□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 
□ 交替 □

 
 三が日も終わり、街は新たに再起動する。
 最近では元旦から営業と言う店舗も業種も増え、年が変わる事で再起動と言う気分は大分減ってしまった。だがSOMETHING CAFE店主にとって、今年ほど厳重に再起動をかけた年は、近年では全く無い。
 明け行く街を見晴るかして深呼吸する。
 冷え切った夜気が、熱いままの目と頭に心地良い。冷たい風が、胸の中の不安と淀みを掻き出して押し流してくれる。十数年も経って。十年も経って今更。深呼吸をする。
 もう、10…13年にもなるのか。銀行から逃げ出して、この古びた喫茶店に逃げ込んでから。
 思えば穏やかな時だった。日々の小さな騒動はあったけれど、それさえも酷く優しかった。
 八年余り前に前店主が亡くなってからも、彼が残した形見の店と客を守る長沢に月日は優しく接してくれた。本質も、不甲斐なさも何も変らなかったが、ここに居る男は、昔の長沢 啓輔では無かった。どこからかともなくやって来た、新しいSOMETHING CAFEの店主。店主兼マスターの長沢 啓輔。何の力も後ろ盾も持たぬ、ただの敗者。逃亡者。それが有り難かった。
 誰も過去を暴き立てる者はいない。隠す必要もない。誰も知らぬ、誰も気にせぬ物は、無いのと同じだからだ。真実と言う大義名分の下に、追及する者も無ければ、悪戯に掘り返す者も居ない。また、例えば居たとしても。
 暴かれるのは社会的な「罪」でしか無かった筈だ。罪ならば"法規"が裁く。長沢はそれに従えば良いだけだ。なのに。
 ご破算で願いましては。
 思い違いだ。あんたが思い込んで居る世界は全く違う。あんたの感情は全部嘘っぱちだ。よくご覧よ、ほら。
 深呼吸をする。
 13年も経ってから、まさかこんな迷路に一人放りこまれるとは思わなかった。迷路の名は、長沢 啓輔と言う。
 他人に言われて、自らの記憶を反芻する。その中の感情を均して、反芻する。全く滑稽だ。滑稽極まりない。
 人間の脳と言うのは、自分に甘く出来て居るのだ。自分に直接の危害を及ぼさぬ外的状況は、理性的に合理的に判断できても、自らの致命傷になり得る内的状況はまるで出鱈目だ。合理性などカケラも無い。幾つもの矛盾を強引に押し通して、無理矢理に導き出した解に次の解を重ねていく。組み上がったいびつな構造が、いつまでも保つ訳も無いのに。
 逃げて、13年。暴かれて、まだ三日目。胸の中は、片付けられない想いの部品で散らかり放題だ。こんなに引き出しも戸棚も有るのに、どれもこれも満杯で、これ以上入らない。ガラクタを後生大事に仕舞い込んで、大切なものは床に転がったままだ。少しも片付かない。
 いつかこれらの凡てを、自分で認める日が来るだろう。いや、本当は。
 もう充分認めて居るのだ。分かって居るのだ。気付いたら、戻れない。非可逆なのが人生だ。
 通りの門からZOCCAのCUBEが遠慮がちに、パン、とクラクションを鳴らした。明けやらぬ冬の五時の街を、見慣れたボックスが近付いて来る。裏口の掃除をしていた長沢は、そのクラクションに手を振った。
 「あっけましておめでとう御座います〜!今年もどうぞよろしくお願いします」
 CUBEから降りて来る運転手に腰を折る。髪が落ちるのを防ぐ為に巻きつけたバンダナを外して礼をすると、運転手も同様に被っていたキャップを脱いで腰を折った。
 手作りパンのZOCCA。付き合いは先代の時からだから、一体何年になるのか。長沢が持って居る箒に気付いて、パンのケージを無言で裏口の中の棚まで運び入れてくれる。長沢は好意に甘えて運んで貰い、掃除を手早く済ませて駆け寄る。人のいい笑顔がお疲れ、と笑った。
 「すんません。有り難う、助かりました、庄さん」
 「そりゃ良いんだけどさ。なぁ、何が有ったのよ、酒井先生」
 「…は? 酒井…先生?」
 新年しょっぱなの話題は、大概は景気の良し悪しや売れ線の商品関連の話と決まって居る。
