――― 変らないな。官奴婢。 耳の中のシーンが、SOMETHING CAFEのリアルに混じり混む。反射的に身を固める。どうしようもなかった。 頭ではきちんと分っているのだ。慌てて周りを見回してはならない。顔色を変えてはならない。耳の中の音に身体で反応してはならない。不自然だから、異常だから。だが、反射で起こるこれらの反応はとどめようが無かった。 思わず辺りを見回して目を閉じる。心臓が早鐘のように鳴っていた。 落ち着け、落ち着け長沢啓輔。耳の中に有るのは、猿楽町から3km以上も離れた隼町の現実なのだ。ここで慌ててもどうにもならない。何の足しにもならないのだ。動揺は百害有って一理無しだ。どころか。 動揺は死神の鎌を振り下ろす銃爪以外の何物にもならない。だから落ち着け。――落ち着け。 目を閉じて深呼吸する。SOMETHING CAFEに戻るのだ、自らにそう呪文をかけながら瞼を上げる。目の前に楢岡の心配そうな顔があった。 「どうしたKちゃん?」 ――― 官奴婢。それがあんたの影で呼ばれていた仇名だって?他には倭奴とか、Commyとかチョッキとか。バラエティに富んでるなぁ。 ――― 女は従順なタイプ。男はクールなタイプが好きだとも聞いた。俺はあんたの…タイプなのかな。俺が欲しいか官奴婢。それともCommy? あんたの好きに呼んでやるよ。 二つの場所が混じりあう。思わず上げそうになった声を呑み込んで、改めて自身に言い聞かせる。反応すべきは目の前に有る現実で、耳の中の物ではない。反応すべきは。 「顔色悪くない?」 こちらだ。 「え?そんな事ないと思うけど……。んー、この所若いお客さんが多くて、精力吸い取られてるってのは有るかも」 耳の中で低く笑う、ハスキーボイスに蓋をする。先程までの快活な音色とはまるで違う、低い声を意識の下に封じ込める。引きづられそうになる意識を強引に引き戻す。看板娘が横で笑った。 「ヤだぁマスター、言い方が危ない。クリスマスセット二つお願いしまーす」 「危ない……って、何か言ったかな」 「精力、でしょ。Kちゃんが言うと援交くさい、なぁ早紀ちゃん」 「そーですけど。楢岡さんが言うと風俗の匂いしかしないから、それよりは良いかも」 看板娘の言葉に笑いつつ、楢岡に目を運ぶ。屈託の無い笑顔に、変化は見られなかった。 ――― お前……!? 耳の中で、徳永 虎之助が身構える。いくら3km先の現実だと知っていても意識の奥にはしまい込めない。衣擦れの音が脳の中を撫でて行く。慣れる事が難しい。 ――― 誰だ。 掠れた息が行き来する。低い笑い声が耳の底に沈む。楽しげで、暗い声。衣擦れの音が響いた。 ――― 思い当たる節は幾らでも有るだろう。俺は誰の遣いにも当て嵌まる。例えば、76年の3歳児誘拐刑事裁判や、89年の岡山父権裁判、91年の葛飾医療過誤裁判、つい去年の鎌倉尊厳死裁判……他にも山と有る。違うか?俺よりずぅぅっと知っている筈だ。………何せあんたは本人なんだから。 さあ。ハスキーボイスが近付く。 ――― 俺は誰の遣いだ? ――― お前。 衣擦れ。スプリングの軋む音。ぎしぎしと、重い物が上に乗ったままスプリングの上を移動する気配。ぎしぎしぎし。幾度かその音が行き来する。 ――― お前! 次に続く言葉を待つ耳に、かっ、と、咳き込むような、吐き出すような音色が響く。 二つの現実が混じりあう耳の中で、もみ合う気配が底に溜まって行く。衣擦れ。何か水気の多いものが床を叩く音。床を靴が蹴る音、大きくこすり付けるような衣擦れの音。マイクを圧倒するそれらの音が不意に止むと同時に、その裏から激しい呼吸音が湧き出した。 不思議な呼吸音だった。 息を吐いて吸うから呼吸なのだ。どちらか片方の物は呼吸ではない。耳の中の呼吸音は、必死に吸って吸って、吸い続けて途切れる。