□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 「マスタ !?」
 看板娘が頓狂な声を上げた理由は長沢にもすぐ分った。しまった。そう思った時は既に手遅れだった。
 全身の血が、瞬時に顔に駆け上る。自覚していたが抑えられなかった。
 慌てて鼻を押さえるがこちらは無事で、ただ頭と顔の熱が上るのが止められない。自分が今、どんな顔色をして居るのか想像するだに恐ろしい。例えるならトマトとか林檎とか、そんな物の名が上るに決まって居るのだ。
 何とか場を取り繕おうと視線を反らすが、その時に看板娘とばっちり目が合ってしまった。
 「あ、……ああ、え。えっとあ、あけまして、おめ。あけおめ。い、いつもので良いのかなカプチーノ!?」
 「え――――!? 楢岡さん、マスターに何したの―――?」
 看板娘の声に、長沢はさっさとエスプレッソマシンに逃げていく。当の楢岡は、カウンタに手を突いたまま棒を飲んだように固まっている。やや後ろに立っていた鷲津の方が、奥田早紀の声に反応した。
 目を丸くして、束の間の意思交換をする。互いが送りあった信号は即ち、「見た!?」「見た。」である。
 店の客達は看板娘の嬌声には反応したものの、事情が分からない為に、それ以上の追求はしない。ただ、奥田早紀と鷲津だけが、長沢の反応に動揺していたのだ。が。
 一番動揺しているのは、当然、二人の当事者の方である。
 「マスター、茄子っぽい」
 客を取り敢えずは奥に押しやって、一心不乱にエスプレッソマシンに向う長沢の脇で、トレイを持った看板娘が呟いた。トマトや林檎では無く、茄子と評されるのは意外だ。その理由を聞くと、大丈夫ですかと改めて気遣われた。
 「だって、赤くなったのかなと思ったら、マスターいきなり黒くなったんですよ。黒いって言うか、だから紫? 何事かと思うじゃないですか」
 赤くなったり青くなったりするとはよく言うが、その両方が混じると黒くなると言うのは、意外だが得心が行く。青と赤を混ぜればなるほど茄子色だし、普通の人間が茄子色になったら、黒くなったと人は感じるだろう。
 「ん。すまん。ちょっと……尋常じゃない言い合いしたんで、動揺しました。悪いね、早紀ちゃんに気を遣わせて」
 「そんなのは良いですけど……大丈夫ですか?私、持って行きます?」
 トレイに二つのカプチーノを並べる。長沢は苦笑した。
 「いや。ちゃんと話しつけないとならないから。俺が行きます」
 
 とりあえずカプチーノとだけ言い置いて、鷲津と楢岡は店の奥の席に陣取る。らしくも無く緊張の面持ちの楢岡を、強引に引っ張って席につかせる。落ち着かなさそうにカウンター方向を振り返る仕種に、鷲津は腰を下ろしながら溜息をついた。
 「楢岡。余計な事を言うつもりは無いけどな。何だよこれ。今あの人、一瞬真っ赤になったぞ」
 「なぁ。やっぱりそうだよなぁ!?」
 「どうなってるんだよ、一体?」
 むしろそれを問いたいのは楢岡の方だ。一体どうなって居るのだ、長沢 啓輔と言う男は。
 13年来付き合いのあった長沢は、絶えず微笑を湛えて居る温和な男だった。誰に対しても節度を保って接する、理性的でクールな存在。心情的に乱れる様子など見せる事は一切無く、怒号など当然聞いた事も無い。冷静で理性的な男だったのだ。
 だが、今の反応はどうだ。
 生娘でもこうは行くまいと言える程、瞬時に真っ赤になった。明らかに、楢岡を見て頬を染めたのだ。
 自らの感情を完璧に制御出来ると男だと思っていたのに。どんな事柄にも冷徹に対応出来る男だと思っていたのに。そんな人間はここにはいない。ここに居るのはむしろ、普通より不器用に、自らの感情の機微にうろたえる男だ。何の事は無い。
 クールに見えたのは、彼の感情が凡ての事柄に揺れていなかったからだ。彼自身が、深い興味を持っていなかったからだ。例えそれが世間的には大変な事件で有っても、彼にとってどうでも良い事象だったから、ずっとクールで居られたのだ。感情が揺れないから。
