□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 岐萄友充は紛れも無くビックネームだ。
 その名は自明党のみならず、政界のみならず、日本のみならず、亜細亜のみならず響き渡っている。ジャパンマネーの魔力と共に。
 岐萄の名は、常に金の流れと共に有る。自明党に居ながら、共産党の息の掛かった日中交友協会の会長を務め、前支那側の会長の支那人と結び、支露国境港利権で日本から大量の金の流れを引き出したのは岐萄だ。その時の金額は80億ドルとも100億ドルとも言われている。
 それを足がかりに、岐萄は露首相と個人的な付き合いを深めた。ルクルチア独立に絡む内紛の機に乗じ、欧露を結ぶ石油パイプライン工事の利権にありついたのも岐萄の関連企業だ。ODAを足がかりにアンタイドローンの利権を握る、リサイクルの名目で支朝に物資を流して利権を得、それを元に人脈を広げる。
 利権も人脈もやり方次第で肥え太り、広がるのだ。それはもう雪だるま式に、芋づる式に。
 岐萄の名を出せば、大概の者が反応する。まず単純に驚き、次に大物だと身構え、やがて甘い汁を吸える可能性にときめく。大物ゆえに機嫌を損ねぬよう気を使うのと同時に、その名が本物であるかを疑う。本物であれば、尻尾を掴まねばいつ寝首をかかれるか分らぬ曲者であるし、偽者ならば。さっさと片付けねば逆にこちらがとばっちりを食う。
 珍しい名なので、跡を辿るのは比較的容易い。殉徒総会は名を聞いたその日の内に徹底的な調査に掛かったろう。そして確信する筈だ。
 本物だ。
 流石にこの名を騙る命知らずの詐欺師など皆無だろう。誰も、身内が騙りなどすると思わぬ。その思考が穴なのだ。
 

 「なるほど、なるほど」
 人懐こい笑顔が目の前で何度と無く頷く。冬馬と唯夏は、何度も細かく上下する頭を無感動に見ていた。
 昨夜と同じように、羽和泉から唐突で絶対的な指令メールが届いたのは、二日の正午を回って暫くした時分だった。
 "お節"にも飽きた。家族で外食をするから、そこに報告に来なさい。
 そんな、「らしい」文章と共に、集合場所である店の詳細と地図が送られて来た。指定時間は1時間後、と言う到ってマイペースな物だ。部下の都合など、司令官は一向に構わない。だから、二人は現在ここにいる。
 "現在"とは、1月2日13時過ぎの事で、"ここ"とは、ミッドタウン内にある地中海風レストラン、サン=ミケーレの事だ。
 それなりに高級なレストランには分類されるが、若いカップルやファミリーを対象に作られているので、正装でなければ入店が許されぬ類の店ではない。昨日と違っい、二人の格好は至ってシンプルだった。
 カーゴパンツにパーカにダウンと言う普段着の冬馬と、ジョギングウェアにベロアジャケット言う、これまた若い女性が外出着にはまず選ばぬ服装の唯夏。先に着いたのは冬馬だった。
 指定時間の五分前に店の扉をくぐると、既に羽和泉は家族連れでそこにいた。いや正確には。家族がまだそこにいる内に冬馬が着いてしまった、のだろう。
 娘と息子と妻。四人家族の情景。この家族に会うのは既に数度目になる。
 漆黒の重そうな髪を真っ直ぐに垂らした、生意気そうな娘が長女の硝基。脱色した五部刈りに近い金髪の、ぼうっとした男が長男の基継だ。妻は極普通の、それなりに聡明そうな女だ。本来なら、冬馬の立場では反感なり羨望なりの感情を持つべきなのだろうが、そんな感覚は青年には無い。純粋に各人を観察し、ふぅん、と思うのが精々の感想だ。
