□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 今や主な産業は観光だと楢岡は行ったが、平磯の港はその言葉に相応しい姿をしていた。
 港といえば誰もが多少は想像する、むき出しの岩肌や切り立った崖、松林に覆い隠される海岸線や、大型の船舶の為の漁港はそこに無く、観光客や地元の人々が海釣りを楽しむ為の「海釣り公園」が遥か彼方の海岸線まで続いている。
 楽しげな親子連れや、明らかにそれと分る観光客たちが、わいわいと駄々広い魚場に集っている。様相は日曜の公園の水場や、都内の釣堀と大差は無い。だがそれを、本物の海でやってしまう所が観光に結びつく。今やここは観光地なのだ。
 人の賑わいを無視して軽キャンカーを進めると、賑わいは唐突に途切れた。素っ気無い汚水処理場を過ぎ、青年会館などの公共施設を過ぎ、間も無く漁港が顔を出す。忙しない、動から静への移項だった。
 垂水漁港。海釣り公園とは川一本しか隔てておらず、港自体もこじんまりした印象だが、カンパチ、メバル、カサゴ等の水揚げはトップクラスと聞く。駐車スペースの数から察するに、いつもならここいら一帯は釣り客と、水揚げされた新鮮な魚を求める人々の群れで賑わっているのだろう。だが流石に、正月の二日の海岸線は人影も無く、しんと静まり返っていた。
 漁港内に軽キャンカーを停める。扉を開けると、昼近い太陽は予想外に暖かだった。
 「Kちゃん、あれ、あれ」
 漁港の片隅に幾つもの小さな民家が立ち並び、その一角で、女性が一人バケツや桶などの備品を洗っていた。マットや長靴、浮き輪やすのこにホースで水をかけて洗うのは分るが、普通の布張りの椅子を同じく洗うというのはどうだろう。
 思わず眺めていると、楢岡が横で笑った。
 「豪快ッスねオバチャン、その椅子そんなんして大丈夫なん?」
 民家と見えたのは釣り宿らしく、よく見るとそこここに「釣り船 森井」「船 若木」などの目立たぬ看板が掛かっている。直ぐ側に「羽和泉 船店」と言う文字を見つけて、楢岡の反応に思いが至った。
 「んん、大丈夫、大丈夫。もう陽に焼けとるから。どうせ布張り替えなきゃアカンのよ。その前に綺麗にしとこう思てなぁ」
 明るい声が応える。フードの陰に隠れていた顔が振り返る。つやつやとした顔の中に深く走る皺は笑い皺だ。白くなった髪を後ろに束ね、ベージュのダウンに長手袋をしてホースとブラシを握る。陽光にバケツの縁が輝いていた。
 目許がそっくりだ。
 TVやネットで幾度と無く見た羽和泉の容貌と、目の前の女性の顔が重なる。年の頃は70代、後半に差し掛かった頃だろう。間違いない、と思った。彼女が羽和泉 基の実母、岐萄友充の愛人、羽和泉 基子だ。
 「何?お前さんがた釣りに来たん?正月は五日からの営業や」
 身を固めている長沢にちらりと視線を投げ、楢岡が意味ありげにニヤリと笑った。
 「ほーら、な。言ったろKちゃん、いくら釣り宿だって正月は休むって。それを何だよ、行けば何とかなるとか言っちゃってさ。強引で計画性が無いんだよ。いつもそう」
 一瞬、意味が分らずに戸惑う。つい正直に首を傾げてしまってからハタと気付く。
 つまりはあれである。刑事は二人組で犯人を落すと言う。片方は聞き役で理解者役。もう片方は憎まれ役で悪役だ。この場合、どちらが理解者なのか不明だが、取り敢えずは体勢を取り直す。始まった芝居は続行するしか手は無い。
 「分ったよ。俺が間違ってました。だからさっき謝ったろ、しつこい。俺はただ美味い魚が食いたかっただけなの」
 「だから、それも無理だろー、漁場が閉まってればそこについてる食堂だって閉まってるよ」
 長沢は不機嫌そうに押し黙る。いきなり我侭な魚好きの役を貰った訳だが、出来るのはこんな所だ。精一杯残念な振りをしてみせると、本当に食べたくなって来るから不思議だ。
 「良いよ……俺が探すから。探します。意地でも探すわ」
