□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 好きじゃなくても、エロ妄想くらいするだろ。楢岡が言ったから、その言葉を繰り返した。それでも良いかと。
 例えばただの妄想でも。これが一時の嘘や幻であっても。長沢が受け入れると言うなら、楢岡に拒否する術はない。ほんの一瞬、悲しげな表情を浮かべた楢岡は、それでもその身体を抱き寄せた。
 広いとは言い難いキャンカーのシートの上で、その身体を抱き締めあう。熱い体温を分け合って、噛み付くようにキスをする。互いの身体を貪り、忙しなく衣服に手をかける。ワイシャツ等を着ていたのは失敗だったと思ったのは恐らくは双方だ。適当にボタンを外して、後は強引に引っこ抜く。
 裸の脚を絡めあう。長沢は綺麗な脚が好きだと言った。楢岡の脚はお気に召さぬだろう。気に入ってもらう為には無駄毛の処理が大仕事だ。
 痩せた尻を引き寄せる。安産型の尻が好きだと言うのなら、痩せ型の男性は凡て無理だ。長沢など持っての他だ。
 気に入らない筈の体を求め合う。体の凹凸を埋めあうかのように引き寄せて抱き合う。唇で形を辿り、肉に指を食い込ませる。絡めあう舌は二人同じ越乃寒梅の味がした。
 「ぅあ……!」
 互いの物を擦り合わせていた長沢の体の裏に手を入れる。背筋から這い降りて両脚の間に辿り着く。ダンボールから引っ張り出したローションで濡らした指を差し入れる。以前は酷く緊張して避けた身体が、今日はそうでもなかった。びくりと強張りはしたものの、強く引き寄せると逆らわずに付いて来た。
 塗りこむ。入り込む。体の中に。間近に見る瞳がけぶる。決して不快感で、ではない。
 「ん…は。楢、岡くんっ……ぁ」
 入り込んで探る。快感の寝床を辿る。腕の中に縋りついて来る体を唇で辿りながら、その場所を探る。ある一点で身体がぴくんと波打った。
 みつけた。
 「うあっ? あ、ま、待っ……んん!」
 その場に指を押し込む。両手の指を押しいれ、周辺を探る。塗り込められたローションが、長沢の入り口で淫猥な音を立てる。急速に開かれて行く体を押し留めようとするように首を振る仕種に煽られる。楢岡の胸に押し付けられる頭が、ガクガクと震えて快感を伝えて来る。激しい呼吸が胸元で上がる。指を"そこ"に押し付け、揉みしだくと、頭が快感に跳ね上がった。
 ぞくり、と来た。
 潤んだ瞳と半開きの口許が快感に喘ぐ。そこにむしゃぶりついて、指の場所に自身を押し当てる。揉み解した粘膜の狭間に先端を合わせる。微かに脅えた様に向けられる目を見つめながら突き上げる。きつく包み込む熱い肉の中で達しそうになりながら突き進むと、長沢が楢岡の口の中で悲鳴を上げた。耳でなく、骨から伝わるその振動が快感になった。
 愛おしい。貫かれて喘ぐ体が。すがり付いてくるその仕種が。この人が欲しい。もっと。もっともっとあんたが欲しい。
 華奢なウエストを両手で掴んで、自分の場所に叩き付ける。急激な動きに押し広げられる拘る箇所に、怒張する欲望を押し付ける。快感の寝床を先端で抉り、ごりごりとこすりつける。その心をそうしたように、暴く。暴き立てる。
 そのまま根元まで突き入られて、楢岡の胸に腕を突く。待って、と言うつもりが言葉にならなかった。
 「あー、……は――、んぁあ、あ――……」
 自分の身体の反応が良く分らなかった。身体の奥が熱い。楢岡が入り込んだ場所から熱と快感が波のように広がって行く。快感に包まれる。飲み込まれる。尚も屹立したものに動かれて、腹の奥がどうかなりそうだ。上手く動けずに、楢岡の手を取る。自らの物を触らせる。何とかしてくれ。言葉にならずに目で訴えると、楢岡の手が握り締めた。
 「うう、ん、はっ。あ、あぁそこ。そこ……!」
 長沢の反応が駆け上がる。早急に求めてくるのが愛おしい。応えて触ってやる。さすって、握ってしごく。同時に奥深くまで入り込んで掻き回す。根元まで入り込んでぎりぎり迄引き抜き、また根元まで突き入れる。その動きにびくびくと波打つ長沢の身体が、強い刺激を求めて絡みつく。
