□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 稀代の嘘つきは教祖だという。
 己が作り出した壮大な世界観と神話を、己で心底信じられるからだ。信じるに留まらず、その嘘に他者を引き摺り入れ、多くの人々に嘘を世界と信じさせる事が出来るからだ。詐欺師も然り。自らが作り出した大金と言う名の嘘を自らが真実と思い込むからだ。信じ込まれて暴く手立てが無い嘘は、他人を巻き込む内にやがて融けて真実に成り代わる。
 嘘は真実に姿を変える。姿が変れば、それが嘘であったなどと、もう誰にも分からない。
 一番の上手い嘘は、他人を騙す嘘ではない。己自身を信じさせる嘘なのだ。自らを丸め込み、世界を構築する嘘なのだ。
 
 テントむしは駐車場を走り出した。
 飲み終わった缶をゴミ箱に投げ入れた楢岡がステアリングを握り、缶に口をつけることもまともに出来ずに固まっている長沢を乗せて発進する。
 ハイキングコース最寄の駐車場から、設備が整っているキャンプ場に降りるまで僅か数分。楢岡は何も言わなかった。長沢は一言も発せ無かった。
 キャンプ場はそれなりに盛況だった。幾つものテントが立ち並び、キャンピングカーが賑やかなパーティを展開していた。駐車場に停まっているファミリーカーやワンボックスは、そこで酒を飲みながらグリルをつついている、いずれかの人々の物に違いない。恐らくは初詣代わりに天瀧の権現様を訪れた人々なのだろう。
 広いキャンプ場の駐車場、その片隅にテントむしを停める。キャンプの賑わいは遥か左後方にあった。
 滝の音が鳴り響いていた。耳の中で、轟々と飛沫をあげて滝が流れ落ちていた。轟音が思考を押し流す。思考が轟音に溺れる。溺れる。
 たった一つの名前が。
 その名が幾つもの記憶の糸を手繰り寄せ、つなぎ、目の前に並べ立てる。見せ付ける。思い出したくない記憶を、思い出す筈もない思いを、目の前にぶら下げる。何故だ。何故そんな事。何故。
 何故その名を知っている!?
 不意にティッシュを押し付けられる。
 そうされて初めて、胸の前に握り締めたままの缶と、缶を持つ両手に幾筋もの赤い軌跡が出来ていたのに気づいた。びくりとティッシュを押し付けた手の方向を見ると、奇妙な無表情がそこに有った。
 「鼻血が出てる。…それにも気付いてなかったって顔だな。そこまで動揺するかKちゃん、冷静沈着なあんたが。こんなKちゃん初めて見たよ。…痛いな」
 長沢の事を嘘つきだと、そう言った。非常に上手い嘘つきで、自分さえだましていると。
 「分ってる。何故その名を知っていると聞きたいんだろ。ちゃんと答えるよ俺、隠すつもり無い。Kちゃんが自分で言ったんだよ、"大貫先輩"って。……俺が、抱いた時に」
 吐き気がする。何故だ、何故。
 「嘘だ」
 「嘘じゃない」
 「嘘だ」
 「嘘じゃないよ。Kちゃんが言わなきゃ、俺が知る訳無いじゃないか」
 嘘だ。めまいがする。何故その名を。誰にも、出来ることなら誰一人にも知られたくない名を、知られたくない関係を、よりによってこの男に自分が零したと言うのか。信じられなかった。信じたくなかった。
 押し付けられたティッシュを取って、自らの鼻を圧迫する。手が震えているのを自覚するがどうしようもない。反論の言葉一つも出て来なかった。
