□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 ――― 変らないな。官奴婢。
 耳の中のシーンが、SOMETHING CAFEのリアルに混じり混む。反射的に身を固める。どうしようもなかった。
 頭ではきちんと分っているのだ。慌てて周りを見回してはならない。顔色を変えてはならない。耳の中の音に身体で反応してはならない。不自然だから、異常だから。だが、反射で起こるこれらの反応はとどめようが無かった。
 思わず辺りを見回して目を閉じる。心臓が早鐘のように鳴っていた。
 落ち着け、落ち着け長沢啓輔。耳の中に有るのは、猿楽町から3km以上も離れた隼町の現実なのだ。ここで慌ててもどうにもならない。何の足しにもならないのだ。動揺は百害有って一理無しだ。どころか。
 動揺は死神の鎌を振り下ろす銃爪以外の何物にもならない。だから落ち着け。――落ち着け。
 目を閉じて深呼吸する。SOMETHING CAFEに戻るのだ、自らにそう呪文をかけながら瞼を上げる。目の前に楢岡の心配そうな顔があった。
 「どうしたKちゃん?」
 ――― 官奴婢。それがあんたの影で呼ばれていた仇名だって?他には倭奴とか、Commyとかチョッキとか。バラエティに富んでるなぁ。
 ――― 女は従順なタイプ。男はクールなタイプが好きだとも聞いた。俺はあんたの…タイプなのかな。俺が欲しいか官奴婢。それともCommy? あんたの好きに呼んでやるよ。
 二つの場所が混じりあう。思わず上げそうになった声を呑み込んで、改めて自身に言い聞かせる。反応すべきは目の前に有る現実で、耳の中の物ではない。反応すべきは。
 「顔色悪くない?」
 こちらだ。
 「え?そんな事ないと思うけど……。んー、この所若いお客さんが多くて、精力吸い取られてるってのは有るかも」
 耳の中で低く笑う、ハスキーボイスに蓋をする。先程までの快活な音色とはまるで違う、低い声を意識の下に封じ込める。引きづられそうになる意識を強引に引き戻す。看板娘が横で笑った。
 「ヤだぁマスター、言い方が危ない。クリスマスセット二つお願いしまーす」
 「危ない……って、何か言ったかな」
 「精力、でしょ。Kちゃんが言うと援交くさい、なぁ早紀ちゃん」
 「そーですけど。楢岡さんが言うと風俗の匂いしかしないから、それよりは良いかも」
 看板娘の言葉に笑いつつ、楢岡に目を運ぶ。屈託の無い笑顔に、変化は見られなかった。
 ――― お前……!?
 耳の中で、徳永 虎之助が身構える。いくら3km先の現実だと知っていても意識の奥にはしまい込めない。衣擦れの音が脳の中を撫でて行く。慣れる事が難しい。
 ――― 誰だ。
 掠れた息が行き来する。低い笑い声が耳の底に沈む。楽しげで、暗い声。衣擦れの音が響いた。
 ――― 思い当たる節は幾らでも有るだろう。俺は誰の遣いにも当て嵌まる。例えば、76年の3歳児誘拐刑事裁判や、89年の岡山父権裁判、91年の葛飾医療過誤裁判、つい去年の鎌倉尊厳死裁判……他にも山と有る。違うか?俺よりずぅぅっと知っている筈だ。………何せあんたは本人なんだから。
 さあ。ハスキーボイスが近付く。
 ――― 俺は誰の遣いだ?
 ――― お前。
 衣擦れ。スプリングの軋む音。ぎしぎしと、重い物が上に乗ったままスプリングの上を移動する気配。ぎしぎしぎし。幾度かその音が行き来する。
 ――― お前!
