□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 キャンプ場の水道は、学生時分にグラウンドに有った水のみ場のような形をしていた。
 足下に10cmほどの厚みのアスファルトのプールがあり、中央に一列に石組みが90cmほどまで持ち上がり、そこに横一列に幾つもの蛇口が付いている。下足から手まで洗える作りになっているのは、多様な用途に対応出来るようにだ。野菜や鍋を洗ったり、普通に手を洗ったり。
 乾いてこびりついた血を洗う。たまたまダウンを脱いでいたからそちらは助かったが、このシャツは駄目だろう。手首の周りは、とても美しいとはいえない黒ずんだ模様になっているし、胸や腹にも同じ模様が散っている。
 顔は洗えば済むのだが、こうした時、顔に生えた余分な毛は非常に邪魔だ。特に鼻の下に生えている分は厄介で、毛細管現象よろしく、一本一本の毛の間に血がまといついて乾き、ゴワゴワになるのだ。
 血で固まった髭を揉み解す。丁寧に揉んで洗うと大分楽になった。水に何も混じらなくなるまであちこちを洗い流して、どうにか格好がついてタオルで拭う。蛇口を閉じると、水が止まる代わりに溜息が出た。
 恥だ。
 とてつもない恥だ。男としてこれは有り得ない。一体、これはどうしたら払拭できるのだ。
 不惑を過ぎて久しいと言うのに、自分の子供に等しい年齢の青年に縋りついて泣いた事がある。あれは家族を失った夜のことだ。正確には家族を失った事に、ようやっと気付いた夜だ。みっともないと思ったがどうしようもなかった。子供のような青年に支えられて泣きついて、どうにか過ごした。今日もまた。
 過去に気付いて、ベソをかいている自分がいる。
 滑稽だ。滑稽きわまる。自らの心の一番深い部分を、よりによって敵になるだろう男に曝け出され、それに打ちのめされた。掴みかかって押さえ込まれ、どうしようもなくなって泣き出すというのは子供のする事だ。不惑も過ぎた男のする事では、断じてない。無いのに。
 ――どうしようもなかった。本当にどうしようもなかったのだ。
 嘘をついた自覚はまるで無かった。曝け出された事が、丸々正解だとも思わない。ただ、自らで処理できなかった細々した事柄が、今、有るべき所に収まったのも確かなのだ。情けない。余りにも不甲斐なくて涙になる。自分は何と愚かで鈍いのか。
 あの時逃げ出したきっかけはクリアに憶えている。GWが終わって直ぐだと言うのに真夏のように暑い日で、纏いつく熱気に向けて吐いた、自らの呪詛の言葉も憶えている。風船の色は鮮やかな赤で、少女はピンクのワンピースを着ていた。凡て憶えている。画家だったら絵が描ける程に。
 だが分かっていなかった。自らが追い込まれた理由の一つが。考えた事もなかった。そんな動機が、欲望が自分の身の内に有るなどと思った事もなかったのだ。
 「馬鹿か……俺」
 眼鏡を外して水道で洗う。洗いやすいようにしゃがみ込んで、そのまま俯く。月の光が邪魔だった。暗闇だったら背後を気にせずにいられたのに。大の男がしゃがみ込んで泣いていても、誰にも迷惑にならないと確信できたのに。大っぴらに顔を洗う。この水滴は蛇口から出たのだと自らを言い聞かせる。断じて、蛇口からの水なのだと。
 
 テントむしに戻る。キャンプ場から自力で帰る手立ては無いし、いつまでもこの寒空にしゃがみ込んでいられるほどの体力も無い。そっと助手席を開けると、後部座席で楢岡が膝を抱えていた。
 「あの、シート……」
 膝の上からびくっとして顔を上げる。声の方を振り向いて身を固める。長沢はそっと顔をそらした。
 「血がついちゃったろ。シミにならないか心配で……」
 タオル濡らして来た、と言う代わりにタオルを突き出すと、楢岡が慌てて運転席の方ににじり寄った。
 「あ、ああ、さっきウエットティッシュで拭いて見たんだ。そしたらこのシート、子供のやんちゃに合わせてビニールの合皮らしくて、綺麗に取れた」
 「ああ、そうか。それなら良かった。汚さずに済んで。……じゃ、楢岡くん、これで拭いて。あちこち血、ついちゃったろ」
 タオルを持った手を楢岡にむけて伸ばす。日頃表情豊かな男が、不思議な無表情を向けていて、対応に困った。いつものように混ぜ返せば良いのに、どうやらそう言う気分ではないらしい。だからと言って黙って見つめられても、決まり悪い事夥しいのだ。47の男がベソをかいて顔を洗いに行って来たなど、どう考えても面白くも無いギャグだ。
