□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 つまりはそう言う事だ。
 殉徒総会がらみで、酒井医師の家庭に何かが起きている。そしてそれは彼の家族の誰かを中心に起きている。
 日頃温和で穏やかな酒井医師が、これ程取り乱すとしたら、その変化は想像に難くない。カルト宗教団体にありがちの。
 信心詐欺、お布施等の金銭トラブル、文書変更、偽造。果ては拉致監禁、殺害まで。そうした問題だ。
 しかし、疑問点があった。
 殉徒総会は巧みだ。一般に広く浸透する事を旨とし、初期の10年は一切陽の当たる所にしゃしゃり出る事をしなかった。忍従の10年を経、彼らが大っぴらに動き出したのは信者数が200万を越えてからである。
 出家制度を嫌い、殆どの信者を在家のまま扱った。家族から苦情が出ないよう、家族ぐるみの信仰を強力に求めた。事が大きくならぬように、一つの苦情には集団で接した。結果、信者数を700万人へと広げ、現在に至っている。
 つまり、かつての「オウム真理教」とは違うのだ。
 オウム真理教と言うカルト宗教団体があった。若年層を中心に強力な支持を集めたそれは原始仏教、ヨガを土台とし、厳しい修行と現世からの離脱を謳った宗教だった。
 信者の目標は解脱であり、それは厳しい修行を経て叶う物だった為、多くの信者が個々で決心して出家し、道場やサティアンと呼ばれる施設に籠った。その為、子や親を奪われた家族から非常な反発を食らったのだ。
 教祖自らがオウムと言う王国を作り上げ、その国の王として教祖が君臨し、様々な「救い」を行なった。
 信者は宇宙からの電波を遮断するという奇妙なヘッドギアを被り、コスモクリーナーと言う名の空気清浄機で空中の毒ガスを取り除き、最終的には自らの教団に属せぬ愚者達を浄化しようと、サリンによるテロまでをも起こした。
 これらの凡てが人々の耳目を集め、最終的には崩壊へと繋がったのだ。
 宗教の排他主義と他罰的性質は宿命とも言えるが、それが化学物質テロと言う形をとったのは史上初であり、治安が良い事で有名な日本は初の宗教ガステロの舞台の国という不名誉な冠を頂いたこ事になる。
 破滅のきっかけこそテロリズムだったが、オウムが破滅へと至った原因は何もそれだけではない。前述の通り、オウムは若年層を中心に多くの人々の身柄を拘束した。中には死体となって帰って来た者もある。金銭トラブル、誘拐、拉致、監禁、拷問、殺人。それら凡てが家族の反発を招き、人権弁護士、メディア、警察などが動いたのは、むしろ当然であったのだ。
 殉徒総会はそこが違う。長沢はそっと溜息をついた。そこだ。そこが非常に巧みで上手いのだ。
 信者を一所に集める出家方式は、信者同志の結束は強まるが、実は非常に非合理で非生産的だ。
 何と言っても出家方式は経済に繋がらない。個人を閉じ込め、それぞれの経済的活動を無にしてしまう。それどころか、敷地と出家信者を生活的にバックアップする必要が有るため、持ち出しになりかねない。信者は増えても、教団は潤わない。周囲の警戒感を煽って活動を制限させる事となり、経済的にもマイナスとなってしまう。
 儲けにならぬ物など、殉徒総会は好まない。故に、出家方式は使わぬのだ。
 凡ての信者に自由な生活を与える事で経済活動を行なわせ、徹底的に管理する事で、その貯蓄や生活費までをも吸い上げる。在家方式の方が、遥かに利点が多い。
 ただし、それには骨が要る。大衆を司るのはシステムだ。
 信者を青年部、婦人部、壮年部等に分け、各部内の連絡を強固にし、信者達を互いに監視させて競わせる。頻繁に集会を行い、義務感を植え付けて活動に従事させ、統制する。財務に協力すれば功徳となり、必ずや幸せが訪れると信じ込ませる。