 不貞腐れる長沢の目の前で、楢岡が肩をすくめて見せた。我侭な相方の為に、女性に頼み事をする……と言う名目で取り敢えずは交渉のきっかけを得た訳だ。長沢はしばし楢岡の背後から動向を見守る事にした。
 「どっかここいらに、魚が食える店有りません…よねぇ?」
 「いつもならあっこの食堂が開いとるけど、今は無理やねぇ。お前さん方、何処から来たんよ」
 「東京です。俺は宮勤めなんでそれなりに休みが有るんですけどね、あっちが店やってて、一年の内で身動き出来るのここくらいしか無くて。で、こんな状況に」
 苦笑交じりに言い訳をする。身を反らして背後の長沢を指差すと、それを察知した長沢が軽く女性に会釈をした。
 同じように会釈を返す顔には笑い皺。恐らくは海焼けの、健康的な肌色。つられるように近付く長沢に、女性は店、と呟いた。
 「は?」
 「店。お前さんがやっとると今この人が。それでこんな時期しか出られんと。魚料理を研究に来たんかいね?そんな珍しい物はここらには無いけどなぁ。何が食べたいんや?」
 ああ。曖昧な返事をして楢岡に視線を運ぶ。好きに答えろと言う促しを感じ取って女性に視線を戻す。
 「ああ、いえ。僕の店は喫茶店で。手の込んだ料理は出しません。研究と言う訳ではなくて、好きなだけで。つまりえー……その。漁港だし、新鮮な魚が沢山有れば、生き造りも焼き物も何でも美味いから絶対食いに行……僕のわがままです」
 すみません、と頭を垂れると女性が笑った。転がるような笑い声は明るくて、冬の青い空に似合っていた。
 「今は店は無理やねぇ」
 「あ、はい。お手を取らせて……」
 「ガシラとチャリコならあるよ。家、直ぐそこ入った所や、昼、付き合いなさいや」
 言って笑う顔に二人で息を呑む。互いに顔を見合わせて、長沢が恐縮するタイミングで楢岡がマジすか!と叫んだ。
 「えっ、いやそれは流石に」
 「凄ぇラッキーっす。是非是非お願いします! お言葉に甘えて!」
 決まったな。女性が胸を張って笑った。
 
 ガシラと言うのはカサゴの事で、チャリコと言うのはマダイの稚魚を指すのだと初めて知った。
 女性が手早く作ってくれたメニューは四品。カサゴの薄造りとから揚げ、鯛の潮汁、付け合せの酢の物。長沢が手を合わせるより早く、彼女の掌が威勢の良い音を立てた。
 「はい、いただきます!」
 楢岡が面食らって箸を置く間に、長沢のコーラスが続く。出遅れた楢岡は慌てて言い切ると同時に汁を口に運ぶ。濃厚な味が口中に広がった。
 「わ、凄い良い味だわオバチャン。…うっま…」
 そーかい。女性が笑う。
 「本当に美味しいや……。ええと、羽和泉さん…で良いんですよね。羽和泉船店だし…」
 「オバチャンでええよ。あんたさんの相方サンはそう呼んどる」
 「それはちょっと…こいつじゃないんで呼び辛いです。間違ってなければそれで良いですか」
 まちがっとらんよ。汁をすする合間に言う。よう読めたね。読み辛い名ぁだと思うけど。
 「ええ、有名な議員さんでこの字の人がいますからねえ。あの人も確か西の人だけど、もしかしてここらでは多いんですかこの苗字」
 熱い飯と薄造りを頬張る楢岡が横で微かに緊張するのを感じながら長沢が言う。聞き流されるだろうと言う予想とは裏腹に、女性が楽しげにかっかと笑った。
 「家しか聞いたこと無いがね。後は広島に羽和泉町言うんがあったらしいけど、のうなっとるんよ。だから家だけや。希少価値言う奴やね」
 「……え」
 長沢が楢岡に目線を運ぶ。二人で暫し睨みあってから、楢岡の方がごくりと咽喉を鳴らした。
 「え、嘘。じゃもしかしてオバチャン、議員さんのママ」
 「もしかしなくてもそうや。どことのう品があるやろ、私は」
 「は、仰せの通りで」
 間髪入れず正座しなおして頷いた楢岡に、女性がまたかっかと笑った。
 驚いた。心底驚いた。長沢に楢岡のような軽口は叩けない。そうした素養が無いだけではなく、動けぬ程に面食らっていたからだ。
