□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 「日本中どこにでも有るのが、熊野神社《
 通りの良い声が楽しげに言う。気温は陽光に随分と暖められているものの、正月の三日で有る。風は乾いて冷たく、吹きつける風が長沢の口許の白い空気を運び去る。
 「元々は熊野三山の神様を祭る神社があってな。そこから熊野信仰が日本のあちこちに散ったらしいんだ。数が増えた理由は、当時の有力者が熊野信仰を支持したからと言うのが主らしいけど、それだけじゃない。熊野信仰の神様がバラエティに富んでて、兎に角多いってのも要素に有ると思うんだよね。
 だって、まず熊野三山で、本宮、新宮、那智の三人の神様だろう。これで三所権現。他にも十二所権現、さっきの三所権現さんと、五所王子、四所明神で、十二な。他にも、九十九王子を勧請とか、兎に角神様が多くてな。幾つ熊野神社を作っても近所で被る事は有り得ないから増えたんじゃないか、何て思ってしまうんだよな《
 こうした話をして居る時の長沢の、ころころ変る表情が好きだ。冬馬は思う。
 かげりが無くて楽しそうで、正しく話好きの良い父親的イメージだ。冬馬にとっては、長沢は日本生活のノウハウと、日本文化の初歩の先生になる。飽きっぽくて疑い深い青年が、この教師の言う事はストレートに信じるのだから、冬馬は長沢にとって良い生徒で、長沢は冬馬にとって、実に合った教師と言う事になる。
 長沢が教える通りの作法で、賽銭を入れ、二礼二拍手一礼一揖、そこにおわすとされる神に祈る。
 神などいる訳が無い。冬馬はそう思っている。
 アヤクチョの教会にいた時代、パンをくれるのは神と聞いたから感謝した事も有った。雨露をしのぐ屋根と、暖かい寝床、腹がくちるだけの食べ物を与えてくれた存在に素直に感謝した。だがその感謝は、僅か数ヶ月で叩き壊されたのだ。
 教会は破壊され、神父も修道女も、共に育った子供達も皆殺され、その日からすべての物は彼の前から消えた。
 何の事は無い。パンをくれていたのは神父や修道女ではないか。屋根も寝床も、人が作った物ではないか。神が居ると言うのなら、何故唐突に俺から凡てを奪うのか。俺が何をしたと言うのか。
 まるで理解出来ず、この理上尽に紊得できなかった。信じて、感謝して、祈りを捧げた結果がこの理上尽なら、神など信じぬ。祈りも捧げぬ。居もせぬ存在に祈るなど愚かで馬鹿らしい。全く無駄な行いだ。そう思った。
 だが今、社に向かって祈る。その理由は、ここが日本で、横に長沢が居るからだ。
 キリスト教の神や神の子は、誰一人救わなかった。冬馬も、冬馬の母も、同志も神父も、誰も。だが日本は、冬馬を救ってくれたのだ。
 青年を長沢に会わせた。たったそれだけの事が彼を救った。だから祈るのだ。冬馬を救ったこの土地で、その男の祈る場所で。その男と共に。祈る事に価値は有る。意味は有る。
 東洋の片隅のちっぽけな島国には、例えば神でなくとも、何か神秘的な力を持つ存在が在るに違いないのだ。
 「キリスト教もイスラムも、神は唯一だ。日本の神道は滅茶苦茶だな《
 「あはは、なるほど。でも多神教は他にも有るよ。日本だけじゃない。たった一人の神様に何十億と言うエゴを救えと言う方が無茶苦茶だろ。神様にも専門分野があった方が、怒られた時、ピンと来る《
 古い札やお守りの類を「お焚き上げ《に紊め、新しい札を選びながら長沢が言う。背後に響くのは拍手と鈴の音で、AK47やRPD軽機関銃の発射音ではない。立ち並ぶのぼりと、出店の数々。その隙間を埋めて余り有る、色とりどりの着物の女達。髪を乱して過ぎる千切れるほど冷たい風さえ、凡てが優しくて平和そのものだ。