 母が生きていれば、多少は違う感慨も有ったかも知れぬ。母の為に、父を恨むくらいはしたかも知れぬ。だがそれは凡て仮定に過ぎない。今の冬馬にとって、目の前の家族は単に家族で、自分とは関わりが無い。自分の与り知らぬ、羽和泉 基の家族。それ以上でも以下でもないのだ。
 入り口近くの椅子に待機した冬馬の傍を三人が通る。以前に「選挙スタッフ」の名目で紹介された事があるので、立ってお辞儀をする。形式上は議員の家族と職場の部下だ。それに見合った態度を取ると、妻がにこやかに頭を下げた。
 何が気になったのか、娘が二度ほど冬馬を振り返るのへ、微笑んで送り出す。到って事務的に。
 冬馬が席に通されて一分足らず。指定時間より遅れる事5分。唯夏がどこからともなく現れて席に着いた。気が効かないな。そう耳許で囁いたからには、彼女は違う場所で家族が帰って行くのを待っていたのだろう。家族に気取られぬように、羽和泉に気付かれぬように。こうした点は女の方が気が回る。
 そうして二人が揃う。そこからは前述の通りだ。
 羽和泉が二人分のコースを決めて注文する間、昨夜の事をざっと報告する。報告が終わる頃に丁度、羽和泉が手の中で弄びながら呑んでいたワインが無くなった。
 
 昨夜。正確には今朝未明。
 殉徒総会から開放されたのは、終電も無くなった夜中の三時過ぎだった。
 先方の狙いははっきりしていた。いわば一般人の洗脳だ。篭絡だ。時間をかけて説得し、相手が疲れるのを待って何らかの言質をとりたいのだ。だが、二人にそれは効かない。今日は下調べなのだ。いかなる発展も予定には無い。先方の目的と方法が分ったからには終了が望ましかった。先方が終了を切り出すのを、取り敢えず数時間は待った。だが。もうそれも終わりだ。その時間が丁度三時過ぎだったのだ。
 疲れた。眠りたい。唯夏がそう言い出し、冬馬がそうだな、帰ろうと席を立つ。傍にいた会員が、はっきりしない言い分で引き止めたが、聞かずに帰ると重ねると、集会はその場でお開きとなった。
 呆れるな。唯夏が目線で言ったので、全くだと頷く。ある意味、非常に正直だ。これでは、今回のターゲットは貴方方二人ですと伝えて居るに等しい。幼稚なやり方に苦笑が零れた。もっとも。
 これで、「集いには必ず最後まで参加する事」と言う羽和泉からの最後の指令も違えずに済んだ事となるのだから、その点は礼を言っても良いだろう。
 "普通の呑み会"と言われた集まりは20〜30代の男女三十人程で、当人達が思っている程には普通ではなかった。
 異性に目を光らせている所などは、まぁまぁ普通と見ていいのだろうが、単純に異性を狙って居るなら、そこに折伏(しゃくふく)だの勤行(ごんぎょう)だのと言う宗教用語は織り込まない。用語を織り込みつつ接するのは、自らの特性と共に宗教を刷り込もうと言う目的があるからだ。冬馬から見ればその様は滑稽だった。
 人間が"信じる"などと言う物の殆どは、力で砕ける。
 この中の何人が、宗教を捨てねば殺すぞと言う脅しに耐え切れるだろうか。腕を折り、足を折り、次は殺すぞと言われてそれでも宗教を捨てぬと言えるだろうか。恐らくはそんな猛者は、皆無だ。殆どの信仰は、力で砕けるのだ。
 "普通の呑み会"がまとまりのつかぬまま終了すると、最初に声をかけて来た城野と言う男が再びやって来た。
 「長い事引き止めてごめんね。疲れちゃったよね。電車なくなっちゃったろう。この傍に宿泊所があって、僕が手続きしてくれば自由に使えるんで、何だったらそこで休んで貰っても……」
 「ごめんね、ですって」
 唯夏のアルトが笑うような声で言った。
 「可っ笑しい。本当にそう思うのなら、終電がなくなるまでズルズル引き止めたりしない。――非常識な人」
 男がぎょっと身を引く。