 次に続く言葉を待つ耳に、かっ、と、咳き込むような、吐き出すような音色が響く。
 二つの現実が混じりあう耳の中で、もみ合う気配が底に溜まって行く。衣擦れ。何か水気の多いものが床を叩く音。床を靴が蹴る音、大きくこすり付けるような衣擦れの音。マイクを圧倒するそれらの音が不意に止むと同時に、その裏から激しい呼吸音が湧き出した。
 不思議な呼吸音だった。
 息を吐いて吸うから呼吸なのだ。どちらか片方の物は呼吸ではない。耳の中の呼吸音は、必死に吸って吸って、吸い続けて途切れる。喘ぐような声がたった一度、ほんの一瞬、耳を満たして消える。クリアに。騒いでぱたりと掻き消えた。
 周囲を見回す。耳の中の現実から逃れられない。3km先の現実の変動についていけない。目の前の現実に変動が無い事を祈りながら周囲に目を運ぶ。頭を低くして、面を伏せながら見回す。視界の端にカプチーノを味わっている楢岡を認めて俯く。頼む。
 誰も、こちらを見るな。今はこの世界の何も動くな。
 ――― …! ……!
 耳の中から音が消えた。何かが蠢く気配だけはするものの、それは単に長沢の思い過ごしかも知れぬ。耳の中は静寂なのだ。うるさいほどに。
 静寂が響いていた。金属音のように。高く。けたたましく。
 はぁっ。
 落ち着いた呼吸音が一つ。世界に君臨した。
 ――― Completed. I leave here.
 「B三つブレンド、ダブルケーキ一つ」
 「あーそーそーそー。ん。今ついたよ〜」
 「こんちわ〜」
 「マースターァ、来たげたよー」
 混じる。入り混じる。耳の中の現実に、SOMETHING CAFEの現実が強引に雪崩れ込んで混じりあう。扉のベルの音と客と業務連絡と。凡てが一気に雪崩れ込む。
 呼吸音。呻き声、静寂。ベルの音。ダブルケーキ。I Completed.ついたよ。
 頭の中で現実が渦を巻く。犇く。
 ぱたん。
 カウンタの下についた手の甲に、雫が落ちた。
 「わ?」
 ぱたぱたぱた。一端落ちた雫は留まる事無く、そのまま糸を引いて滴り落ちる。あ、と気付いた時には既に数滴が手の甲に筋を引いていた。
 「うわ何マスター、あたし見て何ハナヂ出してんのー!?」
 「えー!? マスターエローい」
 「わ、きったね。何だよそれ」
 慌てて鼻を押さえて上を向く。最悪だ。動揺を気取られるどころの話では無い。動揺していましたと自ら申し出たに等しい所業だ。対応に戸惑う長沢の鼻を、カウンタの楢岡がティッシュでつまんだ。
 「どうした、Kちゃん。やっぱ相当疲れてるんじゃないか?大丈夫か……?」
 分からない。
 押し付けられたティッシュを取って鼻をつまむ。どこまでが平常と認められるのだ。楢岡は長沢の鼻血癖を知っている。これは平常なのか、それともこれは平常の事ではないのか。判断はつかなかった。
 死神の鎌に手が掛かったのか?鎌は持ち上げられたのか?分からないままに、気分が転がり落ちていく。
 耳の中には規則正しい足音が響いていた。かすかな衣擦れと、足音と。最後に女性の声が遠くを掠った。
 ――― だ、誰か。誰かぁ。きゅ、救急車を。
 転がり落ちる意識を引き止める。長沢は楢岡を見上げた。自分より数センチ背の高い男の、気遣わし気な瞳を見上げる。瞳に映る影を。ちっぽけな己自身の姿を。
 何をしている? 長沢啓輔。
 対応すべきなのは、現実だ。たった今と、その先だ。過去を思い煩う事に今この瞬間、何の意味がある。
 どこまでが平常として認識されるのか。この男が何を感じ、どこまで読み取り、気遣っているのか訝しんでいるのか。そんな事を思い煩ってどうなる。そんな詮無い事に割く時間など、今は無い。今対応すべきは現実だ。SOMETHING CAFEと耳の中の、二つの現実だけなのだ。
 鼻に押し付けられたままの男の手を取る。やんわりと剥がして目で詫びる。楢岡がゆっくりと手を放した。
 「悪い、楢岡くん。癖ってどうしようもないな。コントロールが効かない。…助かった、サンキュ。衛生的に考えると、やっぱ保健所通達モンかな」
