□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 東京都新宿区千駄ヶ谷、ビレッジパークビル2201。
 冬馬から聞いた住所はそんな名前だった。ビルは有名テナントも入った大きな物だったから、名前と場所くらいは承知していた。承知はしていたが、いざ知人が住む家だと思うと、若干感覚が違った。
 緑との共生だの、緑化生活だの、CO2削減だの京都議定書だのは知っている。だが、ビルの中に森を作るのはどうかと思う。
 三階までの一角は吹き抜けになっており、そこには森と喫茶店が配されている。コンセプトは分るが、あそこで珈琲を淹れたいかと聞かれればNOだ。決して綺麗とはいえなくても、流行と関係なくても、珈琲は落ち着いた空間で飲みたい。
 周りを見渡して溜息をつく。来るだけで気疲れしたが、これから標的を探すとなると一苦労だ。
 一応、マンションスペースのホール迄は鍵が無くても入れるので、そこに設置して有る2201のベルは押してみた。答えは何も帰って来ずに、さも有りなんと思う。
 安全確保の為にホールのあちこちに監視カメラが配置されているし、当然ながら総合ベルの傍らにもカメラが備え付けてある。電話に居留守を使う相手なのだ、尋ねて行ってもそうそう素直に会ってくれるなど有り得ない。監視カメラでこの顔を見たら、尚更の事である。さて、ではどうしたものか。
 良い考えを思いつかずに、行く当てもなく通りを歩いた。
 ビレッジパーク前はちょっとした広場になっていて、花壇の形に石のベンチがこしらえてある。春や夏は、ここに色とりどりの花が植えられるのだろうが、今は緑一色で、そこに様々な色のライトが配されている。悄然とその石の一つに腰掛ける。
 これも発光ダイオードなのかなぁ。どうでも良い事を考えながら、年の暮れの大通りを見やる。マフラーを結んだ首許に白い呼気が円を描いた。
 良く冬馬がこうして座っていたっけ。黒いダウンにマフラーをして、じっと黙って座っていた。何日でも待つと言い切り、事実よく待っていた。青年なら難なくこなすそんな苦行は、長沢には耐えられない。精々頑張って数時間。それ以上は体が持つまい。
 鍵を貰って置けばよかったのだ。
 万が一の時の為にと、こちらの鍵は渡したのに、青年の鍵は貰っていなかった事が悔やまれる。青年はなついてくれていたし、必要以上に側にいた。だからそれで充分だと思っていたのだ。青年のプライベートに敢えて踏み込みたいとも思わなかったし、その必要もなかった。こちらから強引にアクセスをとらねばならぬ事態が訪れるなどとは考えなかったのだ。少なくともあの時点では。
 街の底にしゃがみ込む。
 悄然と大通りに座り込む中年男の姿は、どんな風に見えるのだろう。何時間かここに居れば、警官が「おじさん、泊まる家がないの」と話しかけてくれるだろうか。
 行きかう人々を見つめる。忙し気な人の群れに目を運ぶ。そろそろ11時も近いと言うのに、目立つ制服姿に不安になる。年の頃は10代半ばだろうか。ちゃんと家に帰れよ、と他人の子ながら心配になる。
 カップルに、家族。社員集団に、学生の群れ。さざめく人々の群れを眺めていると、その向うにホワイトグレイの頭らしき物が動いた。
 グレイなど良くある色だから、人の頭とは限らない。期待せずにぼんやりと眺める。徐々に近付いてくるそれは、やがて人の頭になり、良く似た髪形になり、やがて青年本人になった。見た事も無い上品な笑顔で、誰かと歓談している。
 へぇ。
 少しばかり見惚れて、相手に目を移す。そこには青年より幾つか年上の、理知的な顔をした女性がいた。
 何だ。なかなかやるじゃないか。そんな思いで二人を見比べる。人目を惹く冬馬と違い、女性はやや地味な印象だが、全体の雰囲気は知的で好ましい。微笑ましい絵だった。
 眺めていると、女性が手を振り、向かいの通りへ駆けていく。信号が変わったのだと気付くまで、暫しの間女性を目で追った。通りの向うにその姿が紛れて、青年に視線を戻す。と、彼はまだ通りの方向を眺めていた。その姿に気遣いを感じて、思わず笑う。懐かしい。
