□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 目の前の男は、日本における革命は、ただの政治改革だと言い切って黙り込んだ。
 冬馬を暫し見据え、そのままゆっくり俯く。思考の波に沈みこんで、小さく政治と繰り返す。
 「政治は革命とは違う」
 冬馬の言葉に男が顔を上げる。きょとんとした瞳が青年を見上げていた。
 「政治で行えるなら革命は要らない。政治は政治家が行うものだ。国民の中のほんの一部の特権階級が、自分の好きに権力を振るうものだ。いつだって特権階級は民衆の富を収奪する。富がなければ労働力を搾取する。それに対する民衆の対抗手段が革命だ。我々の権利を、奪われた富を取り戻す為の粛清が革命だ」
 んん、手で髭を悪戯しながら長沢が笑う。こうした討論は嫌いではない。相手が黙っているより、余程相互理解が深まる。また相互理解に達しないとしても、互いの思想の相違点を知ることは重要だ。では。長沢が言うと、青年は深く頷いた。
 「では冬馬、ストレートに聞く。それをこの国の人間が出来ると思うか?お前はこの国に7年暮らして来たんだよな。どう思う。武器を持って政治家の元に雪崩れ込む。国会を占拠する。それが今の日本人に出来ると思うか」
 それは無理だ。即座に首を振る。
 ペルーからこの国に来て、嫌と言うほど感じたのは、自らが異邦人だという事だった。
 冬馬の思想の根底に有るのは本能だ。自ら及び自らの属する集団が食い、生きる。それが第一で、世界の凡てはその次に有る。自らと言うのは即ち自分自身であり、属する集団とは家であり同志であり開放戦線である。最大級のものは恐らくは国だろうが、そこまで大きいものは冬馬は考えた事は無い。
 第一の目的を達する為には争いも辞さないし、一歩も退かない。自らのテリトリーは死守する。何故なら、それは生きる為に必要なものだから。生きている限りは守るべきものだからだ。冬馬の感覚は生物として非常に当たり前で、特別な事ではない。これこそ生物の本能だからだ。何処へ行ってもその本質は変らぬし、異質だった事も無い。この日本に着くまでは。
 日本に来て驚いた。日本人にはこの理屈が通じなかった。テリトリーと言う意識が薄いか無い。もしくは有っても、それは生存権が軸ではなかった。もっと精神的な物を軸として、自分の場所を主張するだけで、驚く事にそこに迄奇妙な平等を掲げた。平等なのだからここは皆のものだ。一人が主張すべきではない。平等に皆のものだ。
 しかも、この場合の「皆」は、彼らの「家」ではなかった。「同志」でも「開放戦線」でもなく、驚いた事に「国」でさえなかった。生物の生存圏にまで持ち込まれた「平等」意識にぞっとした。どうかしている。この人種は敵を「皆」と言う。捕食者を「皆」に加える。自らは見るからに草食動物の癖に。生きる気が無いのか。本能が無いのか。どちらにしろこれは―― 餌の群れだ。そう思った。
 自分は餌ではない。だから、ここでは異邦人なのだ。
 「無理だ。中には闘えるものもいるが、殆どは武器を持つことすら思い至らない連中だ」
 その通り。長沢が短い拍手をした。
 「だろう?日本では冬馬の言う"革命"の種が無いんだ。闘うという感覚に欠けている。その理由は三つ。
 一つは富だよ冬馬。
 我々が生まれる以前から、この国が勝ち得た富が、革命の理由を奪っている。日本は豊かな国だ。明日のパンに困らない民衆は、命がけで明日を変えようとは思わない。明日のパンを食べてから考えよう。そう思うものだ。そうしている内に事態は進むのにも気付かずにね。
 二つめは日本独特の文化。
