□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 都営新宿線の始発は5時2分だった。
 眠い目を擦りつつ、それに乗って帰途に着く。五時半前にはいつも通りの支度に掛かれていたのだから、都心と言うのは実に便利だとしみじみ思う。三十分もあれば大概どこにだって移動出来るし、帰って来られるのだ。
 持っていったフレンチフライも珈琲も、殆ど手付かずで持って帰って来た。フレンチフライは温めれば食べられるが、珈琲の方は飲めた物ではない。苦味の強い珈琲が酸化してしまったら、それはただまずいだけの黒い水だ。ポットの中身を流しに捨てて溜息を吐く。
 青年は行ってしまった。次に会えるのはいつになるか、それは分からない。青年に協力できるのは、彼自身が連絡を取って来る時か、秋津から何らかの情報を貰える時だけだ。そのどちらも、恐らくは有り得ない。となれば。
 長沢に出来るのは、青年がつつがなく全ての任務を終え、無事に帰って来るのを祈る事だけだ。
 大丈夫だ。自分に言い聞かせる。親でも有るまいし、何がそんなに不安なのだ。冬馬はプロだぞ。
 頭の回転が良くて行動力があり、度胸が良くてTPOも心得ている。それに何よりタフだ。……長沢がとても付いて行けない程。
 SOMETHING CAFEを整えて、ZOCCAのパンを受け取る。昨日答えられなかったZOCCA店主の気がかりにも、今朝は答える事が出来た。ただ、言える事には限りが有る。酒井医師のトラブルは宗教がらみ。それだけを言って後を濁す。プライバシーに関わるのではっきりは言えないけど、俺も協力する事にした。そう伝えると、ZOCCA店主は満足気に笑った。
 お陰で胸の痞えが取れた。困った事有ったら俺も協力するから、言ってよ。そう言って去って行く。その後ろ姿に少々安心した。
 大なり小なり、全ての人が胸の痞えを抱えて生きているのだ。痞えは、取れる事もあるが、重症になる事も有る。それでも、放り出す事など出来ない。誰もが抱えるものなのだ。
 なら、抱えて行くしかない。今はひたすら冬馬と言う名の胸の痞えを。同志の無事を、相棒の帰還を、祈りながら抱えよう。
 

 「ええ、リストラ組なんですよ。内崎 秋彦、35歳になりました」
 朝のラッシュを終えた午前九時、昨年末からずっと募集していた新人がやって来た。
 募集要項が「朝七時出勤、週五日以上一日5時間以上勤務可の成人、男女問わず、パート、正店員等、要面接」と言う縛りの有る物だったから、応募数は少なかった。学生は当然無理だし、相当に人種が絞られる。ただ、長沢なりに狙いが無かった訳ではないのだ。
 昨今の不景気でリストラされた元サラリーマンが、次の職を見つけるまでの間、短期で働くには丁度良い。そう思って募集を出したのだ。こちらとしてもいつまでも雇えるかどうかは保障出来ぬし、普通の商社に比べて良い賃金が払える訳も無い。だから臨時で、羽休めに、繋ぎに、軽く利用して貰えれば丁度良い。そう考え、双方にとって都合良い条件を作り、じっと待って居たのだ。であるから。
 狙いはまずまずドンピシャリだ。
 面接に訪れたのは、自信とゆとりを感じさせる男だった。やや四角い細面は穏やかな表情を湛え、細い目とジョン・レノンのような金縁の丸眼鏡は、研究者のような雰囲気を醸し出している。いや、研究者と言うよりは。
 修験者。180cmは有ろうがっちりとした体躯が、山伏のような修験者を連想させた。
 恐らくは、重宝されて来た人物だ。何がきっかけで職を失ったにせよ、長い年月を経て得た自信はそう直ぐには消えはしない。それが滲み出ていた。
 「ホテル御蔵にいらしたんですね。レストランのメーテル・ドテル。ひゅう、つまりは現場の責任者だ。超一流どころの。僕には想像が付きません。
