやるから。

 呪いの言葉の奔流に押し流されながら、長沢は泣いた。妻が連日これを聞かされ、追い詰められて行った事を、彼は初めて知ったのだ。
 知らなかった。全く気づかなかった。長沢は自分自身の痛みの中に沈んで、それで精一杯だった。自分の痛みだけが心配で、やさしく長沢を迎え入れてくれた妻の痛みに気づかなかった。知ろうともしなかった。だから。
 妻は出て行った。責められない。悪いのは…視野の狭かった自分だ。全て自分の所為なのだ。
 それから、様々な事を覚悟した。自分の残りの人生に、野望も夢も期待するのを諦めた。諦めた、のに。
 人間は浅ましい。それでも生きている限り夢を見るのだ。平穏な生活を。小さな幸せを。責任を取りきれずに逃げて閉じこもった空間で、まだ夢見るのだ。世界の隅の穏やかな生活を。だがそれは。
 今、壊れつつある。
 みっともない。人はなんと進歩しない物なのか。広い視野を持ったつもりで隣が見えていなかった若い時代。あれから20年が経ったと言うのに、自分の目には相変わらず何も見えていない。平穏の隣に、膝を抱えて蹲る悪意の存在に、気付いてすらいなかったのだ。
 みっともない。あの頃のようにあがいてもがいて傷付いて見せれば、逃げ場があるなどとそんな甘い事をまだ俺は言うつもりなのか。
 溜息が出た。
 陵辱は耐え難い。だが、全てを捨てて逃げ出そうと思う自分を許すのは、さらに耐え難い。ではどうする。答えはまるで出てこなかった。

 死んじまえ………いつか殺す

 不意に、自分が投げつけた呪いの言葉が蘇る。
 意識を失う寸前に、余りにも懇願してばかりの自分に腹が立って、相手と言うよりは半ば自分に叩きつけた言葉だった。
 死ぬ、方は幾度と無く考えた。それこそ何度も何度も。四六時中。しかし、殺す、方は今までの人生で余り考えた記憶が無い。苦笑が零れた。
 自分が?死ぬ、でなく、殺す?無理無理。絶対に出来ない。殺そうと思った所で殺されるのが関の山だ。第一、想像すら出来ない。
 当てにならぬ、自分の、狭い、視野では。
 

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