 日本にはかつて士農工商と言う身分制度があった。今般、悪いようにしか言われない身分制度だが、これは日本の土壌には非常に合っていた。当時の全人口の僅か9.8%に当たる士、つまりは侍に、政(まつりごと)の凡てを任せ、残る九割はそれを敬い、従う。大雑把に言ってこうしたシステムが、日本の土壌と日本人の性質に合っていたのも理由の一つとして外せない。これが理由になるのは、僅か一割が政を行い、政の為に戦い、政の為に死ぬ土壌が培われていたと言う理屈から。尤も。大東亜戦争ではこの国民は総決起出来たのだけどね。
 そして三つ目。これは前にも言ったWar Guilt Information Program。
 大東亜戦争敗戦後、アメリカが徹底的に行った戦後教育。公職追放令で高等教育の現場から真っ当な教師を根こそぎ放逐して、日本を悪と唱える教師たちを後釜にした。全ての日本人に自分達は"戦犯国民"であると教え込み、永遠に謝罪せねばならないと思い込ませた。たかが教育だと言いがちだが、教育の影響力は甚大だ。
 戦後60年以上経っても、未だ日本人はこの呪縛から逃れられずにいる。元官房長官が有りもしない従軍慰安婦に謝罪し、元総理がアジアの諸国に迷惑をかけたと謝罪、現国際司法裁判所長官のとある元外務次官は日本をハンディキャップ国家だなどと言う。これらは皆その証拠だ。贖罪意識にがんじがらめになって自滅するだけで飽きたらず、他の日本人にも、生きる為に闘う事を"卑しい"と言い放つ奴が多くて、非常に迷惑だ。
 日本人は本来素直でお人好しなんだ。性善説を信じてる。その性質にこれらが加わって、すっかり闘う事を忘れてしまっているんだ。」
 穏やかに言われる言葉は、かなり辛辣だと冬馬は思う。
 かつて、MRTAでセルパやロリ・ロハスが言っていた事を思い出す。あの時は其々の手に武器があった。旗印を身に着けていた。崩れたレンガと気の抜けたビール、何処もかしこも饐えた匂いに包まれていた。こことは何から何まで、違う。
 だが語られる言葉の熱さは、語る人の思いは同じだ。貧しくても、富んでいても、一歩踏み出した人間が覚悟するのはいつも死で、破滅なのだ。
 「ペルーが直面していた問題は、国家の破産だった。徹底的な貧しさだった。だが日本は違う。累積赤字が800兆を越すとマスコミは不安を煽るけどね、全くナンセンスだ。自国債を国内通貨建てで賄えていて、GDPもまだ上向きの我が国が破産する危険性は全く無い。それを、次代に借金を残してはいけない、だとさ。国家は延々続いていくものだぜ。延々借り替えすれば良いんだ。次代に残して構わないじゃないか。
 むしろ次代に遺してはいけない物は、さっき言った三つの負の遺産だ。在日問題だ談話問題だ。日本の危機は経済じゃない。
 いいか冬馬、日本が直面している危機は侵略だ。秋津が動き出した理由も正しくそれだよ。その点は間違いない」
 侵略……? 冬馬が怪訝そうに呟く。
 「スペイン……?」
 「そう。ペルーはスペインに侵略されたな。それ。ああそうだ。日本の現代の侵略についてはどう習ってる?」
 「ああ、Chinaによる侵略。思想、人口、武力による三段構えの侵略って言う奴だ。つい一昨日習ったばかりだ。侵略は着々と進行しており、恐らくは第三段階に行く前までに、日本は陥落するであろうと言う論文が発表されたとの内部情報が瀋陽領事の関係者に届いたのが…」
 「それマジですか!?」
 生徒と教師の立場が急に逆転する。 長沢の反応に息を呑んだ冬馬が勢い込んで頷く。クリスマス以降の詰め込み時期にこの話を聞いたばかりであるから、その正確さには自信があるのだ。自分の答えに長沢が心底感心しているのが奇妙に嬉しい。
 「本当だぞ。外務省経由のこぼれ話だそうだ」
 へぇ、と感嘆の声を上げる長沢の瞳が楽しげで、その瞳を招いたのが他でも無い自分がもたらした情報だというのが誇らしかった。
 「凄いな。そう言うリアルタイムの情報は、俺じゃ知る由が無い。じゃ、ついでだから侵略の項目は冬馬が教えてくれ。新鮮な情報を俺が聞きたい。聞かせてくれ」