 半開きの瞳に映るのはもはや快感だけだ。本来、快感に素直な体なのだ。だがその快感に身体をゆだねる事を、モラルや常識、規範や沽券や意地が邪魔をする。過去の記憶と傷に臆病になって躊躇する。
 あんな辛いのはもう嫌だと言った。思い出すのは怖いと言った。辛くて怖い思い出が恋だから、自分の気持ちは動かないと、もう恋などしないと自分に言い聞かせて居るのだろう。
 奥に突き立てる。ぎゅうぎゅう締め付けてくる長沢の体の中を、外を、全身で辿る。それだけで快感に呻く身体が愛おしかった。
 「Kちゃん、苦しくない?」
 困ったような瞳が見上げて慌てて首を振る。
 自分から体をこすり付けて楢岡の愛撫を求めながら、何かを言おうとして息を呑む。
 「きもっ………ち、い……」
 潤んだ瞳が縋りつく。たまらない。
 背ごと抱き寄せて突き動かす。楢岡の体の上に乗せる形で、その最奥を突く。長沢がらしくも無い嬌声を上げた。
 弾けて居るのは長沢の方だ。手放しで快感を求めて居るのは長沢の方だ。楢岡のものを呑み込んで、更なる刺激をくれと求める仕種に応えながら、楢岡は心の片隅が疼くのを感じていた。
 慰みになるならそれで良い。救われるなら幾らでも手を貸す。だが。これは陵辱にはならないのか、本当に?
 過去を手がかりに、強引にその心に踏み込んだ。恐らくは、長沢が自覚すらしていなかった慕情を目の前に突き出し、見ろと言ったのは他ならぬ自分だ。その自分に長沢は今、抱かれて居るのだ。身体を開いて居るのだ。隠していた傷を暴いて陽の光に晒し、暴かれて戸惑う精神を、組み敷いているのではないのか。これは。
 「うぁあ"ん、は……、んっ、あ、あ"―――……!」
 これは本当に、合意の上の交わりと言って良いのか。
 もはや呻きのレベルではない声が、長沢の咽喉から吐き出される。声を上げながら求め、与えられる快感にまた声を零す。自分でそれに気付いたのか、抑えようとして楢岡に口付ける。何度か息を呑んで、無理に目の焦点を合わせる。激しい呼吸に喘ぐ顔を手で支えると、その口許がごめん、と言った。
 「ごめ、楢岡くん。俺今日……変っ……なん…。き、もちイくてどうか……なり……」
 構うものか。
 この人が求めて居るなら構わない。罪人とでも卑怯者とでも、好きに呼ぶが良い。太腿を掴んで深い注挿を始める。その奥の拘りを散らす様に。凡ての規範をねじ伏せるように。過去の拘りを叩き割るように激しく、深く。
 その傷が血を流して居るなら、それ毎凡て引き受けよう。傷の理由など知らない。その深さも関係ない。その傷を負ったこの人が好きなのだからそんなのはどうでも良い事だ。互いの個性も規範もポリシーも、胸の中に描く正義さえ違っても、求め合う事は出来る、埋めあう事は出来る。それが罪なら、潔く罪を背負おう。その咎で散るのなら、それもいっそ面白い。
 尻を掴んで引き寄せ、捻り入れ、最奥まで辿り着いて引き抜く。彼の部分がすぼまるのを許さずに、また奥に捻り込む。二つの体の接点に塗り込められたローションが、二人の体液と交じり合ってぐちゃぐちゃと音を立てた。長沢の中へ飲み込まれ、引き抜かれるものがしずくを散らす。自らの体を揺すり上げる男の胸に長沢は必死でしがみ付いていた。
 掻き回される。快感の壺を貫かれる。触れられる場所の凡てが、掴まれた場所の、入り込まれた部位の凡てが疼いてどうしようもなかった。自らの咽喉が立てる音が遠くに響いていた。頭が白くなる。まだ、と願う。
 もっと、もっと欲しい。身体の、心のもっと奥に。もっと、もっと欲しい。
 「あっ、あ、あ"――、あ、んん、んっ、ん―――、」
 「思い切り声、出して良いよKちゃん、あんたの声、好き」
 快感を。過去を忘れられるくらいの快感を。
 
 お互いの開放の中で身を寄せる。長沢の体の内と外で弾けた物を、楢岡がそっと拭い去る。その刺激にさえびくびくと反応する部分が、長沢の感度を楢岡に知らせた。
 感じて居るのだ、最大限に。感じてくれているのだ。俺を。愛おしくて肩口に唇を寄せる。
