□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 酒井医師一家と、(株)バッカー社長、秋元 隆の打ち合わせは、最初の打ち合わせどおり一時間程で終わった。
 医師と医師家族がこれまでの経緯をざっと話し、秋元がそれに答えて、これからの心得と手順を話した。それは実にあっさりとした物で、書類も作らなければ、途中からバッカーズの社員が加わる事も無かった。社長はまず顔合わせだからだと説明するが、それが嘘だと言うのは長沢が良く知っている。
 秋元は商売人だ。少しでも自分が不利な状況で契約書を作る訳がない。
 子供を取り戻したいと願う親には、フッかければフッかけるだけ取れる。全く冷静な第三者が居たらやり難い。それが事情を熟知した長沢となれば尚更だ。やり難いなどと言うレベルではない。だから、契約書作成は今日ではない。恐らくは改めて秋元が酒井医師宅に行った時以降だ。スタッフ数名と医師を囲い込んで契約書を作る筈だ。いや。
 ターゲットは医師ではなく、医師の妻と言う所だろう。
 大丈夫、今の時代はFAXもメールも有るし、いざとなったらP2Pも有るから、俺で良ければ幾らでもお力になりますよ。そう言って長沢が笑うと、秋元は盛大に嫌な顔をした。
 酒井御一行が帰ると、SOMETHING CAFEは酷く静かになった。7時半に近付くとほぼ店じまいで、店内にいるのは漫画に夢中の若いサラリーマンと、おしゃべりに夢中のOL3人組だけだ。長沢はぐるりと店内を見渡して、カウンタに戻った。
 いつものように、厨房の片づけを終えて寛ぐ北村を、後は俺一人で大丈夫ですと送り出す。北村は月給制で賃金を貰っているから、早く引ければ引けるだけ得だ。しかも現在は、まだ付き合い始めて三月経たぬ彼女と蜜月続行中であるから、長沢の申し出に一も二も無く飛びついた。良いんですか?と言いつつ既にエプロンに手が掛かっている北村を、笑いながら送り出す。
 窓の外には、藍色に沈む町と、色とりどりのネオン、窓ガラスをなめては消えて行く車のライトの描き出す情景があった。
 幽霊、か。
 思えばかつて楢岡がその言葉を口にした時、その言葉の指し示す人物を、長沢は冬馬だと思ったのだ。
 犠牲者の二人目、林教授。彼に付きまとい、恐らくはしとめたであろう人物は冬馬だ。だから、林の言う「ストーカー」も冬馬だ。そう思った。だが、どうやら違うと分かった時、感じたのは安堵感だけだった。今となれば浅い考えだったと思う。
 革命を暗殺から起こそうとしている秋津が、刺客を一人しか持たぬ訳は無い。また、全ての刺客を、全てのメンバーに晒す訳もない。恐らくは秋津の下にはバックアップ要員が何人もいるのだ。
 冬馬の話に出てくるいわば「実働隊」は、"あさぎり"と"ゆうなぎ"のみ。あさぎりが冬馬自身で有るのだから、実働隊はたった二人だ。少なくとも、秋津の表の会合に参加し、尚且つ実働隊であるのは、この二人だけなのだ。そう考えると。
 冬馬はかつて自分を木で泥で、地面で壁だと言った。誰の印象にも残らぬ、空気のような存在で有ると。だがそれは違う。
 冬馬や"ゆうなぎ"のような表の空気の裏に、本当の影が有る。冬馬ですら知らぬ、彼の目にもつかぬ木で、泥で、地面で壁が有るのだ。
 それが、幽霊。
 考えて見れば、秋津が幾ら小さい組織とは言え、司令官と実働隊で実働隊人数の方が少ないなどと言うのは不自然だ。司令官は少数精鋭で、兵の数はその数倍。それが基本だ。上層部から命令を受ける"頭"一人以外は、何も知らぬ多数の兵。彼らの司令官はその"頭"で、秋津の存在すら知らぬ兵が下に居る。そう考えるのがむしろ自然だ。
 彼らが、恐らくは幽霊なのだ。