 「あの日…Kちゃんを抱いた時さ。色々情報を貰ったんだよ。尤もあの時は俺、有頂天でさ。貰った情報を全く考えられなかった。だから、Kちゃんから言われた事を丸々信じた。でも、あれからたっぷり時間が有って、考えたんだ。それで色々気付いたよ。
 Kちゃんはかつて、一人だけ、男の恋人が居たって事。その人に尽くしてたって事。Kちゃんが恋人じゃないと言うならそれでも良いよ。Kちゃんの言う通り、きっと短い期間の事だったんだろう。ビジネスも絡んでたんだろう。でも。Kちゃんはその人に一生懸命尽くしてたんだな。でなきゃ。
 元々男好きでも何でもないKちゃんがあそこまで上手くなる理由なんて無いよ。その人を喜ばせようと思って、一生懸命憶えたんだろ。その…フェラチオとか、色々。女の恋人にアレは出来ないぜ」
 ボンネットの上の箱から新しいティッシュを引き抜いて鼻に押し付ける。口の中は鉄の味で一杯になっていた。血の匂いが口中に広がる。
 「愛撫されるのにも慣れてる。愛撫するのにも慣れてる。でも体の中に触れようとしたら、凄く拒否された。された事無かったか、殆ど無かったんだろ。なのにKちゃん言ったんだよ。俺に抱かれて。大貫先輩、そこ。大貫先輩、もっと」
 聞きたくない。
 片手で鼻を押さえて、もう片手で耳を塞ぐ。片手では耳を塞ぎきれなかった。
 「こんな事、普通は深く考えないから分らなかったけど、分ったら凄く妬けるのと同時に、辛かった。つまり、大貫先輩はくれなかったんだろ、Kちゃんの求めたもの。Kちゃんの欲したもの」
 聞きたくない。
 「俺にされたようなこと、してくれなかったんだろ。本当は大貫先輩にして欲しかったんだろ。あの言葉はそう言う意味だ。」
 聞きたくない、聞きたくない。
 「好きになった事が無いなんて嘘だ。好きじゃなきゃKちゃん…いや、人は憶えないよ。求めないよ。尽くさない。でもKちゃんは求めた。好きだったからだろ。好きだから求めて、求めてた癖に言えなかったんだろ。Kちゃんはずっと…」
 言い募る口に、唐突に長沢が飛びついた。
 つい先程まで鼻を押さえていた血塗れの両手を楢岡の顔に押し付け、その口を塞ぐ。言葉を零させまいと唇を縫い付ける。反射的にその手をはがそうとする体に組みかかり、力の限り押さえつけた。
 「聞きたくない !!」
 楢岡が動きを止めた。
 「聞きたくない!そんな事!何も、知らない癖に、何も、分ってない癖に!俺が何を思おうと、お前に関係、ないじゃないか!」
 圧迫を解かれた鼻から血が滴る。長沢の服の上に、楢岡の服の上にパタパタと滴る。日頃は自らの弱点を必死に隠そうとする長沢が、今は全くの手放しだった。
 手放し、なのではない。弱みを隠す事すらすっかり忘れているのだ。自らの格好を構っている余裕など無いと、顔色が言っていた。目の前の男はただひたすら、突き付けられる事柄を取り除こうとしているのだ。得体の知れぬ恐怖を。災いを。身を切り刻む災厄を。必死に取り除こうともがき、自らがもがいている事にも気付かない。
 真っ黒な目が眼鏡の奥から楢岡を通り越して、どこか一点を睨みつけていた。
 楢岡の方が慌てた。手で鼻を押さえようと手を伸ばして避けられ、また押さえようとして払い除けられる。零れる血を止めようと揉み合ってコクピットから後部に転がり出、勢い余って抱き締めた腕の中で、長沢が獣のような唸り声を上げた。暴れる頭を抱えて鼻を押さえると、絶叫が迸り出た。
 息を呑む。これが、いつもカウンタの中で微笑んでいるあの男か?