 何の商品がどう売れたから、今年はここに力を入れよう。そんな年頭の誓いを立てて、互いに短いエールを送り合うのだ。その後に少しの愚痴とぼやき。エール交換と愚痴セット。それが常だ。それがレギュラーの年頭行事で、何年来もずっと変らないのだ。
 年の始まりに、いきなり客の噂話はそぐわない。しかもそれが、いい噂で無いのなら尚更、縁起が悪いと嫌うものだ。話しぶりでは決して良いとは思えない話を、ZOCCA店主が切り出した事に驚く。すると、先方は急に声を潜めた。
 「何だよ、聞いてないのかよ。啓ちゃんならもう絶対聞いてると思ったからさ。種明かしして貰うつもりで来たのに。分らずじまいか〜〜」
 「え…?っていやいや。何も知らないよ、一体何の事?……あぁ。そう言や留守電に酒井先生からメッセージ入ってたなぁ。でも、ただの年頭の挨拶だったよ。何か有ったんだ。だったら…俺から聞いた方が良いのかな?」
 ZOCCA店主が言うには、酒井医師の家庭は昨年末頃からずっとバタバタしていて、今年初めに何かが起きたらしい、との事だ。
 その角で長沢を探しているが、庄ちゃん知らない?と聞かれたのが年が明けて早々で、旅行行くとか言ってたぞ、とだけ伝えたと言う。細かい事情は聞いていないが、二日の夕方頃から、ZOCCAにも何度も電話が有ったと言うから、ただ事ではないだろう。何かが起きているのは確かなようだが、長沢に心当たりは無かった。
 酒井医師と言えば爛天堂大学病院の循環器科の主任で、SOMETHING CAFEの常連である。冬馬に乱暴された際は、言葉に尽くせぬ程世話になったし、それだけではない。元を辿ればこの喫茶店に居つく事になった最初の事件でも、救急で対応してくれたのは、この酒井医師だったのだ。初めから、浅からぬ因縁がある。
 何か起きたとなれば、微力ながらでも協力すべきだし、力になりたい。
 「そうか―…分った。有り難う、取り敢えず、店の準備だけしたら電話してみます。訳が分ったら報告しますよ。有り難うな、庄さん」
 CUBEを見送り、パンのケージを抱いてSOMETHING CAFEに入る。気がかりはこれで三つになった。
 
 一つ目の気がかりは、最大にして最難関の、冬馬問題。である。
 昨夜、最悪に気まずい別れ方をしてから後悔した。
 失敗した。とんでもなくしくじった。そうしみじみ思った。
 青年の八方破れは良く分って居る筈だったのに。よく理解していた筈の自分が、それを許せなかった。自分に自信が無いから、受け止める余裕がまるで無かったのだ。だから、叩き付けられた言葉に意固地になって、言わなくても良い事を言い、恐らくはまた、"乙女心"を傷つけたのは必至である。
 傷つける気は全く無かったのだ。傷付いていたのはむしろ長沢で、痛む傷に無遠慮に触られたから過剰に反応してしまっただけだ。だが、そんな長沢の個人的事情を慮れと言われても、それは冬馬には酷だ。長沢が余裕が無い以上に、冬馬にそんな物は無い。
 悩みに悩んで電話をすると、留守番電話サービスに繋がった。逡巡している間に一回目のブザーが鳴ってしまい、改めてかけ直した。
 「冬馬。長沢です。
 さっき、バタバタして居る間に一回目が切れました。なのでこれは二回目です。言いたい事が纏まらないので、一言だけ言っておきます。
 さっきは御免。本当に、すまなかった。今俺、ちょっと駄目なんだ。お前の所為じゃなく、昔の事で自信をなくしてる――と言うか元から無いんだが、そんなトコです。"話"に就く前に一度連絡くれ。」
 回線を切って、返答を待ったが来なかった。どうにも気がかりが拭えず、お陰で今日は少々寝不足である。
 これは、妙にこじれてしまう前に、早急に解決しないとマズイだろう。今日にでも、業務終了後に冬馬の許を尋ねよう。合鍵も貰った事だし、彼の家に行こう。長沢はそう考えていた。
 二つ目は、楢岡との諸問題。
