□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 
□ 同志 □

 無我夢中で手を伸ばした。
 闇の中で何者かに追いかけられて、それから逃れたくて駆け出した。駆けて駆けて気付いたら、そいつは自分の中に居た。払い除けたくて振り払えず、助けを求めて腕を伸ばした。空を切る事は分っていた。自分で敵と分らぬ物を、他の誰が分るだろう。自分がどうすれば良いか分からぬ物を、他者が分かる筈など無い。
 ただ、何か手応えが欲しかった。自分以外の何かが他に有ると信じたかった。ただ、手を伸ばした。
 その手がしっかりと受け止められて。
 ―― 思いもしなかった事に、酷く満たされて目を覚ました。
 
 顔の上に斜めの光が降り注いでいた。目をしばたき、早朝の優しい陽光に再び目を閉じる。信じられない程深く眠っていたのだ。
 光の様子から恐らくは今現在、6時頃だ。三時間以上連続で深く眠った事は、思い出す限り記憶に無い。だと言うのに。
 逆算して少なくとも6時間。あるいはそれ以上。ぐっすり寝入った計算になる。ちらりと目を開けて、安堵して再び瞼を閉じる。
 光の中に浮き上がったのは、綺麗とは言えない木造モルタルの室内だった。節の目立つ木製の天井と、四角い傘を被った丸い蛍光灯。布団の中からでも電気が消せるように、スイッチには紐が足されている。紛れも無い長沢 啓輔の住処だ。
 目覚めた場所が嬉しくて、思わず笑みが零れた。布団に顔をこすり付けて、二人分の嗅ぎなれた匂いに本能が安らぐ。恐らくはここだから。ただ一人の相手の住処だから、安心して長々と寝ていたのだ。ここは俺の、帰る場所だから。
 目を閉じたまま、その相手を求めて手許を探る。手応えを見つけられず、頭の中で納得する。長沢のタイムスケジュールは5時起床。シャワーを浴びて身支度を整え、店の支度を終えてから、ZOCCAのパンを受け取る手筈となっている。今時分は、丁度パンを受け取る頃だろう。それでは、ここに居なくて当然だ。
 階下に正しくその気配を感じて耳を澄ます。軽車輌らしき軽いエンジン音とサンダルの足音。音割れしたベルの音と、お早うと言う聞きなれた挨拶。予想と違ったのは、日常の挨拶の後に男が大きく息を呑んだ事だけだった。
 何だ啓ちゃんそれ?
 言われた長沢が困ったように笑う。
 いやぁ、ドジッちゃって。ここに思い切りフライパンが入りました。
 目を開ける。違和感が有った。そう言えば昨夜自分は、どうやってここに来たのだろうか。
 昨日は実行時間が早かったので、任務を終えた後凡ての業務連絡を終えた。実働隊が直接桐江に報告をし、桐江から”秋津”へ報告をする。"秋津"からのフィードバックは、桐江から実働隊にもたらされる。昨日はここ迄の一連の業務連絡が一日で終わった。当然の事ながら、冬馬はそれを凡て承知している。
 だが腑に落ちないのは。
 昨夜、長沢と初めて会った時の、――確実に会ったのだが――その時の情景がはっきりしない。
 実行後、報告まで、どうにも落ち着かなくて一人でジムに向かった。ジムと言っても開放の物ではなく、羽和泉私設のいわゆる訓練所である。唯夏は清掃業務に着いていたから一人きりで、ウェイトトレーニングから始めたのだが、メニューをどこまでこなしたのか定かでない。ピリピリして落ち着かず、兎に角身体を動かしていたように思うが、良く分からない。
 トレーニングをして、終えて、シャワーを浴びて、ここに来たのだ。それは間違いない。間違いないのだが。
 横になったまま、考えあぐねて周りを見回す。モルタルの壁、そこに通る節だらけの木の柱、 欄間(らんま)。いつもと何ら変らない、SOMETHING CAFEの二階の情景だ。目線を落して。
 心臓がばくん、と胸郭の中で大きく揺れた。
 身を起こす。全裸なのは驚かないが、腕に残った引っかき傷に疑問を感じる。舌の中程が痛い、頭頂部が痛い。畳に手を突いて。
 そこに点々とどす黒い痕跡が穿たれているのに身を固めた。
 時を経た血痕。乾いて酸化し、黒く落ち着いた血痕。それでもその質量が、まだ古くは無いと知らせる。恐らくは一日以内の物だ。
 床を見回す。敷かれた布団は一揃いで、部屋のほぼ真ん中にあった。シーツの上は清浄で、シミなどは無い。むしろ跡が残っているのは畳の方で、まるでそれを覆い隠すかのごとく布団が広げてある。