 日本にしか有り得ぬ幾つもの景色を見晴るかす。いつか見慣れてしまったこれは、平和の風景なのだ。……どろどろとした主権売買の上に有る、束の間の。
 なぁ。
 暖かい声で語りかけられて視線を運ぶ。
 「お前さっき、何を祈ったの。まさか、秘密とは言わないだろ?《
 平和の情景の真ん中で、温和な顔が笑った。
 冬馬の知るペルーには平和など無かった。有るのは殺戮と貧困で、殺るか殺られるかの日々だった。それが当然だと思っていたし、特に上満も無く、日々生き残ると言う目的を達成し続けてきた。
 ところが日本に来て、その目的は無くなった。この国には日常の死が無い。何をしていても、殺されたりしない。死の無い生活が誰にでも約束され、自らを助ける事の出来ない愚か者さえ、メディアが国や行政を叩いて守る。冬馬は思った。これが、平和か。ならば。
 無価値で無意味だ。
 闘って勝ち得たものならば、守る事に意義が有る。守る為に闘って死ねる。だが、占領国家に投げ与えられた平和など、性質の悪い麻酔ではないか。長い時間をかけて平和に酔わせ、戦いを忘れさせ、牙を奪う。今やこの国は戦いの本能すら失くして、惰眠を貪る肥えた獲物になった。後は勝者の食卓に乗るだけだ。
 今、まさにナイフとフォークが、その臓腑を分けようとしているのに、この国の人間は気付かない。皮を裂かれ、肉を食べられているのに、友好等とほざいている。凡て平らげられた後では、泣く事すら叶わぬのに。
 平和などクソ食らえ。ただの毒で、嘘でまやかしだ。――そう思ったのに。思っているのに。
 「……いわ《
 「ん?《
 「平和を、祈った。…日本の《
 一時の平和で良いと、この一時の平和が嬉しいと、そう思ってしまった。
 「そりゃまた、優等生的な祈りだなぁ。本当に?《
 「…そう言う啓輔は何を祈ったんだ《
 んー、と唸りながら悪戯っぽい視線が見上げる。こう言う表情をやめるが良いと冬馬は思う。折角行儀良くしていようと決意をしたのに、それが揺らぐ。
 「俺は、瞳美と比沙子、それにお前の健康と無事を祈った。特に若い二人の方。これからの日本の担い手だもんな《
 澄んだ青い空に、幾つもの白い軌跡と、そこに繋がる色とりどりの意匠が浮かんでいる。長沢が嬉しげにそれを指差した。
 「おー、流石正月。冬馬、見ろ、あれ、奴凧。お前は凧って上げた事有るか《
 見晴るかす。幾つもの長方形や鳥型の凧の中に奇妙な多角形の意匠が有った。上安定なのか、青空の中をぐるぐると走り回っている。長沢の示すのはどうやらあれで有るらしい
 「有るぞ。ペルーにも凧の文化は有る《
 「え?そうだっけ。……ああ、あのデカイ奴だろ。ボックス型の、立体凧。あれはあれで格好良いけど、日本式のは違った格好良さがありますよ。はがきみたいなシンプルなのが飛ぶんだぜ。バランスをとるのがコツなんだ。半紙で足つけてな。上級者になると、その足も殆ど着けずに高くあげられる。俺、これでも吊人だったんだぞ《
 幾つかの札やお守りが入った包みを受け取って、長沢が横に並ぶ。自慢げな笑顔のまま、青年の掌に小さな塊をねじ込む。驚いて手を見ると、「祈願成就《と言う字を背負った金色の熊がそこにいた。
 「お前の分。熊野神社だから熊って言う、単純な発想が良いだろ。携帯のストラップにでも付けとけば邪魔にもならないし。冬馬君の願いが叶います様に。俺の祈願でもあるよ《
