□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 食材を買い込んでSOMETHING CAFEに戻ったのは、既に辺りが茜色から藍色に変る時刻だった。
 冬馬が野菜洗いを担当している間に、長沢はネルドリップで珈琲を淹れる。サーバーにたっぷり二人分。カップ二つと共に二階に上り、珈琲ブレイクにしようと声をかけると、無口な青年が手を拭き拭きやって来た。
 獣の癖に、いや、獣だからか、味に鋭い冬馬の前に、濃い琥珀色の液体を湛えたカップを置く。長沢は自分のカップを両手に抱えたまま、無造作にカップに口をつける青年の反応をじっと見守っていた。
 無表情な青年が黙ったままカップを口に運ぶ。大き目の一口を飲み下し、カップに鼻先をつけたまま次の一口を含む。味と香り。彼なりの方法でじっくりと堪能して息をつく。見守っていた長沢の方が笑顔になった。言葉以上に饒舌な仕種と表情が、素直に嬉しい。
 「……俺。これ、凄く好きだ」
 「そうか。……うん、そう。そうだろ!思った通りだ。うん。冬馬は割とがつんとした味が好きだ。だからこれを淹れたんだよ。
 これな、ケニアAAをいつもより深煎りにしてみたんだ。こうすると酸味が消えて苦味が増す。それをちょっと細かめの中挽きにして、ネルドリップで淹れる。これで、まろやかなコクと強めの苦味が売りの珈琲の出来上がり。ミルクをたっぷり入れても美味いよ」
 うん、と頷いた青年が無言で味わう。自分の淹れた珈琲を、心から楽しんでくれる人がいると言うのはいい物だ。マスター冥利に尽きる。だが、嬉しいのはそれだけでは無い。
 いつかこうして、共に珈琲を飲むのが普通になった。獣との緊張の時は、いつしか安らぎの時に変っていた。今や確かに青年は、長沢の生活に息衝く存在だ。かけがえの無い、存在なのだ。そう実感するのが嬉しかった。だが。だからこそ。
 娘と殆ど変らぬ年の青年の一生を、自分が空費させてしまう罪悪感が拭い難い。
 「これが、良い」
 「ん?」
 「俺が戻ってきた時、お前が淹れてくれる珈琲。これが良い」
 冷たく整った顔に浮かぶのは、照れたような笑みだった。暗く、陰気な青年だったのに、いつからこんな笑みを浮かべるようになっていたのだろう。いつから変っていたのだろう。変ったのは。
 冬馬なのか、俺なのか。
 
 休憩を終えて、長沢は冬馬の洗った野菜の下ごしらえに入った。
 寒いから鍋、と言う事に決定したので、下ごしらえは到って簡単である。出汁だけを先に整え、後は野菜を適度な大きさに切るだけで良い。そのままの素材をテーブルに並べ、食べる際に好きな物を好きなだけ入れれば充分楽しめるのだから、鍋とは実に有り難い料理だ。
 手だけは休まずに作業を続ける。思考は全く違う場所に有った。
 俺は。長沢は思う。自分とは。自分の芯とは何なのか。自らの価値観とは何なのか。
 自分の思考も、感情も価値観も、分かって居ると信じて来た。46年かけて培って来た自分の芯と言うものは変わらない。自分は平凡な男で、人並みの教育を受け、人並みの就職をし、人並みに人と出会い、恋をして結婚し、子供を授かり…人並みに生きて来たつもりだった。途中で躓き、凡てを失ってしまった事は今も悔やまれるが、失敗の理由も挫折っぷりも、平凡だからこそのものだった筈だ。
 比沙子を愛したのも、瞳美を愛したのも、家庭を守りたいと思ったのも凡て真実だ。何よりも、誰よりも大事だと思い、生涯かけて守ろうと誓ったのは本心だ。そこにカケラも嘘は無かった。これが俺の過去の全てだった筈だ。なのに。
 もうひとつの真実が、おそらくは存在するのだ。
 大貫と言う存在に憧れ、彼の為にはどんな汚い事も厭わぬと思い、法の裏をかく事も躊躇わず、体を差し出す事さえ厭わなかったと言う事実は、果たしてただの「尊敬」や「敬愛」で成り立つものなのか。