 かつて一度だけ、ベッドを共にした。
 ただ、あの時の長沢は酷く酔っていて、何処まで自分の意思で許してくれて居るのかが良く分らなかった。だが今日は。
 前置きは有ったものの、凡て長沢の意思だ。口付けも、交わりも、凡て彼の明確な意思だ。快感を求め、楢岡を求めて居るのは、長沢自身の意思なのだ。少なくとも今は、長沢が楢岡を選んだのだ。
 突き入れながら手で導くと、長沢は容易く達した。楢岡の腹の上でその余韻を味わった後も、まだ求めた。触られる場所が、何処もかしこも熱くて変だと言う。
 「それ、究極の口説き文句だろ、Kちゃん。触られる所が凡て熱いって?ここは?」
 「うっ……ん」
 シートに横たわらせてうつ伏せにする。頼りないウエストを掴んで問うと吐息の声が応えて、震える頭が頷く。
 「ここは?」
 尻を掴んで割り入る。指で秘所を押し開く。肉のつかない尻の中の、桃色の部分を親指で辿る。
 「はっ、あぅ、あー――…」
 言葉にならずに頷く身体の後ろにのしかかる。位置を合わせて、開いた場所に押し込む。柔らかく開かれた場所がずぷずぷと楢岡を飲み込んで行く。深く入る程に、漏れる声は高くなり、悲鳴とも嬌声ともつかぬ声になった。
 「……ここは」
 言いながら、応えは聞いていなかった。腰を引き寄せて動く。暖かく飲み込む場所に、己の快感を突き動かす。触れる場所が熱いと長沢は言った。それは楢岡もだ。熱くて、絡み付いて、どうしようもなく心地良い。求められるのに応えて居るのは、自らが欲しいからだ。
 入り込む。突き入れる。激しく身体を揺すりながら、頼りない身体を抱き締める。辿り着きたいのだ。一つになれる所まで。中に潜り込んで掻き乱す。今は開かれた部分を、縦横無尽に掻き乱す。近づく為に。一つになる為に。
 身体の中が立てる音と、肉が触れ合う音、長沢の漏らす声が混じりあう。キモチイイと声が言う。
 キモチイイ。キモチ、イイヨゥ。モット。モット……
 うわ言の様に言う声に促されて動く。叩き入れる。押し付けて、掻き回して、中で破裂すると、甘えた声が舌足らずに名を呼んだ。
 楢、までのたった一言。その一言が嬉しかった。
 
 コンドームをつけていたので、煩雑な後始末は必要なかった。ただ、塗りこめたローションが乾いてべたつくので、それだけはふき取った。
 ぐったりと、半ば放心状態で横たわる長沢の身体も楢岡が拭ってやった。その間も漏れる声が、自分の名を呼ぶのが嘘の様で、そのままかき抱く。快感の前では人は皆同じだ。微かな声で名を呼ぶ様は母に甘える子供のようで、奇妙な庇護欲が胸の中に持ち上がる。むき出しの肌に毛布をかけ、薄い身体を抱き寄せる。髭に包まれた顔に口づけをして目を閉じる。
 鼻先の緩やかな呼吸が、徐々に穏やかな寝息に変る。見下ろすと、安心しきった寝顔があった。無防備に投げ出された身体を守るように引き寄せて目を閉じる。
 男二人には決して広いとは言えないキャンカーのフルシート。それでもそこが天国のように思えた。御殿のように思えた。求める者と眠れる夜は満たされて暖かかく、直ぐに闇が訪れた。
 遠いキャンプ場の賑わいはいつしか鳴りを潜めていた。下弦の月と、黒い夜。眠る世界の底で、二つの呼吸もスローダウンする。
 ぬくもりの中で眠る。ぬくもりを抱いて眠る。……眠る。
 

 カラスが鳴いた。明けガラスと言う奴だ。
 朝の早よからギャアギャアと鳴き喚いて、まだ外は暗いというのに腹立たしい。こちとら連日残務整理と下調べで、生活が不規則な事夥しいってんだ、少しは気を遣えハシボソ…。
 カラスに毒づいて居る途中で意識がはっきりした。慌てて飛び起きて周りを見回す。
 目覚めたのは見慣れぬシートの上だった。そこまでは良い。考えあぐねた挙句にチョイスした、ここは軽キャンカー"テントむし"の後部座席スペースだ。問題なのは。そこに一人で寝ていたと言う、その事だ。
 しまった。そう思った。逃げられた。