喘ぐような声がたった一度、ほんの一瞬、耳を満たして消える。クリアに。騒いでぱたりと掻き消えた。 周囲を見回す。耳の中の現実から逃れられない。3km先の現実の変動についていけない。目の前の現実に変動が無い事を祈りながら周囲に目を運ぶ。頭を低くして、面を伏せながら見回す。視界の端にカプチーノを味わっている楢岡を認めて俯く。頼む。 誰も、こちらを見るな。今はこの世界の何も動くな。 ――― …! ……! 耳の中から音が消えた。何かが蠢く気配だけはするものの、それは単に長沢の思い過ごしかも知れぬ。耳の中は静寂なのだ。うるさいほどに。 静寂が響いていた。金属音のように。高く。けたたましく。 はぁっ。 落ち着いた呼吸音が一つ。世界に君臨した。 ――― Completed. I leave here. 「B三つブレンド、ダブルケーキ一つ」 「あーそーそーそー。ん。今ついたよ〜」 「こんちわ〜」 「マースターァ、来たげたよー」 混じる。入り混じる。耳の中の現実に、SOMETHING CAFEの現実が強引に雪崩れ込んで混じりあう。扉のベルの音と客と業務連絡と。凡てが一気に雪崩れ込む。 呼吸音。呻き声、静寂。ベルの音。ダブルケーキ。I Completed.ついたよ。 頭の中で現実が渦を巻く。犇く。 ぱたん。 カウンタの下についた手の甲に、雫が落ちた。 「わ?」 ぱたぱたぱた。一端落ちた雫は留まる事無く、そのまま糸を引いて滴り落ちる。あ、と気付いた時には既に数滴が手の甲に筋を引いていた。 「うわ何マスター、あたし見て何ハナヂ出してんのー!?」 「えー!? マスターエローい」 「わ、きったね。何だよそれ」 慌てて鼻を押さえて上を向く。最悪だ。動揺を気取られるどころの話では無い。動揺していましたと自ら申し出たに等しい所業だ。対応に戸惑う長沢の鼻を、カウンタの楢岡がティッシュでつまんだ。 「どうした、Kちゃん。やっぱ相当疲れてるんじゃないか?大丈夫か……?」 分からない。 押し付けられたティッシュを取って鼻をつまむ。どこまでが平常と認められるのだ。楢岡は長沢の鼻血癖を知っている。これは平常なのか、それともこれは平常の事ではないのか。判断はつかなかった。 死神の鎌に手が掛かったのか?鎌は持ち上げられたのか?分からないままに、気分が転がり落ちていく。 耳の中には規則正しい足音が響いていた。かすかな衣擦れと、足音と。最後に女性の声が遠くを掠った。 ――― だ、誰か。誰かぁ。きゅ、救急車を。 転がり落ちる意識を引き止める。長沢は楢岡を見上げた。自分より数センチ背の高い男の、気遣わし気な瞳を見上げる。瞳に映る影を。ちっぽけな己自身の姿を。 何をしている? 長沢啓輔。 対応すべきなのは、現実だ。たった今と、その先だ。過去を思い煩う事に今この瞬間、何の意味がある。 どこまでが平常として認識されるのか。この男が何を感じ、どこまで読み取り、気遣っているのか訝しんでいるのか。そんな事を思い煩ってどうなる。そんな詮無い事に割く時間など、今は無い。今対応すべきは現実だ。SOMETHING CAFEと耳の中の、二つの現実だけなのだ。 鼻に押し付けられたままの男の手を取る。やんわりと剥がして目で詫びる。楢岡がゆっくりと手を放した。 「悪い、楢岡くん。癖ってどうしようもないな。コントロールが効かない。…助かった、サンキュ。衛生的に考えると、やっぱ保健所通達モンかな」 「良かったねぇ、俺が元公安で。厚生省職員でなくて」 「ホントな」 苦笑して見上げる。 対応すべきは二つの現実だ。慣れ親しんだSOMETHING CAFEと。 何かが起きつつある、3km先の"話"の現場の。 「大丈夫ぅ?ハナヂマスター?」
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