 「触るなぁあ!!」
 押さえつける。後部半分ほどに無造作に開かれたシートの上で、振り回す頭が車体にぶつからぬように額を引き付ける。
 「触るな、俺に、触るな!触るなぁぁ!入るな!入って来るな!俺の頭に入って来るな、俺の心の中に、入って来るな!そんな事っ許してない!許してない !! お前に、俺を暴く権利なんて無いだろ。無いだろ!ないっ…!」
 慌ててティッシュで鼻をつまむ。胸の中に抱き入れて、そのまま後ろから羽交い絞めに固定する。腕が首に食い込んで締まらぬように、全身で押さえ込む。長沢の動揺を押さえ込む。
 信じられなかった。
 長沢がここまで動揺するなどとは、微塵も思って居なかったのだ。10年以上もつき合って来て、一度たりとて長沢の怒号など聞いた事はない。ましてや絶叫など、聞いた事がある筈も無い。穏やかで控えめで、怒ってもせいぜい皮肉を言うのが精々の男なのに。掴みかかって暴れるなどとは思わなかった。
 これ程の反応をせねばならない葛藤がある等とは考えなかった。過去に癒えた傷ではなく、未だ完全に塞がらず、血を流している生傷があるなどとは思わなかった。よもや、楢岡の言葉で容易くパニックに成る程の深手を抱えて居ようなどとは、想像だにしなかったのだ。
 流れ出る血を必死で拭う。身体を押さこむ。鼻から零れる血も、心から零れる血も、必死で掌に受け止める。
 頭を腕で押さえ込み、体を足で挟む。暴れられぬように全身を捕まえ、子供を宥めるように耳許で、しー、と繰り返した。その頭を撫でる代わりに、背をさする代わりに、心に触れる代わりにその言葉を繰り返す。動揺が鎮まるように、心が静まるように。唸り声を上げる耳許に懺悔の替りに繰り返す。呼吸のリズムで、幾度も、幾度も、ただひたすら繰り返した。
 
 唐突な興奮は、速やかに引いて行く。
 元々、激するタイプでもないのだから、いつまでも怒りのテンションは続かないし、肉体派でもないのだから、逮捕術を体得している楢岡に敵う訳は無い。呆気なく押さえ込まれて、身動きが効かなくなると、電池が切れたように大人しくなるのが普通だ。長沢もご多分に漏れなかった。騒いでいたのは、僅か数分足らずの事だろう。
 絶叫は押さえ込まれて直ぐ唸り声に変った。唸り声はじきに荒い呼吸になり、いつしかそれも静まった。僅か数分。数分後にはいつも通りの温和な男が、楢岡に押さえ込まれたままシートに寝転がっていた。
 そっと戒める腕を緩める。下半身を締め付けていた脚を解く。腕の中の体は無反応だった。
 鼻から手を離す。新しい血が流れ出ないのを確認して鼻を拭う。両の鼻から零れた血は、長沢の顔中を汚していた。肉のつかない頬や手が血塗れなのは、ただ痛々しい。楢岡は深呼吸した。
 「……ごめん」
 片手を鼻にやったまま、そのまま片腕で抱き締める。長沢は相変わらず無反応だった。
 先程までとは打って変わって静かな反応に逆に不安になる。顔を覗き込むと、黒縁眼鏡の奥の瞳はリアガラスの向うの暗いだけの景色を眺めていた。
 「Kちゃん、悪かった。ごめんな。俺いつもあんたを傷つけるな。前の時も、その前の時も、あんたの一番触れられたくない所、突いちゃってるよな、自覚してる。あんたを傷つけたい訳じゃないんだ。苦しめたい訳じゃないんだ。ただ。俺にもチャンスをくれと、そう言いたいだけなんだ。だけなんだが……すまん。そこまで動揺するなんて思って無かったよ……」
 腕の中の体が深呼吸する。押さえ込んでいた呼吸が膨れがって、瞬時に乱れる。
 楢岡はどきりとした。
 「聞きたくないっ……!」
 思わず腕に力を込める。予想外だったのは何も楢岡だけではない。恐らくは長沢自身が、自身の動揺に誰よりも狼狽えている。細かく震える体がそれを知らせていた。動揺に冷たくなった体を抱き締める。繋ぎとめる。現実に。ここに。
 「何でそんな事、君に言われなくちゃならないんだよ。もう、十年以上も前の事を今更、他人に。何も関係ない君なんかに。何で弄繰り回されなきゃならないんだ。関係ない奴に。関係ない癖に。