 家は極々普通の、庶民の喫茶店ですが、大丈夫ですか?」
 店の一番奥の席に、対峙して面接をする。男を覗き込むと、柔和な表情で首を振る。おや、と思った。
 「勿論です。全力でやらせて頂きたいと思ってます」
 内崎は店主を真正面から見つめた。度の強い近視用眼鏡の所為で小さくなった目と、顔の下半分を曖昧にする髭の所為で、はっきりした面相は分からない。食品を扱う職業に髭は相応しくないと思うのだが、店主自らが決めた事に面接に来た人間がどうこう言える物でもない。
 じっと見ていると、店主の様子が微妙に違っている事に気付いた。つい先程までは、履歴書と内崎の面相を見比べて値踏みしていたのに、今は俯いて考え込んでいる。俯くと、眼鏡に邪魔されずに目許が見えて、そのギャップに少し驚く。余程このレンズの度は強いのだ。この目があそこまで小さくなるのだから。
 「……なにか?」
 問うてやや暫くして、店主は初めて顔を上げる。きょとん、とした表情だった。
 「あ、ああ。失敬。いや……妙な事をお聞きして申し訳ないんですが、以前お会いしてませんか?」
 内崎の細い目が一瞬、大きく開いた……と見えたのは幻だったのか、修験者は穏やかな顔でゆっくりと首を傾げた。
 「いいえ…?御蔵の有る道玄坂はそう遠く有りませんから、勤めていた時にお会いしていても不思議はありませんが、私の記憶には…有りません。すみません」
 「ああ、いえ。そんな昔の事ではなく、この二三日で。………ああ、いや、僕こそすみません。気の所為ですね。失礼しました。それより、ええと。御蔵にいらしたのが去年の夏…まで。ここらの事情、ちょっとだけ伺っても良いですかね…?リストラって言うのは嘘でしょ?」
 これはこれは。そう言わんばかりに内崎の表情が変る。怒って居るのではなく、驚いた、呆れた、と言う表情だった。
 「嘘、ですか?また、いきなり何故……」
 「ああ、すみません。悪い意味で言ったんじゃないんです。ただ、内崎さん、優秀な方だ。既にこの店の椅子の数、分かってらっしゃいますよね」
 「34……」
 「正解です。さっき目で数えてらしたでしょ。メーテル・ドテルの基本なのかも知れませんが、僕は感心して見てたんですよ。店に入って直ぐそう言う事が出来る人を切らなきゃならない程、御蔵さんの台所事情は厳しくない。だから、ああ、ご謙遜で仰ってるんだろうなって。ちょっとそこの事情だけ、お聞かせ頂けないかなと」
 四角い顔が、困ったような笑みを浮かべる。否定すべきかしないべきか迷っている表情だ。
 「ミシュランが三年前に五つ星をつけてから、御蔵レストランが好調で、同一オーナーのオーガニック食品専門店も出来てましたよね。そちらも到って好調。御蔵さんは一流です。だから…」
 「妻が亡くなりました」
 ぴくり、と店主が身を固めて視線を向ける。
 「昨年の5月です。都営地下鉄で脱線事故が有って……、運悪いことに奈々枝は最後尾の車輌に乗っていました」
 当然ながら、長沢も良く憶えている。悲惨な事故だった。
 カーブで最後尾車輌が機材線用のポイントに乗り上げた所に対抗車がやって来た。朝のラッシュ時で、線路に使われていた潤滑油の量が多少多かった事、カーブ地点にガードレールが無かった事、その時間はダイヤが過密だった事など、幾つもの要素がかみ合って、二つの車輌はマトモにぶつかってしまった。対向車輌の運転手と、乗り上げた最後尾車輌の5人が死亡し、多くの負傷者を出した、不幸な事故だ。
 あの事件のお陰で線路内のガードレールが増え、台車の形式が再考されたのだ。――あの事故の犠牲者か。
 長沢は深々と頭をたれた。
 「それは……辛い事を、お聞きして…」