 本家の人間は、"家族と他人以外は家に入れない"と言った。後援会の人間は口々に鬼だと言った。それらの言葉が指し示す先はたった二つ。"妾"と"妾の子"だった。世間が狭い田舎の地で、その土地の有力者一派に疎んじられる存在。余所者は思ったのだ。
 必ずや肩身の狭い思いをして居るに違いない。心無い人の仕打ちに耐えて、自らの置かれた状況を黙って胸の内にしまい、大人しく慎ましやかに暮らして居るに違いない。辛い思いも呑み込んで力強く。どう尋ねられても、自らの素性など容易く口にはしないだろう。
 だが、その予想は今、一瞬で覆された。何の気なしに水を手向けた余所者の言葉に、むしろ誇らしげに彼女は言ったのだ。自らの素性を。羽和泉 基の事を。その事実に長沢は心底驚いていた。
 「ところで議員さんのお母さん、おかわり頂けますか」
 思考に、楢岡の妙に気取った言い回しが入り込む。本気でがっついていたらしく、楢岡の周囲だけごっそりおかず類が減っていた。
 「ず、図々しっ……」
 「ええ、ええ。たんと食えばええ。いつも私一人や、飯も減らんでな。今日は炊飯器一杯炊いたから食うてって」
 力強い事に間違いは無い。だが違うのだ。長沢の思った力強さと、これは根底から違う。
 闇に耐える力と、光を集める力はその根本が違う。長沢が予想したのは前者で、目の前にあるのは明らかに後者だ。"政治家"の"妾"の筈の、"日陰の存在"の筈の人は、紛れも無く太陽だ。陽を受けて輝く月ではなく、自らが燃える太陽なのだ。
 思わず溜息が零れた。何故勝手に同情したのか、自らの器量の小ささを改めて思い知る。目の前の女性のおおらかで明るい、パワフルな笑顔を見つめる。笑い皺だ。こんな風に年を取れたらどんなにか良い。
 「どうしたんね、相方サン、私の顔に何ぞついとるかね」
 「いやあ、なんかちょっと、感動してました。―― ミーハーかも知れませんが、有名人とか見た事無いし。その家族の人も」
 「どミーハー」
 「食いながら喋るんじゃありません」
 楢岡が茶々を入れるのを長沢が制する。素直にはいと答えて黙って飯を食う様に、女性が吹き出した。
 「おもろいなぁ、あんたら。ええとあんたは…」
 長沢が箸を置いてお辞儀する。
 「申し遅れました。僕は長沢 啓輔。喫茶店をやってます。こっちは…飯で口の中一杯みたいなので替りに言うと、楢岡 荘太郎。警備会社の社員です。何か唐突に旅行したいとこいつが言い出して、じゃあ魚の美味い所!と言う僕の意見でここに。結果的に大正解でしたけど。羽和泉さんの…」
 「モトさんでえーよ。基子やからね。周りは皆、そう呼びよるんよ」
 「じゃ、モトさん。モトさんのお陰です」
 改めて箸を取る。熱い飯も並べられた料理も、家庭的で美味い。そして何より、こうした雰囲気が実に美味だ。旅先のイレギュラーの茶の間でも、副数人で囲む卓袱台は暖かい。食卓には家族の体温も共に並べられている気がした。
 目の前の女性は母なのだ。逞しく子を育て、子を照らす、太陽たる母。
 「むはー。食ったー」
 もうええの?と呟きながら基子が席を立つ。台所でしゅうしゅうと湯気を上げるやかんを掴み、茶筒から急須に茶葉を放り入れ、急須と湯飲み三つを乗せた盆と共に戻って来る。一連の動作は、何十年も続けられて来た物なのだろう。かつてそこに乗っていた湯飲みは幾つだったのか。
 「いや、残ったら全部食うから、まだご馳走様は言わないよ」
 満腹になった腹を突き出して両脚を伸ばし、寛いだ態で楢岡が言う。余りにも自然で、既にどこまでが芝居か素か分らない。
 「君、何処まで図々しいんだよ。他のご家族の分とか、大丈夫なんですか」
 急須に湯を注ぎ、茶葉が開くまでの時間、再び手に持った箸を振って基子は笑った。先程までの手袋に覆われていない手は、あちこちがあかぎれて腫れ上がり、働く母の手をしていた。
 「おらんから全部片付けてや。つい数年前までは父ちゃんが生きてたけど、もう今は誰もおらん」
 「へ?モトちゃんの旦那さん亡くなったの…?そりゃ寂しいなぁ」
 違う、長沢が思うと同時に基子が首を振った。