 思わず払い除けて、血のシミを探す。それは探すまでも無く、畳のほぼ中央にあった。時間をかけて零れた血の上を、何かを引きづり回した、そんな幾つもの痕が有った。
 頭の中に、霞んでいた情景が鮮明に蘇る。情景が広がる。結びつく。記憶と、時間と。凡て繋がって尚且つ疑問が渦を巻いた。
 俺は。
 俺はここに来て何をした。
 階下から、とんとんと足音が上がって来た。軽い足音ではなく、どちらかの足をやや引き摺るような歩き方。よっこいしょ、と言う声に顔を上げると、数段上り残した階段の人物も、共に顔を上げた。
 「ああ、冬馬、目さましたか」
 畳に突いた手を握り締める。胸が軋んだ。
 階段を上りきり、笑顔で背筋を伸ばす男の顔は、右側に大きな痣が出来ていた。眼鏡のパッドが当たる頬骨の内側と、鼻の付け根から眉に沿った右の眼窩がどす黒く変色している。その場所に何かを手酷くぶつけたのだと、誰が見ても一目瞭然だ。畳の上の血の跡は、その時出来たものだ。
 情景が蘇る。
 この家に来た。
 任務を終えて報告をして。報告を聞いて伝えに来た。その前に落ち着こうとジムにも行った。トレーニングで落ちつかせた。身の内に渦巻くちりちりとした炎のような物を、可能な限り消した。消した。―― つもりだった。
 つもりだったのに。
 叩きつけたのだ。
 見つけた途端、どうしようもなかった。抱きついてすがり付いて、絡み付いて。……叩きつけた。
 「冬馬?寝ぼけてるのか」
 誓ったのに。二度と強引な事はしないと、長沢を傷つけるような事はしないと。心の底から誓ったのに。
 そうしてやっと、脅えずに真っ直ぐ見てくれるようになったのに。同志だと、お前は信頼の置ける奴だと、言ってくれるようになったのに。耳の中に、昨夜の声が蘇った。
 頼むと何度も言われた。やめてくれ、放してくれとも言われた。何度も無視して何度も叩きつけて、耳許で勘弁してと懇願された。手許の血痕とオーバーラップする。
 慌てて服を身に着ける。ジーンズを掴み、下着やセーターの類を全部飛ばして上着だけを拾い、慌てて身に着ける。
 「パン届いたから、トーストでも食ってけよ。知ってると思うけど、家のパンは美味いからな」
 長沢は冬馬に半ば背を向ける形で台所を軽く片付け、二人分のスペースを作って振り返る。目線がこちらを向いた時には、冬馬は既に長沢の目の前にいた。予想外の障害物にその目が丸くなるのも、一瞬びくりと反応するのも間近で見る。頬に手を置く。長沢がうっ、と呻いた。
 「痛っ…」
 手を引く。
 間近に見た目許は腫れていて、白目も赤く染まっていた。折れてはいないが、鼻の脇に派手についたマークで、何がどうぶつかったのかも分った。
 痛みを訴えるこの頭頂部が、長沢の鼻と眼鏡に当たったのだ。
 「……啓輔」
 一言言って息を呑む。
 俺は一体、何をした。何をして居る。
 お前を守る。自身でそう誓った相手だ。命を賭してお前を守る、誰にも傷つけさせないと、そう宣言した相手だ。だと言うのに。
 初めて共に任務をこなし、二人生き延びたその夜に、自ら手を上げた。たった一人の、最後の同志を、自身の手で傷つけた。訳も分らずに踏み躙った。
 真っ直ぐな視線を向けたまま、不思議そうに首を傾げる男の目の前で立ち竦む。ゆっくりと延ばされる腕を避けて身をかわす。
 「冬馬?」
 自らの行動の訳など分からない。ただ、その瞳から目を反らした。
 身を翻して背を向け、そのまま駆け出す。ただ、身体の命じるままに動いた。
 階段に飛び込んで、そのまま下まで一足飛びに降り、勢いのまま靴を引っ掛けて通りに走り出す。勝手口は開いていた。まだ視界の隅に、ZOCCAと書かれたCUBEの姿が映る程に、冬馬の行動は一瞬だった。
 自分を呼ぶ声が、扉を開ける瞬間に耳の後ろに響いた。聞こえていなかった訳ではない。聞こえていたが振り返らなかった。振り、返れなかったのだ。
 裏口の細道を駅へ走る。入り組んだ坂道を駆け上る。アスファルトの路面に、かろうじてスニーカーを履いた両足を叩き付ける。
 12月も終わりの早朝の、肌を切るような冷気の中を走り抜ける。素肌の上にジーンズとハーフジャケットだけを乗せた格好も、少し動けば暑くなる。この衣服が汗で重くなる頃には、もう一つの住処に着くだろう。
 
 自分に似合いの、一人きりの、住処に。
 

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