 長沢の中で、二つの事実は上手く整合性を保っていたのだ。家族への思いは愛で、大貫への服従は尊敬。それできちんと納得していた。そうだ、納得していた。―― 恐らくは、あの破綻の時までは。
 家族を本気で愛おしいと思っていた。大貫は…尊敬していた。純粋に尊敬と、感謝と。大貫に対する感情はそれだけだと、ずっとそう思って来たのだ。だが今は。
 今でも大貫先輩が好きなんだろう? そう楢岡に言われて、何も反論できなかった。
 こう、されたかったんだろう? 凡ての行為がその言葉に繋がって、その凡てに感じた。否定が出来なかった。
 まだ、つい昨夜の事だ。体の奥に、どっしりと快感が残っている。この快感をくれたのが、誰なのか、その境目が分からない。楢岡なのか、……大貫なのか。
 これがただの快感なのか、感じたのは身体なのか、心なのか、その境界線が分からない。肉欲なのか、慕情なのか。分りたくもない。
 「啓輔」
 不意に頭上に降り注いだ声に、身体が強張った。声の方向を見上げ、灰色の双眸とぶつかって、反射的に目を反らす。混乱した。灰色の髪。紅い双眸と灰色の双眸。似て非なる要素が目の中でぶつかる。
 「鍋の方は用意出来たぞ、これ、持ってったら良いのか……?」
 「あ、うん、頼む。後そこの取り皿な。もうこれで終わりだから座っててくれ」
 冬馬が居間に戻るのを確かめてから自らの鼻に手をやる。鼻血が出ていないのを確かめてから頭を振る。全く、どうかしている。記憶の整理も反芻も、一人きりの時にやるが良いのだ。
 一度感じてしまった違和感は元には戻らない。冬馬に秋津の事を知らされた時と同じだ。知ってしまった事は忘れられない。この反応は非可逆だ。
 切り分けた野菜をもって居間に戻る。既にブツ切りの鳥腿と煮えにくい野菜に埋まっている鍋の中央に、葱や豆腐を落としこむ。途端に曇った眼鏡の向うで、冬馬が小さく笑った。
 「笑うなよ。眼鏡かけてると、これが意外に大変なんだぞ。寒い外から暖かい部屋に入った途端、レンズが曇って何も見えない。鍋の中身を見ようと、蓋開けた途端、何も見えない。インスタント焼きそばのお湯を捨てたって見えなくなる。あの一瞬は割と勝敗を分けるんだぞ」
 冬馬がひょいと眼鏡を取り、自らのシャツで綺麗に磨いて、長沢の鼻の上に落す。視界はクリアになった。
 「啓輔は可愛い顔をして居るのにな。ド近眼の眼鏡の所為で、大きな目が台無しだ」
 「はは。親父の顔が可愛いとか、殆ど有り得ない会話だろ。はいこれ、ポン酢と胡麻ね。好きな方で食って。さてと」
 いただきます。
 二人で唱和して箸を取る。そのタイミングがおかしくて長沢が笑うと、冬馬も笑う。傍目には仲の良い親子に見えるだろう。本当にそうなら良かったのに、と頭の隅で思う。息子だったら悩む事もなかった。奇妙な関係になる事も無かった。ただ、息子だったら。
 家族を失ったあの時に、一緒に失っていた存在なのだ。
 啓輔。口に白菜を放り入れたタイミングで名を呼ばれて顔を上げると、卓上コンロの湯気の向うから、灰色の双眸がこちらを見ていた。
 「お前は俺に嘘をついているだろ。一体何があったんだ?」
 どきり。
 胸郭の中で心臓が素直に撥ねた。動揺を気取られたくなくて、ゆっくりと口の中の物を咀嚼する。強過ぎるかと思ったポン酢の味が、口の中で掻き消えた。
 獣は状況の変化に敏感なものだ。長沢が持て余して居る価値観の揺らぎを、冬馬が感じぬ訳も無い。
 ゆっくりと飲み込む。口の中の物を。焦る思いを。
 「嘘、ねぇ。俺、言う事の半分は嘘だからなぁ。どれの事か良く分からんけど」
 これは事実だ。言葉の一つ一つに正誤のチェックを入れるのであれば、長沢の言葉は嘘ばかりだ。初詣が未だだから行こうと冬馬を誘ったが、初詣は今年二度目だし、お神酒もお節も既に口にして居る。だがそんな嘘は。真実よりもいずれも優しくて、ついても一向胸は痛まない。こんな嘘は、生活の潤滑油として誰もがつく罪の無い物だ。
 「正月一日、啓輔はここに居なかった」
