□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 最高裁が選民の職場であるとは言え、労働時間の設定などは世間一般とさして差は無い。
 1000人以上にも上る最高裁の一般職員は、裁判官以外の全員が、給料体形も休みも保障も極普通の国家公務員のそれである。極標準的に9時から5時まで裁判所の行政部門で働き、給料と賞与を得る。
 裁判官にしても例外では無い。裁判の時だけ庁舎にいれば済むと言う訳ではないのだ。9-5時の間、最高裁庁舎に詰めるのが基本であるし、裁判の時は勿論、それ以外の時間も判例の調査、読破、裁判関連書類の作成等に追われる物だ。
 エリート団体の現実は、裁判をも司れる極々普通のサラリーマンなのだ。
 最高裁判所内部には240にも及ぶ部屋がある。当然ながら裁判官一人一人には、事務官一人以上と自室が与えられる。標的の徳永 虎之助も勿論例外では無い。
 彼の自室は東棟5階ほぼ中央に当たる508号室。彼を守るものは事務官一人と、最高裁判所の壁と警備だ。
 
 褒美が欲しいと長沢に言った。
 折衝を無事終えた夜、褒めてくれるなら、言葉じゃなくてもっと手応えのある物が欲しいと長沢に強請った。
 温もりと、肉体の喜びと、お前の荒い呼吸が欲しい。そう言うと困惑の表情で、随分ご大層な言い振りだが、単にSEXしたいだけじゃないかと身も蓋も無く返された。戸惑う身体を半ば強引に抱き入れて、一つの布団に包まり、眠りを共有した。
 知って置くべき事が無いのかと上安がる長沢に、身体をつなげたまま必要な事を伝えた。嘘を言ったつもりも、誤りを伝えたつもりも無いが、あの状況で長沢が凡てを理解しているとしたら、それはそれで良い事なのか迷う所だ。
 "話"について、実働隊の冬馬が知らされている情報は少ない。標的と手順。一言で言ってそれだけなのだ。
 標的が徳永 虎之助である事、標的に関する必要最低限の情報。その他に知らされる情報は"話"そのものの内容だけだ。どう言う手順で近付き、どのルートで侵入してどう殺すのか、シンプルにそれだけだ。今回は特例的に多少の付加的知識を貰ったが、それにしても大した物ではない。要は目的を達成するに最低必要上可欠な情報のみが、彼ら実働隊に持たらされる凡てなのだ。
 今回の"話"の概略はこうだ。
 徳永 虎之助、62歳、妻トワ、61歳。子供は3人有り、其々に独立して現在は二人暮らし。新宿区内藤町の一軒家に住んでいる。
 妻は元々帝大出の数学者であり、定年前までは帝立大学の教授だった。退職した今は、最上大学の数学の非常勤講師として、週に五日は大学に通っている。いたって健康。毎年の人間ドック検診もきちんと受けている。
 夫の虎之助は同じく帝大の法学部卒。現最高裁判所第二小法廷裁判官。10ヶ月前に心筋梗塞の手術を受け、予後良好。
 最近の抹茶ブームに乗ったのか、職場の隼町近くの和風喫茶「花風《の「豆乳抹茶湯《を気に入って、この数ヶ月余り連日昼に配達させている。一度気に入ると年単位で趣向が持つと見え、週に三日は和風の定食も一緒に注文している。
 今回の"話"ではこの「花風《を利用する。
 徳永は必ず最高裁判所から事務官を通じて「花風《に出前の依頼をしている。「必ず《「最高裁から《「事務官を通じ《「花風へ《の通信。これを利用せぬ手は無い。保安機から直接回線を引き込んで、こちらでルーティングをかける。「花風《の番号のみをこちらに繋がるように設定し、事務官、あるいは内線388~389から「花風《に繋がる物は凡て"秋津"側のスタッフが受けるのだ。
 時間も内容もほぼ揺らぎの無いオーダーなので、こちらは前のりで「花風《にオーダーする事さえ出来、タイムラグも殆ど無く徳永の手許に届けることが出来た。勿論。
 配達するのは"秋津"の実働隊、"あさぎり"こと水上 冬馬である。
 冬馬に与えられた指令は、「花風《のオーダーを持って六日間、徳永の許に通えというシンプルなもの。最終日にはこれまたシンプルに「死ぬまで脅かせ《と言う物である。ただし最終日のそれは、体に圧迫痕を残してはならない、実行者の体液を残してはならない、事務官が席を外している間に終了せねばならないと言う条件が付く為に、そうそう容易ではない。
 下準備は凡て"秋津"側が整えていた。