 幽霊、か。長沢は思う。幽霊だってうらめしやと言うぞ。カメラの中で手を振り、ベッドの下で笑い、人の肩に手を置き、レコードやらCDやらの音声データの中に、時にはコメントすら残すと言うのに。この幽霊はそれすらしない。ただ黙って付き従い、監視し、取り囲む。
 同じように性質が悪いのは、人を呪い殺す事が有るらしいと言う事だ。
 
 ばぁ。
 びくり。肩が大きく驚きに動いたものの、続きの反応は無かった。
 カウンタの内側に置かれた椅子に腰を掛け、頬杖を突いた格好だった長沢は、そのままの姿勢で固まっていた。驚かそうと背後からそっと近付き、頭の上から思い切り顔を覗き込む形で舌を出した人物をじっと見つめたまま微動だにしない。
 脅かしたほうは、反応が期待より遥かに下だった為に引っ込みが付かず、同じくその姿勢のまま動かない。十数秒そうしていると、堪りかねてカウンタに手を突く。当然、無理な姿勢であるから、相当に苦しい筈だ。長沢は溜息をついた。
 「……驚いた。はいはい、驚きました。驚いたってば」
 目睫の距離に逆さになっている顔が、満足気に笑った。カウンタに突いた手で反動をつけて身を起こすと、体制を整えてから改めて笑う。長沢は苦笑した。
 「いらっしゃいませ、楢岡くん。本庁から君もわざわざご苦労だなぁ」
 「何だよ、もう少し何か言う事無いの」
 あ、と呟いた長沢が表情を変える。
 「そうだ、幽霊、幽霊って言ってたよな楢岡くん!」
 「は?」
 おしゃべりに興じていたOL三人が、長沢の言葉にぴたりと黙る。幽霊?と中の一人が呟き、同じタイミングでもう一人が、あ、もう八時、と叫んだ。
 「ほら。被害者No2の林先生がさ、君を何度も呼び出したって。幽霊にストーキングされてるから、さっさと幽霊を捕まえろって言ってたって」
 「ああ。……うん。言ったよ。で、それが何?」
 三人のOLが苦笑しながら伝票を持ってくる。幽霊?と囁かれて初めて長沢はその表情の意味を知る。
 「ああ、ごめんなさい、違うんですよ。本当の幽霊じゃなくて、仇名です、仇名。驚かしちゃいましたね」
 何だぁ、と笑った三人組は、口々にご馳走さま、と言いながら去って行く。ほぼ同時に最後のサラリーマンも席を立つ。長沢は最後の一人を外に送り出して見送り、BOX看板を店の壁際に引き寄せた。シャッターを降ろし、営業中の札を準備中になおしてから、扉に鍵を掛ける。中に戻ると、楢岡が用具箱から掃除機とモップを持ち出して来る所だった。
 勝手知ったる常連と言う奴は、実に有り難い。
 「いや、今日さ、同じ事を秋元さんから聞いたんだ」
 「秋……ああ、バッカーの?」
 「うん。何でも例の里中大先生がそろそろ危ないらしくて、既に次代が決まってるらしいんだ。名前は榊 継久ってとこまでは確実みたいだ。で、その次代はずっと大先生本人の側についているらしいんだけど、秋元さんすら顔を知らないんだとさ。そんな訳無いだろうと言ったら言われたよ。
 分ら無い物は分らない。側に居るのに見えず、多くの人間の目に触れながら、正体が分からない、幽霊みたいな奴なんだろう。ってさ」
 楢岡が無言のまま掃除機のスイッチを入れる。
 騒音が室内を満たす。会話がスムーズに行く訳も無いので、長沢はその間に机を全て拭く事にした。
 全ての台上を拭き終わり、楢岡から掃除機を受け取って最後まで済ませる。楢岡が低い唸り声を上げた。
 「じゃあ何か。Kちゃんは、一連の犯人は殉徒総会の中にいると言いたいのか」
 言われてみて驚く。なるほど、その考え方も有った。
 当然ながら長沢は、秋津の関連性の方を考えていたのだが、そこまで言及するつもりも無かった。楢岡の考えを聞きたかっただけなのだが、予期せず丁度良い隠れ蓑を提供して貰った。頂いた材料は利用するべきだ。わざとらしくない程度に。