 「ああそうだ。それ、すまなかったな。帰ったら野菜や果物が置いて有ってさ、可愛そうな事したと思ったよ。俺、31日からずっと玄之堂でお前の父さんの本、読んでたんだ。何と、単独で6冊も本を出してるんだぜ。
 他にもフォーラムの本とか有って、寄稿本とか有って、それを全部読んでたら年が明けてた。疲れて寝入っちまって、気付いたら夕方になってた。帰って来て連絡したけど、お前さんその時はもう"話"に取り掛かってたろ」
 鍋の中身をつつきながら、冬馬が頷く。長沢の説明に矛盾はないし、推測もその通りだ。小鉢を置いて、長沢はそっと息をついた。酒が欲しくなって来た。昨日はここに越乃寒梅が有った。今日有るのは屠蘇くらいだ。
 「で?あの刑事との旅行はどうだった」
 鍋を見ながら言う冬馬の声は、いつも以上にハスキーだ。ああ、知っていたのか、と思う。
 話した覚えは無いが、特別隠してもいないのだから、知って居ても不自然ではない。
 「うん、悪く無かったよ。兵庫、行った。羽和泉 基の故郷。さすが警察官は捜査が上手くて、お陰でお前のおばぁさんにあたる人にも会えた。昼飯をご馳走になって、色々話を聞いた。明るくて、穏やかで頑張り屋で、…物凄く素敵な女性だった。お前も何かあったら行くと良いや。えっと、店の名刺が…」
 「何があった、啓輔」
 名刺を見つけ、その表を良く見えるように置いて携帯で画像を撮る。そのまま冬馬の番号に画像を送りつけて携帯の蓋を閉じる。冬馬の腰のポケットで微かな振動音がしたが、彼は反応しなかった。
 「俺は啓輔が誰と付き合っても、何も言う権利はないし、言う気も無い。でも、あのシャツの血はただ事じゃない。お前は何もないと言うが嘘だ。一体何が有ったんだ、啓輔。あの血の量がお前の動揺の量なら、何も無い筈が無い。何が有ったのか教えてくれ」
 後悔する。全くどうかしていた。シャツの血を忘れていたのは大失態だった。恍けて誤魔化したが、気づいた時は冷や汗が出たのだ。思いもよらぬ僅かな時間で冬馬がやって来たから、隠す事が出来なかった。油断をしていた。あと十数分、冬馬の到着が遅ければ、完璧な用意が出来た筈だったのに。
 「別段、何も無いよ」
 「嘘だ」
 瞬時の否定。長沢は肩口に両手を持ち上げて見せた。
 「おいおい。何だよ。何か無きゃ駄目なのか?」
 「そうじゃない、下手な嘘を吐かれるのが嫌なだけだ。今日のお前の嘘はてんでなってない」
 かちん、と来た。
 ついこの間まで子供だった存在が何を言う。見え見えの嘘しかつけぬ癖に。強引に俺の生活に乗り込んで来た、野蛮人の癖に。下手な嘘だと、一体どこが。例えそれが嘘だとして。どうこう言われる筋合いか。
 「安心しろよ。楢岡くんはお前じゃない。乱暴なんてされてないよ」
 はっ、と笑った途端影が動いた。目の前に有った筈の顔が掻き消える。後ろから顎をつかまれて引き倒される。唐突に視界が天井になって長沢は息を呑む。小鉢をテーブルに置いた瞬間だったから、恐らくは冷静にタイミングを計って相手は攻撃を仕掛けたのだ。こんな経験を、かつて……した。
 視界の暗転。顎を掴まれて口を開けられ、熱い舌がねじ込まれる。全身が粟立った。
 「う、………うっ、……」
 相手の顎の下に腕を入れる、払い除けようともがくと、更に深く舌を入れられる。顎を押さえられているので、その舌に噛み付く事すら適わない。離せ、と言う意味で横腹を叩くと、その腕をねじり上げられた。呻き声が零れた。
 押さえ込まれる。動きも、言葉も、呼吸さえも。長沢の腕をねじ上げた掌が、ゆっくりと背中にまわる。背中から尻、そのもっと深い部分に這い寄られる。
 まだ24時間経っていない睦事が蘇る。幾度も求めて、身体を繋げた相手は楢岡だった。だが求めた相手は本当は誰だったのだ。
 
 あんたは今も"大貫先輩"が好きなんだろ?忘れられないんだろ?だから他の男を好きになんてなれっこない。―― そうだろ?