 一方で、疑問を感じて退会すると申し出るものには、"部"を越えた大勢の人間が説得に当たる。退会を諦めさせれば良し、諦めなかった場合には"報い"が注がれる。報いの種類は無限で、些細なものから深刻な物まで広きに渡り、それは退会した者だけに与えられるとは限らない。
 これらの教義は、凡て信者を管理し教義と教団に縛り付ける呪縛となる。呪縛は即ち、殉徒総会システムであり、殉徒総会プログラムの一端だ。
 結果、信者は競って信者を増やす事になる。まずは親類縁者から説得する為に、個人ではなく芋づる式にカップル単位、家族単位の入信が増えて行く。家族は子を生み育て、次世代的にも信者を増やして行くのだ。
 信者も財務も増える合理的で冷徹なやり方は、ひとつの完成されたビジネスモデルであり、これが元々は日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)を基とする宗派と言うのだから恐れ入る。
 太り肉の身体を丸めて、酒井医師は俯いたまま動かなかった。呑気な笑顔が似合う穏やかな男なのに、今は自信を無くして背を丸め、しかも酷く怒って居るのだ。
 長沢は溜息を吐いた。気持ちは分かる。巣の中から一羽の子供を咥え去られた親鳥の戸惑い、悲しみ、怒りは想像に難くない。丸くなった肩に手を下ろし、呼吸のリズムでそっと摩った。
 「酒井先生。まず一つだけ。貴方の所為じゃありません。宗教だなどと思うから、子供を苦しめていたのかと、自分の所為かと自分を責めたくなるでしょう。でも、全く違います。
 俺も一度やりあったから分りますが、あれは企業団体だ。人の頭を金額で数える類の営利団体です。金に汚い特定の団体ですよ。警視庁刑事部四課辺りで取り締まられる類のね。今はそれが政治もやっている。
 貴方の所為じゃない。犯罪に巻き込まれたのは本人。そして助けられるのは、貴方だけだ。肉親で、心からその人の幸せを願う貴方だけですよ酒井先生」
 ごくり、と無精髭に包まれた咽喉許が動く。俯いていた目が持ち上がった。
 「……也だ。美也だよ、マスター」
 「美也ちゃん…?」
 幾度と無くSOMETHING CAFEに来てくれた、酒井医師の愛娘。長沢の娘より3歳下だと聞いたから、現在19歳になったばかりだろう。
 顔も体型も頭の中身も、性格も父親似。そう言われる事が何より嫌だと、こいつ言うんだぜ。
 彼女を前に、酒井医師は嬉しそうにそう言っていた。確かに二人並んだ姿は、誰の目にも親子と分る程に良く似ている。頭の中身も父親似と言うのなら、国立大の医学部に簡単に入れる頭脳の持ち主なのだから、実に結構だ。頭が良くて健康な若い女性は国の宝である。将来の良妻賢母。男にとっては何より得難い存在ではないか。
 ブサイクと父親が愛着を込めて言うのを、長沢は完全に否定した。
 美也ちゃんの笑顔は本当に可愛い。全く、お父さんは目が無くて困る。なぁ、美也ちゃん。
 確かに父親譲りの丸くて低めの鼻や、全体的に丸いつくりは今風では無いだろう。しかし、優しい心根が良く外見に表れた、栗鼠のような目は充分魅力的だったし、一つ一つの仕種が実に素直で可愛らしかったのだ。長沢が父親の目線になっていたのを差っ引いても、充分「魅力的な」「いい子」である事に間違いは無かった。
 あの子が。酒井医師のあの時の笑顔と、現在の苦渋の表情が重なる。心情は理解出来て余りあった。
 「美也を、持って行かれた。もう三日、帰って来てない。
 今までこんな事は一度も無かったんだ。マスターも知ってる通り、甘ったれで臆病な娘なんだよ。垢抜けないし。帝都大入ってヒイヒイ言いながら通ってたんだ。なのに、後期に入ってサークルの合宿だとかに行ってから、ずっと様子が変なんだ。なぁマスター、どうしたら良い。頼む、知恵貸してくれ」
 腕を組んで俯く。癖が出て髭を悪戯する。大きく深呼吸した所で、戸口のベルがころころと鳴った。
