□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 一流百貨店の服飾接客販売業。いわゆるアパレルビジネス。唯夏こと夕麻に与えられた職業はそれだ。
 服飾関係は嫌いではないし、人が着飾る姿を見るのも嫌いではない。それは、客が男でも女でも同じ事だ。
 店の名は「ニューススポット」。男性衣料、主にフォーマルを取り扱うブランドだ。最近では若向けに上がややワイドで下がタイトなシルエットのスーツ、暖色系の形状記憶シャツに力を入れている。
 日本生まれ、日本育ちのブランドである為、日本人男性の体型にはよく合うと見え、不景気と騒がれる現在も売り上げは高値安定している。飛び入りの素人女性をいきなり店員として雇える程には。
 実働隊には、秋津がどのようにしてこうしした仕事を見つけて来るかは知らされていない。いつもただ従うだけである。それでも不満を持った事などは無い。いつも命題に実にマッチした身分/立場を与えてくれるからだ。秋津を下支えする人数、組織の多さを推測出来る事柄であるが、当然、そうした推測は実働隊には許されていない。
 今回も、与えられた職種は、実に状況にマッチしていた。ここならば、どんな人間と接触しても実に自然だ。その相手が例え殉徒総会信者でも、秋津からの遣いでも。
 客対応の基礎知識だけは一夜漬けで色々と憶えたが、実際の業務は始めての為、一週間先輩に付く。彼女より十歳は年上で、10cm以上は小さく、10kgは重いだろう女性が、色々細々と教えてくれる。日本人と言うのは、こう言う所は実に素晴らしいと思う。
 確実に私が嫌いに違いないのに、態度には表さない。唯夏は思う。こうした器用さは、故郷の人間には無かった。何処へ言っても、生意気な澄まし女と言われて、最初は派手にぶつかったものだ。そうした衝突が日本では無い。穏やかで慎み深い所以だが、それだけに。本音のぶつかり合いや歩み寄りは少ないように思える。
 相手と分かり合える迄に、非常な時間とある種のきっかけを要する、東洋の経済大国。それがこの国、日本だ。
 店頭に客のシルエットを見つけ、足早に向う。
 「いらっしゃいませ」
 腰の角度は60度。一秒は必ず目線を床に。マニュアルどおりに頭を垂れると、頭の上で聞きおぼえの有る声が、やぁ、と言った。
 「夕麻さん……ですよね」
 顔を上げると、正月の一日に「シンポジウム」で会った男が目の前にいた。
 勿論、「シンポジウム」とは名ばかりの、布教会の事だ。城野と名乗った、30代前後のサラリーマン風の男。二次会で総会員をさりげなく仕切っていた男。出て来るならこの男だろうと思っていたが、余りにも予想通りだ。明らかに仕事中なのだろう、片手にはそれらしいバッグを抱えている。
 唯夏はじっと顔を見つめ、初めて気付いたように、あら、と呟いた。男がぎこちない笑みを浮かべる。
 「良かった、憶えてて下さいましたか」
 「貴方は一日の……」
 「城野です。先日は、その、ご迷惑おかけして。……で、その、ここに勤めてらっしゃると聞いて」
 誰から聞いたのだ、と言う言葉を飲み込む。何か言う変わりに、困ったような微笑を向ける。
 「いらっしゃいませ。……あの」
 教官代わりの先輩従業員を物言いたげにちらりと見て視線を戻すと、客が慌てて付け足した。
 「あ、買いに来たんです。ええ、と、シャツを、見せて貰いたくて」
 勤務先を決めて、僅か二日で乗り込んで来た、殉徒総会員。目敏くてご苦労な事だという意味で、唯夏は笑いかける。どこまでが組織の意思で、どこまでが彼の思考かは知れぬが、彼はこれで離れないだろう。後は彼を利用して、中に入り込めば良いだけだ。
 わざとらしく彼を伺う。唯夏に興味を持っている男の目を誘う。ときめくような瞳と視線が合えば、時に驚いたように、時にさりげなく外す。これで良い。
 城野 匡(ただし) 29歳。青年部副部長。ビューティケア、ヘルスケアで有名な株式会社「皇樹(オージュ)」のマーケティング。