 「良かったねぇ、俺が元公安で。厚生省職員でなくて」
 「ホントな」
 苦笑して見上げる。
 対応すべきは二つの現実だ。慣れ親しんだSOMETHING CAFEと。
 何かが起きつつある、3km先の"話"の現場の。
 

 「大丈夫ぅ?ハナヂマスター?」
 「はい。いらっしゃい。大丈夫でス。血止めて、きちんと消毒してから珈琲淹れますから安心して。早紀ちゃん、B三つ了解〜」
 笑い混じりに、分ったと呟きながら学生達が散る。気遣わし気な視線を残して席に戻る楢岡に軽く頭を下げ、長沢は厨房へ下がった。
 深呼吸する。ようやっと頭の中で二つの現実が重なり出した。分けようとするから混同するのだ。それなら。
 とことん混同してやろうじゃないか。
 厨房の隅に放り出したままの救急箱から脱脂綿を取り出して鼻に詰め、クリップラジオにつけていたイヤホンを抜いて通信機の"マイク"のジャックに突っ込む。色々試してみたが、手持ちの器具の組み合わせではこれが一番自然で、見咎められても不都合が無い。
 しっかりセッティングして本体をポケットに放り込み、マイク-イヤホンをベルトに挟んで持ち上げ、胸のボタンホールに通して固定する。エプロンは良いカバーになって、外側からは不自然な位置のイヤホンは全く見えない。勿論、通常のイヤホンは耳にキッチリと収めたままだ。
 耳の中で足音が早まる。衣擦れの音が高まり、
 ――― This is Asa-giri.What's happen? Give me the situation.(あさぎり。アクシデントか。状況をくれ。)
 クリアな英語の音声が響いた。
 先程までの、衣擦れ交じりの音声ではない。口許にマイクをセットしたクリアな音声。冬馬はアクシデントに即応して、ヘッドセットを装着しているのだ。
 これが平常でないのは、昨日までの事だ。今日からはこれが平常と開き直れば良い。気取られても気取られなくても、どうと言う違いは無い。些事に囚われて動揺したらそれで終わりだ。頭が曇ったらそれで終わりだ。
 いずれにしろ、同志に殺されるのは一回限りなのだ。気にする事は無い。
 両手を洗って、ZOCCAのパンに向かう。B三つ。ブレンド。ダブルケーキ一つ。
 「クリスマスケーキセット三つ、A一つ。ブレンド二つとアメリカーノ、カプチーノ。マスター大丈夫ですか?」
 「大丈夫。すぐBブレンド出来るから持ってって。後そこのダブルケーキね」
 ――― From Yuu-nagi to Commander. An accident occurred.I failed in control.His secretary entered the room.(ゆうなぎから指令。アクシデント発生。制圧に失敗。自室に入られた。)
 ――― Copy.Asa-giri where are you?(コピー。あさぎり、どこだ。)
 ――― Yuu-nagi speaking.The secretary said that He came feel sick after having drunk the tea of "kahuu".She called ambulance. I return to my field.(ゆうなぎ。秘書は花風のお茶を飲んだ後に障害発生と証言。救急車要請中。配置に戻る。)
 ――― Copy. Asa-giri Reply.(指令、コピー。あさぎり。応答しろ。)
 はっきりしたアルト。コードネーム"ゆうなぎ"が女性である事を、長沢は初めて知った。たった二人とは聞いていたが、相棒が女性とは驚きだ。素直に驚いて、思わず苦笑する。上出来だ。
 現時点、最後にSOMETHING CAFEに入った4人組の学生で、長沢が作れる限りの最上の舞台が整った。このタイミングのアクシデントは、むしろ長沢にとっては恵みになり得る。逆に言えば。