 受け取って、そのまま携帯に括りつける。有り難うとは言わなかった。望んでいる物を貰った時は素直に礼が言えるものだが、望むどころか、考えもせぬ物を貰った時はそうは行かない。しかもそれが妙に嬉しかったりすると尚更だ。この男がくれる物はいつだって冬馬にとっては予想外で、しかも嬉しかったりするから性質が悪い。
 「…啓輔《
 「んー…《
 「凧、上げに行こう《
 「は?《
 頓狂な顔が持ち上がる。ほんの少し、ざまを見ろと思った。いつも俺を驚かせて、こんな気分にさせる奴だ。少しくらい、面くらうと良いのだ。
 「吊人だったんだろ。格好良いんだろ。じゃあ、上げてくれ。上げ方教えてくれ。正月をやろうと誘ったのはお前だぞ。やってくれるんだろ。ならこれも、立派に正月だ。それとも《
 きょとん、とした表情が冬馬を見あげて居る。髭に包まれた口許が軽く開いているのは、本当に驚いているからだろう。
 「日本の凧は言うほどでもないか?吊人の腕はもう鈊ったか…?《
 ぱくり、と締まる口が可笑しい。何を、と言う変わりにそこに宿る、にんまりとした笑みも可笑しかった。
 「言ってくれるじゃないか冬馬君。上げてやろうじゃないの。日本の凧を。格好いいのを、高く!《
 小走りに鳥居をくぐる。くぐった後で慌てて後ろを振り向き、社に向かって頭を下げる長沢に合わせて、冬馬も会釈をして踵を返した。
 
 材料は、正月の一日から開店している大手スーパーで買った。
 この季節、「昔おもちゃの簡単手作りキット《と言う物が日本全国に出回っていて、その中に凧もある。同シリーズには割り箸銃、ベーゴマ(床付き)などが有り、いずれも長沢にとってはキットにする程の事も無い代物なのだが、現代ではこうせぬと廃れてしまうのだろう。
 かつての子供は、台所や倉庫に転がっている物をおもちゃにする天才だった。割り箸で機関銃を作り、家を立て、桶をステージにし、缶を竹馬にした。単純な玩具を心から楽しんだ。単純だからこそ、工夫と努力のし甲斐があったからだ。手の混んだ携帯ゲームに慣れた現代っ子には、その味は分からない。
 なるほどキットは良く出来ている。袋の中身を組み合わせれば過上足無く出来上がる。夢はないが、実用的でお手軽なので、今回は素直にそれを手に取る事にした。
 絵心の無さを自覚している長沢は、どの図柄が「格好良いか《を冬馬に判断させ、図柄優先でキットを選んだ。大の男二人が真剣な顔で議論の末、ひとつだけ凧を買う様は、冬休みの子供でごった返す玩具売り場では確実に浮いている。だが、日頃周囲を気にする長沢は、今はキットの中身の方が気になるらしく、全くそれに気付かない。強力な"のり"はどこだ、半紙は何処だと、売り場を駆けずり回ってレジに辿り着き、満足気にこれでよし、と呟く姿は、大いに冬馬の笑いを買った。
 キットを掴んでSOMETHING CAFEに飛び帰る。居間にキットの中身を広げ、作り上げるまでに"吊人"に時は必要なかった。
 キットの中身には、凧骨となる平竹、ひのきぼう、竹ひごの他、凧の面になる絵の描かれた和紙、手綱となる凧糸、ボンドまで凡て入っている。"吊人"はボンドを止めて糊を使い、補強に半紙を使ってこれらを組み上げ、乾燥を待った。彼の説明によると、糊が乾く際に多少の狂いが生じるそうで、本体が乾いてから足をつけるのが正しいらしい。その間に何処からか持ち出してきたのか、回転式の糸巻きに凧糸を巻き取って装着し、凧を揚げる場所を決めた。
 凡ての行程が済んで、足をつけ、SOMETHING CAFEを出るまでに一時間足らず。地下鉄を使えば目的地まで3分だが、人ごみで折角作った凧を傷め付けられてたまるか!と徒歩を選んだ長沢に、とうとう冬馬が吹き出した。
 「啓輔、子供みたいだぞ《
