□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 店主は証言を変えた。
 訪れた客ともみ合い、客が包丁を持ち出したので喧嘩になった。ちゃんと話し合いはついた。そう言ったのだ。
 怪我した長沢からの被害届は無く、竹下の訴えも変った事で、この一件は書類送検に留まり、不起訴となった。警察が調査に入ったのは僅か数回。書類の審査は半年以上も続いたが、それは竹下珈琲の誰も知らぬ事だ。
 退院してから三日ほどは店主が長沢を側に置いた。何しろ目には全く生気が無く、自分の命の事を「処理」などと口走る男であるから、放り出すとどうなるかは自明の理だった。第一、手前ェ死ぬ気だろ、とストレートに問うと黙り込むのは明確なYES以外の何物でもない。店主はすこぶる不機嫌になった。
 暴漢といえど、一度関わりを持った人間だ。死体としてニュースで騒がれるのは夢見が悪い事夥しい。それに騒がれれば、遠慮の無いメディアが竹下珈琲に詰め掛け、客に自分に色々とうるさく聞いて来るに違いない。忙しい時にメディアごときに偉そうに付き纏われたら、店主の気性では第二第三の傷害騒ぎになるのは間違いが無い。そんな面倒は金輪際、沢山なのだ。
 だから、手前ぇ当分居ろ。居るからには仕事をしろ。ビシビシやれ、やれねぇとは言わせねぇ。
 それで急遽、半ば強引に長沢は竹下珈琲の臨時店員に組み込まれる事となったのだ。
 だがそれも、僅か一週間ほどの事だった。実際に色々やらせてみると、長沢の手際は非常に良かった。持ち時間の九割方はぼうっとしているのだが、一度教えた事は忘れなかったし、言われた事は凡て卒なく速やかにこなした。能力の低い人間ではないと言う事実が、店主に様々な事を悟らせた。
 済んだ騒動の事など忘れて家に帰れ。お前なら何だって出来るだろ。そう店主が促したのは、事件から僅か八日後の事で、竹下珈琲に入って五日目の事だった。
 そこから先、竹下珈琲に居座ったのは長沢の意思である。自らの生に実感が無く、仏頂面で無愛想な店主の不器用な優しさに縋ったのは長沢の方だ。店から出ると同時に高層ビルに向うだろう自分を、繋ぎとめてくれと店主にすがったのは長沢自身なのだ。はっきりとそう口に出せず、おろおろと店内を歩き回る長沢に、店主は溜息混じりに言ったものだ。
 「おい輔、煙草持ってるか」
 吸わないから持ってませんと言う意味で首を振る。
 「じゃ、直ぐ行って買って来いや」
 店主の言葉の続きを奪って言う。ハイライト。カートンで。
 西日の店内で、いつも仏頂面の店主が、にんまりと笑った。あの情景を思い出す。
 「おう。直ぐ行って買って来い。手前ぇ、ノタノタすんじゃねぇぞ」
 仏頂面の店主に不似合いな笑みに、感情が音を立てた。
 この半月余り、固まっていた感情が、ぎしぎしと軋みを上げて動いた。胸の中が暖かくなった。
 はい。そう答える自分の声が、ほんのかすか泣き声で、滑稽だと思ったのを憶えている。
 
 楢岡が、意識のある長沢と出会ったのは、そんな日々の中だった。事件後二週間。竹下珈琲の誰もが、事件の有った事すら忘れ始める、そんなタイミングだった。
 その日訪ねた竹下珈琲の狭い洗い場に、見慣れぬ男がいたのだ。顎にバンドをつけた痩せこけた男が、ただ黙々とカップを洗っていた。手馴れた動作でこなしていくのだが、何かが奇妙だった。凡ての工程をこなすと、男は次の出番までそのままの姿勢でただ突っ立って居るのだ。何をするでもなく、微動だにせず、ただぼうっと突っ立って居るのだ。目立つバンドのお陰で、それがあの日の血塗れの男だとは直ぐ分ったが、何故店に居るのかは分からなかった。店主からすれば男は暴漢で、男からすれば店主が暴漢だ。相容れぬ筈の存在が一つ場所に収まっているのが不自然に思えた。