 成り行きで「ああ言う事」になったものの、あれ以来、彼に対する感覚が変わったのは確かなのだ。一度じっくり話し合わねばならないと思う一方、今会うのは少々怖い。
 急所を握って攻めて来る相手になら、対抗する方法は幾つか有る。だが、「急所は掴みました。しっかり握ったので放します。握って御免なさい、許してくれますか」と言う相手には、どう対処すれば良いのか、人間そうそう上手い対処法が浮かぶものではない。
 人とのいざこざの対処など、行き着く所は二つに一つ。許せないと決裂するか、許しますと和解するか。その二つに一つのどちらかなのだ。
 決裂の方は単純だ。ジ・エンド。これっきり。これは、SOMETHING CAFEの十数年来の常連を失う事になり、もしかしたら彼に連なる客も同時に失う事になりかねないので、店としては少々痛い。だが、長沢個人としては、以後悩む事も無く到って単純だ。片や和解の方は。
 店には僅かな損失も無いが、長沢個人には非常に複雑。最大限取り繕って、例えば無かった事にしたとしても、どう言う顔をして付き合えば良いのか、皆目見当がつかない。第一。
 性質が悪い事に、快感が身体の奥底に残ったまま、一向、去ってくれないのだ。これにはかなり参っている。
 そして三つ目。酒井医師問題。前二者に比べれば、何と可愛らしい代物かと思うが、これも蓋を開けてみなければどうなるか分からない。
 モップの上に顎を乗せて溜息をつく。
 御破算で願いましては。
 日常生活はそうは行かない。
 
 店の中の掃除が済んだ頃、従業員がやって来た。近頃ではSOMETHING CAFEに正式に定住する事を考え始めた正規店員の北村が、大きな声で年頭の挨拶と誓いの言葉を済ませて、厨房に消えて行く。今年の誓いは、「誰にでも愛される喫茶店」だそうである。
 最近では北村が張り切っていて、長沢に変って厨房を仕切る事も増えた。モーニングメニューも微妙に変り、今日のサンドイッチはガーリックスパムサンド。スパム自体は脂っこいが、ケッパーとオニオンであっさりと朝向きで、なかなか出も良い。考案者は当の北村だ。
 開店前の準備を済ませて一息つくと、時計は6時47分を指していた。
 開店まであと13分。長沢は受話器を取った。一日から探していたと言うなら、一度は掛けておくべきだろう。
 酒井医師はSAMTHING CAFEの常連では有るものの、住居は品川だ。生活圏はこちらでは無いので、ZOCCAにわざわざパンを買いに行くと言う事は余り無い。店でZOCCA店長と話したりした事は何度も有るし、顔見知りでは有る。が、長沢と渡りを付けたくてそちらに迄連絡したとなると、かなり必死だ。
 となれば、連絡はこちらも早い内が良さそうだ。
 受話器の中でコール音が鳴り響く。早朝なので少々気になる。3コールして出ない場合は、まだ寝て居るかも知れぬからそこまでにしよう。そう決めて音を数え始めたが、一、と数え切れぬ内に受話器が持ち上げられた。
 はい。掠れた声が言う。
 「あ、もしもし。酒井先生の御宅ですか。あ、酒井先生?すみません、寝ておられましたか? SOMETHING CAFEの長沢ですー」
 電話の向こうは沈黙していた。確かにそこに居る人の気配が固まって居る。まだ、電話するには早い時間だったか。
 「あ、すみません。かけ直した方がよろしいですかね? じゃ、取り敢えずご挨拶だけ。明けましておめでとう御座います。作年中は本当にお世話になりました。今年はお手数かけないようにしますので、是非よろしくお願いしま」
 『マスター、話が有る、ちょっと時間作ってくれ!』
 言葉の途中で、耳許で吼えるような声に遮られる。唐突な音声に息を呑む僅かの間に、話は急速に転がった。
 電話では話せないので、そっちに行く。酒井医師の声が言う。
 モーニングは7時から9時だったよな。じゃ、終わりの方、9時前くらいに行けば話せるよな。うん。じゃ、8時50分くらいにそっちに着く。頼むマスター。知恵貸してくれ。