 「いえ。子供をそろそろ、と言い合っていた頃だったので、今では逆に良かったと思っています。悲しむ人間は少ない方が良いですからね。
 ただ、そんな事が有って、すっかりやる気がなくなりました。暫くは周りも気を遣ってくれて、何だかんだでおりましたが、周りに興味を持てないメーテル・ドテルなど、アルコールアレルギーのソムリエみたいな物です。いつまでも迷惑をかけられないと、辞める事にしました」
 SOMETHING CAFEに入って来て直ぐに椅子の脚数を数えた男の、周囲への無関心とはどう言う物なのか、長沢には想像がつきかねた。細い目を見上げる。
 「今はもう、大丈夫なんですか?」
 「人間は慣れるんですよ。恐ろしいものです。大分色々見えて来ました。ご迷惑はおかけせずに済むと思うのですが……駄目でしょうか」
 店主は、内崎の質問に驚いて腰を浮かす。慌てて、とんでもないと首を振る。表情の読みやすい男だなと内崎は思う。悪い人間ではなさそうだ。
 「家としては、内崎さんのように優秀な方に来て頂けたら、こんな良い事は有りません!御蔵さんと比べれば、格は遥かに落ちますが、その分、ちょいとしたラッシュが有ります。朝と昼に二回。そのてんてこ舞いを助けて頂きたいんです。
 基本、月-金で、7時から9時、11時からまた何時間か、と数時間は入って貰いたいんですが大丈夫ですか? 9時10時は一時間は休憩になりますが、一時間は何だかんだと用事が有りますので労働時間に入ります。」
 内崎は、長沢の言葉をゆっくりと噛みしめてから頷く。
 「数時間……じゃ、2時くらいには上ってしまって大丈夫と言う事ですか?」
 実はそれが一番ありがたい。店のラッシュは2時くらいには大体止むので、そうしてくれれば理想的なのだ。
 今後どうなるにしても、最初はパート扱いで時給払いで有るから、一番ラッシュに働いて貰い、それ以外は抜けて貰うのが、雇うサイドとしては効率的で有り難い。余計な事は言わず、内崎に勿論だと同意すると、やや長めの顔が笑みを浮かべた。
 「そうですか。それは私にとっても有り難いです。以前の私と同じ事が出来る自信は、正直まだ無くて。時間は短めの方が理想です。短ければ、MAXの集中力で勤めさせて頂きます」
 「それじゃ、決まりですね」
 店主が笑って立ち上がる。バンダナを取って深々と頭を下げ、よろしくお願いしますと言う。内崎も立ち上がって腰を折る。立ってみると、内崎に比して店主はかなり小さいのだ。下から差し出された手を握る。
 「それじゃ、今から店の中をご紹介します。来て頂けますか?」
 席を離れようと、踵を返す瞬間。内崎の後ろで店主が小さく、あ、と呟いた。
 「ああ、失礼。やっぱり、どこかでお会いしてると今確信しました。絶対思い出します。……今は無理ですが。…うーん、俺の頭鈍りっ放しだなぁ」
 
 SOMETHING CAFEの店員数は、その日から五人となった。
 長沢、常勤の北村、パートの内崎、アルバイトは看板娘の奥田早紀他一人。これだけいれば、何とかラッシュの波はこなせるだろう。
 ラッシュは大きいものが朝と昼に二回。丁度学校が終わる4時前くらいにもう一度有ると言えば有るが、これには波が有って曜日その他で動くので数には入りにくい。だから実質は二回だ。この二回のラッシュをこなせれば、店は取り敢えずは安泰なのだ。
 メニューが単純な喫茶店だから、この人数で何とかなるが、定食屋やレストランの類はさぞや大変だろうと長沢は思う。
 縁が有ったのが、竹下珈琲でよかったと一人ごちてから、心中で先代に手を合わせる。縁と言うのは本当に不思議なものだ。縁が有ったから、長沢は竹下に出会い、こうして今も生きているのだ。
 五人体制が始まる。