 「あれ?もしかして休憩時間?」
 聞き覚えの無い声に顔を上げると、片手に大きなビジネスバックを抱えた男がドアからこちらを覗き込んでいた。
 すかさず北村が出て行って詫びる。長沢も慌てて席を立った。
 午前9−11時の休憩時間は、いつもなら戸口に準備中の札を立て、入り口の扉は閉めておく。だが今日は、酒井医師がイレギュラーで居た為に、長沢は錠を下ろしていない。北村も気付かずに放置した為に、客が扉を開けてしまったのだ。完璧に店側のミスである。
 普段なら、こちらのミスで客を追い返す事は無いのだが、今回は仕方なく、ひたすら頭を下げる。
 「すみません。ちゃんと準備中の看板にしたつもりだったんですが。懲りずにまたいらして下さい」
 「ああ、良いよ良いよ。込み入った話してるみたいだし。9-11時以外はやってんのね。20時まで?はいはい」
 サラリーマン風の男は苦笑しながら、構わないと言う風に手を振り、踵を返して御茶ノ水駅方向に去って行く。その後ろ姿に北村と二人でもう一度腰を折る。そうしてから二人で溜息をついた。
 「すみません、マスター」
 「いやいや、俺も気付いてなかった。失敗したねぇ」
 SOMETHING CAFEのタイムスケジュールを知らないのだから常連では有りえない。顔に憶えも無いから、間違いなく一見客である。最初がこれでは二度と来ないだろう。二人で苦笑し合ってから扉を閉める。
 さて。扉を閉じて、長沢はゆっくりと深呼吸をした。
 殉徒総会から娘を取り返すと一口に言っても、これは相当に大変だ。相手は信者数800万とも言われる、日本最大のカルトであり、支部の数も三桁を下らぬ。出張所や臨時集会所まで含めたら、一体幾つあるのか想像もつかぬ。正会員であれば、まだ居所をつかめるかも知れぬが、そうでなかったらほぼお手上げだ。
 「殉徒総会関連と言うのは確かですか」
 席に戻って切り出すと、幾分落ち着いた医師がパンフレットを取り出した。
 パンフレットは大学の入学案内用の冊子らしく、表紙には、緑に囲まれたキャンパスの写真があり、裏表紙には大学の周辺地図とアクセス方法が書かれていた。
 私立、栗東(りっとう)大学。場所は大田区大森。なるほど、医師 の家が品川であるのを考えると、立地的にも最適だ。ご近所感覚で、構えずに参加出来るギリギリの距離だろう。
 「最初はサークル活動だと言い張ってたんだが、この頃は違って来た。功徳を積むと言って僕に見せたのがこのパンフ。
 人員を集めたり、整理したりする仕事をやってて、凄くやりがいが有ると言い張ってさ。正月の一 日からやると言うんで言い合いになって。あんまり頑固だからつい、ひっぱたいたら、あいつ、出て行ってしまって……」
 肩を叩く。
 「先生の所為じゃ有りません。ここで、功徳を積むと言ってたんですね」
 医師が頷く。
 「酒井先生、殉徒総会は出家制度をとる人は殆どいないんですよ。余程、アンテナになるか広告塔になってくれる人でない限り、出家の利点が無い。総会から見れば、家にいて普通に働いて金を運んでくれる信者の方が有り難いんです。だから、美也ちゃんが出家を迫られる事はまず無いと思います」
 医師が、赤くなった目を向ける。本当か?瞳がそう言っていた。
 「大丈夫。このまま帰って来ない事はまずありえません。だから先生にとって問題なのは、帰って来た後の事。今迄に美也ちゃんは相当ハマってましたか?例えばご家族や友達やご近所の方々を勧誘するような事は?」
 太り肉の医師の身体が、ゆっくりと椅子の背に沈む。カップの中身を一口飲んでからゆっくりと首を振る。
 「友達や近所の事は良く分からない。僕と康太は宗教に興味なんか持たないから、殆ど気にしてなかったが、母さんは…美幸は美也から色々言われていたらしい。