 長沢の朝が早い事は知っていた。ZOCCAの親父が、"三時には起きて仕込みを初めて、六時にはパン届けてるよ"と早起き自慢をしていたから、長沢が起きるのもそれ以前だ。逆算すれば5時前後には起床と言う事になる。
 辺りはうっすらと明けかけていた。慌てて床に落ちた衣服を拾い、ポケットの中の懐中時計を見ると、針は五時五十分を示していた。大きく舌打ちしてシャツを羽織る。ズボンに脚を通して、ジッパーも上げずに外へ飛び出す。一時間のタイムラグは大きい。周囲にいなければ速攻で追いかけても間に合わないかも知れぬ。
 自らを呪いながら辺りを見回すと、薄暗いキャンプ場の水呑み場に、ぽつんと暗い人型が穿たれていた。
 人型は、散策ルートの方を向いて歯を磨いていた。
 恐らくは自らで持って来たであろう歯ブラシを持ち、ダンボール箱の中にあったタオルを首にかけて歯を磨いていた。
 見つけてから五分もすると、気が済んだのか口をすすぎ、顔を洗ってから髭を引っ張っている。後方から近付きながら眺めていると、そうした何気ない動作は可笑しい。一頻り、鼻の下や顎周りの毛を引っ張ると、納得したように撫でつける。長さが揃ってないけど仕方ないや、そうした言葉が聞こえた気さえした。
 「はさみもかみそりも有るぜ。使う?」
 笑い含みに声を掛け、向かいの洗い場から正面を覗き込む。きょとんとした顔が持ち上がった。
 「おはよ。早いなぁKちゃん」
 黒縁眼鏡がしばし無反応に楢岡を眺め、それから慌てて顔を背ける。その頬が微かに染まっていて、楢岡は面食らった。
 「……ハ?」
 「ああ、お早う楢岡くん。うん、貸してはさみ。取り敢えずはそれだけで良いや」
 「ちょ、ちょちょちょ、待て。ちょっと待てKちゃん。何、何その殺人的な反応は」
 足早にキャンカーの方に戻って行く肩を掴む。それでも歩みを止めようとしないので、そのまま腕を掴んで引き寄せる。一番簡略型の逮捕術だ。長沢が短くギブ、と声を上げた。
 「痛い、マジで痛い、何すんの君」
 「顔真っ赤」
 間近に楽しげな顔に見つめられて言をつめる。つい先日、似たような事が有った。あの時の相手は22歳も年下の同志、水上 冬馬だった。我ながら自分に呆れる。何だって二人の、しかも男にこんな醜態を見せて居るのだ自分は。
 「どんな顔で話せば良いのか悩んでたらこれだ。俺本当に君には負ける」
 「その顔でいいよ。最高。朝から幸せ」
 言葉にまた赤くなる顔の中で、恨みがましい瞳が見つめている。
 恐らくは昨夜の事を、またあれやこれやと恥じ入っているのだろうが、全く無駄だからやめるが良いのに、と楢岡は思う。人間が生きている限り、生物としての営みが続く限り、性欲は切っても切れない。どんな性の饗宴も、参加者が納得さえしていれば自由だし、お咎めはない。神の子や神が目を閉じていてくれる限りは。だから長沢の煩悶も恥じも、全く必要ないものなのだ。尤も。
 見ている分には楽しいので、楢岡に止める気はないのだが。
 「君には、痛いところ抉られっ放し……」
 「どこ? ……ああ、ケツとか。いつでも再チャレンジしま」
 「下品すぎる。ギャグにもなってない」
 中っ腹で去って行く背中を追わずに水場に戻り、はさみここだけど、と叫ぶと、立ち止まった背中が躊躇の後で戻って来る。中っ腹を超してはっきり怒って居る顔が可笑しくて愛おしい。はさみを握るのと同時に、目の前に鏡を立ててやると、怒ったまま有り難うと言うのが更に可笑しい。
 慣れた仕種で左顎の下から顔の周辺ぐるりを整え、鼻の下を整えてはさみに着いた細かい毛を流す。残った毛を整えて凡ての行程を終え、小さく頷く様が猫の毛づくろいのようだ。47と言う年は、猫に例えると何歳なのだろう。
 毛づくろいを終えた猫を後ろから抱き締める。暖かい身体はピクリと反応したが拒絶はしない。昨夜一晩馴染んだ匂いを抱き締める。
 「なぁKちゃん。俺達付き合ってみようよ。身体の相性が最高ってのは言うまでもないだろ。急かすつもりは無いけど、Kちゃんが考えて見て、嫌だと思わなかったら付き合ってみよ。な」