 胸を張る。それでは、と言うと長沢が居住まいを正す。つられて冬馬も居住まいを正した。
 「え――と。そう。日本の周りには覇権国家が四つある。一つは露西亜、一つは朝鮮民主主義人民共和国、北朝鮮。一つは同盟国である米国。残る一つはChinaである。目下最大の敵と目されるのは、現在も侵略現行犯であるChinaだ。ではこの場合の"現行犯"とは何を指すのか。
 1956年、Chinaはチベットを侵略した。僧院を叩き壊して僧を捉え、手足を切り、焼き、熱湯をかけ、首をはねて殺した。特に尊敬され影響力のある僧は殺した後に穴に放り込み、村人たちに小便をかけさせた。胡錦濤は、600万人のチベット人の内、実に120万人を殺し、現在"チベット自治区"と言う名で自治を奪い、民族の浄化の名の下に大量の漢民族を流し込み、チベット人の血脈、文化、歴史の凡てをなくそうとしている。
 東トルキスタンも同様だ。1933年に東トルキスタンイスラム共和国と言う名で独立したこの国は、1949年に人民解放軍に征服された。現在までに850万人もの嬰児を強制中絶させて殺し、50回以上にも渡る核実験で75万人以上の死者を出し、政治犯として50万人を処刑。現在までにChinaに殺されたトルキスタン人は1000万人を軽く越す。この東トルキスタンとは、新疆ウイグル自治区の事だ。
 この二つの国は依然独立を求めながら果せずにおり、現在も延々虐殺と圧制、人口侵略が続いている。これをしてChinaは侵略の現行犯と言うのである。つい2008年の北京五輪でも、ラサで虐殺してたし、これは俺もTVで見たばかりなので知ってるよ。
 えーと、さて。では。侵略現行犯のChinaの現在の標的はどこか。
 これは明確に台湾であり、台湾攻略後に向く矛先は日本以外には有り得ない。
 侵略の手立ては大きく分けて二つ。間接侵略と直接侵略。また三つに分けると思想侵略、人口侵略、武力侵略となり、直接の侵略である武力侵略以外は間接侵略と呼ばれる。現代日本において、間接侵略の内の思想侵略は、今やほぼ完成の域に達している。
 教科書への批判、首相の靖国参拝への批判等の内政干渉、尖閣諸島への上陸、EEZを侵犯して立つ平湖、.断橋、天外天、春暁、白樺の各ガス田、これらの凡てに明確な反対行為も抗議も出来ない事実はそれを証明して余りある。
 そして人口侵略も現在、着々と進行中である。2007年段階で、在日外国人国別人口はKoreaを超してChinaが一位となった。日本人学生に公的支援は無いのにも関わらず、Chinaの国費留学生には月額17万円もが支給され、その数は増大している。また、今後50年で日本の総人口の10%の移民、約1000万人を受け入れる計画も進行中で、もしこれが実現されれば、それがどのような結果を招くかは自明の理だ。
 即ち人口侵略の完成。直接的な武力による侵攻がなくとも、日本と言う国家が壊滅への道を歩むのは言うまでも無いだろう」
 一気に言い切って深呼吸すると、口を開けて聞いていた長沢が拍手をした。
 「凄ぇ。冬馬凄ぇ。何、お前って台詞のまま覚えてるのか?」
 首を傾げる。そう言う訳ではない。ただ、自らの言葉に変換するのが億劫なので、素直に聞いたままの文章で頭に入れる。次に情報を出し入れする時もそのままになる。最も楽な方法を用いていると、自然記憶がこの形になるのだ。
 そう言うと、尚更感心された。お前は頭が良いんだなあと満面の笑顔で言い、その後に何度も凄いと繰り返した。
 楽しげに感心している顔が嬉しい。こんな事で長沢にそこまで喜んで貰えるとは思わなかった。記憶を辿って復唱しただけで、拍手して褒めて貰えるなら安い物だ。機会を見て色々憶えようと冬馬は思う。そしてこうして長沢の前で唱えてやろう。きっとまた褒めてくれるだろう。上手くすれば褒美も貰えるかも知れぬ。
