□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 長沢が恒温室から内科病棟の一室に移されたのは、その日の午前中の内だった。
 恒温室はあくまでも経過観察の為の仮住まいの場所であるから、長い期間同じ患者が使う事はまず無い。加えて特定できない感染症の患者であるならば尚の事だ。長沢は早々に追い出され、恒温室はいつもより丹念に消毒される事になった。
 数日間の仮住まいが新たに決まった。爛天堂大学病院新館5階、内科病棟の502号室。
 1号〜7号までが個室で、後は二人部屋、6人部屋になっており、6人部屋は保険適応だが、個室には通常、個別料金がかかる。だが今回は、感染症特定までの個室と言う条件と、酒井医師の特別な計らいによりそれは無しになった。常連客の多い喫茶店の店主は、やっておく物だ。
 さて移動と言う段になって、42度という高熱に意外にてこずった。
 記憶にある限り出した事のない高熱は、平衡感覚を消失させる。立ち上がった途端に視界がぐるぐると回り出し、自力で姿勢を制御できなかった。一歩を踏み出そうと言うチャレンジは、付いていた看護師に軽く見放されて終わりを告げた。これまた初体験の車椅子移動となる。
 それでも、慣れていないのは当の長沢だけで、看護師にとっては全ての事が平常業務である。うろたえる四十路の病人を内科病棟に移動させた後は素早かった。患者がベッドにもぐりこむと同時に点滴の用意を終え、さっさと刺して退室する。点滴の中には抗生剤と解熱剤が入っている事、トイレに行くのは自由だが、動けない場合は枕もとのスイッチを押して呼べば良いと言う事、必要最低限の諸注意を淀みなく伝えると、天使の微笑を残して去って行く。
 彼女達には日々繰り返される行為で文言なのだ。長沢の珈琲講釈に等しいのだろう。それは分かっていたが、カタカナ英語をさらさら唱えるのには妙に感心した。後から思えばあれは英語ではなく、薬品名だったと思い当たるのだが、感心した事に変わりは無い。
 −− SOMETHING CAFE
 不意に、冬馬が言った英語を思い出す。日本語の発音ではなく、さりとて良く聞く米語の発音にも聞こえない、Tの発音が強いあのイントネーションはどこの物なのか。
 薬の所為か、恐怖も嫌悪感も薄らいでいた。痛みと熱は身の内に有って、ぼやけるどころかより鮮明になって行くと言うのに、肝心の受容器である脳がぼやけていた。うとうとと、寝ては醒め、醒めては眠る時間の中で、繰り返し繰り返し耳に冬馬の言葉と声が蘇った。
 低音のハスキーボイスだった。長沢を「啓輔」と名で呼んだ。耳許で狼のように呻いていた。苦痛と恥辱の中で訳の分からぬ呻きに思えたあれは、言葉だったのかも知れぬ。では、どこの。医師は言った。相手が外国人の場合は、危険な感染症のケースも考えられるから。
 はっ、と胸を突かれて目を醒ます。
 窓から差し入る光に、人影が揺れていた。
 身の丈は170cm代後半。細身だが肩幅は広く、グレーのスーツをきっちりと着こなした男が、カーテンの隙間から外を見下ろしていた。
 その窓からは旧館4階屋上の物干し台が間近に見えるのだ。覚醒しきれない脳が、のんびりと頭の中の風景をまき戻した。
 旧館と新館の間には段差があって、丸々一階分新館が高い。新館から見ると、丁度3階の屋根部分の高さに物干し台がある事になる。窓が開いていれば、洗剤のほのかな芳香が漂ってくる距離であり、相手に気づかれずに様子を伺うにも手ごろな距離なのだ。
 かわいい看護婦が洗濯物を干す姿でも見ているのか。ぼんやりとそう考えて、つい小さく笑う。その声か動きに反応したのか、シルエットになっていたその人が振り返った。白い光の中で、くっきりとした鷲鼻が影の形を変える。動きに合わせて微かに形を変えるスーツの胸元が、鍛えられた身体の線を浮き上がらせた。スーツの型や色、短く揃えられた頭髪と立ち居振る舞い、体格。その全部が彼の素性を表していた。
 「ああ……済みません。失礼しました。眠ってたみたいだ。刑事さん…」
 何とか言葉をつむぐ。がさがさの酷い音声ではあるが、言葉の体裁は保てたようで、男が表情を変えた。窓の傍を離れて足下の方角から歩み寄る。光の下に立ち返った男は、怪訝な表情で会釈をした。初めて見る顔だった。
 「いえ、こちらこそお休みの所……しかし。何故私が刑事だと?」
 ああ…、長沢は苦笑した。これだけ、"いかにも刑事"な出で立ちなのに、どうやら本人にはその自覚が無いらしい。
 「家の従業員が通報したのは聞きましたし、刑事さんがおいでになるだろうと、先生からもご助言いただきましたから。いらぬご足労をおかけして……」
 言い募ると、目の前に一本指を立てられた。お静かに、と言う意味だとは直ぐに分かったが、聞き苦しい声だから黙れと言っているのか、それ以上の説明は無用だと言っているのかは分からなかった。
 「仰る通り、お話を聞きに伺ったが、会話をするのはかなり辛そうだ。まず、こちらから状況説明させて頂いて、必要な事だけ答えてください。細かい事は……声が元に戻ってからで結構です。」
 なるほど。非常に合理的だ。長沢は頷いた。