 「いや、まぁ…そこまではっきりは言わないけどさ。関連性が有るんじゃないかと思っても無理は無いだろ。だって、何度も何度も会ってるのに、顔も覚えられない人間って、そうは居ないぜ。複数人と考えた方が自然だろ?殉徒総会がらみの殺人事件、噂じゃかなり聞くしさ。不自然じゃないだろ。
 それに、楢岡くんには悪いけど、警察内部にも総会の人間は数多いと聞く。これは厳然たる事実だろ。事件が片付かない真相は、そこらに有るんじゃないかと言う想像は、決して突飛なモンじゃないと思うんだよね。
 ………まぁ、もっとも。そうなると俺の推測、これは国粋的な一団の恣意行為で有る、って方は説明し辛くなっちゃうんだけどな…」
 「それでも、無関係とは思えない、って訳………か」
 大きく頷いて、楢岡を振り返る。先程までお茶らけていた男は、今はカウンタの脇に寄りかかって立ち、眉間に皺を寄せて俯いている。
 本気で考えている時は、人は無言になるものだ。この男にしても例外では無い事は、先日の兵庫旅行で良く分かった。
 「――同感だ。
 止めてくれよKちゃん。プロが三日かかって辿り着いた仮説と大して変らない結果を、適当に総会関係者と話して導き出すの。物凄く凹むわ」
 カウンタ席に腰をずり上げる楢岡の隣に、長沢も座る。そうなのかと目で問うと、溜息交じりに頷いた。
 「俺、総務だろ。殉徒総会にもはっきり言って絡む。とゆーかね。名前ははっきり言えないけど、俺は現在、反総会側のとある人物に張り付いてる。元々は反日的な動きをする個人や団体に怖い物知らずに突っかかってた准教授なんだけど、最近は選挙が近い所為で公正潰しに躍起になってて、結果、総会とやりあう事になる訳。俺、当分その人にくっ付く事になりそうなのよ」
 名前は言わぬと言うが、言ったと同じだ。長沢は小さく笑った。
 最近の保守派の主流は、こうした恣意行動をインターネットの動画サイトを通じて広く世間に公開している。今までは街角で行なわれていた街宣は、今では街角とWEBの二つのステージで同時に行なわれ、PCを娯楽ツールとする若い世代を中心に拡まっているのだ。当然、長沢がそれらを知らぬ訳がない。
 「ああ、慎先生か。楢岡くん、慎先生の担当になったんだ。大変だこりゃ」
 「……。何、その知り合いみたいな親し気な呼び方」
 「―ん?知り合いだから。一緒に飲んだ事、有るよ。時々は店にも来てくれるよ。話面白いし、最高」
 「………本当、止めてくれよKちゃん」
 洋興大学歴史文化学部准教授、浅井 慎一。保守活動家。反グローバリズムのスピーカーの一人で、最近は他の活動家とも組んであちこちに抗議活動に出かける様を、凡て動画サイトに公開している。国会解散の匂いが強まってからは政教分離を強く唱え、公正党の中央政治からの撤退を全国に呼びかけている。国民一人一人がカルトにNOを言おうと言う、極々正当な主張だけに、最近富に賛同者も増え、類似の団体も増加しつつある。
 長沢の挙げた名に不平は零したものの、否定も肯定もせぬままに楢岡は話を続ける。情報を漏らしているのではなく、ただ喋っているだけだ、と言うアピールらしい。
 「インターネットのお陰でその系列の人物に共感する人間がわんさと増えてさ。総務、四課、機動隊入り混じって偉い騒ぎになってるんだわ。凄いよ、大人しそうな若い女が特攻してくるんだから。私の○○さんに何をする!って。……まぁ、それは置いといて。
 その人物について回ってると、殉徒総会の内情が見えて来た。巷で色々言われている噂は、確実に内部情報で、なかなかどうして正確だ。カルトは怖いってのは実感するよ。で、更に不気味なのは、丁度過渡期に有るって事。これからシステムも人員も変って行くが、どう変るかはまだ分からない。分からないってのは一番不気味だよな。総務だけの範疇じゃなくなるのは、ほぼ確定だろう」