 単純さに我ながら呆れて、今一度胸を張る。長沢が拍手の手を止めて耳をそばだてた。
 「……と言うのが、日本の直面する侵略の概略。そして、と。移民計画の一端として、2008年には外国労働力の輸入が始まった。まずはインドネシアからの看護師250人。
 しかし、3〜4年で仕事をしながら看護師の資格を"日本語"で取れなきゃこの人達は日本に移住できない。僅かな日にちで、全く異質の日本語で資格を取るなんてまず不可能だ。インドネシアに漢字は無い。日本人だって大勢落第する試験に急に受かれと言う方が無茶だ。
 つまり日本政府は、インドネシアの労働力なんて求めてない。最初からこの人達を日本に住まわせる気は無い。労働力として3年コキ使って追い返す心積もりだ。何故こんな事をする。俺がインドネシア人だったら日本が嫌いになるぞ。だってこれはあからさまにChinaとKoreaの為の移民計画じゃないか。
 俺には不思議で仕方が無い。何故わざわざ日本は、日本の国家に否定的な国の人間を取り入れようとする?親日的な台湾と国交を結ばない?何故わざわざ国益を失う行動ばかりとっているのか、さっぱり理解出来ない。日本は自滅したがっているとしか思えない。これも啓輔がさっき言っていた三つの原因か?」
 満足気な髭面が腕を組む。うんと唸って暫し余韻を楽しむ。その後で頭を下げられて、冬馬は面食らった。
 「有り難う御座いました、水上先生。うん、分り易かった。冬馬がかなり深くまで理解している事も分ったし、冬馬の疑問は正しくその通りで、俺も同じように不思議に思うよ。だから、それが理由なんだ。秋津の」
 今度は青年が耳をそばだてる番だった。
 「今、冬馬が説明してくれたように、日本は侵略の危機にある。が、この国にぼんやり暮らしていて、それが分るだろうか?見えるだろうか?毎日は平和で飽食の文化、未曾有の経済危機と言われても、日本のGDPは未だ成長を続けている。マスメディアは一切の侵略を報道せず、またその危機に気付いて行動する人々の活動も報せない。自衛隊の小さな失敗は針小棒大に報道し、日本が僅かでも国家的行動に出ると、それを極右、右傾化と攻め立てる。
 危機を感じず、呑気に趣味に没頭する日々を薦め、その癖、経済危機と囃したてて、この勤勉な国民の労働意欲を削ごうとしている。な、冬馬。そう言う事なんだ。だから政治なんだよ。分るだろ?」
 耳をそばだてる。長沢の謎掛けに神経を尖らせる。
 「豊かな、眠っている国民を起こすのに必要なのは、爆弾じゃない。子守唄を謳い続ける子守を殺し、目覚ましを鳴らす事だ。つまり。
 獅子身中の虫を殺し、政治改革をする事だよ。秋津が現在行なっている事だ。
 支那のスパイを皮切りに、各方面のハブを切る。反日分子を一つ一つ潰す必要は無い。核を潰せば、残りの人間は大概の場合どちらにも流れるノンポリなんだ。そうしながら一方で進めるのは、羽和泉 基を恐らくは中心とする改革政党だ。自明党になるのか、新党になるのか、それは知る由もないが。
 冬馬、世の中には必ず裏と表がある。裏があるのを悪い事のように世間では言うが、俺はそうは思わない。国家などのように巨大な共同体を保つ時、凡てをつまびらかにする事が正しい等と言うのは子供の発想だ。現実を知らない理想主義者の机上の空論だ。裏を備え、決して裏を明かさない。それこそが正しい国家体制だ。完璧なるダブルスタンダード。日本に必要なのはそれだ。逆に言えば。
 日本に欠けているのはそれだけなんだよ」
 冬馬が見つめる目線の先で、平凡な男が俯く。不細工な黒縁の眼鏡の奥の、温和な瞳が俯く。肉の殺げた頬も、所々に白髪が交じる髪も、平々凡々な容貌の男の中に宿る一癖ある知性から目が離せない。髭に覆われた口許が浮かべる微笑に、つられるようにして笑う。
