□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 計算なしで動く事が出来なくなって随分になる。
 学生の時分はそれこそ行き当たりばったりに、恋も人生も力の限りぶつかった。
 手酷い失敗も幾つも有ったが、心身ともにぐちゃぐちゃになっても、体の傷が癒える頃には心もすっかり立ち直っていたし、引き摺る事もそうは無かった。元来そうは熱くなれない性質だから、自分が熱くなれる時には周りを見ずに突っ走った。結果、楢岡の体には今も消えない傷が4つ有る。
 子供の頃から学業でもスポーツでも、さして怒られた覚えはない。授業に出ていれば理解出来たし、忘れる事も無かったから、試験勉強と言う物を特にした記憶は無い。それでも赤点だの落第だの言うものに縁がなかったから、努力の欠如に繋がったのだと今は思う。
 それなりにやれば出来るなら、それなりで良い。無理する必要を感じないし、それ以上を求める気も無かった。元来多趣味な性質で、それなりに色々な物に手を染めたし、その分野で楽しめる程度の勉強も練習も努力もした。だが、それとて趣味の範疇を超える事は無かった。自己を研鑽し、高い目標を掲げ、日々鍛錬する生活は、楢岡の歴史には一切無かったのだ。そして。
 いつか気付けば、三流大出のノンキャリ警察官に納まっていた。それで悔いも無ければ反省も無いのだから、自分の器はここなのだと理解している。
 勉学がそうだったから、スポーツもその伝に違わない。やればそれなりに出来たから、本気でやってみないかと誘われても、心は動かなかった。剣道は子供の時分から惰性のようにやって来たが、それにしてもブランクが有る。楢岡が剣道三段になったのは大学在学中で、以降の更新は全く無い。その理由は"四段からは審査が煩くなるから、面倒くさい"と言う、ただそれだけだ。警察官になってからはもっぱら警察の剣道場でそれなりの稽古をするだけで、地元の道場に顔を出したのも数年以上前と言う体たらくだ。
 モットーと言うほどはっきりした価値観も無く、人生を「それなり」に過ごして来た。
 多趣味な上に惚れっぽい性質だから、その方面の揉め事はあったが、学業面仕事面共に揉め事も面倒も無くやって来た。
 血を吐く様な努力も無く、時に自分が熱くなれる事柄に対してだけ自らの能力と時間を費やし、思うままに生きて来た。それが非常に性に合っていたし、周りからの苦情もなかった。苦痛もストレスも無く、大した盛り上りも盛り下がりも無く、一生それで終わると思っていた。が。
 変らぬものなど、やはり無いのだ。
 思うままと言うのは、しがらみが無い状態を言う。だが、しがらみと無縁の人間などいない。思うままと言うのは、自由の事を言う。だが自由とは、必ず天秤の片方に義務と言う重い物が乗っている物なのだ。
 いつか知己や宿敵や愛する人、守りたい人などのしがらみが増え、正義感だの社会正義だのポリシーだのと言う守らねばならない義務が胸の内に育ち、気付けば思うままにならぬ自分がいた。
 身動きのし辛さをマスターして折り合いをつけ、周りの動向を読み、いつか計算して動くようになった。自分にも、周りにも良い様に。
 今ではほぼ凡てに細々とした計算をして動いている。そうだ、今日も。
 熱くなる心の片方で、自分でも驚くほどの計算をして、今日の一歩を踏み出したのだ。
 
 岐萄の姿を見つけた長沢が吸い寄せられるように縁側に歩いていくのを背後から眺めて、楢岡は踵を返した。
 長沢の性質はこの十年で良く分っている。いや、そうではない。十年間、理解したと思って来た個性が勘違いであったと、この三ヶ月で思い知った。思い知って、今は良く分かったと感じて居る。