 遠慮した言い方だが、真意ははっきりと伝わった。楢岡はこう言っているのだ。
 直ぐに公安警察だけの問題ではなくなる。捜査一課や機動隊と協力する事になるだろう。
 「美也ちゃん取り返すなら早い方が良い。今の体制なら安心だ。秋元と協力して、なんとしても変る前に奪還してくれ」
 隣の席の長沢は、神妙な面持ちで、何度と無く頷きながら話を聞いている。楢岡が身を乗り出すと、重要な話を聞こうとばかり、微かに長沢も身を乗り出した。
 「俺は警官だからね。信者奪還には直接手は出せない。"俺に出来る協力"はするからさ、Kちゃんが力を貸してやってよ」
 「うん。分かった。やってみるよ。頼りにしてる」
 「ところで」
 「うん」
 「今、ここに二人きりだってKちゃん気付いてる?」
 シャッターの向こうに、街の騒音が降り下りる。トラックの大きなタイヤがが路面を擦る音。ファミリーカーのクラクション。右左折を声に出す車の音声。SOMETHING CAFEの中だけが静寂だった。
 半ば、視線を落すようにして聞いていた男が目線を上げる。きょとんと楢岡を見つめ、そのまま固まる。赤くなる迄に一分と掛からなかった。
 楢岡が声を上げて笑うのと、長沢が怒って席を立ったのはほぼ同時だ。
 「いいいい、いい加減にしろよ楢岡くん! 俺今物凄く真面目に聞いていたんだぞ!」
 カウンタ席の上で、楢岡は腹を抱えて笑っている。カウンタの上に顎を乗せ、言葉どおり両手で腹を抱えて笑っている。元々良く響く声は、笑い声にも健在だ。やや暫くそうして笑った後で、笑いながら腹が痛いなどと呟いている。長沢はザマを見ろと思った。人の失敗を大笑いする人間は、腹痛でも頭痛でも苦しむが良いのだ。長沢は中っ腹のまま、笑いに苦しむ男の後ろに佇んでいた。
 ようやっと笑いを収めた男は、相変わらずカウンタに顎を乗せたまま、荒い息に肩を揺すっている。呼吸を鎮めてから振り返るが、そこに有るのが満足そうな笑顔で、長沢はそれが実に腹立たしかった。
 「ごめんごめん。もう腹痛い。勘弁して」
 勘弁しても何も無い。勝手に人をからかって、勝手に笑い転げているのだ。恥をかかされて、勘弁して欲しいのはむしろこちらではないか。徐々に本気で腹が立って来た。憮然と睨みつけていると、また小さく楢岡が吹き出す。
 「赤い顔で睨みつけられても、全然威厳ねぇ。っつかKちゃん可愛い。マジで可愛い。もう勘弁。笑い死ぬ」
 「……き、君なぁ!俺は本気で話してたのに、ふざけるなら…!」
 「あいた!」
 長沢の言葉を千切って楢岡が叫ぶ。そのままカウンタの盤面に顔を押し付けて黙り込む。長沢は仕方なく口を閉じた。どうせまた笑い転げるのだろう。好きにすれば良いのだ。
 だが、楢岡は笑わなかった。それまで散々笑ったくせに、今度はその姿勢のまま微動だにしない。息はしているが、一言も発せず固まっている。暫くは様子を見守った長沢だが、少々長いので気になって来た。背後から近寄り、その背中に手を置く。
 楢岡くん。そう呼びかけ……る前に身体を両腕で抱き寄せられた。
 片腕を腰に通し、もう片手を後頭部に回してカウンタに押し付ける。腰を抱えられて持ち上げられた格好だから、体重はカウンタに乗せられた頭部と、中途半端にストゥールの足掛けに乗った足だけに掛かる。不安定な姿勢に、慌てて楢岡の肩を掴む。目の前の顔にゆっくりと笑みが広がった。
 「Kちゃん。俺達、付き合お」
 また、その話か。下ろせ、と言う意味で肩を叩くが、楢岡は反応しない。それどころか、長沢の不安定な体勢を重々理解した上で顔を近づけて来る。視界一杯を顔が埋めた所で思わず双眸をきつく閉じた。触れてくる熱さを覚悟する。体が強張るのを自覚する。
 だが、それは訪れなかった。