 働かせて貰えるなら、今日さっそく体験させて下さいと言う本人の申し出で、内崎は面接終了後、二時間ほど体験店員をする事になった。取り敢えずは先輩の北村が指導に当たる事になり、細々とした説明をする。内崎は驕る事も無く、十歳は年下の北村の言葉を頷きながら聞いている。
 明日になれば、看板娘もやってくる。ざっくばらんでムードメーカーの彼女なら、直ぐ新人を店に馴染ませてしまうだろう。全員の顔合わせは明日には済み、SOMETHING CAFEの持つ悩みは掻き消えるのだ。長沢は安堵の溜息を吐いた。吐いてから、苦笑する。
 安心すると、凪いだ心の水面に落胆と言う泡が浮き上がる。浮き上がって弾け、水面を乱す。我ながら呆れた。余計な事に気を取られるのは、気がたるんでいる証拠だ。
 昼のラッシュが11時15分に始まり、ほぼピークを保ちつつ1時になる。体験店員も、早速フルに稼動する事になった。一流所のメーテル・ドテルと言うのは大したものである。注文を間違って取る事も無ければ、運び方ひとつにしても優雅。しかも注文の順番を合理的に整えてくれたりするのだから舌を巻く。
 お陰でラッシュでは有るものの一切の混乱も無く、昼を泳ぎきる。1時半を過ぎて、客が下火になると、長沢は早速彼をカウンタの片隅に座らせた。
 「体験店員なのに、引き止めて済みませんでした。でも、素晴らしい活躍でしたよ。有り難う御座います。お疲れ様。ちょっと休んでから帰って下さい」
 珈琲カップと今日のケーキを差し出すと、内崎が恐縮した。
 「甘い物、嫌いですか?」
 「いえ。私は甘党ですが、これはお客様にお出しする物ですし」
 「では是非、召し上がって下さい。ケーキはプティ・オレンジ自慢のキャロットケーキなので外れは有りません。問題は家の珈琲。是非感想を聞かせて下さい」
 なるほど、とメーテル・ドテルが納得する。
 「そう言う事でしたら、遠慮なく頂きます」
 ゆっくりとフォークを手にする内崎を確認してから踵を返す。厨房で洗い物をしている北村にも声をかける。手が空いたら珈琲にしよう、希望のおつまみも考えておいて。長沢がそう言い終わると同時に戸口のベルが鳴った。
 「マスター、マスター! な、今日、良いか。一時間ばっかし良いか!」
 昼休みはとうに終了している筈の2時近くだと言うのに、酒井医師が息を切らせて飛び込んで来る。長沢は慌てて応対に立った。座ったばかりの体験店員を立たせる訳には行かない。いつものようにカウンタ席に飛び込む医師に取り敢えず水とお絞りを出す。
 目の下のくまは今も色濃いが、いつも通りの医師だと少しばかり安心する。昨日のような、愛娘を奪われて戸惑っている悲しい父親の顔ではない。疲れが濃く残っているが、医師の顔だ。
 とっちらかった話の内容は聞いてみぬと分らぬが、椅子に腰を着けるや否や、今日の珈琲は何だ、と聞いて来るくらいには、いつも通りの医師なのだ。
 「今日は―エクアドルブレンド。メインはアンデスマウンテン。さっぱり系ですね。美味しいですよ」
 「じゃ、それ一つね。でさ、6時から一時間程、ここ来るからちょっと付き合って貰えるかな」
 そう言う事か、と納得する。
 「ああ。打ち合わせなさるんですね、どっちと。秋元さん?楢岡くん?家でやって下さるなら、是非俺も参加させて頂きたいけど」
 ブレンドをサーバーからカップに注ぎ入れる。ソーサの上に白いカップを置いて、スプーンを添えて差し出す。ミルクの味が好きな医師の前に、クリームの小瓶を移動させる。そうしてからカウンタの前に肘を突くと、医師が一口味わってから深呼吸をした。
 「うん、そう言う事なんだけど。そう、打ち合わせするんだよ、良く分かったねマスター。