 長沢が言ったのは、精々が、うん、はい、と言った肯定の相槌だけで、会話は一方的に駆け抜けて終わった。必ず約束事は復唱する長沢が、時間を口に出した所で電話は唐突に叩き切られ、後は無表情な電子音だけが彼の言葉に応えていた。
 全く。訳が分からない。日頃は他人に気を遣う、穏やかな酒井医師の手前勝手な行動に面食らう。一体、どうしたのだ。
 電話では話せぬ事とは何だ。大学病院の医師が、一介の喫茶店マスターに知恵を貸りねばならぬ事とは何だ。会話の後で疑問が増殖するとはどう言う事だ。受話器を睨みつけて考える。厨房から北村が顔を出した。
 「電話、終わったんでしょ、謎は解けましたかマスター?何だったんですか。酒井先生と話してたんでしょ?」
 唸りながら受話器を置く。開店まで、まだ時間は7〜8分程有る。会話に要した時間は5分足らずだったと言う事らしい。
 「……そうなんだけど。謎は……九時頃に教えに来てくれるらしいよ」
 「? じゃ、今の電話は何の為ですか?」
 さあ? 呟いて席を立つ。シャッターの外に、街の音が近付いている。長沢は腰を上げた。
 少々早いが、シャッターを開けるとしよう。北村が厨房でOKサインを出した。
 
 モーニングタイムのラッシュは計ったように8時50分に引く。フレックス制が増えたとは言え、9時に開始する事業は多く、殆どの客がそれをめざして移動するからだ。つまり逆に言えば、9時ギリギリに職場に滑り込めば、仕事の準備は完了だと考える人間が多いと言う事である。
 長沢は思う。外食産業に身を置く人間としては、時間ギリギリまで客がいてくれるのは有り難い。だが、同時に雇用者と言う立場の人間として考えると、時間ギリギリに職場に滑り込んで来る人間は実に、迷惑だ。息を切らしながらテーブルについて、接客も計算も調査も報告もあった物ではない。
 ラッシュが去る。同時に酒井医師が現れた。
 「お早う御座います、先生。丁度空いた所ですよ」
 「いや、マスター。今日は、奥で」
 酒井医師の指定席は、カウンターの真ん中より一つ北東側。壁際に寄った所である。いつもそこで奥田早紀にモーニングやランチを出して貰って寛いでいる。だが今日は様子が違った。
 「珈琲、どうなさいます?」
 「ああ、じゃアメリカーノ頼む。ミルクたっぷりで」
 一番大きなカップになみなみとアメリカーノとホットミルクを注いでトレイに二つ置く。酒井医師のトラブルは、どうやら小さくは無いらしい。乱れた髪と、何日間か剃られていない髭と、憔悴した顔色は今まで見た事がない。聞く前に覚悟する。どうやらこれは大物だ。ただ事ではない。珈琲シュガーと共にカップを差し出す。
 「先生、食べられてますか?もし食べられるなら、モーニング用意しますけど?」
 いや、いい。答える代わりに首を振る。聞いてくれ。それが酒井医師が席に着いて初めて言った言葉だった。
 「マスター。顔が広いから知ってるよな。頼む。僕に殉徒総会の幹部を紹介してくれ」
 「は?」
 「まだ、竹下珈琲だった頃、そう言う事有ったじゃないか。"元祖"が公正党の何とか言うのとモメてさ、嫌がらせが続いたろ。よく憶えてるよ。それを収めたの、マスターだって聞いたぞ。総会を動かせる程の大幹部と知り合いなんだろ、そいつ紹介してくれ」
 何と返答して良いか分らなかった。酒井医師が言う事は強ち間違いではない。ただ、正しいかと言うとそれは微妙だ。
 酒井医師の指す事件は、1999年に起きた、ちょいとした揉め事の事である。
 長沢がここに居ついて二年程たった年のこと。日本ではバブル崩壊後の最悪の経済状況の中、数々の銀行が倒れ、日本銀行では無担保コール翌日物金利を史上最低の0.15%にまで下げる政策をとった年だ。当時の日銀総裁が「ゼロでも良い」と発言した事から、後々これが「0金利政策」と呼ばれる事となる。
 政治的にも自自連立に初めて公正党が加わり、自自公連立政権になると言う転換の年であった。本来保守派で有る筈の自明党が、大きく左に舵をとるきっかけとなったのがこの年なのだ。
