□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 「駿河台下のマンション"オライオンズ駿河台"の一室で代議士が死んでいるのを、翌日迎えに行った秘書が発見した。死因は虚血性の心不全で……」

 刑事が置いていった、三日前の新聞の記事が瞳の中に蘇った。
 芸能やスキャンダルや、そう言った眉唾の記事の隙間に埋もれていた記事。駿河台下という地名が目について、何の気なしに読んだ記事だった。
 記事は病死だと言っていた。虚血性心不全。確かにそうあった。代議士の名前には見覚えが有った。連日国会で揉めていたから、知っているのがむしろ当然な、有名代議士だった。インテリ崩れっぽい容貌で、世のオバチャン連中に妙に人気が有るのが胡散臭い代議士。野党第一党の副代表。与党攻撃隊の先陣。民衆党の富士野忠明だった。
 −− オライアンズの件は、見事だった
 記事と事務的な声が頭の中で合致する。病死。見事だった。
 結論は一つしか出なかった。
 冷や汗が背筋を伝う。事務的な声の男が立ち上がり、ゆっくりとした足取りで階段の方角に消えていく間、長沢は呼吸も出来なかった。頭の中に出来上がったストーリィが余りに非現実的過ぎて納得が出来ない。しかも、そのストーリィの主役は、今現在、観葉植物の向こうのソファに居る。長沢の知っている男なのだ。
 SOMETHING CAFEに押し入り、長沢を一度ならず二度までも陵辱した男。冷徹な略奪者。その男だ。
 残った人の気配が立ち上がる。前の男と同じ方角に足音が遠ざかり…やがて消える。
 暫くは気配を探った。精一杯耳を澄まし、勘を凝らした。今も奴はソファにいて、こちらを伺っているのではないか。息を殺して気配を辿った。そうっとソファの背を見上げ、何者も見えないのを確かめて、ようやっと息を吐いた。
 「驚いた」
 ばくん、と心臓が喘いだ。
 慌てて声の方向に視線をめぐらすと、観葉植物と逆の方向に、冬馬が立っていた。
 ホワイトグレーの髪、驚いたと言う言葉とは裏腹に冷静で酷薄な表情。今日はトレーナーとジーンズと言う、学生然とした出で立ちだった。この格好なら、街中のどこに居ても目立たない。勿論、病院のどこに居ても。
 頭の中が赤く染まった気がした。たった今繋がった、リアリティの無い証言の数々が空回っている。この男を、略奪者で殺人者だと思った。だがそれは観念的なものだったのだと、今分かる。
 「そんなに俺に会いたかったのか、啓輔」
 二人の商談を普通に聞けば、言葉以上の意味はまず分からない。男は見事だったと言っただけだし、冬馬は次はいつだと聞いただけだ。商談である事は想像できても、取り扱う商品が何なのか、当人達以外には全く分からない。秘めた商談は、聴衆が居ても秘め続けられるものだ。
 長沢にも理解出来ては居なかった筈だ。あの新聞記事さえなければ。
 「……オライアンズ駿河台」
 自分が、何を思ってそれを口にしたのか分からない。殺人者にお前は殺人者だと言いたかったのかも知れない。俺は知っているぞと言いたかったのかも知れない。あるいは、落ち着き払った顔を驚愕に歪ませたかっただけかもしれない。もし後者なら、その願いは叶った事になる。
 青年は顔色を変えた。顔全体の筋肉が引き締まり、さりげない動作で後ろポケットに手を回す。その仕草が不気味だった。
 「俺も同じように殺すのか?」
 頭の中が真っ赤で熱を持っていた。
 無力な過去の意味と、リアリティの無い現在が目の前の男の顔に重なっていた。目の前の男はつい最近までただの客だった。客だった男が唐突に略奪者になった。今では略奪者で殺人者だ。比喩ではない。本当の。ぶち壊してやりたかった。自分が一緒に壊れても。
 客にはずっと一定の距離を守って接して来た。相手の曝け出す秘密は受け止めるが、こちらからは深く聞かない、踏み込まない。深入りしない安全で節度のある距離を持って接してきた。相手のプライバシーに飲み込まれた事は未だ無い。
 略奪者と殺人者には接した事が無いので分からないが、例え接する事が有ったとしても、踏み込みなどしない。忌避する存在だ。触れもしない。
 「その前戯で俺を犯したのかよ。弄んで、殺すのが主義か」
 事情が知りたい訳ではなかった。犯した理由など聞かされたくもない。犯す事に理由など有る筈が無い、欲望が有って、その欲望に従っただけだ。人が人を犯すのに、欲望以上の理由などありはしない。そして、欲望に理由など無いのだ。
 過去は全て捨てて来た。気になるのは現在から後の事だ。殺すのか。殺されるのかこの男に。これがこの男の行って来た「後始末」の最終段階なのか。その為の連日の行動だったのか。
 「腐った主義だな、人殺し」
 すました顔が僅かに歪む。一度も浮かばなかった動揺が、切れ長の目に浮かぶ。
 殺人者を罵倒して怒らせるなど愚の骨頂だ。恐怖で身はすっかりすくんでいるのに、呪詛の言葉が止められなかった。殺人者の視線がじっと自分を見下ろしている。輪郭だけ奇妙にはっきりと黒い灰色の瞳が長沢を見つめている。長沢も視線をそらさなかった。
 知りたくも無い。自分をこれから殺すであろう男のことなど。自分を犯し、辱め、一度は救った不可解な青年の事など知る価値も無かった。忌避する存在で、触れるべき存在ではない。
 ゆっくりと大きな体が近づく。両手が曝される。後ろポケットにやった片手に有ったのは武器ではなかった。白いだけの、ガーゼのハンカチ。
 「殺すならそうすれば良い。好きに、すればいいさ。でもその前に」
 近づく。大きな体が蹲る。
 「人殺しになった訳を教えろ。全て最初から。全部。何もかも。納得しない限り……俺は絶対死なないぞ」
 知りたくない。知りたくも無い。客とは必要以上に近づかない。殺人者なら尚更だ。理解不能の忌避すべき存在に、触れる意味がどこにあるのだ。自分を陵辱し痛めつけた略奪者を、平然と次の仕事を語る殺人者を、知る理由はこの地上のどこにも無い。
 ガーゼが額に押し当てられる。大きな掌がゆっくりと、柔らかい布を額から頬へ動かす、追うように添えられる指が縋るように慈しむように頬を伝った。すくんだ身体を抱き寄せる。耳許に獣の吐息が渦を巻く。
 「啓輔。Lo amo. Amo desde que me lo encontr'i la primera vez para…」
 