 昨日早速"バッカー"さんに電話して聞いたら、次に帰って来た時が一番の勝負だから、それまでに色々用意しなきゃイカンって言われてさ。問題なのは本人に、"ハマってる"自覚が無く、それに周りも説得されてしまう事。だからまずは、ご家族に手順を説明したい。と。仰る通りなんだけど、何か気になってねぇ。
 だから僕、聞いたんだよ。その時にマスターにも同席して貰えたら安心だがどうかって。そしたら、やんわりとだけど何か嫌がられてね。これは、マスターに居て貰った方が良いんじゃないかと思った」
 なるほど、と思う。殉徒総会時代にやり合った長沢は、その大まかな流れも、台所事情も何となく知って居る。ビジネス相手には、裏事情を知って居る人間など、混ぜたくは無い物だ。
 「ナイス判断ですよ先生。戦う相手が胡散臭い時は、対抗する相手も胡散臭い方が良いんですが、難点は、その味方との付き合いに用心しなきゃならないって事でして。
 ご家族と打ち合わせと言う事は、奥さんも康太君も来て頂けるんですか?康太君、久々だなぁ。奥さんにはお会いした事有りませんよね」
 「うん。良いだろうかマスター。面倒掛けて申し訳ないけども、事情を知ってる人が居てくれると心強い」
 勿論、喜んで。そう言うと医師は大きく深呼吸してから、初めて横の席に目をやった。
 「ところで、新しい店員さん?」
 SOMETHING CAFEのエプロンをして、真剣な顔でケーキと珈琲を味わっている男を、そっと手で示しながら医師が尋ねる。含み笑い混じりの気持ちは良く分かった。
 長沢が声をかけると、フォークを置き、口許を整えた修験者がしなやかに立って腰を折る。名乗る声も動きも、全てが優雅なのはホテル御蔵仕込のものだろう。音を感じさせないそれは、メーテル・ドテルと言うよりは忍者のようだ。そう考えて小さく笑うと、内崎がそれに対して何ですかと問うた。
 「ああ、ごめん。余り静かに動く物だから、忍者みたいだな、と。家の新しい店員の内崎です。ほぼ毎日来て貰うので、常連の酒井先生には知ってて貰わないとね」
 「ああ、酒井です。座って座って。常連って言うけど、マスターの知り合いみたいなモンですから。そこの、駅の裏の、爛天堂大学病院の医者です。何か、貫禄有るねぇ貴方」
 もう一度軽く会釈してから内崎が笑う。席に着くと普通サイズに見えるのに、立つと高いと言う事は、恐らく脚が長いのだ。
 「いえいえ。うすらデカイので圧迫感が有るだけです。貫禄や威厳では無くて、身長体重です」
 長沢に向き直る。
 「この珈琲、果物か、花のような香りで、大人し過ぎるかな?と思ったんですが、ケーキにはぴったりですよ、マスター」
 控え目だがポイントを突いた答えに思わずニヤリとしてしまう。ケーキセット用に考えていたのは、実は単純なモカブレンドだ。やや浅めの中煎りでドリップすると、華やかな香りが感じられる一方、味は淡白。シンプルなケーキには合うと言うのが長沢の考えだが、ホテル御蔵仕込の舌も同じ考えのようだ。改めて席に着く内崎を、脇の医師が長沢と同じように感心して見ていた。
 気の効いた短いコメントと言い、引き際のタイミングと言い、非の打ち所が無い。長沢の中にあった、奇妙な違和感は既に融けつつあった。
 「良い人来たじゃない、マスター。これで混雑も解消だな」
 「ええ、本当に。ほっとしましたよ」
 「ほっとした所で、6時から頼んます」
 笑い混じりに頷く。子供を奪われかけている酒井医師の心情がとても他人事に思えない。だから出来る限りの協力はしたいと思った。自らにも愛する娘が居るから。だが、理由はそれだけかと、不意に思う。
 今の自分の心情に、酒井医師の状況が被る。被りすぎるくらいに、被る。恐らくはそうなのだ。長沢は苦笑した。
 そうなのだ。奪われた気がして居るのだ。
 冬馬と言う相棒を、冬馬と言う子供を、任務に。

− 92 −
 
NEXT⇒