 以降自明党は、生き残る為には政治的主張が全く逆の社会党とでも平気で連立を組む政党となって行く。そこには最早、保守と言われる政党は無く、ただ継続を旨とする、「ノンポリの政党」が残っただけだ。
 丁度その年、この猿楽町界隈にも公正党の勢力拡大運動があった。与党の一角となった公正党は、あちこちに支部を置き、この界隈にもその手を広げたのだ。千代田支部は隼町界隈に既に有り、その出張所代わりに「しごとセンター」なる物を神保町に設けた。名目上は職業安定所になっていたが、その実、殉徒総会の集会所兼公正党のアンテナスペースであり、これに"元祖"こと、元祖マスター、当時の竹下珈琲店主、竹下裄直が腹を立てたのだ。
 店主は細かい事に拘る男ではなかったから、殉徒総会にも公正党にも興味は全く無く、故にそれに対する知識も無かった。即ちそれは、相手の組織の大きさも権力も関係ない、俺は俺のやりたいようにやると言う主張である。
 殉徒総会員が店に来るのは全く構わない。多少大声で、妙な会話をしているのも客の自由だ。奇妙な歌も好きにすればいい。だが。
 他の客への入会の勧誘や、ポスターの押し付けは、駄目だ。勧誘をするなと幾度と無く注意したのにやめず、連日、ポスターを勝手に貼って行く。何度断っても、何度剥がしても一向にやめない。これにはとうとう店主が怒った。訪ねてくる会員及び党員を、尽く店の外に蹴り出した。二度と来るなと塩を撒いた。
 すると翌日、倍の人数が竹下珈琲を訪ねてきた。竹下はその人間を引き摺って、"しごとセンター"に殴り込みに行った。これで騒ぎは大きくなり、とうとう警察沙汰となり、大きな揉め事を生む結果となってしまったのだ。
 確かにこの騒動を収めるのに、長沢は公正党と殉徒総会の支部に連日通った。かなりの討論も怒鳴りあいもした。それを経て知り合いも出来た。意気投合した者さえ居る。だがそれは。
 もう十年も前の事で、以降連絡をとって居るのは僅かな人数で、「幹部と知り合い」だの、「長沢が纏めた」だのと言うのは過大評価だ。
 「いやそりゃ、知り合いは、いますよ。揉めたりしない為に繋ぎとってる人もいます。でもそれは、総会自体を動かすとかそんなのは絶対に不可能……」
 「それでも良いから、繋ぎとってくれ。今から直ぐに会いたいんだ」
 ばん、と机が悲鳴を上げる。アメリカンの大きなカップが震える。長沢は驚いた。酒井医師のこんな物言いは初めて聞く。
 「ちょ、ちょっ。まって下さいよ酒井先生。まずはちょっと落ち着いて、俺に状況を教えて下さい」
 「状況も何も無い。兎に角会わせてくれ。僕は会って言ってやらなきゃ気が済まない。いや、気なんかすまないけど」
 「だから先生、話を」
 「話をしたいんだよ、殉徒総会の幹部と!」
 そう言う事か。
 寝不足の所為で血走った目を見つめる。ぐいと正面から挑むと、言い募る口を閉じる。着替えていないと分る、汗の匂いが鼻腔をくすぐる。凡て分った気がした。
 「酒井先生。
 康太君ですか。それとも美也ちゃん。まさか奥さんではありませんよね」
 はっ。
 大げさとも思える仕種で呼吸が飲み込まれる。医師が長沢を睨みつけたまま小太りの作り物になる。長沢は向かいに座る男の肩に、右手を軽く叩きつけた。相手がその衝撃にピクリと反応するのを確かめて腕をさする。
 医師は深々と俯いた。
 「慌てないで先生。まずは一杯呑んで、落ち着いてゆっくり聞かせて下さい。仰る通り殉徒総会なら、先生より俺のが詳しい。少しはお力になれますよ。二人で考えればきっといい知恵も湧きますよ」
 言われる通り、カップに口をつける。大きなカップの半分程を一気に飲んでから、医師は再び俯いた。呼吸の隙間に、すまない、と呟く。
 長沢はゆっくりと首を振った。
 なかなかどうして。三つの問題はそれぞれに大物だ。
 だが、どれからも逃げられない。逃げてはならない気が、その時の長沢にはしていた。
 

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