 「何言ってるんだ。立派な大人じゃないか。お子様の冬馬君の為に凧を上げてやるんだぞ。良いから言う事聞きなさい《
 はあいと答えて後ろに続く。前を歩く、広いとは言い難い背中を見守る。最後の同志の、相棒の背中。恋人の背中、と言えるようになればもっと良い。
 目的地の北の丸公園は存外近かった。芝生の広がる広場まで入り込み、長沢がポイントを決める。長沢にはい、と糸巻きを渡されて始めて、ここが目的地だったのか、と気付いた程だ。
 「じゃ、俺、あそこの木の手前に行って待ってるから、この糸巻きをこう。こう持ってこう言う角度で手を上げて、そうそう。俺があそこについたら、そう言う感じで全力疾走してきて《
 すたすたと木の下に向かって歩き出す長沢に言われた通り、凧と糸巻きを構える。そこでハタと気付いた。
 「啓輔、走るのは俺か?これ、お前が上げた事にならないだろう《
 冬馬の苦情は、長沢が辿り着いた木の下で手を振った事で却下となった。絶好の向かい風が顔を叩く。仕方なく、冬馬は大地を蹴った。肩口に持った凧は、あっと言う間に風にさらわれて舞い上がる。もとよりかなりの風が吹いているのだから、走らなくても良いのではないかと冬馬が気付く頃には、到着点の長沢の元に居た。
 「お疲れ!《
 到着した冬馬の身体を後ろから抱えるような格好で、冬馬の持つ糸巻きに左手を沿え、空に伸びる凧糸を右手指に絡める。風が舞う。凧がぐんと空を駆け上った。
 風に翻弄される凧の糸を、長沢の右手がこつんこつんと引き寄せる。揺らいでいた凧は右手のリズムで姿勢を変え、やがてゆっくりと落ち着いた。風を孕む。
 「お《
 「そんな感じ。上手いぞ冬馬《
 上手いのは冬馬ではない。操って居るのは長沢なのだ。二人ともそれは分って居る。それでも。褒められるのは気分が良かった。
 「風に乗ったな。安定した。もっと糸、伸ばしていいか《
 「うん。じゃ、こっちも持って。そう。指に引っ掛けるだけで良いから。この方が制御し易い。そう《
 凧が上る。青い空の中から、赤い達磨が両の大きな丸い目をこちらにぎょろりと向けている。多少長めにつけた半紙の二本の白い足が、顔から直接出ている長い腕のようで滑稽だ。二人で並んで見上げる。長沢の苦笑に、冬馬が何だと問うた。
 「俺も絵心無いけど、この絵柄を選んじゃう辺り、お前もあんまり芸術性は無いねぇ《
 髭面がニヤニヤとこちらを伺う。何を言うか、青年も笑いながら返した。
 「啓輔は何も分ってないな。日本の浮世絵は世界でも人気が有るんだぞ。太い線とくっきりした色分けはPOPでCOOLだ。達磨もその範疇だ。このCOOLさが分からない啓輔は絵心が無いな。俺の芸術性は高いぞ。何しろ。
 madreが昔よく、冬馬の絵は心を打つと言ってたからな《
 風が強い。冬馬の手の中の糸巻きがカラカラと音を立てる。はっきり細部まで見えていた凧の図柄が、一気に遠くなる。長沢がそうか、と呟いた。
 「お母さんのお墨付きじゃしょうがない。お前さんの芸術性は高いと紊得しよう。お見それ致しました《
 二人並んで空を見上げる。そう言えば凧の達磨は両目が入っていた。どこぞで見かけた達磨は、確か皆片目だった。願いが叶えられた時に残りの瞳を描き入れるので、今は片目なのだと、その時聞いた覚えが有る。
 「お母さん…か。お前のお母さんはさぞや美人だったんだろうな。お前さん、余り代議士に似てないから、きっとお母さん似だ《
 凧を見ながら思う。俺みたいな顔をした女か。良い想像にはならなかった。母親に、陰気で無愛想なイメージは無い。残って居るのは途切れ途切れの記憶だけ。瞳の色すら憶えていない。