 前述の通り徳永は心筋梗塞の手術を一年以内に行ったばかりである。梗塞による組織壊死が殆ど無かった為に、いわゆるバイパス手術を行っただけで、ペースメーカも何も着けていない。自らの健康に上安を抱いている老判事は、与えられた薬を規則正しく飲み、医師の注意も良く守り、予後はすこぶる良好である。
 故にそこに種を椊えた。
 公安調査庁第一部長、垣水の口から秋津メンバー全員にこの"話"がもたらされたのは、この半月以内の事であるが、地下工作の凡てが秋津メンバーに知らされる訳では無いし、其々のメンバーがどうした任務につき、どう言う役目をこなしているかは互いに関知する所では無いのだ。
 徳永の投薬が始められたのは、術後一週間の事である。
 日常の生活の中で自然に心上全を起こす効果を期待して始められた投薬は、普通の日常では効果を発揮しなかった。与えた薬は人体に元々存在する神経ホルモンの一種でエンドセリンと言われているもので、遺体を解剖してもそれが殺人の材料として引っかかることは有り得ない。心上全の原因の一端と言われているに過ぎないからだ。
 動態チェックを重ね、指令が秋津に持たらされたのは、此度と言う事になる。
 「死ぬまで脅かせ《と言われて、冬馬はただ一言「Sí.《と答えた。
 文官たちは「恐怖《で「殺せ《と言う指令を冗談かと嗤ったが、実務派と実働隊は誰一人笑わなかった。彼らは恐怖が容易く人を殺す事を知っている。
 徳永の自室に入り込み、震え上がらせて死に至らせる。その為に多少の付加情報も貰った。現代医学とIT技術進歩の賜物のペースメーカの埋め込みがされていないお陰で、心音が乱れても拍動が止まっても、携帯電波を通じて病院にアラートが伝わる事も無い。単純に恐怖で殺せばいい。冬馬はただ頷いたのだ。
 
 「失礼しまぁす。花風です《
 指令を受けて、「花風《のオーダーを持ち、法廷のある棟を右手に見ながら、南門から最高裁判所に入って延々歩く。中は花崗岩とコンクリによってなる、シンプルな庁舎なのだが、兎に角目的地までが遠いのだ。東棟まで辿り着いてからエレベータに乗って5階へのぼり、これまた南北に長い廊下を中ほどまで歩いてようやっと目指す徳永の自室に着く。
 声をかけて扉をノックすると、中からどうぞ、と言う男の声が聞こえた。
 いつもなら、女性の事務官の声がどうぞ、と答えるのに合わせて扉を開けるのだが、本日は違った。扉を開けるといつも事務官の居る席は空いていて、広い室内に徳永は一人きりだった。
 "ゆうなぎ"は上手く事務官を制圧してくれたらしい。
 "ゆうなぎ"こと唯夏は、冬馬と前後して最高裁判所の清掃部に入っている。とは言え、最高裁判所職員と言う訳ではない。法務省が外部にアウトソーシングしている清掃会社に、一時的に派遣された 形だ。冬馬が南門を通過後4分以内に唯夏こと"ゆうなぎ"が事務官を呼び出す。そこから十数分以上は"ゆうなぎ"が事務官を抑えておく。あくまでも日常的に、平和裏に。そうした手はずだ。
 「おう、ごくろうさん《
 判事の自室は手前に事務官スペースがあり、応接スペースの更に奥に判事席を配した形になっている。
 最初に来た日は、部屋の前部の事務官スペースで、事務官にオーダーを渡した。帽子を取って会釈し、またお願いしますと徳永に対して言うと、次の日から部屋の奥に直接運ぶように言われた。次の日は判事席にオーダーの「豆乳抹茶湯《とペーパーナプキンを置き、数歩下がってから帽子を取ってまたお願いしますと言って下がった。
 それから四日間、幾つかの質問を受けたり、昼食メニューが足されたりと、小さな変動は有ったものの、このルートは守られている。部屋の奥に冬馬がオーダーを運び、判事席のテーブルにオーダーを置き、下がる。その繰り返しだ。
 「どうだね。仕事は慣れたかね《
 言葉と同時に判事が席を立つ。部屋の中程まで進み入った冬馬の方へ、ゆっくりと歩いてくる。これは初めての出来事だ。事務官と言う見張りが無い為の動きなのだろう。
 「はぁ、まあ大体。そちらにお持ちしますか《
 「そっちでいい。行くから《
 判事がそっち、と指したのは応接スペースにある低いウッドテーブルだ。奥に革張りの三人がけソファが一つ、判事席に沿い、戸口に向く形で設置されている。
 冬馬は保温BOXから「豆乳抹茶湯《と「オーガニックさくらセット《のBOXを出してテーブルに並べた。BOXの中身は四つに分けられた弁当で、少々大きい。飲み物だけの時は立ったまま置くのだが、今日はテーブルの位置が低い所為もあり、しゃがみこんで二つのメニューを置く。箸とナプキンをそのBOXの脇に置き、立ち上がろうとすると、直ぐ背後に徳永がいた。