 自分も昔、ああして彼女の後ろ姿を目で追ったっけ。
 握っていた手を放して、その手を振って。彼女が通りの向うや扉の向こう、電車やバスの中に消えて行くのを、泣き出したくなるような思いで見送った。ほんのちっぽけな別れが切なくて、一生懸命見送った。そんな気持ちを思い出す。恋をしていたあの時代、楽しい事より苦しい事の方が多かった気がする。
 見守る先の青年が視線を戻す。通りの向うから正面へ。正面に戻しながら、不意に視線が泳いだ。泳いで、こちらに真っ直ぐに向けられる。長沢の目線の正面に。
 予想外に。長沢の笑みは消えなかった。
 相当に怒っていたし、言いたい事も山ほど有った。また逃げ出されるかもしれないし、どうしてやろうかと思っていた。だが、いざ本人を見たら。……どうでも良くなっていた。
 冬馬はまだ24歳だ。46歳の中年男とは感性も価値観も当然違う。幾らこっちが必死だと言っても、若い青年の与り知らぬ事だ。中年男の命より、若い恋人との一時の方が大事になっても、それは致し方ない事だ。恋する心を責められる者などいやしない。
 冬馬は、長沢を認めて凍りついた。凍り付いて、暫しその姿を見つめ、意を決したように歩み寄る。ぎこちない歩調で直ぐ側まで歩み寄り、明らかに声をかけようかどうしようかと迷い、諦めて踵を返す。ただ、逃げる心積りが無いらしいのは、そのゆっくりした歩調で知れた。
 長沢は苦笑交じりに立ち上がる。チラチラと後ろを伺いながらゆっくりとマンションに向かう後姿に、距離を置いて続く。森の喫茶店の建物を抜け、その奥へ。マンションコートに足を踏み入れて、オートロックに締め出されぬように青年の後を追った。
 人目を気にしての事なのか、青年は他人を装いたいらしい。だからそれに付き合って後ろを歩く。同じエレベーターには乗るが、隅に立つ。テナントが入っているのは10階までで、その上がマンションとなっているらしい。入り口は全く別になっていて、10階以上はやや細い。エレベーターの表示階は22が最高で、その上はRになっていた。思わず心中で口笛を吹く。もしかして、ペントハウスって奴かしらん。
 扉が開くと、冬馬は黙って下りた。最上階は一家屋ではなく、幾つかの家屋に別れていた。当然エレベータは家の中ではなくて外廊下に止まり、そこから乗客は各々の家を目指す作りらしい。ペントハウスではなかったが、大きな間取りであることは間違いなさそうだった。一番端のブロックに着くと、冬馬が向き直った。その仕種が、どこまで着いて来るんだと言いそうで少しばかり落胆する。
 「………」
 帰れと言われても、流石に結果を聞かずには帰れない。それだけは聞こう。そう思って口を開けると、かすかに早く青年が
 「ここ、俺の家」
 そう呟いた。
 
 その後は比較的スムーズだった。
 超豪華マンションエレベーターを22階まで上り、角部屋の玄関前まで来て、俺の家もないものである。思わずその言葉に吹き出した長沢を青年は部屋の中に招じ入れた。青年の方がオドオドと室内に入り、客の長沢の方が長い廊下を駆け入る。スリッパを出した青年の気遣いは無駄になった。
 廊下の果てがリビングで、眺望の良いベランダに続く。その右手にキッチンが有り、今流行のオール電化になっている。初めてだと喜ぶ長沢に湯を沸かして貰い、紅茶を入れて貰う。客にウェッジウッドなんだなあ、と紅茶カップを差し出され、主人の筈の冬馬の方が恐縮して飲む。しかも、普通ならソファスペースに落ち着く物なのに、この客人は、どうせなら広いリビングで飲もうと、何も無いフローリングの真ん中に陣取ったのだ。
 「凄いなー。はっきり言ってスペースの無駄だ、このリビング何畳?」
 「……知らない」
 楽しげな長沢とは逆に、先程まで笑っていた筈の冬馬はどんどん頑なになって行く。元から口数の多い方では無いのに、唇を引き結んだまま開こうとしない。長沢は隣の青年を覗き込んだ。
 「良い感じの人じゃないか、さっきの女性。」
 青年は俯いたまま、顔も上げない。
 「良い顔で笑ってたぞ、お前さん。あんな顔、見た事なかった。何か……ちょっと昔の自分を思い出したな〜〜……。純粋に人に恋していた頃をさ」