 店主は男を"輔"と呼び、男は店主を"師匠"と呼んだ。僅かの期間でそれなりの信頼関係が出来て居るらしいのが、また不思議に思えた。
 不自然で理解し辛く、だからつい楢岡は軽口を叩いたのだ。
 「アルバイト以外取らないって言ってた癖にー。自分を刺そうとした男を雇うなんてマスターってマゾッ気有りかよ?」
 そう言って笑うと、無反応の店主の代わりに、男が楢岡の間近で向き直ったのだ。先程までただ突っ立ていた人形が、不意に人間になった気がした。
 いらっしゃいませ。お騒がせしてすみません。
 男はそれ以上は何も言わなかった。楢岡の軽口に明らかに反応した癖に、それに対する苦情も注文も何も無かった。ただ挨拶をしただけだ。だがそれで言いたいことは充分に伝わった。
 ばっちり顎をバンドに固定されている為に、殆ど口が開かないのだろう。くぐもった声が、それでも聞き取り易い発音でそう言った。その時の表情が、笑うでもなく怒るでもなく、奇妙に空虚だったのが、その時妙に引っかかった。
 「俺が今生きているのは。凡て、師匠のお陰だ。ただまぁ。あの時は。感謝もしたけど、相当、恨んだ。特に最初の一週間。くらいかな。自分が竹下珈琲を選んじまった事、店主が師匠だった事。手当たり次第に恨んだ。けど。でも今は……。竹下珈琲にも師匠にも。本当に。心から。感謝してる」
 バンド男のバンドが外れ、空虚だった表情にある日小さな微笑が宿ったのを楢岡は鮮明に思い出す。きっかけは本当に小さな、下らない事だったのだ。
 ホットドックのケチャップとマスタードは付けて出すか、出してから客に自由に付けさせるか。
 その日の昼に出されたホットドックのマスタードが物足りなかった楢岡が、店主に論争を吹っかけたのだ。ケチャップもマスタードもいわば薬味なのだから、薬味は付けて完成させ、客に出すべきと言う店主と、薬味なら客の自由にさせろという楢岡との言い合いだった。たっぷり数分も険悪に言い合った後、お鉢は唐突に長沢に回った。双方からそうだろう、なぁ、と同意を求められて、長沢は初めて小さく笑ったのだ。
 ホットドックの薬味はザワークラウトとピクルスです。付けて出すのが当然です。
 それまでシンプルに具はソーセージと刻みキャベツだけだった竹下珈琲のホットドックが、次の日から二つの薬味が入るようになり、ケチャップとマスタードはテーブル上に常備となった。
 陰鬱に黙り込んでいるだけだった痩せこけた男に、楢岡が惹かれ出したのは、これよりもまだずっと後の事だ。
 
 「うわ……」
 開けた視界に、薄闇に白い軌跡を描く滝の姿が現れた。
 川が崖を滑り降りるのではなく、崖の中腹に唐突に噴出した流れが、そのまま滝となって流れ落ちているように見えるのは、その高さの所為だ。黒い山肌に純白の軌跡を真っ直ぐに描き、渓谷の凹凸を拾って幾筋もに分かれて落ちる。
 薄闇の空と山肌の境で白く描き出される軌跡は勇壮で神々しくさえ有った。
 長沢が溜息を吐いて立ち止まる。楢岡がそれに合わせて振り返った。
 薄闇の中に佇む姿は平凡だった。ぽかんと開いた口も丸くなった目も、取り立てて目立つ所の無い男なのに。視線に気付いて向けられる驚いたような表情に、光を受けて楽しげに笑う顔に、胸の奥が疼くのだからどうしようもない。
 出会ってから既に十二年になる。初めはただのみすぼらしい負け犬にしか見えなかった男が、自分の中でいつしか大きな存在になっていた。男の隠す傷が分ってしまう度に、その大きさは増した。男に自分と似た箇所を見つける度に、自らが年齢を重ねる度に、その大きさはいや増した。徐々に膨れ上がっていく思いも欲望も、上手く処理する事が出来なかった。潔く捨てる事は更に出来なかった。だから。