 病室に帰り着いたのは、それからどのくらい経った後だったのかはっきりしない。ただ、眩暈と吐き気と闘いながら、旧館4階から新館5階まで、永遠とも思える長い廊下を歩いた。ようやっと内科病棟のトイレに辿り着き、吐いている所で看護師に見つかる頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
 頭の熱さが全身に広がっていた。看護師達が支えてくれる手の熱さが煩わしく、もがいて振り払い、自分の個室のベッドに辿りつくと同時に膝をついた。記憶にとどまっているのはそこまでだ。
 次に気付いた時はきちんとベッドに収まっていて、点滴のボトル半分程が既に落ちた後だった。体全体が鈍くて熱く、頭が霞んでいた。蛍光灯の光が目に染みて瞼を閉じる。
 冬馬の物がまだ埋まっているようだった。ソファの上に押さえつけられ、深々と突き入れられた痛みが、腹の奥を掻き回していた。
 殺すならそうすれば良いと長沢は言ったのだ。それは抱いて良いと言う許可と同じではない筈だ。だが冬馬にはSiは全てを許す言葉で、Noは全てを拒否する言葉らしい。恐怖ですくんで動けない身体を、遠慮会釈なく病院の片隅のソファの上で押し開いた。
 一緒に気持ちよくなれる薬だと、長沢の秘部に何かを塗りこみ、幾分滑りの良くなった部分を容赦なく貫いた。悲鳴を上げる喉を唇で塞ぎ、長沢自身を両手で揉み解す。塗りこめられた粘度の強い何かが前後でちりちりと燃えているようだった。
 良くなれるだのと言うのは青年の勝手な思い込みだ。痛くて熱くて、恐ろしい。
 そう、恐ろしいから、言った事なのだ。
 突き動かされながら考える。この男が略奪者で殺人者であるならば、既に全てを略奪された自分に残されているのは命だけだ。殺されるのは時間の問題だ。まさしく、時間の問題なのだ。
 死は望ましくない。恐ろしい。出来る物なら可能な限り、その瞬間を遠くに押しやりたい。殺人者を目の前にして死を遠ざける術を手に入れる為に、問題になるのは時間だ。足りないのは時間なのだ。だから。
 引き延ばすしか手は無いではないか。時間を稼ぐのだ。時間を稼ぐために。恐らくは言ったのだ。