 「だから、必要なのは政治だ。大きな武力による開放戦線ではなく、最小限の武力による粛清と秩序だ。表の日本政府の為に裏が闘う。それが秋津だ」
 武器を持たぬ国の、武器を得る為の戦い。戦いを忘れた心に、刃を取り戻す為の戦い。何処までも裏の戦いだ。
 「裏の秋津、表の政府。裏の秋津と羽和泉 基。表の政府と羽和泉 基。面白いね。羽和泉だけはどちらにも居る。どちらにも必要なファクターだ。ここが蝶番の支点なんだ」
 語尾が徐々に低くなる。思考の中に沈んでいく。
 「そう考えれば、見えてくるが……。踏まなきゃいけない手順は幾つも有る……足らないのは……」
 消えた語尾を掬い取るように、手が口許の髭を覆う。男が飲み込む言葉が重みを増す。聞けないだろう言葉が重くなる。自然と早まる拍動を感じながらその顔を見守る。最後の同志の、最後の相棒の、全幅の信頼を置く男の顔を。
 見える物はあった。思い当たる物も幾つか有った。だが、これが布石だと分る物を集めても、どうにも輪郭がぼやけていた。その為の岐萄で羽和泉だ。彼らが起点で中心だ。だがこれだけではどうにもならない。
 長沢がただ一人、良く知る秋津のメンバーは、至極用意周到な男だ。もしその男の思想が、長沢の推測すると同種類の"革命"であるならば、秋津には必要な"物"が揃っているのだ。だからこそ始めた。終点を目指して。
 秋津の目指すものが政治なら、欠けている要素が一つある。
 勿論、現在の日本に欠けている要素を挙げたら両手の指でも足りないのだが、そう言う意味ではない。
 変革は中央に立つ人間の意志で出来るものだ。足りない要素を挙げると切りがないが、足りない人物を挙げるとそれ程多くはない。国を変革するのにも会社等の組織を変革するのにも、実は必要な人材の"核"の数はそれ程変らない。恐らくは、現在の秋津には、変革に必要な最小限の人物が揃っている。外部にか内部にか、どう言う形でか、秋津上層部が人材を確保しているのはほぼ確実と見て言い。そう仮定すると。
 足りないものは唯一つ。多分、一つ。あるいは、一人。
 そこに有るものは凡て現在なのだから、足りないものは一つ。欠けている要素は唯一つ。欠けているのは………。
 「足らないのは何だ、啓輔」
 思考を千切られて顔を上げる。印象的な銀色の瞳が長沢の眼を受け止めた。
 水上 冬馬。自明党代議士、羽和泉 基の妾腹の子。僅か4.5歳で裕福な日本人から、貧しいペルーのゲリラとなった青年。ほんの三月前、見知らぬ強奪者だった青年の顔が、真摯な表情を浮かべてそこに有る。
 粗野なだけかと思ったのに、存外計算高くてクリアな頭脳。血で汚れた手を持ちながら、純粋な精神と思想。激しくて、無愛想で、汚れを知らぬ理想の持ち主をそこに見る。思えばこの青年との時は、まだ僅か三ヶ月足らずなのだ。
 だと言うのに、この短い時間に青年は変った。目を見張る程の進化を遂げた。戦うのは腕や武器だけでは無いと知り、頭脳と口先三寸で闘う事を憶えた。その術を掴み、初めての闘いで、完璧とも言える勝利を収めた。理屈ではないのだ。本能が勝機を嗅ぎ付ける。隙を突く。闘いと言う物の臓腑の場所を、勝利と言う名の心臓の匂いを、恐らくは青年は知っているのだ。
 のうのうと文明に守られて生きて来た日本人とは違って。
 「啓輔?」
 見つめる視線の先で首を振る。分からない、ではない。まだ言えない、と言う意味だった。
 「妄想はここ迄だ冬馬。情報が足りなさ過ぎる。いくら凡て伝えると言っても、妄想を垂れ流す訳には行かないよ。お前は、…俺の希望だから」
 銀色の瞳に怪訝の色が乗る。だがそれ以上には問い詰めない。不満気なまま口を閉じる。長沢はホワイトグレイの頭に手を伸ばした。