 どうして良いか分かりかねて苦笑すると、タオルを持った手首を強い力が引き寄せた。助手席の扉から入り込んだから、互いの間にはシートがある。長沢がシートにぶつかって停まると、楢岡がシートごと抱き締めた。
 震える吐息が耳許で立ち上る。
 「……ごめんな」
 「………あの、」
 「ごめんなKちゃん、この埋め合わせはするから。俺なんだって、するから」
 …… 分かる、気がした。
 今ならば、男の気持ちが分かる気がした。男の必死さも、深慮遠謀の挙句の行き過ぎも、慮って余りあった。恐らくは、男の言った事はいずれも本心なのだ。純粋とは言い難いが、打算的であれ何であれ、その中央に有るのは紛れも無い慕情なのだと良く分る。分って、しまった。
 全く人間と言う奴は。不合理で不可思議で、どうしようも、ない。
 「晩飯……」
 「え」
 「どうする…?」
 俯いたままの黒縁眼鏡が言う。決まり悪くて選んだ話題なのだと直ぐ分かった。
 「ああ、どうとでもするよ。時間的にはまだ七時だし、Kちゃんがイヤだって言うなら街まで出て飯食っても良いし、何とでも」
 主語を欠いた楢岡の言葉を半ば無視して後部座席に入る。備え付けなのか後付なのか、小さな冷蔵庫を開けて中身を見ると、椎茸、人参、葱、ばら肉スライスにうどん等々と、メニューの想像が容易い具材が入って居る。次にダンボールを開けて中身を点検する。タオルや簡易シート、ロープ、ティッシュ、ウエットティッシュ、救急セットなどのキャンプ用品の他に調味料、カセットコンロとそのガス、果てはクリーム、ローション、コンドームが出て来て動きを止める。
 背後にのたうちまわる図体の大きい存在を感じるが、敢えて無視すると、上ずった声がごめんなさい、と雄叫びを上げた。
 「もう分りました!この場で速攻帰ると仰るなら駅までお送りしますんで、もう勘弁して、本当勘弁してくれ!」
 背後に目線をやって、だるまさんが転んだよろしく凍り付く人物を見る。この男も今日は散々だ。引きずり回されて、その凡てに応えて協力した挙句、こうしてその本人に恐縮せねばならない状況に置かれているのだから。
 「マニュアル、どこかな」
 「へ?」
 「鍋の材料揃ってるみたいだけど、俺このキャンカーの使い方知らないもの。何がどこに有るのか書いてあるマニュアルとか無いのか?」
 一瞬、間があった。
 長沢の言葉をゆっくりと噛み砕いて飲み込み、深呼吸をしてから改めて楢岡が息を呑む。……マジで? ようやっと零れ出た言葉は殆ど囁きのような声だった。
 「Kちゃん、直ぐ帰るって言うと思った。…いてくれるんだ…。いてくれんの?」
 黒縁眼鏡が返答に窮する。明るいとは言いがたい室内で、先程からずっと俯いて居るから表情は良く分からない。だが隠しようも無い鼻声や、赤くなった鼻先で、長沢の戸惑いは良く分る。その傷も、今は分る。長沢に拒否されるなら、これ以上何も出来ないと、してはならないと自らに言い聞かせていた所だったのだ。
 「その……」
 頤が持ち上がる。眼鏡の奥の赤くなった瞳が楢岡を見つめた。
 「俺、今ヘタってる。情けないけど頭がまとまらない。その、兎に角、俺ちょっと考えたいんだ。このままじゃどうにも気持ち悪い。居心地が悪くてしょうがない。最悪だ。だからちょっと整理をしたい。俺だって直ぐこの場から帰りたいけど、もう、歩く気力も無いんだ。
 自分がみっともない事この上ないのは良く分ってるよ。いい年こいた親父の泣きべそなんてギャグにしても悪趣味だ。だから、君は俺を笑えば良いよ。そうしてくれた方が気が楽だ。
 俺は、その、食って、…落ち着いて、それからゆっくり考えたい。今の自分を整理したい。……それだけだ。」
 黙って聞いていた楢岡が、冷蔵庫から野菜を取り出す。備え付けのキッチンの中から俎(まないた)と鍋、ダンボールの中から包丁とカセットコンロを出して並べる。
 「悪いなKちゃん。俺も今、笑い者に出来るほどのヨユー、ゼロ。今度は俺がベソかきそうで壮絶格好悪い」
 ポップアップルーフを跳ね上げる。車体後部の天井が高くなるので、背の高い男でもこれならゆったりと"キッチンに立つ"事が出来ると言う訳だ。
 野菜は凡て洗ってあるから。楢岡がそう言いながらそれらを掴んでキッチンに立つ。長沢も追って立ち上がり、隣に並ぶ。数センチ低い位置から見上げられて、息を詰める楢岡の横で、初めて見た時と変らぬ顔が微笑む。胸が痛んだ。