 「それでは、まず順序を踏ませてもらいます。私は神田署の鷲津といいます。貴方の喫茶店の常連客(なじみ)でもある生活安全課の楢岡から、この一件を聞きました。強盗傷害は私どもの仕事ですのでね。……しかし、貴方はこの一件を事件にしたく無いようだ。それは何故」
 幾つかのキイワードが頭につっかかった。常連客で生活安全課の刑事。楢岡。強盗傷害は専門。
 この男が神田署刑事課一係だと言う事は分かった。だが、常連客の方がぴんと来ない。
 常連客に刑事など居たろうか。それは勿論、神田署は近いし、地域課の「おまわりさん」には世話になる事も多く、付き合いもある。地域課の警察官なら名前も四五人は上げられるが、楢岡と言う名はそこには無い。その名が有るのは、「私立探偵」の項目だけである。
 「楢…岡?…楢岡くん、生活安全課!? 生活安全課って……あの人警察官ですか!」
 驚いて叫んだつもりが声にならずに咳になる。名の通りの鷲鼻と、深い眼窩の所為で出来上がった強面に、少しの笑みが浮かんだ。
 「ペットや失せ物の捜査ならお任せの私立探偵、と言ってましたか。奴の常套手段です。警察官と名乗ると構えられてモテないんだそうですが、それは喫茶店にも有効の手のようだ」
 あの野郎、と心中で毒づく。
 自称私立探偵の楢岡は、常連客の中でも最も気の置けない連中の一人だ。文学系映画のファンで女好きの世話好き話好き。岩波ホールが閉館の危機にあった時などは、WEBで狼煙を上げてカンパを募り、署名だスポンサー探しだと戦々恐々としていた。存続が決まった時は、男泣きに泣いていた叙情派だ。
 彫りの深い、濃い顔立ちの、黙っていればそれなりにいい男なのだが、根が三枚目の所為か、40の声も近い今現在もまだ華の独身男である。
 「今朝7時25分、通報があり、地域課、生活安全課が出向きました。従業員の奥田さんから、マスターが誘拐されたとの訴え。前日暴漢が店にやって来て、店長に強かに暴行を働いて帰って行った。夕刻もう一度暴漢が現れた時は従業員の北村さんが追い払ったが、恐らくその後にもう一度現れて、マスターを連れ去ったに違いない、との事でして。
 私も従業員の女性に店の中を見せて貰いましたが、私の見る限り、店に荒らされた形跡は有りませんでした。ですので、これは誤解による通報かと思ったら、貴方が出てきた。こちらは、随分と荒らされた形跡が有るようだ」
 落ち窪んだ眼窩の所為だけでは有るまい、人を品定めするような視線は冷徹で容赦が無い。刑事と言う職業をあらかじめ知っていなければ、この視線に好意を感じるものはいないだろう。いや、知っていたとしても。
 「誤解です」
 気分は良くなかった。何気ない風を装って答える。
 「ちょっと怪我した隙に、そんな大事になってご迷惑かけているとは知らずに、本当に申し訳ありません。けれど、従業員の誤解なんですよ。
 飲食業の宿命で、客とのいざこざは避けられません。酔客に絡まれて怪我したのを、昨日早紀ちゃん…奥田さんに手当てして貰ったので、彼女の中で大きな事件になったんだと思います。暴漢、と言ってしまっては、お客様に気の毒だ」
 冗談じゃない。自らの言葉に自らで毒づく。あれが暴漢でなくて何が暴漢だと言うのか。
 だが、目の前の刑事の言う通り、店には被害が無い。目に見える実害が無いのだから、この一件を事件にする必要はない。いや、それは少し違う。事件にしたくないと言うのが本心なのだ。
 「その時の怪我と今日のこれは無縁です。気分が悪くなって階段から落ちたのか、そこで気を失っていて風邪でも引いたのか。情けない事に運び込まれて、肺炎だそうです」
 刑事の鋭い目が笑いに細まる。笑いは本来穏やかな物だが、その表情に安らぎは感じられなかった。
 「誤解…ね。運び込まれたと仰るが、あの日猿楽町界隈に救急車の出動要請は有りませんでね。誰がどうやって貴方を運び込んだんです?」
 言葉に詰まる。それほど嘘が巧い方だとはハナから思っては居ないが、辻褄を合わせるくらいの偽りのノウハウは分かっていたつもりだ。だと言うのに、このヌケ具合は一体何だ。頭が動いていないのも大概にしろと自身を呪う。
 気を失ってから、病室で目覚めるまでの記憶は全く無いのだ。まるきり欠損している病院到着時のデータを取り繕うには、事前調査が必要だった。それ無くしては馬脚を現すのは必至だ。丁度今の己のように。
 「自分で……」
 「自分で来たのなら、"運び込まれた"と人は言いませんよ」
 ぐうの音も無かった。事前調査の時間は無かった。質疑応答に対する心構えも何もかも無かった。
 刑事が小さな溜息を吐く。床頭台の上に新聞と雑誌を放り投げ、ここまでにしましょう、と呟いた。
 「貴方の主治医、ええと…酒井先生に、高熱だから長時間の質問は困るとあらかじめ言われていますし、本当に辛そうな声だ。今日の所はここまでに。
 差し入れと言っては何ですが、お暇でしょう。読み終わった物で申し訳無いが新聞、置いて行きます」
 素っ気無く、グレイのスーツが踵を返す。唐突に断ち切られた緊張に安堵した所為か、霞み始める頭でぼんやりと礼を言うと、いやいや、と短く切りそろえられた頭が左右に振られた。
 「男には認め辛い種類の暴行も有りますからね。お大事に」
 頭が霞む。捨て台詞に胃が引き攣った。
 畜生。
 

− 7 −
 
NEXT⇒