 時を経て、今更どうしようも出来なくなってしまったから。
 考えて、考えあぐねて行動に移した。
 砕けてしまうのが怖くて行動できなかった十年の後に、砕けなければどうにもならない時が来るなどとは思っていなかった。砕けずに時を過ごしたら、いつか収束するだろうと思っていたのに。
 長沢の手を取る。驚く長沢の手を引いて、天瀧三社大権現まで登り、そこから滝の側に続く道を降りる。既にここは道ではなく、岩肌になるが、長沢は逆らわなかった。逆らわないどころか、すっかり景色に呑まれて滝に見蕩れながら、楢岡の導く先に付き従い、進んで山肌を下りる。
 「凄いな……」
 黒縁眼鏡に白い軌跡が映る。素直な感嘆の声は、滝の轟音に飲み込まれて、かろうじて楢岡の耳に届く程度だった。
 「日本の滝100選にも入る名瀑で、有名な滝なんだ。けどKちゃんはきっと知らないと思って」
 「うん、知らない。凄いな。荘厳だ」
 爆水に手を伸ばして、微かにバランスを崩す。足下は溶岩の堆積した滑らかな岩場だ。楢岡が間髪をおかずに支えた。
 ごめん。抱きいれた腕にすがり付いて呟く。決まり悪そうな笑顔を向ける。
 危ないと言いながら、必要以上に抱き入れる。長沢は逆らわなかった。
 「本当にKちゃんは、最初に会った時から、弱っちいよな。弱っちいくせに、意地っ張りで、プライドが高くて、クールで…取り付く島が無いよ」
 「な、何だよ。俺バッシング?」
 天瀧が降り注ぐ。岩場に撥ねた水滴が、間近に立つ人影に降り注ぐ。
 「出会った頃のKちゃんは、俺には不思議な人だったよ。殆ど心ここにあらずで、時間が空くとどこかをぼおっと見ていて、ただ生きてるだけみたいだった。でもそれが一週間たって、一ヶ月たって徐々に人間になった。三月も経つ頃には、Kちゃん目当てで来る人も出来て、すっかり竹下珈琲の一員になってたよね。
 なぁKちゃん。Kちゃんは一生後悔し続けると言っただろ…?挫折を。失敗を」
 うん。支えられたまま頷く。勇壮な流れが頭上から降り注いでいた。
 「俺の場合は、自分が決定的な失敗をしたからね。色んな人を巻き込んだし、迷惑もかけ捲くった。当然の報いだ。でも別に俺、他の人をどうこう言うつもりは…」
 「俺もそうだ」
 いつにない楢岡の声色に息を呑む。滑らかで良く響くバリトンは、今は接した腕から胸郭に、直に響いている。
 「Kちゃんのとは随分種類が違うけど、俺も自分の失敗をずっと悔やみ続けてる。何て言うのかな、取り返しのつかない事なんて、人生に標準で色々有るじゃないか。もうタイミングを逸してしまって取り返せない事柄は、誰に慰められても、替わりの物を見つけても、結局駄目なんだよな。……そんな時にここに来たんだ」
 いつもおどけてばかり居る男の、真摯な瞳が滝を見上げる。長沢は自然にその視線を追った。降り注ぐしぶきが時折霧のように降りかかるのも、悪い気分ではなかった。その飛沫に清められるような気がした。
 「一日中ここに居たよ。その時はもっと側まで行ったんだけど、足滑らせる事もなく、無事に帰った。不思議に、腐っていても仕方が無いと思えた。腐るくらいなら、まだやれる事探した方がマシだと思えた。本当〜〜〜に駄目だと思ったら、ここに来てチョイと足滑らせれば良いんだ。そう思ったら楽になった。この滝の一飛沫になるラストってのは、なかなか俺好みだ」
 ああ、それ良いなあ。心から感嘆した声で長沢が呟く。瞳は滝を見上げたままだった。
 「ビルから落ちて誰かに片付けられるより、余程良い。滝つぼは見えないけど、ここなら穢れはどんどん下流に押し流されて行って、この地を穢す事にはならなさそうだ。俺もそれ、貰って良いかな」
 楢岡が苦笑しながらどうぞ、と言う。