 見つめる先で、微動だにしない。長沢は溜息をついた。
 「――なぁ冬馬。俺はお前のプライベートをどうこう言うつもりは無い。基本的にお前が何をしていても、ケチつける気は俺には無いんだ。でも、結果を教えてくれないと身動きが取れない。お前は俺の相棒だろう?同志なんだろう?」
 ピクリ、灰色の頭が持ち上がる。
 「なら、きちんと教えてくれよ。俺が試験にパスしたのかどうか。それとも落第して、いつ殺そうか悩んでる所なのか?」
 灰色の目が長沢を見て、慌てて大きく頭を振る。その行動の意味を図りかねて怪訝な表情を浮かべる長沢の前で、もう一度頭を振る。
 「殺さない。俺はお前を殺さない。そんな事、しない」
 「……なら俺、お前さんの団体の試験に受かったって事?」
 青年の目が大きく丸まる。暫く長沢を凝視して、ゆっくりと頷く。双方が固まっていた。
 「……… 俺はそれを伝えに行っ…………」
 そこまで言って、青年の方が息を呑む。
 "話"当日、夜。訪問の当初の目的は、上層部の判断を長沢に伝える事だった。冬馬もそのつもりだった。だが、どうしようもなくピリピリしていて、それを晴らしてから伝えに行こうと思い、そうこうする内……言った記憶が無い。
 伝えていない。どっと汗が噴出した。
 驚愕して見つめていると、視線の先の人間に何故か伝わった。怪訝な表情が驚愕に変り、ゆっくりと口を開く。
 「えええええええええええぇぇぇぇぇええええ。じゃあ何?"話"当日に出ていた結果を、俺はハラハラドキドキこの五日間待っていたって事!?」
 凍った冬馬が、暫し考えた後、小さく頷く。
 長沢はばったりとリビングに倒れた。力が抜けた。何の事は無い、業務連絡ミスで有る。とうに判断は為されていたのに、途中でリレーが途切れた。情報が最終地点一歩手前で綺麗に切断されていた。
 呆れた。怒る気力も消えうせた。力が抜けて目を閉じる。溜息が零れた。
 目を閉じると気配が強くなった。おどおどと、自分を見つめる青年の気配が。目を開けて青年を見つめる。陰気な無表情が長沢を見下ろしていた。さっきの女性に向けた上品な表情とのギャップに苦笑する。
 「甚だ不本意ではあるが、今回の作戦において、よいづきこと長沢啓輔が果たした役割は小さいとは言えない。外部協力を認めよう。ただし、あくまでも外部協力であり、あさぎりのスタッフ以上の承認はしない。また、たまたまアクシデントが起きたから有効になったが、二度と標的設備に"手を出す"事の無い様、きつく申し伝えておけ。鉄条網を切る手段など、実働隊は身に着けている」
 俯いている所為でくぐもったハスキーボイスが、恐らくは上官に言われたであろう言葉をそのまま、訥々と伝える。非常に納得の行く内容だった。
 仮認定はしてやるが、余計な事はするな。二度と施設に手を出すな。要約すればそう言う事で、それが最も相応しい処置に思える。可能性の有るド素人は、外部において観察するのが正しい。本当に使えるようなら囲えば良いし、無能ならその内のたれ死ぬだろう。
 「あのアクシデントの原因は何だったんだ?」
 「ゆうなぎが潜入した清掃会社のヴァンが地下駐車場で衝突事故を起こした。その所為でゆうなぎが1208拘束され、徳永の事務官の制圧が解けた。それで予定時間より十分早く事務官が徳永の私室に戻った。それがアクシデントの正体だ」
 「事務官の制圧って、……具体的にどう言うこと?」
 「井戸端会議」
 なるほど。
 非常に納得する。非日常の"話"は、日常の中にあるのだ。事務官一人を持ち場から離れさせる為に必要なのは、極々日常茶飯の事なのだ。
 深呼吸して冬馬を見つめる。凍りついたままの青年が、それでもいつも通りの顔をしていて、思わず安堵で笑みが零れた。
 「何とか二人、生き延びたなあ、同志」
 青年の目が丸くなる。大きく丸まって、瞬時に跳び寄る。
 間近に灰色の瞳を認めて息をつく。部屋の蛍光灯の光を受けて銀色を帯びるそれが、切羽詰って長沢を見下ろしていた。
 「俺はまだ、お前の同志……か?」
 は?