 それが唯夏の標的のプロフィールだ。
 
 確かに、スペイン語、英語、日本語なら喋れるし、書く事も出来る。教員免許も一条校ではない限り問われる事も無いだろう。とは言え。教職と言うモノが合うとは、冬馬には正直思えないのだ。
 秋津の方針に文句が有る訳ではない。職種としても立場としても、いつも通り状況にマッチしたチョイスだと思う。だが、それでも。
 俺が教師とはセンスが悪い。
 冬馬に与えられたのは、外語教室の講師だった。当然ながら言語はスペイン語。
 しかし、別段教養も持ち合わせていないゲリラ少年のスペイン語を、ビジネスマンに教えるのは疑問だ。さりとて、他に適当と思える職種も思いつかず、逆らう気も無いので、仕方なく手渡されたテキストをざっと読む。
 有り難い事に、あてがわれたのは「一般中級コース」と言う物で、レベルは普通の日常会話程度である。専門用語は一切無し。通常語と丁寧語のほぼ一般的な言い回し。このレベルでも、ゲリラ少年には知らない言い回しが無いでも無い。もっと下品な言い回しならバリエーションが有るのだが。
 ゲリラも上層部になれば知的で哲学的だ。セルパやティト、ロハスなどはしょっちゅう、やたらややこしい言い回しで激しい政治談議をしていた。あの討論を注意して聞いて置くべきだったと今更思うが、土台が無理な話である。当時11歳の冬馬に重要だったのは、生き延びる為に食う事と、憶え始めた女との接触ばかりだったのだから。
 個人クラスになると、教える側にも個性と知性が求められるが、集団の「一般中級コース」の講師に求められるのは正確なテキストと、そのテキストをきちんと使う忠実さだ。覚悟を決めるしか有るまい。
 渋々クラスの扉を開ける。彼を迎え入れたのは、20代〜40代の、ごくごく一般的な12人の日本人だった。取り敢えず教壇に立ってクラスの全員を見回す。なるほど、と思う。
 そこに居たのは、何かに必死になると言うよりは、その日その日を無事に過ごせば良しと考えて居るタイプの人間ばかりに見えた。ビジネス等必要に迫られて言語を学ぶと言うよりは、旅行等のホビーの為、交際の一環として、資格の一つとして、クラスを取っている人々だ。安心した。それならばこちらもそれを真似すれば良いのだ。
 「Buenas tardes.Mucho gusto. Todos vosotros.」
 今日一日を安泰に、無事に過ごせればそれで良い。
 
 共に同じ屋根の下に暮らし始めたのが二日の夜。まだざっと五日しか経っていないのだが、驚く程に違和感が無かった。
 互いに干渉しないので圧迫感もない。自室に籠ってしまえばある程度の機密性が保てるので、相手の存在さえ気にならない。気が向けば共通のリビングに出て寛げばよいし、気が向かなければ個人スペースに居れば問題はない。
 渡されたレポートの類を読みこなし、自室で日課のトレーニングをざっと済ませて顔を洗いに出ると、香ばしい香りが鼻をくすぐった。時間は5時45分。まだ世の中は夜中と朝の狭間に居る。
 キッチンに顔を出す。丁度唯夏がベーグルを焼いている所だった。トースターに手をかけた唯夏が、戸口の気配に振り返る。
 「お前も要るか、朝人」
 「……ああ、有るなら」
 「多めに買うのが普通だ。有るぞ。要るなら焼く。幾つだ」
 「じゃあ……二つ。悪いな」
 「ただトースターに入れるだけの事だ」
 キッチンに入り込む。テーブルの上に、バターやクリームチーズが置かれ、その脇にオレンジジュースのボトルと、湯気を上げる珈琲カップとサーバーが有った。塊のままのハムがテーブルに出される。木製のトレイとナイフが置かれているのは、それで勝手に切って食えと言う意思表示だろう。冬馬はオレンジジュースのボトルを掴んだ。
 「珈琲ではないのか?」
 唯夏が軽い口調で言って笑う。言わんとしている事は充分伝わった。冬馬はそのままボトルの中身をあおって、自分の手許に置いた。
 「珈琲は飲まない」
 ハムを切り取る青年を見て、小さな違和感に気付いた。青年の手首はこんなに白かっただろうか?