 人殺しになった訳を教えろ。全て最初から。全部。何もかも。納得しない限り……俺は絶対死なないぞ

 青年に何かを感じた訳では無い。その場限りの、言い訳だ。恐らくは。多分、そうだ。
 啓輔。耳にハスキーボイスが噛み付く。熱い吐息を吐きかけながら、背後の大きな体が激しく動く。細い腰を両手で捕まえ、逃れられない狭い部分に熱い欲望を突き動かす。体の境目でぐちゅぐちゅと音を立てて零れ出る液体を、戻すように突き入れる物が、徐々にビートを高めていく。
 時間を稼ぐだと?こんな事をされる為の時間に何の意味がある。
 後ろからきつく抱きしめられる。頂点に達した物が長沢の奥で弾ける。痛みと嫌悪感が長沢を貫いた。
 「いい加減にしてくれよマスター」
 目を開けると、酒井医師が病室に居た。渋面で患者を見下ろしている。
 夢うつつの中で、長沢の身体はまだ冬馬に掻き抱かれていた。奥に彼の物が弾け、弾けてはまた突き動かされる。自由の利かぬ体は、それに抗う事すら叶わない。
 医師の前で陵辱されているかのような生々しい感覚に、長沢は目を閉じた。
 「入院僅か三日目にして不良患者ですか。体温測定時に部屋に居ない、夕食になっても戻って来ない。戻って来たと思ったらすっかりぶり返して屍同然と。病院内でどんな遊び方をすればそうなるんだ。良いかいマスター、僕は早くSOMETHING CAFEで珈琲が飲みたいんだよ。早紀ちゃんにサービスされて一時を過ごしたいの。良い子でいなさいよ、頼むから」
 「スペイン語……」
 「何だって?」
 ベッドの上の男は小刻みに震えていた。無理も無い高熱だが、違和感が有った。
 「スペイン語をしゃべってた…」
 熱に浮かされた譫言のような呟きに、短時間の失踪と、発熱の意味を理解する。医師は自分の髭面を擦った。
 「マスター。いいかマスター。言葉なんてのは侵略の証拠だ。その言語の民族が、他民族の土地を侵し、奪うから言葉は広まる。スペインなんてのは大航海時代の大侵略国家なんだ、スペイン語を公用語にしている国も、スペイン語原語の地域もいくつもある。それだけじゃ…、」
 「ペルー。…ボリビア、コロンビア……多分ペルーだ、ジャングルの…方」
 最高だな!医師は頭を振った。
 「感染症のデパートの地域だ。まあ、あんたが行った訳じゃないから、マラリア、デング熱、シャガス辺りは省けるし、潜伏期間も考えると杞憂だとは思うが……
 兎に角、感染症のデパートだ。あんた一切の出入り禁止。検査結果が出るまでここは閉めておく。良いね!」
 足音が遠ざかる。廊下の奥で、502号隔離して、と言う医師の怒号に近い声がかすかに聞こえた。
 意識が霞む。揺すり上げられている感覚のまま、現実が遠ざかる。
 Lo amo
 スペイン語など全く知らない。だが、その言葉くらいは知っている。愛している。そんな意味だ。
 だから、どうした。それが、なんだ。
 

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