 いつも以上にハスキーな声が、低く咽喉に突っかかる。聞き取りにくい発音に、一瞬聞き間違えたかと思う。だが、どうやら顔色は大真面目だ。
 「それはこっちの台詞でしょ。俺の命を掌に乗っけたまま、連絡をバッチリ絶ってたのはお前さんよ。お前は俺と組織を繋ぐ唯一の存在なのに。トロい親父の存在が面倒になったか冬馬?」
 灰色の頭が大きく振られる。
 「じゃあ、連絡だけは取ってくれよ。お前がいなきゃ、俺はただの喫茶店のマスターだ。何も分からないし、何の活動も出来ない。俺の同志はお前だけなのに」
 青年の掌が長沢の右の頬をそっとなぞる。掠れた声が、痛むかと尋ねる。長沢は灰色の瞳を見つめたまま首を振った。
 「お前のが痛かったんだろ?」
 ますます大きくなった瞳が、瞬時にぎゅっと閉じられる。耐えかねたように、大きな体が屈みこむ。大きな子供そのままに、自分より小さな体の長沢にしがみ付く。背中から身体を掬い上げて、顔に触らないように頭を包む。耳許で吐息が啓輔と名を呼んだ。
 「ごめんなさい。――ごめんなさい。ごめんなさい」
 どきりとした。子供が大人に叱られて、すがり付いている声そのままに、青年のハスキーな声が言う。
 「二度としないと誓ったのに約束を破ったから、お前はきっと許してくれない。許さないと言われるのが怖くて逃げた。ごめんなさい」
 「……冬馬?」
 「傷め付ける気は無かったんだ。ただ、啓輔見たらどうしようもなくなって、夢中で掴んだ。聞こえてたんだ。お前の声、全部聞こえてたんだ。聞こえてたんだけど止まらなくて。嫌っても良い。嫌われてもしょうがない。だけど同志でいて欲しい。守ると言ったのは嘘じゃない。二度と無茶しないと言ったのも嘘じゃない。でも、自分が止められなくて俺は……」
 「冬馬」
 「ごめんなさい。俺は」
 「冬馬ってば」
 「啓輔が好きだ。大好きだ。なのに俺は、どうして良いか分からない……」
 両手で青年の端正な顔を包み込む、間近に灰色の瞳を見据えて、そのまま抱き入れる。顔の脇に抱え入れてゆっくりと頭をなでる。ホワイトグレイの髪を梳く。あやすように、宥めるように、呼吸のリズムで手を這わせる。僅かな抵抗が消え、互いの腕が互いの身体と一体になって落ち着くまで続けて頬を引き寄せる。灰色の瞳が、潤んで長沢を見つめていた。
 「冬馬、俺は男だよ。それに、お前より長く生きて、汚い目も見てる。お前みたいに純真じゃない。聞こえていたなら、分ってるだろ。俺は言ったじゃないか。ここに居るって。今更どこにも行けやしない。お前はどこに行っても、戻ってくりゃ俺はいるんだ。冬馬、大丈夫だ」
 聞こえていた。乱暴に己を満たそうとする冬馬の身体にすがって、幾度と無く長沢が言う言葉は、きちんと耳に届いていた。それでも。
 
 俺は、ここだ。ここにいる。分るか、冬馬?―― どこへも行かない。
 
 頷く。どうしようもなかったのだ。万が一拒否されたらと、そちらが怖くて近づけなかったのだ。
 頷く。同志だという言葉に。ここにいるという言葉に。頷いて縋りつく。
 長い両手両脚に絡め取られ、長沢は息を詰めた。犬や猫がそうするように、のしかかられて顔や頭をこすりつけられ、流石に少しばかり苦しくなった。
 この、子供(ガキ)っ。かすかにもがいて口にする。
 全く持って驚いた。奥田早紀と楢岡が言っていたのはまさしく至言だ。乙女心も男心も、ついでに子供の心も同志の心も傷つき易いものらしい。多少強引に押しかけて正解だった。頑なな同志の拘りが解けていくのを感じながら、長沢は溜息をついた。
 
 大型のペットが人間に戻ったのは、それから十数分も経ってからだった。もつれ合ったまま転がって一言も口を利かず、時折頭を押し付けて来ては無言の要求をする。撫でてくれ、愛でてくれ。反射的に頭や顔に這わされる人間の手に擦り寄って落ち着く。その仕種は正しくペットの動物に等しい。
 だだっ広いフローリングはどうやら床暖房と言う機能付きで、その心地良さに長沢がうとうとする頃、冬馬がくすりと笑った。笑うからには、人間なのだろう。
 「何だ」
 「啓輔も、読み違える事があるんだな」
 「ん?」
 「さっきの女のこと」
 かすかに赤くなった灰色の瞳が、じっと長沢を見ていた。青年の涙などは見た事は無いが、その表情が子供のようで、思わず頭をなでる。
 「あれは俺の先生だ。英語と国語を教えて貰った。ああ見えて子持ちだ。
 友人とこの側に来ていて流れ解散になったが、どこの駅が良いかしらと聞かれたから、向こうが代々木だと教えた。きちんと曲がるか見ていた。恋人じゃない」
 へぇ。情景を思い浮かべる。ではあの上品な微笑みは、冬馬の外面と言う訳か。なるほど、よそ行きは品が良いと言うわけだ。
 大型の動物が咽喉許に顔を埋める。息が徐々に遅くなる。寝息に変る。
 「お前が満足気に微笑んでいてがっかりした。……妬いてくれてもよかったのに…」
 はは。小さく笑って身を寄せる。互いの体温の中で目を閉じる。
 同志に、妬いたりなんか、するもんか。

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