 三日の夜。
 予想外に早い時刻に帰って来た冬馬を、唯夏は構わなかった。自分以外の人間の恋愛に興味は無いし、今は緊急にやらねばならぬ義務ばかりが山積していたから、構う時間も無かったのだ。
 大きな身体が静かに自室に入り、そのまま気配を消した。デート疲れで眠ったのかと思ったが、違う事は次の日の青年の顔で分かった。
 機械のようだ。
 硬質で温かみの無い、つまらなく整った顔。親しみを感じる表情も体温も無ければ、人間らしい隙も無い。思えば。出会った頃の青年は、こんな顔をしていたのかも知れぬ。
 互いに与えられた仕事のマニュアルを詰め込み、与えられた自分と自分の役割に入り込むのに必死で、ろくに口も聞かずに家を出た。4日5日はそのまま終わり、互いの情報を交換する事も無く過ぎた。本来、それでは「姉弟」と言う設定は機能しない。
 互いの役割にようやっと入る事の出来た今日、6日。この役目に就いて五日目、職業を得て三日目の朝、互いにそれに気づいたのだから、良くも悪くも二人のリズムは合っているのだろう。
 「朝人。9日、10日は特別の事情が無ければ空けておけ」
 キツネ色になったベーグルを渡す。冬馬は無言で受け取って、それを上下に切り分ける。無表情な灰色の瞳が何故?と聞いていた。
 「城野がこの二日、通って来ている」
 「城野……? あの、青年部の男か。もう掛かったのか、予想より早いな」
 漁場の会話のようで、唯夏が苦笑する。だが反応は正しい。
 「ああ。今週末にでも恐らく誘いをかけてくるだろう。その時に――」
 「俺も行くのか。お前と城野のデートに? 不自然だ」
 不自然ではない。唯夏が言い切る。冬馬は首を振った。
 「お前、女に軽くあしらわれた事も無い代わり、本気で守った事も無いだろう」
 ベーグルに厚めに切ったハムをはさみ、かぶりついた所で唯夏の言葉に動きを止める。実際、言われる通りだ。女に惚れれば強引に奪って来たから、軽くあしらわれた覚えは無い。大して長い期間続いた訳では無いから、本気で守らねばならない事柄にぶち当たった事は無い。その通りだ。
 だが、何故そんな話が出るのか、冬馬には分かりかねて唯夏を見る。唯夏は大きく溜息を吐いた。
 「良いか。私は殉徒総会と言う得体の知れぬ宗教を背負った男に誘われている、普通の女だ。
 城野の事は憎からず思って居るものの、宗教は不気味だ。デートをするのは構わぬが、一人では嫌だ。故に仲の良い弟を誘ってデートに行く。この弟は最初にシンポジウムにも出たので、事情は分かっているし、城野にしても恋人にしようとまではまだ考えていないので丁度良い。
 朝人。弟として夕麻を守れ。そう言う事だ」
 ベーグルサンドと一緒に、唯夏の話を咀嚼する。なるほど、城野を軽くあしらっている。なるほど、冬馬の役目は姉を守るナイトだ。
 「城野がお前の所に来るのは、殉徒総会に誘う為だと思っているのか」
 「半々だ」
 「なら俺は半分は不自然と言う事だ」
 「城野のTPO次第だな。二人来たと言う事で、殉徒総会青年部の人間の立場を取るか、それとも依然として一人の男としての立場を取るか。奴がタフなら前者を取る。私としてはその方が好ましい。男女の云々を演じるのはその後の方が面倒ではない」
 「なるほど……」
 かじりついた後のベーグルにクリームチーズを塗りたくる。バターナイフをその場に置くと、唯夏がすかさず取り上げた。DINCOTEは綺麗好きのようだ。
 「お前の言う"特別な事情"と言うのは、俺の方の網に何かが掛かった場合の事を言うのだろう?」
 そうだ。そう言う代わりに目線が持ち上がる。唯夏の母は、写真で見た通りのラテン系女性だ。外見は日本人の血が濃く見えるが、部品部品を見ると日本人ではない。彫りの深い眼窩の、明るい褐色の瞳などはそれを良く現している。