 この状況で何も出来ぬバックアップ要員ならば、それは無益な存在なのだ。長沢は役に立たない。価値判断には最適の舞台だ。
 耳の中の現実と身近な現実が並立する。混雑がクリアに、平行に両立する。二つの現実が一つのリアルになる。動揺が退いて行く。過剰反応した己の鼻の失態のみを…あるいはカウンタに座る人物の恐らくは僅かな動揺を…残して、凡ての事象があるべき所に収まっていく。
 「B三つ出来たよ。持ってって」
 耳の中の現実を体感しながら、カプチーノマシンに向き直る。3クリスマスケーキセットと1A。ブレンド二つとアメリカーノ、カプチーノ。アメリカーノ分とカプチーノ分のエスプレッソをマシンが抽出している間にフォームドミルクを作る。
 ――― Asa-giri.In the north stairs hall of the second floor. I go to the south gate.(あさぎり。二階北階段ホールだ。南門へ向かう。)
 ――― Comm.During intelligence、Wait.(指令。情報収集中。あさぎり、待機。)
 ――― Comm.Leave there Asa-giri to meet Nobody.(指令。あさぎり、離脱せよ。誰にも会うな。)
 ――― Asa-giri. You Saying me that it gives up the mission as the member of kahuu.(あさぎり。それは、花風店員としての離脱を諦めろと言う事か。)
 ――― Correct. I don' ask way for,You leave there.(その通りだ。方法は問わない。離脱せよ)
 「ああ、早いなあ。そりゃちょっと早いや」
 長沢の間延びした言い方に、傍らの看板娘が振り返る。同時に耳の奥がざわりと揺れた。
 ざわめく。音ではなく、動揺の波の様な物が流れ込む。今までの自らの失態に、その反応が重なる。何だ、俺だけじゃないじゃないか。
 マイクジャックにイヤホンプラグをセットすれば、イヤホンはその時から簡易マイクになる。その為のマイク-イヤホンだ。エプロンのお陰で前面につけても見えないし、覗かれてもマイクよりは不自然ではない。しかも、これが中々性能がいい。ボタンホールに突っかけておけば、小さな呟きも確実に拾って伝えてくれる。
 「何ですか、マスター?」
 「うん、それ、急いで持ってかなくて良いよ。俺が一緒に持って行く。こっちも直ぐ出来るから」
 「Cセット一つ、ブレンドで」
 「そっちを頼むよ早紀ちゃん。な」
 ――― Who is speaking. Is Yoi-duki?
 「はぁい」
 「何でマスターが返事もしちゃうんですか。分りました。じゃ、そっちはお願いしますね」
 笑いそうになる。指揮官は日本語に拘るタイプのようだ。あさ、ゆう、と来て次はよいと来た。自らが「よい」なのもおかしいが、指揮官の拘りがおかしかった。こんな小さな事にでも染み出す個性に妙な親しみを覚える。
 恐らく"コードネーム"は時間順につけられている。一日の、ではない、人生の、だ。恐らくその名は年齢の順に決められているのだ。一番年少なのは冬馬で、年長なのは長沢。恐らくはそう言う事だ。
 ――― あさぎり。よいづき、離脱を待てと言う事か。
 「はいはい」
 ――― コピー。あさぎり、待機する。
 二つのトレイに、ケーキセット三つとAセットを載せてカウンタを出る。今は静かにカプチーノを飲みながら、長沢の手が空くのを待っている楢岡に視線をやって踵を返す。
 まだもう少し猶予はある。自身の成否が決まるまで。
 上手い事「朝」を消さずに済めば、自然に「夕」暮れも「宵」闇もやってくる。今は朝を無事に逃す事だけを考えよう。今はただそれだけを。
 まだすこし。生き残るまで、あと少し。

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