□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 
□ 使徒 □

 ほうら、無駄ではなかっただろう。
 周囲の目が無い時を見計らって、そう自慢げに囁く。それはどうかな。口には出さず、冬馬は思った。
 唯夏が空けておけと言った週末まで、冬馬にはさしたる変化は無かった。明らかに殉徒総会の遣いである女は何も声をかけて来ず、仕方なく冬馬の方から話しかけると、真っ赤な顔で逃げて行ってしまった。当然、動きなど有る訳もない。
 だから、週末は言われるがままに唯夏について来た。
 唯夏こと夕麻の"ターゲット"である城野。その二人のデートに着いて来て、今、"目的の場所"に立っている。
 確かに無駄ではなかった。それどころか予想外の収穫だ。ご満悦の唯夏に頷く。彼女は念を押すように笑みを深め、速やかに視線を反らした。
 唯夏の男心に対する推測など凡て外れている。だが、結果オーライだ。
 
 その日、"ファンダム美術館で催されている「クリムトとウィーン世紀末美術展」に行こう"と言う名目で唯夏を誘った殉徒総会青年部の城野は、待ち合わせ場所の紀伊国屋書店前で、まず相手が一人ではなく二人組である事を知った。
 唯夏に嬉しげに手を振って近付き、その後に酷くうろたえた目で冬馬を見る。それだけで良くその心根は理解できた。
 女をモノにしようと思う男の心は、当然ながら唯夏より遥かに冬馬の方が分かる。モノにしようとしている女とのデートの現場に、自分よりも遥かに上背のある、目つきの悪い男を共につれて来られたら、こうなるのは当然だ。
 まず自分なら、と考えれば答えは簡単だ。帰る。帰って二度とその女には近付かない。冬馬が女を欲しいと思う時は、即ちSEXをしたい時なのだから、男連れの女に用は無いのだ。だがこれは、城野の答では無かった。
 「……弟さん?」
 「ごめんなさい。……着いて来て貰っちゃった」
 「あ、そ、そう…」
 日本の男は一般的に、よく言えば我慢強い。悪く言えば意気地が無い。帰るどころか不平も言わず、どうしようかと悩んでいる。冬馬は心中で舌を打った。
 幼ければまだ可愛気も有るが、上から常に睥睨するような目線を向ける"付録"付きで、浮かれた気分になれる訳がないのだ。あまつさえ、女をモノに出来る訳も無い。さっさとデート等取りやめて、他の手段に移るが良い。
 城野は暫し逡巡してから、分かった、と笑った。これだから日本人は分かり辛い。何がどう分かったのか冬馬には理解できなかった。
 「まず、今日のメインイベントに行きましょう。それから先の事はその時考えれば良いよね」
 