 不思議に思って目を開けると、触れんばかりの近距離で、笑いを含んだ瞳が見つめていた。
 「だって、Kちゃん俺の事好きだろ。俺もKちゃんが好きだ。付き合おう」
 「な……!」
 にを言う。言いかけた言葉は、楢岡の口の中に飲み込まれた。
 熱い唇が覆う。半開きになった口を柔らかい唇で塞いで、熱い物を差し入れてくる。歯列を辿り、口内に忍び込み、舌をさらう。巻きついてくる。背筋にぞくりと奇妙な振動が抜けた。
 まずい、と思う。あの日から身体の奥に横たわったままの快感が鎌首をもたげる。この男の匂いに、気配に、感触に、理屈ではなく身体が感じる。長沢は肩に手をかけた。身を剥がそうともがく。馬鹿正直に身体が反応するのだ。言葉で拒否している事を、身体が容認する。容認するどころか。
 望んでいると思われるのが嫌でもがく。密着したこの体勢では快感を隠す事が出来ないのだ。必死に剥がそうとすると、一際強く腰を引き寄せられて、抱き入れられる。楢岡がそっと唇を離した。
 「Kちゃん……?」
 先程まで怒っていた長沢が、赤くなったまま俯いているのを認めて、楢岡は腰から腕を外した。そのまま腕を掴んで引き寄せ、共に床に座り込む。そうしてから改めて抱き寄せる。触れ合っているのは互いの胸から上と、長沢の膝、楢岡の腿だけだ。ほっと息をつく長沢の頭の上で、楢岡が小さく笑った。
 「これなら恥ずかしくないだろ。急だったな。悪い悪い。何しろKちゃん、男とマトモに付き合うの初めてだモンね」
 何から何まで見透かされていて腹が立つ。この男は、胸の中の逡巡も意地も、納得出来ないモヤモヤも、そして恐らくは身体の奥に徐々に大きくなりつつある欲望も、全て分かっているのだろう。広い胸に迎え入れられ、ゆっくりと頭を撫でられて溜息をつく。強張っている身体が、不意に馬鹿らしくなった。
 「君は付き合うって言うけど……一体、今迄と何が変るんだよ……?」
 んー。胸郭で、声が響く。
 「見た目は何も変らないかな。Kちゃんにも俺にも職場が有るし家が有るから、いきなり一緒に住むとか有り得ないし。環境は今迄通りだねぇ。敢えて言えば。俺がSOMETHING CAFEに来る目的が、珈琲じゃなくてKちゃんになるって事かな」
 「それ……全く何も変ってなく無いか…?」
 バレたか。胸郭に笑い声が響く。暖かい声だと思う。
 「その……さ」
 「ん――……」
 「俺、多分、楢岡君の希望には添えないぞ?多分ずっと女性のが好きだし、頑固でマイペースだし、カミングアウトもしたくない」
 「分かってるよそんなの。それだけ?他にもっと無い?」
 「……君のこと、好きかどうか分からないし。これからも好きになれるかどうかなんて分からない…」
 「ふん、そんで?」
 「…………」
 「何だよ、もう品切れかよ」
 ぐいと身体を引き剥がされて、真っ向から挑まれる。そこに有るのは相変わらず、満足そうな笑みだった。
 「じゃ、決定だな。Kちゃんは今日から俺の恋人だ。安心しなさい。あんた俺の事好きだよ。俺見るたびに真っ赤になっといて、分かってないのはKちゃんだけ。もー俺、あんたには驚かされっ放し。47歳でこんなウブい反応するとは思わなかった」
 悪かったな。何を言ってもちぐはぐな気はしたが、どうにも腹が立つので、取り合えず悪態をつく。余計に嬉しそうに笑われて、もっと腹が立った。
 大きな掌が頬を辿って引き寄せる。みつめたまま、暖かい唇で鼻と口を辿る。ゆっくりと暖かい唇に包まれる。
 異論は数々有ったが、ぬくもりの中でどうでも良くなった。腰を引き寄せられ、今度こそ身体の正面に抱き入れられる。密着する身体の中央が熱くなっているのは、最早隠しようもなかった。
 

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