 だが、一端感情にスイッチが入ると。
 感情が揺れると、これほどに脆い。脆くて、純粋だ。今まで13年来見て来たクールな外見と、生娘のような恥じらいのギャップに面食らう。そしてその恥じらいの対象が、他でもない自分だと言う事に戸惑う。いや、戸惑うと言うよりは。
 「wktk。物凄wktk」
 「あのなぁ、楢岡」
 「お待たせしました」
 言いかける鷲津の頭上に、長沢の声が降り注いだ。顔を上げると、決まり悪そうな表情がそこに有った。
 店の一番奥のテーブルの、壁を背負う位置に座っている楢岡と、その手前に座る鷲津の前に、一つづつカプチーノのカップを置いて深呼吸をする。次の一言につまる長沢に、楢岡が自分の横の椅子を叩いて見せた。
 「座って座って。話はそれから」
 一瞬、腹立たしげに楢岡を一瞥した店主は、次の瞬間にはどっかと椅子に腰を下ろした。楢岡はその仕種に一人で笑い転げている。鷲津には対処が出来かねた。
 「お久しぶりですね、鷲津さん。忘れられたのかと思ってました」
 「いやぁ、忘れるなんてとんでもない。今日ので絶対忘れられなくなりましたよ」
 相変わらず微かに赤い顔が決まり悪そうに詫びる。鷲津にとっての長沢の最終的な印象は、得体の知れない知能犯だったのだが、今日の印象は全く違う。最初に会った時の、与し易い弱者。今日はそれだ。
 「それより、珍しいじゃないですか、お二人お揃いで。何かここらで事件でも?」
 「ああ、違う違う。イドウの途中」
 イドウ?楢岡の軽口に、鷲津を見たままで長沢が呟く。鷲津はカップを片手に頷いた。
 「楢岡の異動ですよ。こいつ、今日から急に警視庁です」
 え、と言った口のまま固まる。確かに12月中頃に内示が来たとは聞いていたが、色々と異例で有る。
 正月しょっぱなに異動と言う企業はまず聞いた事が無い。警察もそれは例外では無い。警察官には定期異動と言う物が有り、その時期は三月と大体決まっている。
 内示から実際の異動までは一週間から10日程。その意味でも楢岡の異動は色々と型破りで有るのは間違いが無い。
 「本当は15日付で異動の筈だったんだけど、ざっと十日早まった感じ。まあ諸事情が色々有りましてね。実際は昨日からあっちで動いていて、今は私物色々取りに来た所」
 「ま、何故か俺が片付けしてやる事になって、車に積み込んで、これからこいつと一緒に警視庁に捨てに行く途中ですよ」
 警視庁公安部。いわゆる公安警察。楢岡は既にそこで動いているのかと思うと、長沢の方が緊張する。
 「昨日から動いていた……なるほど。それで」
 「ん?」
 楢岡の言動に一々長沢が顔色を変えるのがおかしくて、嬉しいものだから、隣に座る姿をわざとらしくじっと見つめてみたり、椅子をつついたりとからかう。嫌そうな表情を浮かべるのが面白かったのに、楢岡の言葉に急にビビッドな反応が消えた。俯く表情からは、先程のあからさまな動揺が消えていた。
 「楢岡くん、手数かけて悪いんだが、出来るだけ早く酒井先生に連絡を取って貰えるかな。先生、正月の二日くらいから、ずっと君に連絡取れないって言って、凄く困ってる。君の力が要るんだ。ところで君、何課?」
 「え? えっと総務課…?」
 思わず、口笛を吹く。何とおあつらえ向きな。そう言う代わりだった。
 警視庁公安部総務課といえば、名ばかりの総務だ。実際に総務的な仕事を請け負うのは総務課の庶務係と管理係のみ。他の部署はいわゆる、最も"公安"らしい業務に従事する。かつて、オウム対応に動いたのがこの課であり、市民運動全般、近年では反グローバリズム運動団体の警備にも当たっており、サミット等、政治的会合には必ず担ぎ出される部署である。
 「ぴったりだ。じゃあプロにお任せするよ。酒井先生のお悩みは、殉徒総会だそうだよ」
 全員の顔が引き締まる。特に鷲津が、何かを言いたげに楢岡を見やる。楢岡は頷いた。