 
 跳ね除ける。やっと空いた隙間で身体をねじる。
 「っ、はなっ、せ冬馬っ、………離せっ」
 「逃げてみなよ」
 残虐な出会いの夜から僅か三ヶ月足らず。性急な接近だったかも知れぬ。性急な接近は、歪みを生じる物かも知れぬ。それでも。
 いつか馴染んだ長沢の身体は冬馬を受け入れていた。少なくとも、拒否などしなくなっていた。恋人ではないまでも、深くまで接触する事を許し、快感を共有出来るまでになっていた。それなのに。顎を掴んだ手を緩めずに引き寄せる。粟立つ長沢の全身が、今日は徹底的な拒否をする。
 冬馬をずっと許してくれていた身体が、心が。今日は本気で拒絶する。拒む。触るなと言う。唐突な、理由の知れぬ拒絶が、冬馬には裏切りにも思えた。
 服の隙間に手をねじり入れる。蹂躙する口の中で、長沢が悲鳴をあげた。
 力の差など、身をもってよく知って居る。青年がその気になれば、片腕で自分を殺す事など容易いのも、良く分っている。だが青年はそうしないと言った。全力で守ると、お前の嫌がる事はしないと。そう言ったから、それを信じた。
 最後の同志で、相棒で。そんな存在になろうと思った。青年は愛する女性と家庭を持ち、自分はその脇で、いつか静かに朽ちて行く。それが良いと思った。青年は若くて生命力に溢れ、これから枝を張り、花を咲かせる若木だ。自分は既に花も実も終わり、年輪を重ねるだけの木だ。それが相応しいと思ったのだ。
 表裏共に、サポートに回ろう。その為に青年の凡てを許そう。何処まで本気なのか分りかねる、過剰な愛情表現も。子供じみた行き過ぎも。そう思っていたのに。
 「嘘つきだな、啓輔は。いつもここに居るから帰って来いなんて、迎える気もない癖に」
 同志だから。支えると。いつでも迎えると言ったのは嘘じゃない。本気で信じたのに。だと言うのに。
 乱暴はしないと言ったのは嘘なのか?
 守ると言われた。任せておけと。守ってやると。なら報いたい。力の限り、出来得る事を凡てしたい。ちっぽけな能力で貧相な身体で。その人の凡てをフォローしてサポートして、追いかけて追いかけて。
 灰色の髪が視界に流れる。
 長沢の非力を充分知った上で押さえ込む。動けぬ身体の奥に手を這わせる。布を払い除け、肉を割り、身体の深みに指を押し入れる。吐き気がした。
 灰色の髪、ホワイトグレーの。グレーの。グレーの髪。蒼みがかった。…銀色の。そのままの方が綺麗なのに。
 眉間を熱い塊が駆け上る。
 「がふっ、」
 口を塞がれていた為に、溢れ出した奔流が青年の頬を叩いた。暖かい飛沫が目許に飛んで、慌てて顔を剥がす。途端に、塞がれていた声が零れ出た。
 「うううううう、はな、せっ。はなせぇっ」
 額関節を抑えていた指をずらす。頤を固定して、血が飛び散らぬようにしてから側に転がっていたティッシュを掴む。血は顎から、首の後ろに流れ落ちる所で冬馬が持ったティッシュに堰き止められる。血を拭う為に首に回した手だったのに、それにも長沢は拒絶反応をした。体をよじって避けようとする。抑えると、鼻血の所為で上手く出来ない呼吸が波を打った。
 「…き、先ぱ…っ!」
 動きを止める。
 戒めが無くなった事を感じた長沢が、慌てて冬馬の下から這い出す。不器用に、四つ足を付いて畳の上を移動する。まるで猫に押さえ込まれた鼠か何かのように、壁際まで飛びし去って、向き直る。肩口ががくがくと震えていた。
 手許から去った温もりが、三ヶ月余り前の時の様に、脅えた目でこちらを見ている。震えて居る。よく、分らなくなった。
 俺は今、何をしたのだ。何を求めていたのだ。何を聞いたのだ。俺が聞きたかったのは……
 「楽しいか」
 生理的なものか、感情的なものか、涙を貯めた瞳がこちらを見ていた。
 「俺を暴いて楽しいか冬馬」
 反射的に首を振る。違う。こんな表情を見たいのでは、ない。
 壁を背負った長沢が、更に下がろうと両腕を壁に這わせる、両脚を縮こめる。完全に捕食者に対した生贄の小動物だ。拒否しているのに、恐怖で縮こまって逃げられない。恐怖で。恐怖で?