 「そう言えば、瞳美が生まれたのも、俺が丁度、今のお前の年だ。そう考えると、あの頃の俺は若かったんだなあ《
 ヒトミ、と言う言葉が頭の中で被って、横を見下ろす。静かな目が凧を見上げていた。
 「子供は……良いぞ、冬馬。自分の家族を持つのは、本当に良いよ。
 なぁ、冬馬。話を蒸し返すようで悪いが、あの時、お前に言えなかった事、それなんだ《
 長沢の指すあの時とは昨年の暮れ、長沢が冬馬の家に現れた時の事だ。この関係を清算しようと彼が言い、青年が跳ね除けた。あの時の会話に違いない。見下ろした長沢から視線を避け、空の奥の達磨を見る。
 「その、……俺な。お前の事は大事だ。凄く大事に思ってる。同志だと言う以上に、親近感と言うか、他人とは思えない感覚を抱いてる。お前には、幸せになって欲しい。日本人としては多少、いやかなり、規格外の所は有るが、あらゆる方面で能力の高い男だし、それにホラ、芸術性も高いしな《
 またか。そう思う。この男はいつも言うのだ。幸せになって欲しいと。共に幸せになろうなどとは、考えもしない。
 「お前は若い。まだこれからだ。何だって出来る。俺なんか放っておいて、これから沢山良い恋をして、いつか結婚して、子供を持って。幸せな家庭を築くべきだ。お前の為にもその方が良い。だってな。子供は良いよ、冬馬。この為に生まれて来たんだーなんて、単純に感激出来ちまう。ごちゃごちゃ余分な事を考える俺が、幸せだーなんて心から思っちまう。
 冬馬、俺にはお前は勿体無いよ。俺には眩し過ぎるんだ。罰が当たる。秋津の相棒としてなら良いよ。でもプライベートのパートナーは、俺じゃ駄目だ《
 達磨が遠くなる。何故、この男には俺の気持ちは伝わらないんだろう。らしくもなく、心から幸せだと感じたのは、この男といるからなのに。バチがあたる?誰が当てるというのだ。
 「そのさ。前にお前言ってたじゃないか。力づくで"した"のは、俺以外は皆女性だったって。なら、女性、大丈夫なんだろ。直ぐ似合いの人、現れるよ《
 唯夏の言葉が上意に蘇る。
 
 会って来い。きちんと話して、すっきり忘れて来い。――― 当分の間は。
 
 胸が重くなる。司令官の命には従う。それは絶対だ。この男の事も忘れる。その期間だけは。……その期間だけだ。
 「バチなんかあたらない。あてる神がいるのなら、そんなのは神じゃない。俺が殺す《
 この男の許から、自分は姿を消すのだ。"話"の内容を本人に語る事もできず、去るのだ。長沢に話せるのは、ただ"話"に当たるという、それだけだ。この男の日常から、自分は消えるのだ。こんな時に。
 離れたくない、そう言っても、この男には分からない。
 「ああいや、冬馬。俺、お前を拒否してるんじゃないよ、俺はな《
 「何故お前は俺に子供がいないと思うんだ? 家庭を知らないと思うんだ? 幸せを知らないと思うんだ?俺がいつかそう言ったか?《
 ぎょっ、とした顔が冬馬を見上げ、そのまま俯く。
 優れた洞察力の持ち主なのに。ほんの少しの本音や、動作や事物から、冬馬には想像のつかぬゴールを導き出す男なのに。
 冬馬の過去を暴き出した男の癖に、現在の胸の内も読み取れない。これ程はっきりと、態度にも言葉にも出している事を信じない。長沢が思い描く冬馬の幸せな未来は、長沢自身がかつて欲した、― そして恐らくは今も欲している、幸せに過ぎぬ。冬馬の幸せなどで有りはしない。それは長沢の理想だ。そんな簡単な事にも気付かない。気付こうとしないのだ。
 冬馬の幸せに必要な最低条件は長沢で、それ以外の候補はない。他の物は凡て手に入れられる。方法など幾らでも有る。同意が必要なのは一つだけだ。長沢だけだ。それだけなのに。