 冬休み前、くらいだったか、里中先生は素晴らしいから、お母さんも一緒に行って話聞こうよ、とパンフを渡されたらしい。それじゃ次の時には一緒に行こうって言ってて、何だかんだで行かず仕舞いだったらしい。だから、ハマりだして二ヶ月くらいで、その話をし始めたのは一ヶ月…かそこらじゃないかと思うんだけど……」
 頷く。なるほど、ペースは早めだが、まずまず順当な変化だ。
 宗教、特にカルトに嵌ると言うのは、流感にかかるような物だと長沢は思っている。大概が気付かぬ内に罹患して、あっと言う間に熱が出る。対処法が上手ければ大した事は無いが、こじらすと命に関わる。免疫か基礎知識があれば簡単に対処出来るが、迂闊に酷い風邪を引く事などまま有る事だ。要はその対処法なのだ。
 となれば、出来る事は限られて居る。
 「それなら、そう時を待たずに美也ちゃんは帰って来ます。一番大事なのは、その時に捕らえて逃がさない事。家族だけじゃまず無理なので、協力してくれる人をまず手配しましょう」
 「協力ったって…そんな知り合いいないよ」
 「大丈夫です。その、竹下珈琲の時に強力だった総会の一人が実は"抜け"てて、奪回側のコンサルをやってるんですよ。その人ね、当時、俺が一番話していた人で、青年部のリーダーだった人です」
 医師が疑問の目を向ける。一つの部のリーダーにまでなった男を信じて良いのかと言う疑問の目だった。
 宗教に嵌るのにも幾通りものルートが有る。秋元 隆と言う名のそのリーダーは、親が総会の熱心な信者だった事から、自然に総会に居たタイプだ。商売っ気の強いリアリストで、自身で教義と現実の整合性を取って立ち回って居るタイプだったので、長沢が目をつけたのだ。
 教祖に対する侮辱や反抗が許せないと騒ぐ信者との対話は意味が無い。その点、この男なら金勘定で話が通る。そう思ったから、彼に絞った。結局は彼と、彼の周りの数人が長沢の交渉相手で、竹下珈琲生き残りへの突破口となったのだ。
 結局、長沢がしたのはビジネスの打ち合わせだ。竹下珈琲から手を引くメリットとデメリットについて、とことん話し合って解決した。総会側が騒がぬのであれば、竹下珈琲は不可侵を守る。だが、総会員が今後も同様の嫌がらせを続けるなら。
 長沢はその時ほど、ジェノサイダー時代の繋がりに感謝をした事は無い。
 「あの人は大丈夫。損得勘定で割が合わないと総会を抜けた人ですから。彼の教祖は福沢諭吉ですよ。抜けて見て気付いたが、奪回ビジネスの方がコレになるよ!と、円マークを俺に押し付けて大笑いした人ですから。逆に信じて大丈夫ですよ。
 彼の、金に対する執着と総会に対する怨念は凄いですからね。秋元さんと言います。外見は丸っきりヤクザなので睨みがききますし、直ぐ連絡とって見ますよ。後は、……と。そう……。
 酒井先生、ここはやはり一人は、警察に入って貰った方が良いですよ」
 酒井医師がアメリカーノを飲み終えて身を乗り出す。
 「ああ、それなんだけど。実は楢岡くんにずっと連絡とってるんだが、やっぱ時期が時期だからこっちも連絡つかなくて。なぁマスター、僕は勿論また連絡取るつもりだけど、ここに楢岡くんが来たら話してくれないかな」
 充分予想していた名が出て、覚悟していたのにも関わらず心臓が唸った。
 酒井医師に警察と言えば、確実に楢岡の名が挙がる。常連内でも仲の良い方で、旧日本映画の趣味も被るらしく、良くSOME-CAFE内でも話して居るのだ。恐らく、医師が真っ先に連絡を取ったのは楢岡だろう。それは悪い事をした、と思う。
 長沢と楢岡が同時期に連絡が取れなかった訳など決まっている。二人が共に居たからだ。二日一杯と三日の朝まで、互いに恐らくは携帯のスイッチを切っていた。そうなった理由は……言わずもがなの事である。
 連絡が取れない、と言う言葉に、一応は驚いた素振りを見せてから頷く。