 「じゃ、君も俺に付き合え。……これであいこだな」
 出会って、12年以上経つ。変化のなかった十年以上の年月の後に今がある。この関係が例えば今壊れても、十二年の記憶は消えない。嘘にはならない。それが嬉しいのか辛いのか、良く分らなかった。
 「…相子にしてくれるんだ。そりゃまた出血大サービスだな。……本当の意味で」
 クス。横で鼻声が笑う。
 「やっと楢岡君らしくなって来たな」
 ほんの一時間余り前、酷く安心したように、やっと笑ってくれたと長沢が言った。同じ事を楢岡も思う。どんな場合であれ、笑っていてくれた方が良い。そっと横を盗み見ながら思う。だが今は、まだ安心する気にはなれなかった。
 
 夏場だったらバーベキュー、冬場だったら鍋と言うのは安易だが正しいチョイスだ。
 夏場なら虫対策さえしておけば、開放が望ましい。フィールドにバーベキューセットを大っぴらに組んで、煙も油もフィールドに散らして騒ぐのが醍醐味だ。だが冬のこうした場合は。
 ポップアップルーフについたビニール窓から月を眺めて鍋をつつくと言うのは、やはりこれこそ醍醐味だ。
 テントむし純正のテーブルにセットしたカセットコンロから、二人で差し向かいで鍋をつつく。月の良く見える位置に長沢を座らせる辺り、まだ楢岡も諦めていないのだが、凡てを本人に感知された後ではご愛嬌と言うのが精々だ。恭しく越乃寒梅を取り出して、互いのカップに注ぐ。乾杯して一口味わい、長沢が溜息をついた。
 「甘。果物みたいな味だな。大吟醸?」
 「いや、特別本醸造。幻の逸品よ」
 「凄いな楢岡くん。…うん、美味い」
 鍋をつつきながら、舐めるように酒を味わう。鼻声はすっかり元通りになっていた。目元の赤さも今は去って、鼻に僅かに赤みが残るくらいだ。月を見上げる目許につい見蕩れては鍋に戻る。咀嚼に動く口元がふう、と妙なタイミングの吐息を零した。
 「俺、他人のちょっとだけ先回りをするの、割と得意なんだ。それはもう単純な事で、欲しい物を言われる前に出したり、相手が言おうとする事を先に言ったり」
 うん。豆腐を口に放り込んだ楢岡が、熱さと格闘しながら答える。
 「知ってるよ。いつも見事だと感心してる。記憶力が良くて神経が細かくないとアレは出来ないよな」
 「でも自分がやられるのは苦手なんだって、俺は今日始めて知った」
 咀嚼途中で楢岡が固まる。長沢はじっと茶碗の中を見つめたままだった。
 「楢岡くんは凄い。俺は今日一日君を見ていて、やっぱ現役には適わないとしみじみ思った。いや、現役が凄いと言うのも有るけど、これは個人の能力だ。その行動力も、度胸も、ここってタイミングを掴むのも、本当に舌を巻いた。キャリアどうこう関係ないよ。叩き上げで署長になって、国家公安委員会目指せよ。君ならきっと出来るよ。
 君が見つけ出す事はきっと真実だ。……俺の事についても、多分それが本当なんだろうと思う」
 「あの、Kちゃん……」
 正直言ってな。無理矢理の笑顔が持ち上がる。
 「俺、楢岡くんが言うように恋心なんてとうに忘れてるんだ。早紀ちゃんの言う乙女心なんて分からないし、正直、分りたくないんだと思う。もう恋なんて嫌なんだ。パワーが出たりするのは認めるけど、後からその分ぐったりするだろ。厄介だし面倒だし、鬱陶しいよ。恋していた時を懐かしく思い出すのは良いけれど、あの渦中に巻き込まれるのは正直もう……」
 言いかけて言葉を呑む。何の事を言いたいのかは良く分る。
 
 あんたは今も大貫先輩が好きなんだろ?忘れられないんだろ?だから他の男を好きになんてなれっこない。
 
 それに対する答を出しあぐねて居るのだ。
 要らない。そんな答えは。考えなくて良い。言わなくて良い。忘れたいと心の底から願った事なら、恐らくは忘れる事こそが正しいのだ。
 自らが掘り起こしてしまった過去を、埋めろと言う都合の良い事が言えなくて躊躇する。楢岡が意を決して口を開ける寸前、長沢が言った。
 「…うん。でもやっぱ、この点についてだけは楢岡くんは間違ってる。ちょっと外してるよ」
 「Kちゃん、俺は……」
 「だって、神様と虫けらの間にまともな交際が成り立つ訳無いだろ?」
 ビニール窓から差し入った月の光が、長沢の持つコップに当たる。黒縁の眼鏡が、その光に揺らめく。今は真っ直ぐにこちらを見ている眼鏡の奥の瞳に、月の光が揺れていた。
 楢岡は動けずにいた。間違っている、そこまでは分る。次に長沢は何と言ったのだ?