 「父ちゃんと言うのは私の父ちゃんの事。旦那はおらんの」
 「ははぁん、若い頃遊び過ぎてどの男が良いか決められなかったんじゃない? モトちゃん」
 「ははぁん、あんた独り身やな。遊び過ぎて一人の女に決まらん口や。そう言う男は大概そう聞くん。どや、図星やろ」
 楊枝を口に咥えたまま、楢岡の方が固まる。それを見てまたかっかと笑う基子の顔は、どこと無く羽和泉 基に似ていた。
 「大当たり。楢岡君の負け。……たしかにモトさん、笑った顔は議員さんに似てる。やっぱ親子ですね」
 そうかね、と言って丸くなる目が、笑みに弓形になる。その表情が誇らしげで嬉しげで、この母親が息子を誇りにして居るのだと言う事がストレートに伝わった。
 恐らくは羽和泉 基にとって、世間の風は決して暖かくは無かった筈だ。だが矢面に立つ母親に満面の笑顔で暖かいと言い切られたら、それに異議をを唱える事は、子供には出来なかったろう。冷たい風の中で太陽のように笑う母に支えられ、守られ、じきにその寒さを心の底から暖かいと感じられる個性が出来上がったのだ。
 表面ほどに平坦では無いだろう。身の内に葛藤が無いとは思えない。だがどんな葛藤が有っても底抜けの明るい笑顔で笑い、おおらかな対応を出来る者を、人は"大きい"と感じるのだ。羽和泉の芯があの岐萄家で、この母親であるのなら、恐らくは羽和泉は"大きい"人間である筈だ。そのスケールは。
 まだ、到底窺い知る事は適わぬが。
 「里帰りとか、議員さんはして来ないの、モトちゃん」
 「昔はしょっちゅう来とったけどねぇ。この頃は忙しいんやろ。一姫二太郎でなぁ。はー、もうお姉ちゃんは一昨年成人。今年は継君の番やなぁ。早いモンや…」
 22歳と20歳。羽和泉の他の子を思う。冬馬は現在24歳。正妻の子はいずれも冬馬より年下だ。
 「そうなんだ。議員さんの娘さん、瞳美と同い年だ……」
 思わず零した一言に基子が反応する。三人分の湯飲みに急須の中身を注ぎ切り、配りながらそうかと感嘆の声を上げた。
 「長沢さんはお子さんがおいでんさるんねぇ。一人?」
 「ええ、娘一人です。もっとも離婚してしまったので、僕自身は今一人暮らしで。そう言う意味ではモトさんと同じ環境ですね」
 甘い茶葉の香りが広がる。湯飲みから立ち上る香りは芳醇で、かつて神保町の玄爺が言っていた事を思い出させた。
 どうよ。珈琲に負けねェくらい日本茶も深いだろマスター。
 楢岡が何気なくすすっているのと同じ茶に口をつける。口中に広がる甘みと渋みは、日本茶独特のものだった。客人用の、恐らくはかぶせ茶。
 お茶も美味しいと呟くと、酢の物を口に放り込んだ基子が嬉しげに、今日は特別のお茶や、と笑った。
 「お一人かね。男の一人所帯は何かと面倒やろね」
 「いやまぁ、……もう長いのでそれは慣れているんですが、この年になると時々寂しいのが厄介です」
 寂しい? 基子の顔がきょとんとして尋ねる。当然同意されるだろうと思っていた長沢は、その反応にも少なからず面食らった。はいと答えると、零れる笑顔にも驚いた。
 「寂しいならまだイケる言うことよ。寂しい内は相手を探しんさい、長沢さん。寂しいのはあんたの精神が若い言うことや。まだまだ色んなモンを求めて、まだまだイケる言う事なんよ。私くらい年になると、もう毎日が一杯一杯で寂しい思う間ぁもないの。息子夫婦が来てくれるのは嬉しいけど、それもなかなか大変やし、TVのニュースで見るだけで、割と満足してまうモノなんよ。
 家で取った魚をクール宅急便で送るやろ。電話が掛かってくる。それで満足。TVで基を見るやろ、頑張ってるなぁと思う。その日はそれで満足。気が付くと年の暮れや。
 ええかね、寂しい思う間にええ人捕まえなさいや」
 「モトちゃん、俺は俺は」
 「あんたはまず女癖から直さんと無理やね」
 楢岡が横で妙に納得して頷く。長沢は不思議になった。