 呼吸に喘いで、咳き込む。鼻血が咽喉に入ったのだろう、咳と一緒に飛沫が口の周りに飛び散った。震える声が呼吸に混じる。その声は、大したもんだ、と言った。
 「……凄いよ。お前さん、凄い成長っぷりだよ。大したもんだ。俺の動揺を感じて、俺が何か隠そうとしてると読み取って、それを俺に吐かせる手段もちゃんと踏んだ。もう、俺なんか要らないだろ」
 違う。違う。こんなのは。
 こんなのは、求めた状況じゃない。
 「お前さんの言う通りだよ。俺は嘘つきだ。俺の人生嘘だらけで、自分でも何が本当か分らなくなってる。自分の心さえ何が本当か分からない。俺が真実と思える物は、比沙子と瞳美を心から大事に思っていたと言う、それだけだ。それ以外は何が真実なのか、今の俺には分からない。
 大貫先輩を尊敬していたのかも、あの時何で逃げ出したのかも、お前を完全に拒まなかった理由も、今、こうしている自分の感情も」
 大きな瞳に溜まった涙は、零れる事無く乾いていく。荒い息の下で続けられる言葉に吸い取られていく。
 鼻から溢れ出る赤い雫が、ぽつぽつと胸許を穿つ。シャツの上に零れ落ちては、次の雫に押し出されて胸許に赤い軌跡を描き出す。表面張力と、重力が複雑な紋様を描き出す。同じだと思った。
 「俺は家族が大事だった。家族を精一杯愛していたつもりだった。男に心は動かない。そう思ってきた。信じてきた。それなのに。
 大貫先輩に抱いた念が尊敬でなく慕情だったら?敬愛でなく、下卑た欲望だったら?俺の凡ての感情は、間違っている事になるじゃないか。お前に感じて居る信頼だって……」
 「啓輔、俺は!」
 「近寄るな!」
 同じだ。
 長沢が脱ぎ捨てたシャツの、胸に散った紋様と、目の前で完成されていく紋様は、同じだ。
 恐らくは昨夜、恐らくはあの刑事が、長沢にしたと同じ事を、その二番煎じを、自分はしているのだ。
 「……得体が知れない。そうだな、俺は嘘つきだよ。自分自身が怪しいから、お前に尤もらしい事をして、尤もらしい事を言って、それで安心したかっただけだ。だったら」
 怖くなる。どうしようもなく、怖くなった。
 長沢が悩んで居るのは分った。その動揺も嘘ではないし、何よりその血は嘘ではない。長沢が繊細で、冬馬では考えつかぬ細部で煩悶する事も、傷つく事も良く知っている。自分の感情など大雑把にしか捉えぬ冬馬にとって、長沢の迷い込んだ苦悩はどうでも良い事だ。過去の事などどうでも良い。長沢が大貫に抱いた感情が尊敬でも慕情でも、敬愛でも欲望でも、どれでも構わない。むしろそれで、今青年に抱いている物が、庇護欲から肉欲に変るのであれば、それはむしろ喜ばしい。だが。
 怖かった。混乱した長沢が全く逆のものを選ばぬかと。凡てご破算にする為に、「冬馬以外のもの」と言う括りで事を運ばぬかと。同志と相棒を尊重する為に、冬馬と言う個性と要素を箱に入れて眠らせはしないかと。
 違う。求めて居るのはそんな物ではない。冬馬は長沢が欲しいのだ。長沢と共に在りたいのだ。傷つくのも汚れるのも一向に構わない。彼を守って死ぬのも、共に死ぬのも本望だ。清潔な感情も関係も欲しくない。そんな物には価値は無い。汚くて良い、傷ついていて良い、その存在自体が欲しいのだ。
 「啓輔、啓輔!頼む聞いてくれ。俺にはお前が要る。何度だって言う。お前が要る。俺には必要なんだ、どうしても。
 汚い手を使っても何でも、お前が欲しいのは俺の方だ。汚いのは俺だ。お前にバチなんて当たらない、咎が有るのは俺だ。お前がどんなに迷っても俺は…」
 「もう良い冬馬。もう。俺の感情で汚すのは、お前じゃない。もうお…」
 ……しよう。
 最後の一文節は、冬馬の掌の中に消えた。