 「なら、俺も同行出来るだろう。現在の所、通ってくる生徒の中に殉徒総会員は一人。だが、大人しくて何も行動できない女だ。週末までに動くとは思えない」
 クリームチーズとブルーベリージャムを塗ったベーグルを口に含んだまま、今度は唯夏が動きを止める。
 「お前の方も掛かったのか」
 「いや。微妙だ。例のシンポジウムと懇親会で見た顔だが、総会として俺に近付いて来ているとは思い辛い。週末までにそれとなく近づいては見るが、恐らくはブラフだ」
 分かった。互いに納得して続きをほおばる。咀嚼音と、器の立てる微かな音。音楽が流れていると冬馬が気づいたのはこの時だ。唯夏は"クラシックを嗜む"と言っていた。恐らくこれもその一種なのだろう。
 「フルートとチェンバロのためのソナタ、第2番変ホ長調」
 聞いても分からぬので適当に頷くと、唯夏がバターナイフで冬馬の手首を軽くつついた。綺麗好きではなかったのか。
 「リストバンド、外したのだな」
 手首を包んでいた、黒いだけのタオル地のリストバンド。
 俺は、ここに居る。
 かつてそう言われた。ここでつながっている。そう信じた。黒いだけのリストバンド。繋がって居るから、ここに居るから。――だから外した。
 元の冬馬の住居の、彼の部屋のローチェストの一番上の段。そこに二つ揃えてしまって来た。司令官に言われた通り、凡てのしがらみに通じる携帯も、大事な品も置いて来たのだ。忘れる為に。振り切る為に。
 「珈琲を飲まないのもその為か。飲めないのでは無いのか。忘れたのか、本当に」
 お前にそんな事が出来るのか?本当に?そう聞かれた気がした。溜息を吐く。
 「忘れる。その為に全てを置いて来た。珈琲が飲めないのも今の内だけだ。今は未だ手首に違和感が有るが、これが消える頃には全て忘れる。一週間くらいだろう。顔も名も忘れるし、珈琲も飲める。あの男を見ても、何も反応しなくなる。安心しろ。今までもずっとそうして来た」
 あの男。唯夏は驚いた。
 ほんの三日前まで、その男からのメールでときめいていた瞳はそこには無い。子供のように安らいで、笑っていた顔もそこには無い。そうか、と思う。
 冬馬の人間的な部分は、よいづきと言うコードネームの、長沢と言う名の日本人が全て握って居るのだ。その男を基に情緒も表情も生まれ、育っていたのだ。その男を忘れると言う事は即ち、青年が情緒と表情を忘れると言う事だ。それならば。唯夏は思う。
 今は都合が良い。
 教団に入り込むのであれば、情緒は必要ない。全ての教義を飲み込み、認め、それに頭の上までどっぷり浸かり、尚且つそれに染まらずに居る為には、情緒は邪魔なだけだ。本当に冬馬が情緒を置いてきたのであれば、それは好都合であり、最高のスパイとなり得る。そうだ。
 唯夏より遥かに任務に適した人材となり得る。
 「安心しろ」
 残りのベーグルを噛み砕きながら青年が言う。
 「お前は母の顔を覚えている。故郷に仲間も友人も居る。今はここに居ても、いつか帰る場所の有る女だ。帰る場所の有る人間は弱い」
 「何を……」
 「お前は、姉だ。夕麻」
 唯夏の言葉を、ハスキーな声が遮る。口に物を含んだままの声は、狼の唸り声のように聞こえた。
 灰色の瞳が持ち上がる。機械のように無表情で、冷徹な瞳。縁だけが黒い灰色の虹彩は、日本人のDNAだけで出来て居るとは思えない。唯夏がシンパシーを感じる青年の、出自を良く現すその瞳。
 人間としての水上 冬馬は不完全で、情緒不安定な子供だ。だが、戦士としての、同志としての水上 冬馬は。
 「安心しろ。お前は、俺が守る」
 完璧だ。
 

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