 明るい笑顔。探しても影の見つからぬ海焼けの。基子は決して馬鹿ではない。短い会話で充分、他者の特性を掴み取ることに長けた聡明な女性と分る。それをして、この平坦さは何だ。影の無い光など決して無いのに。
 「モトさんは寂しく有りませんか? 僕は娘が大きくなって社会に出るとなって、それだけで寂しかったです。これでもう後は、置いて行かれるばかりなんだと、成長が嬉しいのと同時に寂しいような。……みっともない話ですが」
 きょとんとした目が向けられる。純粋なまなざしに、自らの汚れを見透かされた気になる。
 「はー、あんた色々考える人なんやね。考え過ぎて、おっきな事忘れとる。ええかね」
 はい、と身を乗り出す長沢の前で、基子は一本指を立てた。
 「虫の親は、幼虫に食われて栄養分になるん」
 頷いて続きを待つ。暫く待ったが、続きは無かった。
 「……えーと、いやあの。コマチグモ辺りが母親を食って育つとかは聞きますけど、別に凡ての虫が食……」
 「人間は食われんやろ。だからタイミングが分らんのよ」
 押し黙る。基子の毅然とした口調は崩れなかった。
 「子供は大きいなったらもう子供やない。別の親になるん。親の役目は食われるか、黙って送り出すかなんよ。人間は子供に食われる事はでけんから養分になれんやろ。だから送り出せばええん。その後で、養分になる手があったらそうすればええの。それはその時次第や、人それぞれよ、長沢さん。
 私はなぁんも寂しないけど、"そっち"は色々考えとるんよ。政治家さんはホレ、色々有るて聞くやろ。だからいつか活躍の時も来るかも知れん。その時の為に頑張って生きとるんよ。そう考えるとワクワクするんよ。寂しがっとる暇もない。
 子供いうんは、本当に色々教えてくれるもんやて、しみじみ思うわ」
 海焼けの笑顔。深いのは笑い皺。こんな風に。長沢は思う。
 こんな風に年を取れたら完璧だ。
 二人が食べ終えたのを見定めた楢岡が、残った酢の物を平らげる。基子が湯飲みに茶を継ぎ足す。とぷとぷと、緑色の液体が湯飲みを満たす。とぷとぷと三つの湯飲みに転がり入る。湯飲みの中央には、小さな茶柱がふたつぽつんと立っていた。
 

 出された皿をすっかり平らげ、せめて代金をとってくれと言う長沢の言葉を、基子はガンとして跳ね除けた。
 年寄りの施しは素直に受けておくのが若い者の勤めだと言うのが、彼女の持論だ。それならと、せめてお礼を書く為にと連絡先のメモを貰った。
 楢岡は自慢気に、東京蔵元の純米酒を持ち出して基子に渡した。イケる口でしょと言う楢岡の言葉に、こちらは素直に受け取って笑う。どうやら基子は相当にイケる口のようだ。
 食器を洗い、台所を片付け、羽和泉船店を後にする。戸口まで送ってくれた基子の顔に浮かぶのは、やはり年輪を刻んだ海焼けの笑顔だった。
 軽キャンカーに乗り込んで平磯を発つ。時計は既に一時を回っている。運転席で楢岡が大っぴらに伸びをした。
 お疲れ様、名演技だったよ、と声を掛けると、どう致しましてとステアリングを握る。いつに無く重い口調に、長沢は何故か納得した。
 基子の言った言葉が胸の中に澱のようにたまっていた。
 
 虫の親は、幼虫に食われて栄養分になるん。人間は食われんやろ。だからタイミングが分らんのよ。
 送り出せばええ。その後で、養分になる手があったらそうすればええんや。それはその時次第や、人それぞれや、長沢さん。
 いつか活躍の時も来るかも知れん。その時の為に頑張って生きとるんよ。そう考えるとワクワクするんよ。寂しがっとる暇もない。
 
 あっけらかんと語られたのは、子の為に死ぬと言う親の覚悟だ。あるいは、虫の様に、羽和泉基の養分となって消えたいと言う、かつての願望なのかもしれぬ。いずれにしろそれは、今の彼女の決意であり、覚悟であり、生き甲斐でもあるのだ。平坦どころか。恐れ入った。
 平坦どころか。どんな紆余曲折も乱高下も飲み込んで、なりふり構わず突き通して来た一念だ。どんな傷も痛みも、耐え切って笑って来た一生だ。それを平坦等と、誰が言える。小さな凹凸に躓き、膝を突いてきた長沢には、想像のできぬ強さだ。