 有名百貨店の大きなビルの中にあるファンダム美術館に向う。最上階の全フロアが美術館スペースになり、展示室の前にかなりひろいロビーと販売コーナーが設けてある。本日のメインイベントは、そこで催されている「クリムトとウィーン世紀末美術展」だと、唯夏から聞いている。
 クリムトくらい知っておけと、唯夏に予め美術展のWEB頁を見せられたが、金色のブロックの中にやたら血色の悪い男女が居る絵は、冬馬は好きではなかった。
 美術だの芸術だのと言うのは、彼にとってはただの暇つぶしだ。であるなら、何故こんな陰気で気味悪い物を描くのか分からない。そう言うと、唯夏は暫く絶句してから笑った。
 朝人、気味悪いだの、嫌いだのと言うのは感情だ。お前、存外芸術に馴染む個性かも知れないぞ。
 だから冬馬はロビーで待つ事にした。唯夏は音楽も美術もそれなりに嗜む"文化人"かも知れぬがこちらは違う。気の効いた感想など求められても不愉快なだけだ。ロビーのソファで寝ている方が有意義だ。
 感情。その言葉をロビーのソファに身を持たせかけてぼんやりと思う。
 "朝人"の感情は全く揺らがず、実に平穏だ。焦りも迷いも感じず、憤りも無い。クリアで非常にやり易い。そう考えて微かな違和感を覚えた。
 "冬馬"もつい最近まではそうだった筈だ。何事にも過剰な反応などせぬし、必要以上の落胆も高揚も無く、平穏無事にやって来られた。小さなトラブルくらいは常に有ったが、その都度TPOを弁えて対応出来たし、ミスも無かった。クリアで、クール。正しく今の感覚は数ヶ月前までの"冬馬"なのだ。そうだ。これが変ったのは、つい最近の事だ。
 この数ヶ月。平穏と言う感覚は無かった。感情は欲望とごっちゃになって、上下に揺れて揺れまくった。焦燥と不安と訳の分からぬ憤りで沈み、今や理由も分からぬ至福に舞い上がった。渦中に居る時は頭の上まで浸かっていたが、過ぎてしまうと……嘘のようだ。
 目を閉じる。まぶたの中は薄いピンク色だった。人影も何も、浮かばなかった。
 二時間程も寝たろうか。戻って来る二人の声に気づいて立ち上がる。近付く冬馬の姿に反応したのは、唯夏ではなく城野だった。深々と頭を下げる。
 「ごめんね!お待たせしちゃったなぁ。ついついじっくり見ちゃったんだ。でも凄く良かったよ。朝人君も一緒に入れば楽しめたと思うんだけど」
 勝手に着いて来た挙句、始終不機嫌そうな冬馬に、城野は幾度と無く話しかけて来る。
 美術館から出て散策し、都営地下鉄に乗って城野が勧める店で食事を済ませる間も、細々と趣味や日常の生活について語りかけてくる。将を射んと欲すればまず馬と言う言葉を良く理解しているからなのか、殉徒総会特有の探りなのかは判断がつかぬが、男が本来人の良い、素直な人格なのだと言う事は良く分かった。
 いかにも女性万人に受ける造りとメニューの店に招待し、常に唯夏だけでなく冬馬にも向けられる心配り。何とか雰囲気を良くしようと冬馬を持ち上げる様。凡てが計算だとしても、その努力は評価出来る。日本人的基準の「良い人間」なのだ。
 相変わらず仏頂面のままの冬馬の横で、唯夏が小さく笑った。
 「ごめんなさい。朝人に悪気は無いんです。私が弟離れ出来てなくて、無理矢理引っ張り出したものだから、不貞腐れてるの」
 いや、構わないよ、と城野が言う。嘘をつけ。冬馬は思う。意気地なしめ。お前は手に入れようとした女に軽くあしらわれて、傷ついているのだろう。この女は正攻法では落ちないぞ。まだるっこしい事は止めて、早く自分のテリトリーに連れ込むが良いのだ。
 「弟さんと仲良いんですねぇ、夕麻さんは。凄く良い事だと思いますよ。しかも美形姉弟だし。家にも妹が居るけれど、僕と同じく冴えないので、お二人見てると実に羨ましいな」
 「…本当に、ごめんなさい。何か埋め合わせが出来ると良いんだけど…」
 主要なイベントは全て終了と言うタイミングで、唯夏が呟いた。やや早いが解散か、と思っていた冬馬は心中で口笛を吹いた。大した物だ。軽くあしらいながら、しっかり誘い水を撒く事は忘れない。
 「え、本当に……?」
 「はい」
 この女が自分のタイプの女で無くて良かったと心から思う。恐らくは、このやり方には嵌められる。一度嵌められたら、後が厄介なのも実感する。案の定、冬馬の前で城野はぽんと手を打った。通りの向うを見遥かす。
 「…じゃ、お言葉に甘えて。ちょっと付き合って貰えますか?この先に、僕の先輩の事務所が有るんですよ。ちょっとそこに寄りたいんです。良いでしょうか?」
 「はい」
 自分から言い出した事だから断れない。少し驚いた顔をした唯夏は、それでも素直に頷いて微笑む。
 控え目な笑顔も言葉も自然で、待ってました!ほら来た!と心中で快哉の声を上げている等とは誰にも思えぬ。冬馬が大きく溜息をつくと、城野はその意味を取り違えて気まずげに笑った。
 「ごめんね、朝人君、もう少しだから付き合って。あ、でも君も知ってる人の事務所だよ。ほら、前回の飲み会でお会いしてる、高部と言う人。憶えてませんか」
 冬馬から唯夏に対象をスライドさせた呼びかけに、二人はそっと目を合わせる。互いの意図はそれだけで伝わった。
 「俺は覚えてない。姉貴は?(あいつか。恩着せがましかった、あの)」
 「さぁ…どうかしら(そうだろう。間違いあるまい)」
 口に出たのは曖昧な答だが、勿論、唯夏も冬馬も憶えている。高部と言うのは、飲み会でパトロン的役目を果した男だ。
 腹の出た中年で、壮年部の高部と名乗り、飲み会会場に居る20人余りの男女に派手に笑いかけて言ったのだ。額面の上では多少協力をしたから楽しんで下さいよ。恰幅の良い男にそう言われたものだから、その場の全員は男に礼を言った。男はことさら大笑いして去って行ったが、その後にその場の全員は一人三千円づつ徴収されたのだ。不平の声が漏れかけると、城野はすかさず言ったものだ。
 実はここの店ちょっと高いんですよ。本当は一人大体、六千円くらいかなぁ。でも、高部さんが協力してくれたから、安く済んで良かったですね。
 なるほど。冬馬と唯夏はお互いに肩をすくめる。姑息だが上手い手だ。一銭の金も使わず、男は全員に小さな感謝の念を植え付けた。ただ一言協力すると言い、青年部の人間がそれを肯定しただけだが、集団の心理は先導者の言葉に沿うものだ。お陰で高部の顔は良く憶えた。ただし、二人に関しては恩を感じた相手としてではなく、姑息な壮年部員としてだ。
 唯夏は、得意気に高部の説明をする城野の話を否定もせず、肯定もせずに付いて行く。冬馬も仏頂面でそれに習った。
 ほんの数分の行進で着いた建物は、極々普通のビルだった。一、二階は吹き抜けのガラス壁になっており、中の様子が見えるのが、開放的なイメージだ。垣間見えるのはシンプルなロビーで、暖色のソファセットにガラス盤面のテーブルが設置され、その上でキャンドル風のライトが暖かい色を点している。脇に置かれた胡蝶蘭の鉢植えも手伝って、豪奢で暖かい景色が作られている。
 現代風で開放的な建築物と、その中に垣間見える人間の体温。どこにも総会のマークも、特有な旗も無い。極々普通のビジネスビルである。――知らなければ。
 予備知識が無ければ、誰もここがカルトの出張所とは思うまい。
 「どうぞ」
 中に入る。ほんの数歩進んで、まず唯夏が立ち止まった。
 「いらっしゃい。連絡貰ってから待ってましたよ。えーと……」
 開放的な外見と、中の印象はまるで違う。外から見える入り口ロビーは広く快適だが、直ぐその突き当たりは漆黒の壁だった。ガラスの外から居ると、影に見えるその部分は二階までを覆い隠す大きな壁で、真ん中に受付の窓と、丈高い観音開きの扉が付いていた。
 扉は閉ざされ、その表に高部がいた。にこやかに手を振り、近付いてくる。受付の窓には二人の女性と、警備の制服を来た二人の男がいた。
 「岐萄夕麻さんと、弟さんの朝人君です」
 背後から城野が言い、殉徒総会の二人が並んで立つ。姉弟二人の会釈を確かめると、何やら話し合う。
 唯夏が背後の冬馬に視線を投げる。ほうら、無駄ではなかっただろう。私の言う通り、辿り着いたろう。
 冬馬は溜息混じりに頷いた。
 