 迷いは良く分るから、答などは求めていない。伝えられる事を全部伝えられればそれで良いのだ。今回の旅はその為の物だったのだ。そう考えれば、この結果は出来過ぎだ。出来過ぎで怖いくらいだ。
 少なくとも長沢は自身の判断で楢岡に身体を開き、今朝は今まで想像もしなかった反応まで見せてくれたのだ。これは楢岡にとっては僥倖だ。結果が吉と出ても凶と出ても。
 充実感をかみ締めて深呼吸する。余韻を味わって、さて、と言いかけると、長沢が短く頷いた。
 「……うん、考える。考えるけど期待しないでくれ。俺、理由もなく付き合う事は出来ないし、……正直今は恋なんてしたくない。そんなん、出来る日がくるかどうかも分からない」
 長沢の後ろで凍り付く。答えなど無くて当然だと思っていたのに、答えが返って来た事実に凍り付く。それだけではない。さらりと述べられた答えが、これまた想像だにしていなくて凍り付く。いま、長沢は何と言ったのだ。Noではなかった。何と言ったのだ。考えると、そう言ったのか。
 「だから、これしか言えないよ。……悪いけど」
 振り返って、合わされる瞳に息を呑む。
 聞き違いではない。幻ではない。真摯な瞳にかろうじて分ったと応えて頷くが、それ以上の身動きはまるで出来なかった。
 長沢は一大決断を終えて気が済んだのか、深呼吸をして満足気に笑った。楢岡の出した鏡を楢岡に向けて置きなおし、どうぞ、お待たせ、と呟く。
 「君も髭そるんだろ。そーとー伸びてるぞ髭。今、頭にちくちく刺さったぞ。じゃ、俺、先に戻ってるな」
 冗談じゃない。先ほど長沢の赤面をからかったが、今の自分はそれどころでは無い。軽い足取りで去って行く長沢から顔を背ける。大量の血が顔に上るのが分った。
 信じられない。やるだけの事はやってみるものだ。
 「ち……ちくちくじゃねーよ。悶え殺す気か」
 
 一泊二日の旅行が終わる。
 終わって見ればあっと言う間で、あっけないと言えば言えるが、長沢にとっても楢岡にとってもヘヴィでハードな旅だったと言うのは、帰りの新幹線を二人がほぼ熟睡して終えた事でも分る。
 新神戸の「日ノ本レンタカー」にキャンカーを返し、そこから昨日と同じ「モチ」に駅まで送って貰い、土産物まみれで新幹線に落ち着くと、後はほぼ無言でお互い眠りに入った。発車のベルは何となく聞いた憶えもあるが、「乗車券を拝見します」と車掌に起こされた後、気付いたのは東京駅だった。
 行きは手ぶらで身軽だった楢岡も、帰りはそれなりに土産袋を提げている。長沢に到ってはそれは顕著で、あれもこれもと買った物だから、両手が荷物で塞がる事となった。疲れと、手に食い込む土産物と共に東京駅に降り立つと、帰って来た、と言う感慨が湧き上がるから不思議だ。
 「SOMETHING CAFEまで送るぜ俺」
 彫りの深い、人好きのする笑顔が長沢を見下ろす。楢岡荘太郎。その呼称を形作る個人の凡ての要素が、12年も経った今頃になって長沢の中に確立する。今まで見えなかった物が、見て来なかった物が今は眼前にぶら下がっている。人懐こいその顔をぼんやりと見つめてから、そっと頭を振った。
 「結構です。子供でも有るまいし。第一、線違うし逆だろ。帰ってゆっくり休んでよ。お疲れ様。楽しかった。有り難う」
 見上げて言う顔はいつも通りの人懐こいSOMETHING CAFE店主の笑顔だ。それでもクールでドライと感じないのは、その顔の裏側を見た所為だろう。葛藤も涙も煩悶も、凡て飲み込んだのがこの笑顔だと思うと、印象はまるで変っていた。
 階段前で、御茶ノ水に向うホームに下りようとする長沢の頬に手をやる。きょとんと見上げる顔を見つめる。平凡で、愛おしい顔を。
 「じゃな。こっちこそありがとう。愛してるよ、Kちゃん」
 不細工な黒縁眼鏡の奥に宿る。苦笑。
 「まったく。君には負けるよ」
 手を振って。笑顔で道を分かつ。
 互いのフィールドに。互いの日常に。帰って行く。戻って行く。
 1月3日朝10時。まだ、ステージは始まったばかりだ。
 

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