 岐萄友充の次男にして妾腹の子、羽和泉 基。垣本 硝子との間に硝基(さき)と基継(もとつぐ)と言う二人の子を持つ自明党代議士。そして。
 水上 冬馬の父だ。
 よく動く、表情豊かな目許、明るくはきはきとした態度と物言い、好感の持てる人懐こい笑顔。それらは凡て政治家用の外面だと思っていた。だがつい先ほどまで、長沢はそれらと共に時を過ごしたのだ。豪奢とは言えぬ茶の間で。穏やかで暖かな空気の中、嘘一つ無い、むき出しの好意と共に。
 岐萄家に疎まれた母と子。まったくの他人でもなく、家族では更に無く、地元後援会には鬼だ蛇だとはじかれた存在。
 そうでありながら、全くそうした影を感じさせぬ存在。羽和泉の表に溢れるのは、基子から受け継いだものだ。基子と言う太陽が照らし、もたらした福音だ。彼の表に有るのは、先程彼ら二人に手を振った、あの人の笑顔だ。海の陽に焼けた、健康的な笑顔なのだ。
 恐れ入った。心から。
 想像が出来なかった。あの素質を受け継いだ、岐萄の血筋とは一体どんな代物になるのだ。羽和泉 基子が太陽なら、岐萄は闇だ。光を飲み込む漆黒だ。その二つの要素を受け継いだ存在など、長沢には思い描けなかった。相殺されて平凡になるなら分かる。だが羽和泉 基はそうではない。想像が出来ぬのだ。ただ一つ言えるのは。
 とんでもない曲者か逸物。そのどちらかと言う事だけだ。
 「楢岡くん……」
 んー? 道路を見ながら間の抜けた声が言う。
 基子の家を出てからの楢岡は、口を閉じたままだった。先程までの奔放な振る舞いは、凡てが演技だったと言わんばかりに、黙ってステアリングを握っていた。
 黙った楢岡と言うのは、途端に得体が知れぬ。日頃あけすけな男だけに、黙ったこの男から流れ出るのは、無言の威圧感だった。
 長沢は、助手席から手を伸ばして触れられる腿の位置に掌を置いた。瞬間、運転席の視線がルームミラーと道路を行き来した。
 「今日は本当に、本当に有り難う。心から感謝してます。君のお陰で、物凄く色々な物を見せて貰った。正直、今はまだ情報の整理がつかなくて半分も分っていないと思うけど、時間を置いて考えた後、俺はきっとこう思うよ。
 全部楢岡君のおかげだ。こんな短い時間でこれだけ見られたのは、凡て君の能力のお陰だ。君は凄く使える。使えるって言い方が変なら、凄く優秀だ。有り難う。お陰で俺が見たかったものは多分全部見られたよ。君は何て言うか、…能隠し過ぎだよね。
 さ。今度は俺が楢岡君の言う事聞く番だね。全面的に楢岡プラン、協力して楽しませて貰うよ」
 横目に運転手が助手席を見て、フンと溜息をついた。
 「へぇ?全面協力?そんな事言って良いのかなKちゃん」
 え? 不細工な黒縁の眼鏡の奥で、大きな瞳が瞬く。目の前に人差し指を突き出されて、反射的に髭面が身を引いた。
 「Kちゃんが今までの俺の事を、能を隠してたって思うなら、俺、今日は一切能を隠すつもり無いんだ。
 Kちゃんが聞きたい事を掴んだのと同じくらい、俺も今日はKちゃんから聞き出すつもりでいる。Kちゃんが全面協力するって言ってくれるなら、こっちも遠慮はしない。宣言したよKちゃん。覚悟しておいて」
 瞳はずっと路上を見ている。笑顔を見慣れた顔に、今は一かけらもそれは無い。威圧感が有った。
 「う、……うん。何だよ怖いな、楢岡くんらしくも無い」
 まずは。突き出した一本指を振って、真面目な顔の運転手が言う。
 「とりあえず今すぐ抱いてって言って。それが聞きたい」
 高丸料金所から第二神明道路に入る。アクセルを踏み込まれた軽のエンジンが唸りを上げる。その音に負けぬ音量で、長沢が助手席で大きな溜息をついた。
 「無理。協力はしますが、それが楢岡プランならプラン自体に無理が有ります。是正を要求します」
 「却下」
 「ひでぇ」
 北西に向って走る軽の中で二人分の笑い声が上がった。
 

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