 「帰りましょ、朝人」
 伸びやかな脚で、男のギリギリを通って身を翻す。恐らくはアップにされた長い髪の一筋が、彼の鼻先か頬を掠めた筈だ。冬馬は男の表情が驚きから後悔へ変るのを見ながら、唯夏に続いた。
 通り縋ったタクシーに手を上げ、乗り込みながら、まだその場に佇む男の影を視界の片隅に捉える。
 茫然自失。その言葉がぴったりと来る男の様子に、苦笑を噛み潰す。だから言ったのに。この女はお前の手に納まる女ではないぞ。
 タクシーが扉を閉ざす。短い唯夏の言葉に準じて、ドライバーがアクセルを踏む。静かなエンジン音と、速やかに加速する車影に連動するように、背後に立ち竦む男の脚が動いた。一歩、二歩。そこで止まる。冬馬は遠慮せずに吹き出した。
 バックミラーを通して眺める男の表情は滑稽だ。取り残される人間はいつだって同じ表情をするものだ。やるせなくて悲しげで、焦っている。吹き出した後に溜め息が出た。
 俺はいつもあちら側だ。
 日本、母、そして幾人もの同志。彼らを青年はいつも、ただひたすら見送った。着いて行く事も、引き止める事も、救う事も適わなかった。初めは酷くううろたえて抵抗し、悲しんだものだが、いつかそれもしなくなった。無感動に受け入れるだけだ。これは運命なのだ。去って行くものは仕方ない。奪われるものはどうしようもないのだと。
 遠い昔にそう悟った。これはもう変らぬ。昔も……今も。そして恐らくはこれからも。
 「上手いな…夕麻」
 「恐らくは地位は中の上。掴まえて置いて損は無さそうだからな。今日は私の一言で眠れないかも知れんな。大いに時間を無駄遣いさせてくれた礼だ」
 底冷えのする微笑を浮かべるピンク色の唇は人間のものだ。だが、細められる目許は獲物を狙う肉食獣のそれを思わせる。美しくて獰猛だ。冬馬は頷いた。
 その通り。最初の餌は決定したのだ。
 

 「なるほど、なるほど」
 羽和泉が頷く。
 前菜が運ばれて来る。琥珀色のつやを纏ったワカサギのマリネだ。唯夏が極々自然に小さな十字を切り、無言の祈りを捧げた後、ナイフとフォークを手に取った。
 信仰が有る分、唯夏の方が上等なのだろうと冬馬は思う。神を信じられるくらいの幸運を、その手に持って居ると言う事だ。結構じゃないか。つられるようにナイフとフォークを手に取り、一呼吸考えてからそれを置く。
 「いただきます」
 呟いてから改めてフォークを手に取ると、羽和泉の視線が持ち上がった。いつも変らぬ笑みの中で、きょとんと丸い目が見つめる。背ははるかに冬馬の方が高いが、座ってしまうと高さは同じだ。瞳の高さも同じだった。
 「日本式だな。そんな事を言っていたかな、お前は?」
 公魚を口に放り込みながら首を振る。
 「いえ。最近覚えました」
 幾度か、SOMETHING CAFEで飯を食った。長沢が買って来たり、余りものだけどと出してくれる物を並んで食った。その時必ず長沢は言うのだ。いただきます。そんな風に。祈るように。
 日本は八百万の神の国だから、そのどれかに祈っているのだろうと気にもしていなかった。およそ宗教とは無縁だが、長沢の感覚は完全に"日本"で出来ている。曖昧で鷹揚。博愛的に凡ての文化をひっくるめて飲み込める感覚。そんな茫洋とした価値観は、冬馬には到底理解できない。いわゆる"日本教"的感覚なのだ。
 だからいつも、何と無しに聞き流していた。だがそんなある日、言われたのだ。
 いただきます、冬馬。
 面食らった。
 有り難う、なら何度も言われた。貰って良いか?なら他でも聞いた。だが、食卓について祈りの代わりにそう言われたのは初めてだ。冬馬、と言った。ではそれは、俺に対する祈りなのか?