 「分りました。細かい事は多分ここでは言えませんから、連絡取るよう伝えます。大丈夫、状況は直ぐに良くなりますよ。後は……。
 先生が風呂入って、着替えて職場に向う事です」
 目を丸くした酒井医師が、恐る恐る自らの脇や襟の匂いをかぐ。臭いかな、ごめんと呟くのに首を振る。
 「そう言う意味ではなくて。まず、いつも通りの生活を送るべきだと言う事なんです先生。ご苦労もご心配も分かります。でも、挫けぬ為にまず心がけるのは、いつもの自分に戻る事です。
 今の段階は闘争の前奏に過ぎない。これから、美也ちゃんが帰って来たら、戦いは本編に入る。どうなるか分からない。案外、三四日で決着が着くかもしれないし、ずるずる引き摺るかもしれない。そうなったら切り替えは不可能です。
 だからそれまで、きっちり日常を送り、日常にこの戦いを組み込んで下さい。まずは肚を、括らないと」
 マスター。言いかけて医師は口を閉じた。
 長沢の手を握り、握ったまま俯く。言葉は凡て、震える丸い肩に飲み込まれる。長沢はその医師の肩を、空いた方の手で軽く叩いた。今日何度目になるのか、大丈夫と言う代わりに軽く叩いた。
 
 SOMETHING CAFEの通常営業が始まる。
 酒井医師は言うだけ言って安心したのか、早めのランチをきちんと腹に収めて職場に向った。
 職場についてからシャワーでも浴びて、きっと"医師"に戻るのだろう。
 今日のSOME-CAFEに居たのは、娘をカルトに盗られかけている、一人のただの弱い父親だった。気持ちは分かる。非常に良く分かる。長沢自身とて、もし娘をカルトに盗られるような事があれば、同様の反応をするに違い無い。うろたえて、脅えて、やがて必死になる筈だ。だからこそ。自分に出来る力添えはしたい。
 11時の再開店の前に、電話を三つほど済ませる。
 一つ目は前述の秋元 隆。電話に出た受付に社長を出してくれと言うと、不在を理由にあっさりと電話を切られた。その癖、数分足らずで本人から折り返しの電話が掛かってくる。長沢は苦笑した。
 いつも通りの手順なのだ。こちらがちゃんと名乗って居るのに信用せず、必ずその名の元に「今電話した?」と掛けて来る。その用心深さがはっきり胡散臭いが、胡散臭い相手と戦うにはこのくらいで丁度良いのだ。
 秋元に酒井医師の事を伝える。本人から直接事情を聞きたいと言うので、連絡先を教える。だが恐らく最初の連絡は酒井医師からが良いだろう。宣戦布告は、闘う心準備が出来たタイミングで、自ら行なうのが正しい順番だ。
 二つ目は冬馬。携帯と固定電話の両方に掛けて見るが、応答は無い。メールは既に入れて有るので、ここは諦める事にした。
 三つ目は神田署。楢岡の携帯にかけようとして、こちらに方向転換となる。生活安全課の楢岡を指名すると、居ないと言われて別の刑事に回された。だが、一般の警察官では、色々と状況説明がややこしい。仕方なく、かけ直すと電話を切る。現時点では、以降電話はしていない。
 昼の部の混雑は、例年の五割増しで始まった。
 正月一週目の猿楽町は、いつも至ってスローペースだ。勿論、株や証券は動いているのだからビジネスは始まっている。だが、学生街の色の強い猿楽町では、まだまだ正月休みから抜け出せずに、出足の凡てがスローになるのだ。――普段は。
 だが今年は違った。昨年末から続いている履修時間不足騒動の所為で、出足から好調と言えば聞えは良いが、軽いパニックだった。
 何しろ、バイトは例年通りに休みだが、客だけは例年の一,五倍と言うのだから、普通にこなせる訳が無い。従業員募集の札は昨年末から出しているのだが、時期が時期なのか応募は無く、やっと渡りが着いた人材も面接に来るのは5日となっている。今日の増員予定は無い。