 長沢が真に知りたいと願う事は、恐らく彼自身で掴めるだろう。それだけの知力と行動力のある男の筈だ。それならば楢岡のすべき事は、それ以外だ。
 楢岡のすべき事、長沢に求められる事は、長沢が自身で触れられぬ「溝」を埋める事。それは直ぐ側に転がっている癖に見え辛い、そんなものに違いない。
 開放されたL字型の短辺に当たる位置に長沢を置いて、楢岡はその長辺に足を進み入れる。ほんの数メートルも進み入ると、直ぐに零れ出る賑わいに包み込まれる。瞳をめぐらすと、そこに、笑いにさざめく人の塊が有った。
 都会では余り見る機会の無い広い土間、高い上り框、式台。純日本建築の一角が来客用に解放されており、そこに支援者と思しき人々が集い、酒を酌み交わしていた。
 土間の奥には台所が有り、泥付きの根菜や葉菜が縄で括られて、所狭しと並べられている。元は釜が有ったであろう場所には、近代的なシステムキッチンセットが並び、その脇に大きなオーブンと電子レンジが並ぶ。日本古来の土間と近代のテクノロジーの同居は不思議にマッチしていた。近代的で、しかもアナクロだ。
 土間から高い上がり框を上がると広めの板の間があり、その奥には人で埋め尽くされた広間がある。框は高い癖に、広間とその奥の廊下を見る限りバリアフリーが意識されて居るようで、並べられた長机と座布団も相まって、これもまたアナクロで近代的だ。
 広間の長机には色とりどりの器と漆器。湯気を囲む人々の群れは、いずれも頬を桜色に色づかせ、寛いで笑い合って居る。楽しげな空気に思わず楢岡も愛想を崩す。匂いにつられたと言わんばかりにふらりと土間に入り込み、鼻を鳴らすと、早速割烹着を来た女性に肩を叩かれた。振り返るとオバチャンと言う言葉がぴったりの、太り肉の女の顔が目の前に有って、楢岡を認めてあら、と笑った。
 「鼻エエねぇ、二枚目のお兄さん。御節(おせち)と御燗(おかん)と有るから、こっち座んなさい座んなさい」
 「あ、俺、運転してるんで酒はダメ。それ以外は全部ゴチになります。ウス!」
 肉厚の掌が叩く座布団に腰掛け、あいよ、とオバチャンが差し出す椀を受け取ると、近辺に居た親父連中が一斉に視線を向けた。
 「あんたどこのアレね、坂本、それともぼっちゃんの」
 坂本と言うのは現岐萄派の事で清正連を指すのだろう。坊ちゃんと言うのは岐萄の息子。確か岐萄には二人の息子と三人の娘がいた筈で、娘三人には其々旦那が居る。清正連の事は先に長沢も言っていたから確かだが、この"坊ちゃん"が5人の内のどれを指すかは、俄か勉強では分りかねた。
 「警備会社のモンです。半分はプライベートみたいなモンで、東京から。下調べをかねて」
 曖昧に言うと、何人かが勝手な推測を口にする。ありゃ、じゃあ友司さんの。ボン、なんぞあったんか。こないだもアレ、どっかの官僚が殺されたがね、あんたそれの。はあ、お疲れさんだねぇ。
 否定も肯定もせずに居ると、支援者の間に適当なストーリィが出来上がる。そうなれば後はこちらの匙加減一つだ。
 「いやいや俺は。近い内に解散、総選挙になるでしょ。そしたら皆さんの方がよっぽど大変じゃないですか」
 言いながら側の徳利や、酒瓶の類を持ち上げる。注がれた酒を相手が飲み切ったら、合いの手の一つもかけてやれば出来上がる。
 「そうよ、兄ちゃん、俺なんかこの間よ」
 紅白蒲鉾を咀嚼しながら話に耳を傾ける。数分も経てば、話し手は倍に増えるだろう。
 
 岐萄友司、58歳。岐萄友充の堂々たる嫡子で長男、自明党の党三役も勤めた事のある代議士の手を両手で握り締める。肉厚で滑らかな、力仕事を知らぬ手だ。お辞儀をして手を離すと、銀縁眼鏡の奥の瞳が長沢を見上げた。