 総会支部の内部は、会員で無いと入れない場所だと聞く。恐らくそれは本当なのだろう。
 城野と高部に先導されて入ったのは、極普通のオフィスの一室だった。長テーブルと椅子。そのセットが二列に数セット並び、高い窓から昼の白光がその上に注がれていた。多目的に使われる小ホール。そんなイメージだった。
 その場に何人もの男女がいなければ。
 "岐萄姉弟"は、基本的な知識は既に理解している。この教団のやり口も求める物も知っている。だからこの時が来るのを待っていたのだが、それでも予想より早い。思わず二人で目を合わせる。
 他人から見ればそれは、予想外の事に驚き、互いに戸惑いの目線を交わしたのだと見えただろう。だが実際は違う。
 "岐萄姉弟"は、思いの他の事態の好調な進行に互いにほくそ笑んでいたのだ。
 「ようこそ。お家はどちらかしら。――あ、その前に座って座って」
 指し示された椅子に座る。まずは冬馬から、次に唯夏が。冬馬はふてぶてしく、唯夏はおどおどと座る。後は目の前の人間達が何を喋っても、相槌を打って置けばよい。
 「お二人は何か信教がお有りになる?」
 所属は婦人部なのだろう。50代に差しかかろうかと言う太り肉の女が目の前に陣取った。
 三人座りの長テーブルに冬馬と唯夏が座り、その前面に4人が並ぶ。両脇を固めて、冬馬の右手に二人、唯夏の左手に二人が腰掛ける。横手から逃げられない為の布陣だろう。背後は1メートル程で壁だが、逃がさない事が主目的なら恐らくそこにも立つのだ。冬馬は溜息をついた。
 見知らぬ人間に囲まれ、背後まで取られるのを気にしない人間は愚かだ。視界の死角を他者に制圧されたくは無い。青年は椅子ごと真後ろに向き直った。歩み寄っていた男がびくりと脚を止めた。
 後ろに立つな。不愉快だ。
 言う変わりに、男の目を捉えたまま姿勢を低くする。両脚に力をこめる。いつでも飛び掛れるように。
 流石に、平和に慣れ切った日本人にも、これだけあからさまな威嚇は分るらしい。男はゆっくりと歩みを止め、じりじりと後退さった。後退さり…後ろに構えていた人間にぶつかって止まった。
 びくん、と自らの頭が揺れたのが分かった。
 反射的に目を細める。驚いた。男が衝突するまで、青年はその場に他者の気配を全く感じていなかったのだ。慌てて障害物に視線を走らせる。視界に入って来たのは、背景に溶け込む色だった。
 グレイ。
 グレイのスーツ。薄いベージュの壁の色に穏やかに溶け込むグレイの人影だった。
 男。……極普通の。
 冬馬の中で、警鐘が鳴り響いた。
 

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