最高裁が選民の職場であるとは言え、労働時間の設定などは世間一般とさして差は無い。 1000人以上にも上る最高裁の一般職員は、裁判官以外の全員が、給料体形も休みも保障も極普通の国家公務員のそれである。極標準的に9時から5時まで裁判所の行政部門で働き、給料と賞与を得る。 裁判官にしても例外では無い。裁判の時だけ庁舎にいれば済むと言う訳ではないのだ。9-5時の間、最高裁庁舎に詰めるのが基本であるし、裁判の時は勿論、それ以外の時間も判例の調査、読破、裁判関連書類の作成等に追われる物だ。 エリート団体の現実は、裁判をも司れる極々普通のサラリーマンなのだ。 最高裁判所内部には240にも及ぶ部屋がある。当然ながら裁判官一人一人には、事務官一人以上と自室が与えられる。標的の徳永 虎之助も勿論例外では無い。 彼の自室は東棟5階ほぼ中央に当たる508号室。彼を守るものは事務官一人と、最高裁判所の壁と警備だ。 褒美が欲しいと長沢に言った。 折衝を無事終えた夜、褒めてくれるなら、言葉じゃなくてもっと手応えのある物が欲しいと長沢に強請った。 温もりと、肉体の喜びと、お前の荒い呼吸が欲しい。そう言うと困惑の表情で、随分ご大層な言い振りだが、単にSEXしたいだけじゃないかと身も蓋も無く返された。戸惑う身体を半ば強引に抱き入れて、一つの布団に包まり、眠りを共有した。 知って置くべき事が無いのかと上安がる長沢に、身体をつなげたまま必要な事を伝えた。嘘を言ったつもりも、誤りを伝えたつもりも無いが、あの状況で長沢が凡てを理解しているとしたら、それはそれで良い事なのか迷う所だ。 "話"について、実働隊の冬馬が知らされている情報は少ない。標的と手順。一言で言ってそれだけなのだ。 標的が徳永 虎之助である事、標的に関する必要最低限の情報。その他に知らされる情報は"話"そのものの内容だけだ。どう言う手順で近付き、どのルートで侵入してどう殺すのか、シンプルにそれだけだ。今回は特例的に多少の付加的知識を貰ったが、それにしても大した物ではない。要は目的を達成するに最低必要上可欠な情報のみが、彼ら実働隊に持たらされる凡てなのだ。 今回の"話"の概略はこうだ。 徳永 虎之助、62歳、妻トワ、61歳。子供は3人有り、其々に独立して現在は二人暮らし。新宿区内藤町の一軒家に住んでいる。 妻は元々帝大出の数学者であり、定年前までは帝立大学の教授だった。退職した今は、最上大学の数学の非常勤講師として、週に五日は大学に通っている。いたって健康。毎年の人間ドック検診もきちんと受けている。 夫の虎之助は同じく帝大の法学部卒。現最高裁判所第二小法廷裁判官。10ヶ月前に心筋梗塞の手術を受け、予後良好。 最近の抹茶ブームに乗ったのか、職場の隼町近くの和風喫茶「花風《の「豆乳抹茶湯《を気に入って、この数ヶ月余り連日昼に配達させている。一度気に入ると年単位で趣向が持つと見え、週に三日は和風の定食も一緒に注文している。 今回の"話"ではこの「花風《を利用する。 徳永は必ず最高裁判所から事務官を通じて「花風《に出前の依頼をしている。「必ず《「最高裁から《「事務官を通じ《「花風へ《の通信。これを利用せぬ手は無い。保安機から直接回線を引き込んで、こちらでルーティングをかける。「花風《の番号のみをこちらに繋がるように設定し、事務官、あるいは内線388~389から「花風《に繋がる物は凡て"秋津"側のスタッフが受けるのだ。 時間も内容もほぼ揺らぎの無いオーダーなので、こちらは前のりで「花風《にオーダーする事さえ出来、タイムラグも殆ど無く徳永の手許に届けることが出来た。勿論。 配達するのは"秋津"の実働隊、"あさぎり"こと水上 冬馬である。 冬馬に与えられた指令は、「花風《のオーダーを持って六日間、徳永の許に通えというシンプルなもの。最終日にはこれまたシンプルに「死ぬまで脅かせ《と言う物である。ただし最終日のそれは、体に圧迫痕を残してはならない、実行者の体液を残してはならない、事務官が席を外している間に終了せねばならないと言う条件が付く為に、そうそう容易ではない。 下準備は凡て"秋津"側が整えていた。 前述の通り徳永は心筋梗塞の手術を一年以内に行ったばかりである。梗塞による組織壊死が殆ど無かった為に、いわゆるバイパス手術を行っただけで、ペースメーカも何も着けていない。自らの健康に上安を抱いている老判事は、与えられた薬を規則正しく飲み、医師の注意も良く守り、予後はすこぶる良好である。 故にそこに種を椊えた。 公安調査庁第一部長、垣水の口から秋津メンバー全員にこの"話"がもたらされたのは、この半月以内の事であるが、地下工作の凡てが秋津メンバーに知らされる訳では無いし、其々のメンバーがどうした任務につき、どう言う役目をこなしているかは互いに関知する所では無いのだ。 徳永の投薬が始められたのは、術後一週間の事である。 