 俺だって知らない事を。知らない事なのに、勝手に他人に決め付けられたくない、俺の気持ちなんて誰にも分る訳無いじゃないか。お前にだって、分る訳ないだろ。分って、たまるかっ」
 「……うん。ごめんな」
 「なのに、勝手に、決め付けて。俺が…処理できなかった事を…」
 「うん」
 言葉が咽喉に詰まって、呼吸を塞ぐ。塞がれた呼吸が呻き声に変る。言葉にしようとする努力が吐息に終わる。
 「お前が勝手に処理するな!」
 そのまま息を呑む。声が飲み込まれて喘ぎになり、震える吐息になって空気を揺する。歯の隙間から漏れる唸り声が、嗚咽混じりになる。言葉なのか声なのか、それともただの呼吸なのか、分らない物に喘ぐ長沢の頭を、楢岡は抱え入れた。
 「ごめん。ごめんなKちゃん。……ごめん」
 
 それからどれぐらいたったのか。長沢の微かな震えが去ってからも、楢岡は黙って頭を抱き締めていた。恐らくここで急かす事は、長沢の傷に塩を塗る事になるのだろうし、これ以上言う度胸も既になかった。もっと的確な表現をするなら。
 楢岡の方が実の所動く気力がなかったのだ。
 長沢の肩の上に両腕をかけて俯いたまま、こちらが泣きたい気分だった。何と言う事か。子供ならいざ知らず、取調室ならいざ知らず。仕事と言う言い訳が全く出来ない状況で、大の大人を追い詰めて泣かせたのである。しかもその理由が、振り向いて欲しかったから、と来た。我ながら弁解も馬鹿らしい。
 泣いてやがると、からかえる状況だったらどんなにか良かったが、恐らくこれは無理だ。フォローの仕方が分からない。ぐったりと頭を垂れる。
 心中で深く溜息をつくと、腕の中の体がにじり動いた。片手を俯いた楢岡の腕にかけ、ぽんぽんと叩く。はっと顔を持ち上げたその真下で、くぐもった声が言った。
 「水道……」
 「え?」
 「口ん中、凄くまずい。水道、側にあるかな」
 言われた言葉を理解するまでに数秒掛かった。それから飛びのいて、ダンボールの中からタオルを一本引っつかむ。
 「ああ、あるある。駐車場出て直ぐの広場の左の方。これ、タオル。使うと良いよ」
 有り難う。静かにそう言うと、血だらけの手でそれを受け取ってテントむしを出ていく。血はとうに乾いているのでタオルを汚すことは無いが、楢岡の罪悪感を煽るには充分だった。後ろ姿を見送って盛大な溜息をつく。
 揉める事は計算の内だった。決死の覚悟で組んだイベントだったから、揉めた分近付くべく努力したつもりだ。
 長沢の提案を快く呑んだのも全面協力したのも、揉める前にポイントを稼いで、揉めてもその分を後から取り返せる状況にしておきたかったからだ。感触としては悪くなかったのだ。行けると思ったのだ。だと言うのに。
 誤算だ。まさかの盛大な失敗だ。稀代の嘘つきは本当に自分を騙すのだ。嘘である事を綺麗さっぱり忘れてしまう程に。
 楢岡の言葉に見開かれた瞳は嘘をついてはいなかった。本当に知らなかったのだ。長沢は恐らく自身の慕情に、気付いていなかったのだ。またもし気付いていたとしても。
 蓋をして、自分の奥深くに埋め込んで、埋め込んだ理由を忘れてしまえる程の時が、その上に降り注いでいたのだ。
 大失態だ。その蓋を剥がした。
 ガムテープでぐるぐる巻きにされていた物を強引に剥がして、大気の中に放り出した。放り出されたそれが、大量の酸素に晒されて昇華するのか、また息を吹き返して息衝き始めるのかは分からない。だが、眠っていた想いを、記憶を呼び覚ましたのは他でもない自分なのだ。
 そこまでのシロモノとは思っていなかったのだ。大の大人が見た事も無いほどうろたえるなどと、血が噴き出すなどと、ましてや泣き出すなどと、一体誰が思うのだ。その心に、入り込む隙が欲しかっただけなのに。ただ、振り向いて欲しかっただけなのに。
 「失敗したなぁ――……」
 呟いて膝の中に頭を抱え込む。
 フロントグラスから背中に降りかかる月の明りが、妙に眩しくて目を閉じる。右方遥か彼方に聞こえるキャンプ場の賑わいが恨めしく思えた。
 

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