 静まり返った部屋の中で、卓上コンロの上の鍋が、ぐつぐつ、くつくつと低い独り言を響かせる。湯気で眼鏡が曇った長沢を、冬馬は笑った。だが、眼鏡は曇るのだ。体温でも、涙でも。
 瞬時に側まで飛び寄った身体が、冷たい手を口に当てていた。塞ぐというよりは、乗せると言うほどの軽さで、唇の動きを封じ込める。長沢は何も反応も出来なかった。
 眼鏡が曇る。冷たい掌と、長沢の体温と涙の狭間で。
 その腕の持ち主を見る。曇った眼鏡越しに、しなやかなその姿を見て、表情に言葉を呑む。息を呑む。身体から力が抜けた。
 青年の顔に浮かんでいたのは、失望とも、怒りとも、後悔とも付かぬ、苦い表情だったからだ。
 今まで、この青年の様々な表情を見て来た。初めの頃は殆ど無表情で、喜怒哀楽がかろうじて分る程度のものだった。整った顔は陰気で尖っていて、無愛想だった。それでもその剥き出しの警戒色が生物を感じさせて、本能を失くした日本人よりは余程好ましいと思ったものだ。
 手痛い接近をして、徐々に異星人と語り合う内、表情は柔らかくなった。表情の種類が増えて、逡巡したり、拗ねたり不貞腐れたり、甘えたり。直情的かと思うと頑なで、子供のように純粋でも有った。喜怒哀楽に割り切れぬ、幾つもの感情と表情に触れて来た。――…が。
 今の表情は初めて見る。
 「聞きたくないっ」
 驚く。昨夜の自分を見た気がした。
 言われる事が凡て怖くて、凡て自分を傷つける凶器のように思えた。凡ての言葉が怖かった。半開きの口を閉じる。冬馬が短い呼吸をした。
 「……今は、聞きたくない。……今は、言わないでくれ、啓輔。頼む」
 そっと、手が下ろされる。
 長沢も、壁から離れる。壁に縋っていた腕も、青年を避けるように縮めていた脚も、元に戻す。一気にのしかかって来た恐慌は去っていた。青年に感じた恐怖も怒りも、瞬時にすっかり覚めていた。
 「何で、こうなるんだ。俺は、本当にお前が好きなのに。何よりお前が大事なのに。それだけなのに」
 青年のように素直に自らの感情を認められたらどんなにか良い。今は、そう思う。つい二日前まで自らが信じていた感情に疑念を抱いた今、初めてそう思う。
 男に恋などしないから、身体の交わりは単純な快楽で、そこに感情は存在しない。そう思っていたから青年とも床を共に出来た。未来の無い間柄だから、将来の展望などを考えずに済む間柄だから、束の間の情事に没頭出来たのだ。かつての奔放な冬馬の事を、怒る権利など自分には無い。
 俺は、将来の責任などを凡てネグって、現在を楽しんでいただけじゃないか。
 溜息をつく。昂った感情は、後悔に変る。青年の頬を右手で辿ると、極自然な動作で両手がそれを包み込んだ。
 「冬馬。ひとつだけ、信じてくれ。俺、ここに居る。いつだって、迎え入れる。それだけは変らない。……嘘じゃない」
 青年の両手が、頬に置かれた長沢の掌を抱き締める。言葉も視線も、交わせぬまま、温もりだけが混じりあう。温もりだけが繋がった。
 
 行く前に、一言声かけてってくれな。長沢にそう言われて部屋を出た。
 戸口まで送ってくれたのが救いだが、互いに視線を合わせる事が出来なかった。暗闇の中で、戸口に佇む細い姿を振り返る。長沢の視力では確実に見えないであろう距離から、その姿を瞼に刻み込む。
 誰よりも愛おしい俺の同志。お前さえあれば、他に欲しい物など思いつかないのに。お前にはそれが分からない。
 「長沢、啓輔」
 ゆっくりとその名を口にする。
 「さようなら、啓輔」
 もしかしたら、ずっと。
 

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