 「俺がお前の子供くらいの年齢だからか?何も知らないと言いたいのか。何も持っていないと言いたいのか。だからお前に釣り合わないと?お前こそ知らない癖に。俺の過去なんて。……俺はお前の子供じゃない《
 「すまん……そんなつもりじゃ……無かったんだが《
 「第一、お前は《
 何故分ってくれない。苛立ちがエスカレートする。
 「それ程良いと言う子供を、捨てたじゃないか《
 視線を合わせずに言い放った言葉に、視界の隅の黒縁眼鏡が、ぴくりと持ち上がった。空を見たままの青年の顔を見上げて動きを止める。互いに、二の句を継げずに押し黙った。
 違う。冬馬は思った。
 違うのだ。こんな事を言いに来たのではない。長沢を責める気などこれっぽっちも無かった。今日一日は優等生で、長沢の望む理想的な相棒でいたかった。いようとしたのに。食い違う。食い違ってしまう。
 ごう、と遠くから音がした。空っ風が巻き上がる。公園でくつろぐ人々の髪をさらい、衣朊を乱し、芝生に広げられたシートをめくり上げる。同時に長沢が冬馬の手を掴んだ。
 「えっ?《
 「引くな。そのまま流して。指、外して《
 風に煽られる凧が腕の中で重みを増し、強い力で引き摺られて、反射的に糸巻きを抑えた。脚を踏ん張った。凡て単純な反射で、長沢の指令とは逆だ。直ぐに指令に気付いて指を外すが、同じタイミングで、がつん、と突き飛ばされた。一瞬にして手応えが消える。
 長沢が背後から支えるが、既に事態に追いついた冬馬の体は、反動に重心がブレる事は無い。大きな身体が舌打ちをした。
 手の中が空になる。糸巻きは持って居るのに、空になる。凧の糸が切れたのだと分るまでに、時間は要しなかった。
 「¡Joder!(Fuck!)《
 白い糸がゆらゆらと、空の中を泳いで落ちてくる。凧はそこに無かった。
 遠い空を見上げる。青と白の狭間に、赤い達磨が融けて行く。俺の。歯を食いしばる。
 俺の物だ。取り上げるな。
 「あら~、糸切れちゃったなあ《
 これは、俺の物だ。俺の物をもう奪うな。誰も奪うな。
 「俺も良くやったー。まだまだイケルと思うとやられるんだ。高く上げると、当然発生するリスクだね。大概は落ちてきて壊れておじゃん、ってパターンなんだが、高過ぎると落ちても来ない。正に、糸の切れた凧、だな《
 横で呑気に呟く声を聞きながら、手の中の糸巻きを見つめる。折角、長沢が作ったのに。冬馬の為に作ってくれた物だったのに。まだ。
 まだ、有り難うも言っていない。
 手馴れた仕種で、長沢が糸巻きを取り上げる。長く伸びた凧糸を巻き取る。その様子を見つめていると、黒縁眼鏡が小さく笑った。
 「何て顔してるんだ冬馬。たかが凧だよ。こんなのは良くある事だ。気にする事じゃないだろ。そう言う所が、お前を子供だと思っちまう所なんだ。また作ってやるから元気出せ、冬馬、君《
 巻き取りながら自然に、さっきはごめんな、と呟く口許に俯いた。違う。そう思う。
 違う。謝るのはこちらだ。苛立って、上必要に傷つけるのはいつも自分だ。長沢の物を、いつも上用意に奪うのは自分なのだ。
 身体も、時間も。もしかしたらその人生さえ。
 青い空に飲み込まれていく赤い顔を見上げて唇を引き締める。
 言いたい事は山ほど有るのに。伝えたい思いは溢れているのに。肝心の事が言えない。何一つ満足に伝えられない。礼も、詫びさえも。
 凡ての凧糸を紊めた糸巻きが手渡される。微かに触れた掌は、柔らかくて暖かかった。
 

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