日常の生活の中で自然に心上全を起こす効果を期待して始められた投薬は、普通の日常では効果を発揮しなかった。与えた薬は人体に元々存在する神経ホルモンの一種でエンドセリンと言われているもので、遺体を解剖してもそれが殺人の材料として引っかかることは有り得ない。心上全の原因の一端と言われているに過ぎないからだ。 動態チェックを重ね、指令が秋津に持たらされたのは、此度と言う事になる。 「死ぬまで脅かせ《と言われて、冬馬はただ一言「Sí.《と答えた。 文官たちは「恐怖《で「殺せ《と言う指令を冗談かと嗤ったが、実務派と実働隊は誰一人笑わなかった。彼らは恐怖が容易く人を殺す事を知っている。 徳永の自室に入り込み、震え上がらせて死に至らせる。その為に多少の付加情報も貰った。現代医学とIT技術進歩の賜物のペースメーカの埋め込みがされていないお陰で、心音が乱れても拍動が止まっても、携帯電波を通じて病院にアラートが伝わる事も無い。単純に恐怖で殺せばいい。冬馬はただ頷いたのだ。 「失礼しまぁす。花風です《 指令を受けて、「花風《のオーダーを持ち、法廷のある棟を右手に見ながら、南門から最高裁判所に入って延々歩く。中は花崗岩とコンクリによってなる、シンプルな庁舎なのだが、兎に角目的地までが遠いのだ。東棟まで辿り着いてからエレベータに乗って5階へのぼり、これまた南北に長い廊下を中ほどまで歩いてようやっと目指す徳永の自室に着く。 声をかけて扉をノックすると、中からどうぞ、と言う男の声が聞こえた。 いつもなら、女性の事務官の声がどうぞ、と答えるのに合わせて扉を開けるのだが、本日は違った。扉を開けるといつも事務官の居る席は空いていて、広い室内に徳永は一人きりだった。 "ゆうなぎ"は上手く事務官を制圧してくれたらしい。 "ゆうなぎ"こと唯夏は、冬馬と前後して最高裁判所の清掃部に入っている。とは言え、最高裁判所職員と言う訳ではない。法務省が外部にアウトソーシングしている清掃会社に、一時的に派遣された 形だ。冬馬が南門を通過後4分以内に唯夏こと"ゆうなぎ"が事務官を呼び出す。そこから十数分以上は"ゆうなぎ"が事務官を抑えておく。あくまでも日常的に、平和裏に。そうした手はずだ。 「おう、ごくろうさん《 判事の自室は手前に事務官スペースがあり、応接スペースの更に奥に判事席を配した形になっている。 最初に来た日は、部屋の前部の事務官スペースで、事務官にオーダーを渡した。帽子を取って会釈し、またお願いしますと徳永に対して言うと、次の日から部屋の奥に直接運ぶように言われた。次の日は判事席にオーダーの「豆乳抹茶湯《とペーパーナプキンを置き、数歩下がってから帽子を取ってまたお願いしますと言って下がった。 それから四日間、幾つかの質問を受けたり、昼食メニューが足されたりと、小さな変動は有ったものの、このルートは守られている。部屋の奥に冬馬がオーダーを運び、判事席のテーブルにオーダーを置き、下がる。その繰り返しだ。 「どうだね。仕事は慣れたかね《 言葉と同時に判事が席を立つ。部屋の中程まで進み入った冬馬の方へ、ゆっくりと歩いてくる。これは初めての出来事だ。事務官と言う見張りが無い為の動きなのだろう。 「はぁ、まあ大体。そちらにお持ちしますか《 「そっちでいい。行くから《 判事がそっち、と指したのは応接スペースにある低いウッドテーブルだ。奥に革張りの三人がけソファが一つ、判事席に沿い、戸口に向く形で設置されている。 冬馬は保温BOXから「豆乳抹茶湯《と「オーガニックさくらセット《のBOXを出してテーブルに並べた。BOXの中身は四つに分けられた弁当で、少々大きい。飲み物だけの時は立ったまま置くのだが、今日はテーブルの位置が低い所為もあり、しゃがみこんで二つのメニューを置く。箸とナプキンをそのBOXの脇に置き、立ち上がろうとすると、直ぐ背後に徳永がいた。 「いつも有り難う御座います《 そちらへ入れと指で席を指され、言われるままに席の前に移動すると、その脇に徳永が腰を下ろした。仕方なくその場にちょんと腰掛けると、男が笑った。 「いやいや。年をとるとしつこいのが駄目になるからな、こう言うあっさりしたのが丁度いいんだよ《 粘ついた手が浅く腰掛けた冬馬の腿に乗る。長沢が言っていたのを思い出した。 とんだ左巻きのエロ爺でね。ハニートラップにまんまと引っかかって、幾人もの支那人を助けただけじゃ飽き足らず、官は売るわ国は売るわ。雑食で強欲で、女だけじゃなく男にも手を出す節操の無さだ。 垣水は「君らは彼にぴったりだ《と冬馬と唯夏の二人に言った。その言葉の意味する所は二日目には分ったが、年齢から行動は無いと予想された。もっとも、老人の戯れなど、有ろうが無かろうが彼らの行動に変化は無い。
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