 慶應大を卒業し、しばし父の元で代議士秘書をした後に、米Stホプキンス大学院でMBA(経営学修士)を取得している。友司25歳、1976年の事である。MBAがビジネスエリート資格としての地位を固めたのは80年代も後半に入ってからの事だから、当時としては中々に先見の明のある判断と言える。
 父譲りの容貌と、父譲りの地盤を持つ、政界の二代目。もっともそこには、支那とただならぬ深い関係を持ち、幾度と無く視察団と共に訪中訪朝を繰り返して私財を蓄えた父親の、良くも悪くも強烈なカリスマはない。醜聞も黒い噂も、満載の父親はやはりスケールが違うのだ。
 酷薄な容貌と、父譲りの親支ぶりが一般国民の人気を得るとは思えないが、強ち無能とは言えない。どころか。利権の構造の直中にある日本マスコミをして、叩きも持ち上げもされぬ自明党実力議員は、ある意味珍しくはある。目立たず、騒がず、得体が知れぬ。そんな存在だ。
 「先だってのご手腕、お見事でしたね」
 怪訝な瞳が向けられる。敢えて何の事かと聞かぬのは、目の前の男に後援の意思があるなら恥をかかさぬためだろう。
 「医療給付金、貴方が幹事長になって上がりました。2005年、2006年と削減されてこのまま行くのかと思っていたら復帰した。あれは医療従事者をお身内に持つ貴方のご示唆でしょ?昔は武見太郎が居たから医療費は保たれていた。今や医療は放っておけば続くものだと思う政治家ばかりです。貴方が居なければ」
 ほう。大きくなる瞳が素直に驚愕を表していた。
 「せめて北欧並みに9%まで。出来れば西欧並みに10%まで復帰できるとよろしいですね。応援しています」
 「ははは。何処の予算を削ったら良いか、ついでに教えて頂けると有りがたいが」
 「思いやり予算を医療費と防衛費に分配するのは如何でしょうね」
 男の目が楽しげに細まる。
 「それでは私の末路は決まってしまうよ」
 その瞳を見ながら、そっと縁側に身を沈める。男の目線が追って下がるのを確かめながら、縁側の淵に腰掛ける。薄い障子を隔てた室内で、岐萄友充の笑い声が上がる。旧制中学しか出ていないフィクサーの、威厳の有る胴間声が笑う。
 「そう言う物ですか。もう目白の時代ではありませんし、一国支配の時代は終わったと世間も言いますし、再び"日本パッシング"の到来でしょ。やり方があるかなぁと素人は思ってしまうんですが。」
 目白とはこの場合田中角栄の事を指す。一国支配とは、当然ながら日本の"同盟国"米の支配の事を指す。かつてロッキード事件で米国に刺された田中角栄を揶揄した長沢の言葉は、政界に席を置く者なら誰もが解せる簡単な符号だった。
 「仰る通り、時代は変わりましたがね。そこまで単純なモノでもない」
 また一台、ベンツが駐車場に入って来る。来客の多くは、岐萄友充に参りに来るのだ。友充だけに。友司の存在は、この縁側に忘れ去られている。
 「先生のご兄妹は、皆さん政界には入られないんですね。医師と弁護士と、…事業家でいらっしゃる。……ただ…」
 男の目が持ち上がる。
 「ただ……?」
 貴方のたった一人の男のご兄弟は別ですが。その一言を呑んで見つめる。友司は片眉を持ち上げただけで無反応だった。
 屋敷の奥に視線を動かす。その一人は、この屋敷の中に居るのだろうか。この、芦屋の岐萄本宅に。思いかけて、否定する。それはまず有り得ぬ。羽和泉 基はいわば不逞の子だ。岐萄 友充が外の女に生ませた非嫡子なのだ。この本宅への出入りが、早々安易に許されているとは思えない。だが、それならば何故。