 「分かった。ここから出たらすぐ電話してみるわ。で、Kちゃんが聞いたのは何処まで?ご近所とのトラブル関係?それとも帰って来ないとかそっち?あるいはもっと政治的なモン?」
 「俺が聞いたのは、美也ちゃんが帰ってこないって事だけ」
 OK。カプチーノを傾けたまま言う様は、確かに慣れたプロのものだ。小さく頷いている鷲津も、恐らくは長沢の知らぬレベルの了解をして居るのだろうと思える。
 「あ、それと一つ言っておかないと。"(株)バッカー"が酒井先生と一緒に動きます。俺、あそこの秋元社長と知り合いなので、話、通しました」
 警察は本来民事不介入で有るから、教団の捜査には向いても、信者の奪還には向かない。個人の意思で出家したと言われれば、警察に手出しは出来ないからだ。美也の場合は未成年なので入り込む隙は有るが、それにしても18歳と言う年齢は微妙だ。
 そこらの事情をよく理解している喫茶店店主に、鷲津が物問いたげな視線を投げる。SOMETHING CAFEを見ていると、なるほど、顔の広さは理解できる。周辺住民にはそれこそカタギから活動家まで居るので有るから、どんなツナギが有ろうと不思議はない。だが、この店主は。時折それを不自然に駆使して見せたりするから疑問が湧くのだ。
 何者か、と。
 今の段階まではまだ、極々普通の域だが、今後の動き次第では深入りさせたくない感触だ。
 「OK。秋元サンね。10年前になるけど、まだ付き合い有ったんだKちゃん」
 「うん。総会を抜けた秋元さんと、副部長になってる藤田さんとは一応季節の挨拶くらいは今もしてる。必要な時しか会わないけど、まあご近所さん、だしね」
 「(株)バッカー社長に殉徒総会の副部長か。顔の広さにはしみじみ恐れ入るなぁ。商店街っていうのはそう言うものですか」
 鷲津の物言いたげな問いに、長沢が慌てて首を振る。ああ、いえ、そうじゃなくて、と手を振る。こう言う仕種が庇護欲をそそるのかと思うが、鷲津には少しもピンと来ない。
 「10年前にここでちょっと問題が有って……」
 「知ってますよ。私はまだ千葉にいた頃ですが、調べました。竹下珈琲と"しごとセンター"職員のモメ事でしょ。その時にそれを収めたのが貴方で、お知り合いになったのがその二人ですか」
 黒縁眼鏡がきょとんとして動きを止めた。
 勘の鋭い男の事だから、これが鷲津なりの牽制だと言うのは伝わっただろう。首を突っ込むなと言う代わりに、お前の過去は調べたと言う。余計な事をしたら、見逃さないぞと言う意思表示だ。楢岡が机の下で軽く鷲津の足を蹴る。やられた鷲津は遠慮せず、その足を思い切り踏みつけた。
 「凄いな。調べられたんですか、流石、鷲津さんですね。
 …ああ、ご安心下さいね。俺に出来るのは渡りをつけるくらいで、後の事はどうしようも有りません。精々、酒井先生を元気付けるくらい。ウチの常連さんなので、放って置けないってだけですから」
 上目遣いで申し訳無さそうに言われると、こちらが悪い事をした気になる。どうもこの店主は苦手だ。
 「大ジョブ大ジョブ。何か分かったら俺がちゃんと知らせるからさ」
 「楢岡!」
 カプチーノを飲み終えて、財布を引っ張り出す楢岡の腕を、鷲津が掴む。表情豊かな顔がにんまりと笑った。
 「鷲津、これ、俺の分。勘定済ませてきてよ、早紀ちゃんの所で。大ジョブ大ジョブ、"俺ら"はすぐ行くから」
 これ見よがしに腕を払って、隣に腰掛けている男の肩を抱く。抱かれた方があからさまに固まって居るのも、楢岡の得意げな笑みも、以前とは二人の関係が変っているのを証明して余り有る。何が有ったのかは知る由も無いが、以前よりももっと親密になって居るのは確かで、それは……よそう、考えたくない。鷲津は溜息混じりに席を立ち、素直にカウンタの看板娘の許に向かった。
 去って行く鷲津の後姿を見送りながら、長沢は泣きたい気分になった。