 慌てて看板娘に泣き付く事になり、看板娘から出された特別手当のおねだりにも、店主は否応無く頷く事となった。
 てんてこ舞いとなったトップギアの始まりは、SOMETHING CAFE店主にとっては、好都合であったかも知れぬ。ともすれば、業務と共に始まった三つの騒動に飲みこまれる想いを、客達が引き戻してくれる。業務をこなす事で、余分な感情を交えずに、脳内の整理がつく。騒動の二と三が微妙に交じり合って居るのが厄介だが、三を片付けるついでに二の対象にも嫌が応にも会うので有るから、実は好都合なのかも知れぬ。
 正月料理は甘い物が多い所為か、正月一週目のケーキは低調だった。
 本日良く出て居るのはサラダとサンドイッチのコンビによるA、Bセットと、フレンチフライ。マスタードたっぷりのフレンチフライには珈琲が良く会う。フレンチフライとだけ合わせるなら、苦味の効いた珈琲がお薦めだが、ここにマスタードが着くと様相が変る。珈琲は軽めの方が良い。SOMETHING CAFEではアメリカーノなどがお薦めとなる。
 ラッシュが終わり、ようやっと閑散期に入った五時半近く、従業員の為に珈琲を入れる。今日は低調のケーキも揃えて、カウンタで休憩にしようと呼びかけると、待ってましたとばかり二人が小走りに駆け寄った。
 木組みの窓からは西日が注いでいる。店全体の茶色のグラディエーションが暖かいオレンジ色に包まれる時間だ。差し出される珈琲もオレンジに染まる。長沢は大きく息をついた。
 「年明け早々、本当にお疲れ様。助かりました。今日はもう大丈夫だと思うけど、暫くはこんな感じだと思います。一応明日、新人さんの面接をします。良い人が来てくれたら、少しは楽になると思います。期待せずに待ってて。ああ、そうだ。神戸土産、帰りに持ってってね」
 緊急に呼び出された奥田早紀が、嬉しそうにケーキを頬張って笑う。ケーキに特別手当に神戸土産なんて嬉しいと言ってくれるのは救いだ。正店員の北村と言い、SOMETHING CAFEは従業員に恵まれて居る。
 カウンタ内側にストールを引き寄せ、長沢もそこに座る。正月はどうしてた、などと四方山話に花を咲かせる。戸口のベルがカラカラと音を立てた。
 丁度珈琲を口に含んだタイミングだった長沢が動けぬ間に、いらっしゃいませ、と看板娘が立ち上がる。ケーキを頬張ったまま挨拶する様に、客が楽しげに笑った。
 「年明け早々、うまそーだな早紀ちゃん。うっす、あけおめ――。北村君も、うっすっ」
 珈琲が咽喉につまる。
 「楢岡さんだー。いらっしゃーい、あけおめー。あ、鷲津さんも。あけましておめでとう御座います!」
 北村と鷲津、往復分の年頭の挨拶が交わされ、西日を背負った人影が戸口から近付く。久々に顔を見る鷲津と、もう一つ。
 屈託ない笑みを浮かべた楢岡が、カウンタに手を突いた。
 「Kちゃん、改めてあけおめ」
 西日は凡てをオレンジ色に染めていた。店の凡ての情景を、目の前の男を凡て。
 つい二日程前に激しく求め合った身体は、今はきちんとスーツを着込んでいた。暗いネイビーのスタンダード襟。厚い胸板を包む明るい色合いのストライプのワイシャツ。
 スーツの尖った肩のラインや、ワイシャツの襟や袖のラインにオレンジ色が這う。鍛えられた首筋にも、シャツの隙間から覗く胸元にもオレンジ色が忍び込む。持ち上げられた手に生えている毛の一本一本を縁取るオレンジ色に、体毛の濃い人間は、やはり睫毛も濃いのだと再確認する。
 彫りの深い楢岡の、厚い睫毛の上に宿るオレンジ色の光が眩しい。はっきりと影を作る高い鼻梁と厚めの唇。
 身体の奥底に沈んだままの快感が息衝いた、……気がして息を呑む。
 あけおめ。ふざけてそう応えるべき口許は、何故か全く動かなかった。
 

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