 本来地盤を正しく継ぐ筈の娘達が近付かぬ政界に、不逞の子は足を踏み入れ得たのだ。未だ無役とは言え、何故、自明党の陽の当たる場所に入り込み得たのだ。地盤は兵庫ではなく東京だが、それとて支持母体は岐萄の息の掛かった労協で、岐萄の流れを酌んで居るとしか思えぬ。岐萄の子である事が公然の秘密で有るが故の強大な地盤は、権力者をひきつける。また、元来の愛嬌のある顔立ち、ノーブルな雰囲気、時流に乗った穏健保守的な物言いは、ちゃっかりと若年層にアピールしている。存在感だけで問うなら、羽和泉 基は友司より遥かに上…いや、岐萄 友充本人にさえ迫ると言って良い。
 何故、嫡子と非嫡子が共に同じ「政」と言う場に立ちえたのか。同じ党に立つ事に成り得たのか。その理由は――一つ以外に有り得ない。
 ただ一つ。意思だ。
 友司の、では無い。羽和泉 基の、でもない。唯一つ岐萄家の。岐萄家頭首、岐萄友充の絶対的な意思だろう。
 となれば。過去と現在はどうで有れ、未来は……。
 「…ご本家は……」
 「ん?」
 穏やかな古い家。やがて穏やかに廃れて、土に戻る家屋。時に飲み込まれて行く一族。岐萄 友充の時代は暮れていくのだ。次の曙が有るのなら、それは岐萄の名の下ではない。次の曙は、岐萄家の外の。家族と言う間柄ではない者の。
 「支援者の方々と、ご家族の方々……だけで、一杯ですね」
 羽和泉の名の下に明けるに違いない。
 銀縁眼鏡の奥の目がゆっくりと広がる。長沢の意図をしっかり読み取った目が開かれて見つめ、ゆっくりと伏せられる。苦笑が零れ出た。
 友司。室内から胴間声が叫ぶ。
 俯いたまま、はい、と答えて腰を浮かす。銀縁眼鏡の目が、初めて人間らしい表情を覗かせる。かすかな苛立ちと諦め。そして服従。見つめる黒縁眼鏡の視線の前で、政治家がゆっくりと、奇妙にゆっくりと頭を振った。
 「申し訳ないが…」
 「あ、失礼致しました。折角寛がれていたのに、詮無い事を申し上げて」
 いやいや。そう言う代わりに頭を振る。
 「仰る通り。この家に入れるのは、まったくの他人と、"家族"だけなのでね。家族以外の者の事は、そちらに行かれると良い」
 今度は長沢が瞠目して男を見つめる番だった。長沢の言わんとした事は、男には十二分に伝わって居る。理解されてもいる。その事実に動揺した。ただ一言でこの男が理解したというのなら、それは"素地"が有ると言うことだ。ゆっくりした動作の背中が障子を開け、失礼しますと部屋の中に声をかける。
 ああ。男が障子の向こうに消える寸前に、ひょいとこちらに顔を向けた。
 「長沢…啓輔さんね。憶えたよ」
 酷薄な容貌に、似合いの笑みが宿る。
 反射的に深く頭を下げて男を見送る。頭の上で静かに障子が閉じる音がして、後に後援者たちのわざとらしい程の歓待の声が続く。そうか。妙に得心した。
 岐萄の胴間声と、後援者の笑い声。毎日、何十何百と言う人間に会う政治家が、闖入者などそもそも気にする筈が無い。状況が状況だったとは言え、名を気に留める訳がない。憶える訳など更に無いのだ。
 友司は少なくとも、一回告げただけの長沢の名をフルネームで復唱した。有り得ぬ事があったなら、それは偶然ではない。偶然で無いなら必然なのだ。そうかと思う。そう思うきっかけとしては充分だった。
 素っ気無く閉じられた障子に背を向ける。後援者の笑い声が聞こえる、庭の奥へ小走りに向う。きっかけが有れば充分だ。次の目的が決まった。ここを出て、次の地へ向わねばならぬ。
 楢岡を探す。岐萄友司と話し始めた頃には既に姿の見えなかった現在の相棒の姿を探す。恐らくは声のする方だ。中庭の奥の、一際声の高い辺りを目指す。ガラス戸に手を突くと同時に、中から聞きなれた笑い声が聞こえた。
 土間の向うの大広間。一山の地元民の真ん中で、茶を片手に大笑いしているのは、この土地では異邦人の筈の男だった。
 「おお、来たぞ。あの人やないか、ほれ、兄ちゃん」
 隣の60代後半と思われる男に肩を叩かれて振り返る。茶碗を口に当てたまま破顔して立ち上がる。
 「Kちゃん」
