□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 人間、とろとろ40時間近くも眠れば、大概は睡眠にも飽きる。
 長時間睡眠に耐えうるだけの体力のある10代20代と、40代では睡眠の価値が違う。まる二日間近くも寝れば、ほぼ睡眠の飽食。限界と言う物だ。相も変わらず眩暈は有るものの、視界の歪みにも回転にも順応して来て、 病棟内をうろつくくらいは自在に出来るようになった。
 実の所、特別歩き回りたい訳でもないのだが、そこは悲しいやもめの身。己の事は己でせねば埒があかないのだ。従業員達は入院したその日に訪れ、 不便は無いかと色々気を使ってくれたがそこはそれ。自分が勝手に警察を呼んだ所為で大騒ぎになったと気に病む19歳の乙女に、パンツ持って来いとは口が裂けてもいえない。
 自ら動けるようになってようやっと、気分は人間らしくなって来た。
 売店は一階にしか無いので遠征気分だったが、通常は病棟に有る何種類かの自動販売機で用が済む。飲み物と、軽食と新聞と、TVカード の4台。これがなかなか、個室に篭る日々に潤いを与えてくれるのだ。
 刑事がくれた新聞と写真週刊誌は、とうに読んでしまった。
 妙に時期のずれた写真週刊誌は、外国人犯罪を特集していた。依然として日本国内の犯罪者のトップは中国人ではあるものの、その次に続 く韓国人、ブラジル人の事件件数も多く、最近では犯罪後直ぐ自国に戻って刑を免れるのがマニュアル化し一般化した事で、犯罪はより悪質になっている。日本では犯罪人引渡条約を結んでいるのが、アメリカと韓国の僅か二国で、埒外にある中国人、ブラジル人等の犯罪には歯止めが利かない。 その本はそう警鐘を鳴らしていた。
 新聞紙の方は、刑事も言っていた通り「読み終わった」物で、渡された日から遡って三日分の物だった。過去の新聞など読んでも仕方ないと、最初は当日の物しか読まなかったのだが、ベッドの上の余りの時の流れの遅さに、翌日には過去二日分にも手を出した。
 済んでしまった日本シリーズの結果を眺め、アイドルの身内の覚醒剤犯罪やら、悪質な交通事故問題をざっと読む。駿河台下、と言う住所 が目に飛び込んだ。

 駿河台下のマンション"オライオンズ駿河台"の一室で代議士が死んでいるのを、翌日迎えに行った秘書が発見した。死因は虚血性の心不全 。連日国会で舌戦を繰り広げていた最中だっただけに、想像以上のストレスに悩まされていたのかもしれない。政界は、実に惜しい人材を失った。民衆党代議士、富士野忠明54歳、1985年東大卒……