 驚きに固まっていると長沢に笑われた。
 いただきますとは「命を」「頂きます」であり、「作ってくれた物を」「頂きます」であり、お上から「賜った」「頂き物」であり、祈りで名詞で挨拶でお礼で、兎に角そんなもの全部をひっくるめた物だ。持って来てくれたお前に言って、何の不都合が有るんだ。
 本当はもっと詳細に説明されたのだが、冬馬の理解はそうだった。日本人はやはり不思議だ。自分が狩って殺した獲物に対して礼を言い、召使に礼を言い、自分の目の前の人間に祈る。そんな感覚は冬馬には無い。理解し難いが、それでも。
 その日から、冬馬は長沢と共にこの祈りを口にする事にしたのだ。
 「浄土真宗が始めたと言う噂もあるがね。だがそれは、献杯を"いただきます"と言う、現代の風習から言われ始めた事だろう。語源としては疑わしいな」
 羽和泉の言葉の意味が判らずに目で問うと、羽和泉が笑った。
 「いただきます、の語源だよ、冬馬。相棒とやらは随分とお前を上手く育てて居るようだ。お前はどんどん人間らしくなっている、いや、日本人らしく、かな」
 何と応えるべきか判断に迷う冬馬の元に、第二の皿が差し出される。
 二皿目は渡り蟹のリゾット。給仕が二人に分ける間に、羽和泉がさて、と言った。
 「成果は上々のようだ。二人とも、それぞれの役割を良く承知して居るようだ。私からの特別な説明も要らないと思うが、先にこれを渡しておかねばな」
 大きなシルバータグのキイホルダーに収まった鍵が、二つテーブルに置かれる。タグは平たい卵のような形で、厚みが無ければネームタグに少しだけ似ていた。ネームタグと言えば、当然、唯夏も戦場では常に首に掛けていた。名の無い死体にならぬように、二つのタグにきちんと認識番号を彫っていた。昔の事だ。
 冬馬のようなゲリラにはネームタグすら無い。死んだらその場で朽ちるだけだ。日本に帰るまでずっと、青年はそうした存在だった。
 「さあどうぞ。岐萄家の"姉弟"たち。家族は同じ家に暮らすのが自然だな。一年ほど前に引っ越して来た二人家族だ。こう言う時は、隣近所の付き合いが希薄な都会は実にありがたいな」
 朗らかな笑み。冬馬はリゾットを口に運びながらキイを弄んだ。
 住所は既に聞いている。殉徒総会のシンポジウムで住所は先方に知らせたから、それと同じ場所だろう。南青山一丁目、ブルーヴィラ1102。受け取ったキイは複製の困難なマグネットキイだった。
 「家具も付いているから、直ぐ暮らせるが、好きな私物は運び込むと良い。暫くはそこで過ごす事になるから、各自快適に整えてくれ。細かい説明は君らのボスがしてくれる」
 ボス。桐江一等陸佐。鍵を確かめて無言で頷く。
 凡ての状況は、恐らく整えられている。正月休み明けに二人が勤める職場も、出会った事のない数々の過去も記憶も友人も。この鍵の示す場所に行けば得られる筈だ。
 次の"話"が始まる。
 「さて。では私は行く。質問はあるかな」
 いいえ。二つの声が不意にそろう。羽和泉はゆっくりと立ち上がった。お気に入りのシャンパンが多少、効いたかも知れない。
 羽和泉が立つのと同時に、二人の家臣も立ち上がる。羽和泉を丁度挟む形で、左手に唯夏、右手に冬馬のコの字形になる。よろけた羽和泉の腹を、そっと冬馬が掌で支える。その掌に身体をもたせ掛けたまま、代議士は唯夏の頬に左手を伸ばした。
 滑らかな肌を確かめるように、そのまま頤に指を滑らせる。唯夏は黙って羽和泉を見つめていた。
 「"お姉さん"だな、唯夏。弟の面倒を頼むぞ」