 どきり、とした。
 「ほんま聞いたとおりやなぁ。あんたも苦労する」
 「でしょ。じゃ俺行きます。これ、ごっそさんねおばちゃん。皆さんもごっそさんでした。じゃあ、ドモ!」
 その場のほぼ全員から、気ぃつけて行けやぁ、と声が掛けられる。その一つ一つに有り難うね、と応えて手を振りながら座敷を出る。式台からすとんとスニーカーの上に降りる仕種は、日頃から体を動かしている滑らかな動作だった。
 SOMETHING CAFEで見慣れた筈の男の姿は、こうして見ると新鮮だ。丁度建具と被るくらいだから、身長は180に僅か欠ける程度だろう。均整の取れた体躯は肉厚で、長沢のような頼りない作りとは違う。逃亡犯を容易く押さえ込める、実用的なつくりに違いない。
 動きを目で追っていると、間近に来た楢岡に胸元を小突かれた。
 「行こう。次の目的地が決まった」
 「そ、それは俺の」
 「ん?」
 ……台詞だ。
 
 軽キャンピングカー、テントむしが駐車場を出る。
 地図を片手に楢岡がハンドルを回す。小さな体を急転回するテントむしの中で長沢が不平の声を上げた。
 「ちょっ、楢岡くん、どこに向う気だよ」
 ちらりと長沢を見やって、道路上に視線を戻す。口許に宿る余裕の笑みが少々長沢の癪に障る。
 「多分、Kちゃんの次の目的地と一緒じゃない?垂水区だけど」
 長沢が正直に目を丸くするのが可笑しい。
 「オジチャンオバチャンが色々吹き込んでくれたんで、俺今ちょっと詳しくなった。政治家と言えば、金と女だろ。そう言う下世話な話はオジチャンオバチャンの大好物だし、それは後援者であっても変らないのな。おれは岐萄友司の警備関係者って言う事になってたから、まずそっちのイロ話を聞きました。それがさ、なんとオドロキ。
 全く出ません。清廉潔白なのか、余程上手くやっているのか、あるいは守備範囲が既に東京に移ってるのか、そこらは謎だけどこっちは白だった。純白な政治家だね。ところがさ。
 お父ちゃんの岐萄友充となるとコレが山ほど有るんだな」
 正直に舌を巻く。
 楢岡が放り投げた地図を開き、垂水区に指を挟んで、楢岡の横顔に目をやる。道路を真っ直ぐに見たままの瞳を見つめる。
 そう言えば、いわゆる仕事中のこの男を見た事は無い。長沢が見るこの男の姿は、寛いで食事をしているか、食後の一服代わりに女や映画の話をしている姿だけだ。オフとは言え、「事情聴取」中の姿など見るのは初めてなのだ。なるほど、手馴れている。
 「花隈町界隈に昔馴染みの胡蝶と言う芸妓がいて、昭和26年に女の子を産んだんだと。その子が今芸者教室みたいのをやってて、インターネットで全国から芸者志望者が来るとかさ。長田区にこれまた色街の女がいて、そいつが飛んだ性悪で、服役して出て来たと思ったら、本家にカチ込んだとか。ま、そう言う話どっさり聞いたよ。岐萄は女好きで処理がだらしない。まぁ政治家にはありがちの妾持ちの男だ。でね。
 お待ちかねの羽和泉基」
 どきり、とした。
 100%仰る通りだ。ずっとその名が出るのを脅えながらも待っていた。本命とは気付かれぬようにと気遣うが、気の無い振りは更に不自然だ。流れに逆らわず、適度に乗るのは難しい。
 「そう、それ。岐萄の血を継ぐ者で政治家は二人きりだろ。嫡子、岐萄 友司と妾腹の子、羽和泉 基。友司の方にはさっき会って少し話せたんで、もう一人がどうしてるか、凄く気になってたんだ。でもまぁ。当然、ここには居ないよね。
 友司曰く"この家にはまったくの他人と「家族」しか入れない"そうだ。多分、そもそもが入る事も許されてないよ」
 楢岡が小さく口笛を吹く。
 一瞬のしじまが有った。人は、接点がある者には優しくもなれるが、その接点が不良なら、何処までも残酷にもなれる物だ。