 代議士のプロフィールに入った所で新聞をたたんだ。

 三日も経つと熱も下がり、大分気力も回復した。検査結果も今の所異常なしと言う。もっとも。医師は念を押した。
 暴行相手が外国経由で日本に居るなら、地域、国名が分からねば、本当の意味の解決にはならない。医療は万能ではないし、医師に千里眼はない。だから、全ての病気の可能性を検査するのは不可能なのだ。地域が分かって、可能性のある感染症の種類が分かってこそ、初めて明確な検査結果に結びつき、結論が出せる。相手の素性が分からない内は、当分は安心しきらないように。
 酒井医師に脅かされて中っ腹で、長沢は病院内探検を始めた。入院当初、刑事に言いこめられてからの、念願であった救急窓口に向かう。今後に備えて、自分の空白の時間は埋めて置かねばならない。
 救急のスタッフが何人居るのかは不明だが、予想より直ぐに幸運はめぐって来た。三人目のトライで、その夜の当番だったと言う看護師に当たったのだ。長沢を無言で睨み付けてから、彼女は、ああ、と手を打った。すっかり丸くなった顎が、その動きにぷるん、と揺れた。
 「貴方、ドアによっかかって居た人でしょ、あの、夜間受付の。顔の傷、随分薄くなってるから分からなかった。
 え?そうねぇ。朝の5時くらいかなぁ。戸口で騒ぐ人がいて、守衛さんが覗きに出たんだって。そしたら貴方が扉によっかかってて、どかさないと出られないんで保護したそうよ。よく見ると傷だらけだわ顔色は悪いわ、酷く熱いわで直ぐ救急に運ばれて、その後に内科に行ったのよ ね。
 タオルやら毛布やらでぐるぐるになってたわよ。下には服を着たままで、ズボンのポケットに財布が有った。そこに運転免許書が入ってたから無縁仏にならずに済んだのよお。よかったねぇあんた。これに懲りて呑みすぎはやめなさいよ」
 豪快な笑いとともに、長沢の肩を叩いて看護士は仕事に戻って行った。複雑な心境だった。
 一つ、明確に分かった事がある。つまり。
 "奴"が俺をここに運んだのだ。
 冬馬と名乗ったホワイトグレイの髪の青年。長沢を陵辱した当の本人が、長沢を救ったのだ。訳が分からなかった。
 あの青年は初日、長沢を床に叩きつけて犯し、その床を磨いて帰って行った。翌日には住宅スペースに入り込み、同じように欲望を叩きつ けた挙句、病院に放り込んで帰ったと言う事らしい。馬鹿げていた。意図が全く分からなかった。アフターケア付きの強姦か。そんな物は聞いた事がない。
 床を磨くくらいなら、最初から汚すような事をしなければ良いのだ。命を救うくらいなら、最初から傷つけなければ良いではないか。欲望 だけは好きに処理して、彼なりの後始末をつけているのが逆に腹立たしい。それに現実、救われた自分がさらに腹立たしかった。
 分からない。あの青年は誰なのだ。冬馬と名乗ったあいつは何者なのだ。唐突に人の生活に土足で踏み込んで来て、どう考えても必然性が有ると思えない中年男を性的に暴行すると言う暴挙を行い、しかも命は救った若者。一連の行動の全てが観念的に理解できなかった。行動の理由がまるでちぐはぐに思えた。理解不能では次の予測も立てられぬ。予測のつかぬ未来にあるのは。
 また、彼が現れると言う事実だけだ。
 怒りか、恐怖か。理解できない熱さが頭の中を一杯にしていた。それを振り払おうと病院の中を歩き回る内、いつしか時が過ぎた。高かった日 が傾き、クリーム色の棟内に斜めの影を落としていた。
 ざっと二時間も歩き回ったのか、これでは老人の徘徊と変わりが無いと、急に廊下の真ん中で立ち止まった長沢の背中に子供がぶつかった。突然、障害物となった背中の持ち主を怪訝な目で見上げて走り去る。いつもなら、走っちゃ行かんぞボウズ、くらいの声はかけるのだが、その気にはならなかった。
 頭が熱い。頭が…熱い。
 頭を冷やせる場所が欲しかった。看護師も医師も訪れない静かな場所が。雑音の入り込まない静寂な場所が。
 隅々まで回った病院内で、一つだけそんな場所が思い当たった。
 旧館の最上階、4階。恐らくは元々検査棟だった場所が、主な設備が新館に移った為にがらんどうになっていた。ロッカー等の設備はそのままで、直ぐ傍に屋上の物干し台に続く階段がある為に、決して切 り離された場所ではないが、冷めた雰囲気が見捨てられた場所を物語っていた。
 がらんどうの廊下のどん詰まりに、ロッカーに囲まれた狭い空間があって、所々傷んだ合成皮革のソファが三つ、コの字型に並んでいた。コの一画を遮るように置かれている大きな観葉植物の鉢植えは、忘れられたのか捨てられたのか、多いとは言えない陽の光に喘いでいる。
 観葉植物には少々の同情を禁じえないが、今はその存在がありがたかった。植物の脇のソファに腰掛け、ゆっくりと 沈み込む。病院の売店で買ったパジャマと、奥田早紀が持って来てくれた「お父さんのガウン」が、合成皮革のソファと擦れてきゅう、と鳴った 。
 目を閉じる。ソファの上で力を抜く。ゆっくりと深呼吸を繰り返す。静かさを満喫すればいいのだ。訳の分からぬ青年への恐怖と怒りを頭の中から追い出し、ただの空白を取り入れるのだ。熱くなっていた頭に、静寂の冷気がゆっくりと染みこんで来た。
 心地が良かった。

 オライアンズの件は非常に評価しているよ。

 何分そうしていたのか、不意に、閉じた意識の向こうにそんな言葉が聞こえた。事務的な男の声の呟きに、もう一つの声が素っ気無く、あ あ、と答える。短い言葉にすら独特の音色が感じられるハスキーボイス。それに揺り起こされて意識が覚醒すると同時に、事務的な声の言った単 語が頭に引っかかった。
 オライアンズ。
 極々最近、その単語を見た気がする。それはどこでだったか。
 「済んだ事は良い。次は」
 ハスキーボイスが言う。心臓がどくん、と飛び跳ねた。
 聞き覚えがあった。つい最近。極、耳許で。聞き覚えが……有った。
 飛び上がりそうな身体を意思で押さえ込む。冷や汗がどっと湧き出た。
 自分の直ぐ脇で、男二人が何かの商談を交わしている。明らかに他人には知られたくない商談を、直ぐ側に蹲る人影に全く気付く事無く、交わしているのだ。
 勘弁してくれ!心中で毒づいた。何だってこんな所で話していやがる。呪いの言葉は幾らでも思いついた。
 だが詮無い。人気の無い場所といえば、ここだ。そう思って長沢はここに来た。その感覚は、長沢だけの物ではなかった。少なくとも後二人、同じ感覚を持つ同志がいて、皮肉にも同じ時間に集ってしまったと言う事だ。
 いつも人気が無いから、ここを交渉場所に選んだ。今日も来て見て、人影が無かったので交渉を始めた。そんな所だ。
 ソファに 低く沈み込んだ所為で、背もたれの上に上半身が見えず、大きな観葉植物の鉢植えがソファより下を覆い隠した所為で下半身が見えなかった。コの字の一番奥の一片に座る長沢の存在は、たまたま彼が取った姿勢と、たまたま忘れ置かれた観葉植物の存在で消し去られてしまったのだ。
 勘弁してくれ。両目をきつく閉じる。今更動く事は出来ない。今更、出てはならない。交渉終了までここで息を潜めるしかなかった。
 「気が早いな。暫くは待機だ。兎に角」
 事務的な声の男の方が言いながら立ち上がる。どうやら交渉は早めに終わりそうだ。事務的な声の男に、キスでもしたい気分だった。
 「オライアンズの件は見事だった」
 途端。
 目の中に記憶が蘇った。
 オライアンズ。オライアンズ駿河台。

 駿河台下のマンション"オライオンズ駿河台"の一室で代議士が死んでいるのを、翌日迎えに行った秘書が発見……

 神田署刑事課一係の鷲津。彼が持って来た新聞紙のニュースの一節が、目の中にはっきりと蘇った。
 

− 8 −
 
NEXT⇒