 はい。表情一つ変えずに唯夏が応える。取るに足らぬ会話だ。冗談にしても面白くは無い。そう呆れている冬馬に気付いたのか、羽和泉は笑いながら向き直った。左肩に右手を置いて、縋るような形で方向転換をする。そのままゆっくりとした足取りで遠ざかる。
 「姉さんの言う事を良く聞けよ冬馬。ああ、それと」
 扉の外には、畔柳が待ち構えている。羽和泉 基の何十年来の私設秘書。主の為には何物をも厭わない従順な家臣。その盲従ぶりは、彼を司令官と仰ぐ二人の実働隊から見ても不可思議と思える程だ。
 羽和泉は戸外の秘書を確認してから振り返る。酔って居るのか、微かに赤い頬の上で柔和な瞳が笑みを浮かべていた。人懐こそうで温かい笑顔。もう一つの温かい笑顔を連想する。二人とも曲者なのは同じだが、完璧なのは羽和泉の方だ。
 庶民的で平凡で、ぱっとしない長沢に比べ、羽和泉は品行方正で知的でノーブルだ。万人受けは間違いない。
 後ろ暗い香りが漂う長沢の方が、正直で小物なのかも知れぬ。それならば。――小物の方がいい。
 「筋書きに相棒は居ないぞ。暫くの間は忘れなさい。完璧に記憶から消しなさい。関係するのも遊ぶのも一向に構わんが、囚われてはいけないよ。――気をつける事だ、冬馬」
 考えを読まれたようで息を呑む。自分は今、にやけた顔でもしていたろうか。表情に出したつもりは一切無かったが。
 居住まいを正す。背筋を伸ばして頭を垂れる。日本では、ほぼ凡ての場所で敬礼が人目を惹く。諸外国のように、生活に軍事が共存して居る国ではないのだ。だから、敬礼の変わりにお辞儀をする。司令官の言葉は絶対だ。貴方に従います。そう言う意味だった。
 扉の外の秘書が、待ちかねたように羽和泉の身体にコートを被せ、共に柱の向うへ消えて行く。二つの姿が視界から掻き消えてやっと、二人は席に戻った。
 滑り込むように、カサゴのアクアパッツァが届く。店の給仕のタイミングはバッチリだ。話々の隙間に上手い具合に潜り込んで来る。
 「長くなるな」
 唯夏が無表情に呟く。給仕がアクアパッツァを取り分けてから下がるのを確認して、冬馬が続けた。
 「ああ。いわゆる潜入だ。カルトの潜入は長くなる」
 「…だが。秋津だ。タイムリミットは最長で4年。今回はそれ程保つまい」
 頷く。唯夏が言う期限は、政権保持の期間だ。自明党なら党役員の任期が決められているから最大で三年。民衆党は決められていないが、内々に出されている宣言では四年。
 恐らくは今月中にも現政権が解散、来月半ばには総選挙となるので、最大でも4年間で決着をつけねばならぬという意味だ。だが、現状においてそんな安定した時間が取れるとは誰も思わない。政権は保って一年程度。不祥事が有ればもっと早かろう。
 まずは潜入。組閣後一気に動き出したとしても、実働隊に許される期間は短い。決着はその政権の終了時と考えると、一時も猶予は無いと実感する。
 「出来るか」
 唯夏の言葉に、皿から顔を上げる。
 「出来る」
 「…質問の意味が分かっていないだろう」
 カサゴを口いっぱいに詰め込んで、唯夏を見る。質問は当然、この"話"の成否についてだと思っていた。怪訝な表情に、溜息混じりに唯夏がほらみろ、と呟いた。
 「私が出来るかと聞いたのは"忘れる"方だ。出来るのか」
 咀嚼が止まる。自らの無意識の反応に、唯夏がわが意を得たりとばかり苦笑する。不意に、恥ずかしくなった。
 「出来る。当然だ」
 「本当か?」
 「決まっている」
 「昨日は、思い人に会えなかったと相当ご機嫌ナナメだったようだがな」