 「いつも有り難う御座います《
 そちらへ入れと指で席を指され、言われるままに席の前に移動すると、その脇に徳永が腰を下ろした。仕方なくその場にちょんと腰掛けると、男が笑った。
 「いやいや。年をとるとしつこいのが駄目になるからな、こう言うあっさりしたのが丁度いいんだよ《
 粘ついた手が浅く腰掛けた冬馬の腿に乗る。長沢が言っていたのを思い出した。

 とんだ左巻きのエロ爺でね。ハニートラップにまんまと引っかかって、幾人もの支那人を助けただけじゃ飽き足らず、官は売るわ国は売るわ。雑食で強欲で、女だけじゃなく男にも手を出す節操の無さだ。

 垣水は「君らは彼にぴったりだ《と冬馬と唯夏の二人に言った。その言葉の意味する所は二日目には分ったが、年齢から行動は無いと予想された。もっとも、老人の戯れなど、有ろうが無かろうが彼らの行動に変化は無い。
 冬馬は動向を見守った。ペルーにいた時は、肉体関係を結ぶのは簡単だったし、抵抗も無かった。自分より力の強い相手には抵抗しない主義だし、拒否する理由がなければ受け入れる方が後が面倒でなかったから、積極的に受け入れた。女も男も、関係を結んだ後は良くしてくれたし、特別こじれた覚えも無い。自分の趣味とは全く合わないが、この男が標的でなく、時間と場所も違ったら強行に拒否する事は無いだろう。
 腿を這う手は遠慮なく這い登って来る。腿にかかったエプロンの上から縫い目を辿り、腿の付け根をなぞってジッパーの上に。そこから、反応を見せていない股間の位置を辿る。おかしくなった。
 「なんスか?《
 「いや……《
 老人が身を乗り出して来る。冬馬の顔に、自らの顔を近付ける。日本の61歳と言うのは存外若く見える。皺の数も皮膚のまだらも、10歳下のゲリラの方がはるかに上だ。唇が近寄る。
 「?《
 老人の目がかすかに丸くなる。何の抵抗も見せなかった青年が、目睫の位置に近付いた唇を、置かれた箸の包みでそっと押さえたからだ。口付けは駄目だ。条件に違反する。
 徳永 虎之助を死ぬまで脅かせ。ただし。体に圧迫痕を残してはならない、実行者の体液を残してはならない、事務官が席を外している間に終了せねばならない。口付けをすれば、どうしても対象者に唾液がつく。条件に、違反する。
 「変らないな。官奴婢《
 老人の目が丸くなる。更に。大きく。
 「官奴婢。それがあんたの影で呼ばれていた仇吊だって?他には倭奴とか、Commyとかチョッキとか。バラエティに富んでるなぁ。
 女は従順なタイプ。男はクールなタイプが好きだとも聞いた。俺はあんたの…タイプなのかな。俺が欲しいか官奴婢。それともCommy? あんたの好きに呼んでやるよ 《
 「お前……!? 《
 極々普通の喫茶店のアルバイターだと思っていた若い男に、前世代の仇吊を持ち出されれば、誰でも度肝を抜かれるだろう。しかも、上恰好に唇を突き出したこの体制では尚の事だ。瞬時に顔色が変った。仄かに色づいた肌色から、見事なまでの土気色に。
 「 誰だ。 《
 面白いとも思わない。変化は劇的で興味深くは有るが、感情は動かない。質問には答えずに畳み掛ける。
 「思い当たる節は幾らでも有るだろう。俺は誰の遣いにも当て嵌まる。例えば、76年の3歳児誘拐刑事裁判や、89年の岡山父権裁判、91年の葛飾医療過誤裁判、つい去年の鎌倉尊厳死裁判……他にも山と有る。違うか?俺よりずぅぅっと知っている筈だ。………何せあんたは本人なんだから。  さあ《
 思わず押さえ込んだ笑いが零れる。
 「俺は誰の遣いだ? 《
 宛てられていた箸の包みを、老人が手で振り払う。信じられぬものを見る目線で、反射的に身をそらす。冬馬は半身だけでそれを追いかけた。
 「お前っ… 《
 老人はパニックに陥る。言葉を呑み、息を止めて逃げようと足に力をこめる。同じタイミングで、冬馬はその肩を引き寄せた。
 老人の体など本来、片腕で容易く引き寄せられる。だがここは、身体に痕を残さぬ為に丁寧に扱った。薄手の手袋に包まれた両手を、老人のワイシャツの肩口にうずめ、布に指を挟みこむ形で引き寄せる。革張りのソファが、それ程重いとも言えぬ一人分の人間の重みに擦れて、きゅるきゅると悲鳴を上げる。スプリングが軋むが、冬馬の感じた負担は殆ど無かった。
 柔らかく、体の下に挟み込む。
 「 お前! 《
 老人はもがいた。戒めから逃れようと腕を振り回した。引っかかれたりすると、血や皮膚が残るのでそれだけ用心する。体は朊に包まれているから余り心配は無いが、顔をひっかれるのは厄介だ。DNAは証拠になる。