 あからさま過ぎる。何だこの振る舞いは。そして自分の応対は。これではまるで鷲津の前で所有物宣言をされ、それを受け入れたようではないか。いや、その前に。こんなカミングアウトはお断りだ。
 「いい加減に……!」
 「Kちゃんごめん。俺、前言撤回するわ」
 叫び掛けた所で遮られて息を呑む。中っ腹で睨みつける視界の中央で、急に神妙な顔がこちらを向いた。
 「俺、ゆっくりで良いって言ったろ、考えるの。あれ、取り消すわ。今すぐ考えて」
 楢岡の言葉が蘇る。
 男など好きになった事は無い。これからも好きにならない。今まで言ってきたその言葉を言えずに息を飲む長沢に、楢岡は困ったような笑みで言ったのだ。ゆっくりでいいよ。と。
 
 ゆっくりでいい。……でも考えて。俺は最悪かもしれないけど、これでもいつも真剣だ。思いには真摯でいたい。自分のにも、人のにも。
 
 何も応えられずに唇を引き締める。卑怯だ、と思った。
 大体、ずるいではないか。人の弱点をついて、こちらが怯んで居る隙に笑顔で近付いてくるなど。こちらがその顔を殴れないのを知っていて、無遠慮に顔を寄せるなど。両手を握り締めるが、長沢にはそれ以上出来なかった。
 うろたえる表情が可笑しい。そう言わんばかりに楢岡が破顔する。人懐こそうな笑顔が、室内灯の色を照り返して温かい。
 「Kちゃん、優柔不断だからなぁ。ここぞと思ったら攻め込まないと逃げられる。だから攻め込みますよ。ンな顔しても駄〜目。……だってなぁ」
 しなやかな体躯が椅子から立ち上る。動けぬ長沢の肩に回した腕を解き、肩口に手を置いて顔を覗き込み、そのまま耳許に口を寄せる。微かなコロンの香りが鼻腔をくすぐった。
 「Kちゃん、俺の事好きになって来てるでしょ?」
 人懐こい笑みが、言い終わると同時に遠ざかる。軽やかな体が踵を返し、後ろ手に手を振る。
 馬鹿な! 口を開けたまま、何も言えずに姿を見守る。駆け去る姿に、言葉が出なかった。
 ネイビースーツが、徐々に似たような色に変りつつある街に消える。ガラス越しに手を振って去って行く。不機嫌な顔の鷲津と、上機嫌な楢岡が、並んで街に消えて行く。その姿を見送って、長沢はようやっと口を閉じた。
 何と言う事か。
 店の客は誰一人こちらに気づいてはいない。看板娘もカウンタの客の接待で忙しく、視線は明後日の方向だ。長沢は周りをぐるりと見回して、そのままテーブルに面を伏せた。
 何と言う事か。一体全体。馬鹿か、俺は。
 男など好きにならぬと言った舌の根も乾かぬ内に、この醜態は一体何なのだ。
 確かに楢岡は昔からの常連で、楽しい男だ。能力的にも人格的にも優れて居ると思うし、高評価だ。身体の相性も言われる通り良いのだろうし、だからこそ、この快感が拭い去れぬのだとは思う。思うが。
 所詮、恋愛対象になる訳が無い存在ではないか。
 相手は男で、自分も男だ。互いにいい年をして独り身で、公安警察と喫茶店の店主。全く持って釣り合わない。そこまで考えて首を傾げる。自分の偏狭な考え方に改めて思い当たって考え込む。待てよ。
 男性同志。困った事に、これ以外に障壁が無い。
 勿論、性別は最大級の障壁だ。今迄の長沢にとってはそれが拠り所で有った。断崖絶壁の壁なのだ。越えられる筈は無かったのだ。だが、それを越えてしまいそうな今。他に障壁が見当たらない。
 互いに独身で、悲しむ女も縁故もいない。楢岡には時子が、自分には瞳美が居るのだが、それぞれにそれなりの決着が着いている。どんな未来が訪れても、いつかはこれも丸く収まるだろう。公安警察は喫茶店店主にとっては障害足り得ない。もっとも。
 長沢のプロフィールを「喫茶店店主」から「テロリスト」に変えるなら、これ程大きな障壁もあるまい。
 可笑しくも無いのに吹き出し、その自分に驚いて周りを伺う。相変わらず無関心なままの人々に安心して、改めて面を伏せる。自分自身がどうしようもなく滑稽だった。
 

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