 「今……何て?」
 苦笑。
 「うん…。大雑把に言うけど、これは嘘じゃないよ。つまり。俺は確かに楢岡くんの言う通り、好きだったかもしれない。俺にその自覚は…多分なくて、俺は今もその感情を尊敬だと思ってる。思いたいだけかもしれないけど。
 尊敬してるんだ。俺は。心の底から。俺にとっては神様にも等しい存在で、月とすっぽんとか提灯に釣鐘とか、雲泥の差とか、兎に角並ぶべくも無い存在なんだ。で、相手はどうかって言うと。…そうだなぁ、俺を人間だと思ってくれていたら僥倖だ。そんな関係なんだよ。この状況でマトモに交際なんて成り立つ訳無いじゃないか」
 何も言えずに凍り付く。今の長沢の言葉に嘘はない。無加工で、剥き出しで、ナイフのような言葉だ。
 「対等になりたかった。対等とは言わぬまでも足下くらいには近付きたかった。必死で頑張ったつもりだった。出来る事は何でもした。
 ……でも無理だった。全然無理だった。到底追い付けなかった。同じ景色も見られなかった。報いられなかった。だから挫折したんだ、俺が。勝手に俺だけが、挫折したんだ」
 自覚が無いと長沢は言う。だがこれが、楢岡は思う。慕情でなくて何なのだ。
 長沢と、その"先輩"の間柄が何なのかは知らぬ。恐らくは仕事場の同僚か上司なのだろうが、知りたくも無かった。長沢が打ちのめされ、ボロボロの状態で竹下珈琲に現れた事情の一端に恐らくは居る男なのだ。楢岡が不用意に持ち出したその名に動揺し、隠し切れなくなって漏らす今も、名前は口にしない。最小限の情報でその存在をカバーしようとしている。これが、慕情でなくてなんだ。執着でなくて何なのだ。
 その男を尊敬していると長沢は言う。過去形ではない。現在形だ。
 「俺が今怖いのは、思い出す事だよ。あの頃の感情を。……あんな苦しいのは、俺もう、本当に嫌なんだ」
 感情。
 静かな目が楢岡から離れて鍋に移る、何事も無かったように、鍋の中の野菜を手持ちの茶碗に移し入れる。カップに伸ばされる手も、箸を持つ指も、平然といつも通りなのが嘘のようだ。
 長沢らしい言葉の選び方だと思う。執着とは言わずに尊敬と言った。恋とは言わずに感情と言った。何処まで自覚しているのかいないのか、凡て過去になって居るならどうでも良い事だ。凡てが過去になって居るなら。
 苦しかったと長沢は言った。弱音を人前に晒すことが嫌いなこの男がそう言うからには、それは本当に苦しかったのだろう。妻と娘を愛する平凡な男には、自分の置かれた状況すら分らなかったかも知れぬ。妻と生きる事が当然の男には、想像だにせぬ事態だったろう。尊敬と感情。長沢に、それ以外のどんな言葉のチョイスが出来たと言うのか。
 両者を同時に愛せる楢岡には良く分る。自らは容易く越せる"囲い"は、人によっては岸壁のように高く、深く聳え立つ。長沢にはそうだったろう。恐らくはそれを越せず、未だに認められずに足掻いている。認めてしまえば、どんなにか楽なのに。妻も子も離れた今、認めることに障害は無いのに。
 「Kちゃん」
 ん?鍋の中身を頬張った髭面が持ち上がる。きょとんとした瞳が見つめる。疼く胸はどうしたら良い?
 「俺、、時ちゃんと別れた」
 箸で上手いこと掬い上げた豆腐が、長沢の持つ茶碗に、ちゃぷんと沈んだ。
 

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