 「笑っちまうけど、人間はそんな事で割りと生きて行ける。死ぬ事は何時でも出来るんだ。どうせなら何かの役に立って、擦り切れて、用無しになって死にたい。そう思って帰った。Kちゃんになら、この感覚、分かるんじゃないかな」
 「うん、分る。物凄くよく分る」
 「だから、ここをKちゃんに見せたかったんだ」
 天瀧の瀑音が降り注ぐ。薄闇に沈む遠景に、白い飛沫が輝線を描く。言ってしまえばただの水だ。ただの河なのだ。地球が生まれて50億年余り。永劫の時の中で自然に出来上がったただの地形に過ぎぬ。
 だが、八百万に神が宿ると考える日本人にとって、これは神に違いない。神が宿るから、この場所は人々に祀り上げられる。祀り上げられるから、そこに神が息衝くのだ。
 二人で暫し滝を見上げる。支える手を離さない楢岡と、それを自然に受け入れている長沢と、徐々に夜の気配に飲み込まれていく。
 「Kちゃん」
 「んー?」
 「あんたが好きだ。」
 楢岡の言葉に、正直にぎょっとした目を向ける。目端が利くくせに、時折妙に間が抜けていて無用心だ。その無用心さが、憎々しくも有り惹かれもするのだ。
 「別にどうこうしたくて言ってる訳じゃ無いから身構えなくて良いよ。まぁ確かに、そっちも否定はしないが、俺は何も性欲の為だけに言ってる訳じゃない。もっと深い部分であんたに惹かれて、俺はずっと身動きできないで居る。
 なぁKちゃん、俺聞いた事無かったけど、あんたが竹下珈琲に現れたのは、酷い挫折を味わったからじゃない?本当は死のうとして、あそこにいたんだろ」
 長沢が押し黙る。見上げていた瞳を滝に移して、じっと押し黙る。答を期待していた訳ではなかった。問わずとも分かっていた事だし、長沢がそうそう容易く自らの事を話すとも思えない。近頃では随分話してくれるようにはなったが、それでもまだまだだ。
 長沢の肯定は必要ない。ただ問うたのは。話を進めて良いと言う暗黙の了解を長沢から取りたかったからだ。真っ直ぐに向き合っているという確証が欲しかっただけだ。
 長沢の答が無いのを確認して話を続ける。その寸前だった。
 「うん、そう。君の言う通りだよ。流石だなぁ、楢岡くんは。君の慧眼には恐れ入る」
 予想外の事に、楢岡は小さく息を呑んだ。腕の中の存在は、ゆっくりと顔を見上げる。そうしてから改めてもう一度、その通り、と繰り返す。
 楢岡は腕に力をこめた。有り難う、と言う代わりだった。
 「俺はあの時、あんたの反応が納得出来なかった。何となく事情を飲み込んだ後も、あんたの行動が許せなかったし、その絶望も分らなかった。人間なんて小さいモンで、結局は自分に火の粉が降りかかるまで分りゃしないんだよな。
 時間が経って、自分に火の粉が降りかかってさ。散々もがいて。……それで気付いたら……あんたが胸の中にいた。あんたの…与り知らぬ事だけど。」
 天から注ぐ流れは足下に消えていく。薄闇から流れ出て、闇の中へ。白い軌跡は飲み込まれていく。
 「Kちゃん、この景色を覚えていて。火山の噴火で流れ出た溶岩の上に、永い時を経て川が生まれ、岩肌を削って迸り、その上に降り注ぐ。一晩で出来た溶岩を、永い時を経た滝が丸く削って行く。これが、俺があんたに見せたかった景色なんだ。
 俺は滝で良い。急に変えられぬ物も時を経て変えて行ければそれで良い。それにどれだけ長い時がかかっても、俺に悔いは無いよ。
 俺は滝になりたい。あんたの後悔を少しでも削って行きたい。俺の願いはそれだけだ……」
 薄闇が徐々にその色を深めて行く。その場に佇むのは滝と水しぶきの音と、鼓動を刻む二つの生物だけだった。
 

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