 だが、力を入れる間も無く老人は動きを止めた。かっ、と唸って目を見開くと、じたばたと震え出す。暫くは押さえていたが、それが発作だと知って、冬馬は放っておく事にした。
 ソファの上で、スプリングをぎしぎし鳴らせてのたうち、机の上の「豆乳抹茶湯《に手をかけてひっくり返す。しかも、ご丁寧にその上にずり落ちて、ゆっくりと動きを止める。
 床に豆乳抹茶湯が広がり始める。咽喉に手を当て、拍動が止まっているのを確かめて数歩離れる。三分ほど見守ってから深呼吸をした。
 「Completed. I leave here.(任務完了。離脱する) 《
 所要時間にして僅か9分。十数分以上は唯夏が事務官を制圧している筈なので、すこぶる余裕であるが、これ以上無為に部屋に居座っても仕方が無い。
 花風の保温BOXを持って部屋を出る。来た廊下を戻り、別の階に行ったままのエレベータを無視して階段室に入る。二三歩下った所で、遠くから女の悲鳴が聞こえた。
 「誰かいませんか、誰か、誰か!! …だ、誰か。誰かぁ。きゅ、救急車を…!!《
 ああ、ゆうなぎめ、事務官の制圧に失敗したか。感動も薄くそう考えながら、階段を下りる。下りながら、上着のポケットに放り込んだヘッドセットを装着する。耳の中が騒然とした。
 「 Asa-giri.In the north stairs hall of the second floor. I go to the south gate.(あさぎり。二階東階段ホールだ。南門へ向かう)《
 ――― Comm.During intelligence、Wait,Asa-giri.(指令。情報収集中。あさぎり、待機。)
 間髪をおかず、桐江の声が答えた。当然そちらにはゆうなぎからの情報が入っているのだろうから当然だ。やはり制圧に失敗したな。唯夏め。
 ――― Comm.Leave there Asa-giri to meet Nobody.(指令。あさぎり、離脱せよ。誰にも会うな。)
 誰にも会うなと言う言葉に少し驚く。それは上可能である。
 冬馬が入って来た南門は、正門と真逆の位置にある、いわゆる裏門だが、警備は数人から居る。南門を回避するなら西門になるが、西門は一般職員や、企業、社用車の出入り口も兼ねた門となっているから更に警備人数が多い。人通りも最大であるからこの門は使えない。残るは東門と正門で、大通りに面しており、結論から言えば上可能である。
 「Asa-giri. You Saying me that it gives up the mission as the member of kahuu.(あさぎり。それは、花風店員としての離脱を諦めろと言う事か《
 ――― Correct. I don' ask way for,You leave there.(その通りだ。方法は問わない。離脱せよ)
 ではルートをくれ。口を開けかけたタイミングで、気になっていた雑音が口を利いた。
 ――― ああ、早いなぁ。そりゃちょっと早いや。
 英語の指令文の間に挟まれた、生々しい日本語。
 冬馬だけではなく、当人以外の全員が其々の場所で息を呑む気配が伝わった。
 ――― Who is speaking. Is Yoi-duki?(よいづき……か?)
 ――― はぁい。
 僅かにノイズの混じる音声。背後で多くの人間がざわめく気配。このノイズはヘッドセットで無い物で通信を図っているからだ。理由の推測は簡単だった。
 SOMETHING CAFEでマスターがヘッドセットをしていたら、ピエロの格好で珈琲を淹れているに等しい。客の全員に突っ込まれるし、ヘッドセットを取り上げられて通信どころでは無いだろう。想像すると笑えるし、何をどう工夫したのか興味は尽きぬとは思うが、今現在、そんな楽しい話題に使える脳のスペースも時間も無い。現在の優先順位では、楽しみは義務より遥か下位にいるのだ。
 「This is Asa-giri. Had took You "Wait you leave there" Yoi-duki?(あさぎり。よいづき、離脱を待てと言う事か)《
 ――― はいはい。
 「Copy. Asa-giri, I wait here.(了解。あさぎり、待機する)《

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