 「悪いな。妄想と言うのはタチが悪くてな、幾らでもリアルな説明を付けられてしまうんだ。丁度新興宗教の教祖がするように。でもそんなはったりは、いまや邪魔なだけだ。出鱈目は言えない。お前を惑わす作り事は言えない。俺に今言えるのは、辿り着く先は政治改革だと言う今の理屈と…後は警句くらいだ」
 真っ向に見つめあった先の青年の指が長沢の唇に掛かる。言ってみろよと言う促しに思えた。
 「秋津のアピールは、俺が知るだけで既に六つ。スパイに教授、メディア活動家に代議士、経総連の副理事、最高裁裁判官。計六つの死がアピールだ。多分もう少し、俺が知らないだけであと二三は多いだろう。丁度良い頃合だ。彼らの死を踏まえて次のステージに移るには。
 来年早々には政局が動く。一月半ばで解散、直ぐに総選挙になるだろう。今回は多分、選挙制度も変る。次の候補は数人いるが多分、秋津に都合の良い人間が立つ。民衆等は富士野忠明の死後、膿が出ているからチャンスは薄い。すべてはその後だ。内閣が体勢を整えた後に秋津は動く。その前に動いたら品位を下げるだけだからな。後は来年。選挙の後だ。」
 柔らかい髭の稜線を指で辿る。向けられる眼鏡の奥の視線を探る。
 「お前の希望……?」
 「ん?」
 「さっき、お前は俺の事を"俺の希望"と言った」
 「ああ……。うん。お前は俺の希望だ。俺だけじゃない。お前さん達は今の…希望だ。多くの日本を憂う人々にとって。今はまだ誰も知らなくても、きっと…すぐにそうなるさ」
 言って伏せられる瞳が突っかかった。お前にはもっと色々分っているんだろ?そう問わずに俯く頤を掬い上げる。
 長沢 啓輔。元新都銀本社営業部部長。そんな肩書きをかつて聞いた。だがそんな事は、冬馬にはどうでも良い事だ。最低最悪の結びつき方をした、唯一無二の同志。全幅の信頼を寄せる同志の複雑な個性は、今は少しは青年にも分っている。長沢が推測と言う時はほぼそれは確信で、妄想と言う時は推測だ。単純に推測の段階では、この男は絶対にその内容を口にはすまい。
 出会いから僅か三ヶ月。それでも充分だった。この男を欲して、心から信じるまでに。信じるだけではない。認め、尊敬し、この男に釣り合う力を持とうと、必死になる迄に、それは充分な時だった。日本と言う世界の果てで見つけた宝。
 「啓輔。俺は二度とお前から逃げない。約束する。お前は俺の相棒で同志だ。俺にはお前しか居ない。目も耳も頭も、同志として使おう。そして二人で……生き残る。お前の言う事、きちんと凡て聞いて考える」
 頷く。
 「そうしてくれ。俺は一人じゃ何も出来ない。あくまでもお前さんの補佐だ。お前が主で俺は縁の下担当だ」
 言いかける口を引き寄せる。両腕で抱きこんで両脚を絡め、後ろ髪の中に顔を埋める。背に両腕を回して身体を密着すると、腕の中の体が始めてはっきり強張った。
 「本当に啓輔は許してくれる?俺が約束破った事……」
 「……と。冬馬君。その、当たってますけど」
 特別な返事を返さぬまま、絡める腕に力をこめる。引き摺り寄せられる身体の中央に、自然に青年の腰も密着する。今まで逆らわなかった長沢が、唐突に青年の顔に手を突っ張った。
 青年と長沢では、シャーシが違う。必死になれば適うだろうが、遠慮がちな拒否など前戯に等しい。難なく逞しい腕に封じ込められる。ヘッドセットを通して聞くのとは格段に生々しさの違うハスキーボイスが、耳許で傷はもう痛まないかと尋ねた。
 胸郭の中で、心臓が跳ね上がる。その事実に驚いて青年から身を剥がす。声が上ずった。
 「ち、ちょっ、待て、待ってくれ冬馬。今日はそれも話そうと思って来たんだよ。なあ、そろそろこの関係、清算しないか」
 青年の銀色の瞳が驚愕に持ち上がった。
 

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