 「同じ反応だな。後援者たちの反応は容赦が無かったね。良い話は一切聞かれない。本家の奥様や坊ちゃん嬢ちゃんは聡明で優しい、すばらしい人間だが、妾とその子は鬼だ。少なくとも余所者の俺が聞けるのはそんな話ばかりだ。何処までが建前かは謎だが、岐萄家の人々に疎んじられているのは掛け値なしに本当だな。それで。
 その妾の家が垂水区」
 「うん。海岸通りのそばだと聞いた」
 「平磯だ。平磯3丁目、羽和泉 留吉の娘、基子」
 大きな溜息が漏れる。長沢が助手席で拍手をした。
 「……凄ぇ。いや、凄いな楢岡くん!本当に凄い。たった数十分で君はもう俺の上を行ってる。俺、詳しい住所も知らなければ、その父親の名前なんて全く知らない。公安警察の捜査力って個人が支えてるんだなぁ」
 ハンドルを切りながらルームミラーを通して長沢を見やり、また直ぐに道路に視線を戻す。口許に宿る笑みが自信を感じさせた。
 「見直した?」
 つられて笑う。
 「見惚れた。今日の楢岡くんは格好良いよ。働く男の顔してるもんな。いつもとは大違いだ」
 日頃働いてないみたいじゃないかと笑う顔に光が撥ねる。時子が言った言葉が不意に蘇った。
 
 何故荘太の嘘を見抜けなかったの?貴方を見つめていた熱い瞳に気付かなかったの?
 
 嘘を見抜けなかったのではない。単に興味が無かったのだ。客の言う事が嘘であれ真実であれ、表面さえ収まれば長沢にはどちらでも良かったのだ。客は客でそれ以上でも以下でもない。店の中が丸く収まりさえすればOKのファクター。それに過ぎなかったのだ。そうだ。
 この男の存在にも、姿にも声にも言葉にも、何一つ興味なぞ持っていなかった。その場限りの対象で、客。常連で映画好き女好きの愉快な男。愉快な客は店にとっても有用だから大事にした。店にとって有用なファクターの一つ。平穏な日々にとって有用なファクターの一つ。それだけの存在だったのだ。細かい部分がどうであれ、弊害が無ければ万事OKだった。問題は全くなかったのだ。
 だが今、その違いが時々刻々、問題になって行く。
 自称"探偵"が警官であり、元公安で、自らの行く道を塞ぐ障害になりかねないと知ってから、初めて単なるファクターは人間になった。一人の男になり、徐々にその重みを増している。はっきりと叩き込まれる。その顔、姿、個性、――何よりもその能力が。全く皮肉だ。皮肉極まりない。知る程に男は優秀で…故に厄介だ。
 「ちょっと不思議だよな。政治家の妾と言えば、色街の女と相場が決まっている。元々政(まつりごと)は男の物だったし、秘書か色街でないとそもそも出会いが無いから、必然的にそうなるよな。でも羽和泉 基子はそう言う類の女じゃない。色街に住んでもいないし、育っても勤めても居ない。ならばどうして岐萄と接点を持ったのか。
 神戸と言や、今や観光街だが、元々は漁港だ。中央市場いけばイキの良い魚を直ぐ目の前で安く調理して貰えるとさっきのオジチャンオバチャンに言われたよ。つまりはそこなんだな。明石とか垂水の辺りには今も釣り船が多い。岐萄も昔はよく釣りに出かけたらしいよ。後援者と一緒だったり、あるいは一人きりで」
 信号が赤になる。路上から解き放たれた瞳が真っ直ぐに長沢に向けられる。睫毛の濃い目許が見つめる。この男の瞳の色は、こんなに赤い褐色だったろうか。
 「そう。羽和泉基子は釣り宿の娘なんだ。羽和泉船店。今も操業中」
 栗色の瞳を見つめ返す。陽に透けた色に見蕩れて、一瞬反応が遅れた。言葉を反芻して飲み込むと、運転席の男が満足気に笑った。
 「次の目的地は、そこだ。だろう、Kちゃん?」
 

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