 「何が言いたい」
 「最後に会って来い。会ってすっきり忘れるが良い」
 ハーブを口の中に放り込んだところで、どきりとした。最後、か。そうか。
 "話"が期間を要するのは当然だ。何も、その日に行ってその日に事が済むばかりが実働隊の仕事ではない。何年も掛けて潜り込み、対象と親しくなって油断を誘い、寝首をかく仕事も当然ながら有る。今回はそちらだ。となれば相応の期間が要る。設定された他人になりすまし、他人の人生を生き、他人として仕事をこなして自分に戻る。その期間は、自分の人生は一時停止せねばならない。問題なのは。
 こちらが一時停止をしても、時間は止まらないと言う事だ。
 冬馬の気持ちは現時点のまま保存されるだろう。だが長沢は?あの優柔不断な男の傍から離れて、下手をすれば数年。冬馬が戻った時にあの男は今と同じく接してくれるのだろうか。いや違う。
 時間は、止まらない。長沢だけでなく、冬馬も、その意識、価値観、気持ちに一時停止など有り得ない。
 腰のポケットに放り込んだままの携帯が振動する。青年がポケットに手を入れるのと同時に、唯夏も自分のポケットに手を突っ込んだ。同じ人間からの通信だと、それだけで理解する。発信元は桐江伸人。彼らのボスだ。
 「今日は無理だ。ボスに会って諸所の準備が有る。だがそれが終わり次第、会っておけ」
 女の端正な顔を見つめる。無表情で、整っていて、面白くもない顔を。
 「何か有ったらお前がフォローしてくれるのか」
 「仕方なかろう。お前が専念してくれないと、こちらにしわ寄せが来る」
 携帯をポケットに戻した唯夏は、早速アクアパッツァに取り掛かっている。細い癖に、食欲は旺盛だ。思わず苦笑が零れた。
 「優しいじゃないか、姉さん。……恩に着る」
 微かに、驚いた表情が宿る。ゆっくりと端正な顔が持ち上がり、冬馬の表情を認めて頷く。
 青年本人は、気付いて居るのだろうか。
 唯夏が初めて青年と会った五年余り前、唯夏は青年の顔を、冷たく整った、血の通わぬ人形のようだと思った。陰気で無表情で、冷え切っていて残酷だ。世の中の何もかも、どうなっても構わないと思って居る、一目見てそう思った。だが今の青年は。変らぬはずのその顔に浮かぶのは、控えめだが優しい微笑だ。青年は恐らく、気付いていないのだ。思考の根本が、恐らくは変っている事を。
 青年の顔を見つめる。控えめだが確かに移り変わる表情を。青年も唯夏を見つめていた。
 整い過ぎて面白味のない人形のような女。冬馬にとって、唯夏は同志である以外に価値を持たぬ存在だ。男としての本能にかすらない。硬くて冷たくて、抱く気にもならぬ女。心に触れる事どころか、近寄りもせぬ女。冬馬の見つめる先で、無表情な顔が微かに驚き、その後にうっすらと笑って、冬馬は少なからず驚いた。
 営業を良く理解している彼女は、必要と有れば幾らでも笑う。はっきりと口角を上げ、標的に媚びるように笑いさえする。だが今の表情はそれとは全く異質だった。微かで、ずっと柔らかい。思い過ごしかもしれないが。
 「姉だから当然だ。…気にするな、弟」
 「……有り難う、姉さん」
 メニューはこの後、メインの鶏モモ肉のパイン風味焼きと、三種のデザートで終了する。
 今日は一日、諸所の準備で動けぬだろう。明日には長沢も帰ってくる。会おう。会わねばならない。
 互いの、為に。
 互いの将来の為に。
 

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