□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 最初は流されたのかも知れない。いや、恐らくはそうだ。それでも、最後は確かに自分で選んだのだ。
 きっかけは単純だ。SEXの快感。それに溺れた。はっきりしている。間違いない。
 愛だの恋だのと言う甘ったるい関係では、断じて無い。ただ、抱き合っていると気持ち良いと言う、それだけの関係だ。双方が満足するなら拒否する必要は無いという、それだけの事なのだ。そう。それだけの事だから。取り敢えず、始めてみた。
 生まれて初めて、男との交際と言うものを。
 
 1月も気付けば既に1/3が終わっている。
 今週中には国会が始まる。新テロ対策特別措置法の給油法案の期限切れを目の前に、国会は開会早々荒れるのは必至だ。
 現時点で、参議院における自明党と民衆党の人数は、与党と野党が入れ替わった捩れ状態に有る。恐らくは衆議院で可決された給油法案は参議院で否決されて差し戻され、期限切れになる。そうなれば、体力の弱まっている自明党は解散となるだろう。
 年明け解散。一月に解散等と言うのは、90年の海部政権以来だ。
 解散になれば二月には選挙だ。今のタイミングで選挙が行なわれれば、おそらく自明党は野に下るに違いない。そうなれば。
 戦後初の完全リベラルの単独政権が日本に生まれる事になる。ぞっとしないと長沢は思う。
 このタイミングで。日本の表舞台で戦後最大の政変が起ころうとしているこのタイミングで、裏が動いている。
 自明党が野に下り、民衆党が天下を取る。二大政党の立場が逆転するのだ。現在、日本に有る政党は7つ。前述の自明、民衆の他に、公正、社会、共産、国民、新党海、が有る。前三者を除けば殆どが少数政党で、いずれも十人以下の党で有る。となれば当然、鍵を握るのは、二大政党の次の位置にいる、公正党と言う事になる。公正党とは、即ち殉徒総会の政治部門だ。
 秋津の狙いはストレートだ。軍の無いこの国で、政治を変えようと思う人間が上層部にいたら、起こすべき行動はクーデターではない。政治改革だ。ただし、その基本となる物は民主主義ではない。
 暗殺であり、粛清だ。絶対的行動力を持つ、未来のリーダーの独裁。
 失敗すればテロリズムと名がつく。しかし成功すれば、これは革命と呼ばれるのだ。
 戸口のベルが鳴る。丁度カウンタ前にいた内崎が、いらっしゃいませと迎えた。
 徐々に人の波が落ち着き始める一時過ぎ。いつものように酒井医師がやって来てカウンタ席に着く。厨房に入っていた長沢が、北沢と交代してカウンタに入った直ぐのタイミングだった。
 「Aランチ一つ。えーと、ブレンドで。もうすっかり内崎さん、慣れちゃったねぇ」
 注文を取りながら、内崎が微笑む。元々がこのジャンルのプロなのであるから、小さな店の構造と、客の流れさえ理解すれば慣れるも何も無い。正規に店員となったその日から、この店で一番の要と言う貫禄だった。看板娘は溜息をついて言ったものだ。
 「やだぁ、これじゃ本場のカフェみたい。ここ、ただのSOMETHING CAFEなのにね」
 感嘆と賞賛と、ちっぴりの不平。言いたい事が100%伝わる言葉に、長沢も吹き出さずにはおれなかった。ただのSOMETHING CAFE。その感覚は実に良い。
 全ての客が構えずに、ふらっと立ち寄っては我が家のように寛いで珈琲を飲み、帰って行く。旅先や職場と、家の中間に有る止まり木。ただのSOMETHING CAFE。そうなれたら何よりだ。そうなれているのなら、こんなに嬉しい事は無い。
 「ハッピーマンデー方式って嫌だよな。もし来年だったら、美也の成人式は昨日終わってるんだぜ。一生の思い出になってしまう」
 殉徒総会に奪われた成人式など、一生の思い出にしては駄目だ。その言葉を医師は飲み込む。長沢は無言でブレンドを差し出した。
 「今の所、何の連絡もありませんか」
 美也ちゃんからも、(株)バッカーからも、警察からも。後半は言わずに、カウンタに身をかがめると、一口珈琲を味わった医師が頷いた。
 「うん。でも、秋元さんは見かけより親切な人だな。色々気にしてくれてる。総会は週末ごとにあちこちで説明会みたいのをやるから、社員さんがあちこち覗きに行くんだと。昨日一昨日もやってたけど、美也さんは見つかりませんでした。続けて探しますって。細々と良く連絡くれて、少しは気が休まる。現在も、五つのケース同時進行らしい」
 ビジネスの邪魔しないでくれよ。そう言った秋元の顔が脳裏に蘇る。他人に言うだけ有って、企業努力はきちんとしているらしい。ただし、五件と言うのは嘘だ。それぞれの家族に少ない数を知らせるのは、「被った時大丈夫なの」と不安を抱かせない為だ。実際はその倍は同時進行している筈だ。
 「今週中に帰って来なかったら、一度殉徒総会に文句を言いに行きましょう。栗東大学の集会写真にスタッフをしている美也ちゃんがバッチリ写っていましたからね、妄想だのと言われずに済みます。先方の言い訳は何ダースでも浮かびますが、意思表示すると言うのが大事です」
 「…そんな事して美也は大丈夫なのか?」
 「そこまで殉徒総会も馬鹿じゃ有りません。いきなり美也ちゃんに手をかける事は有り得ない。まずはこちらのアピール。存在を知って貰わないと。相手を揺さぶるんです。驚かせるんです。
 総会員のお仲間然として中に入り込んで、中でいきなり文句を言う手は、一回は通じます。どこに文句を言いに行くか、そこだけ良く調べておいて言いに行きましょう。まずは先生から秋元さんに、SOMETHING CAFEのマスターがそう言ってたんで、行ってみようと思うと電話して下さい。出来るだけさりげなく、何かのついでに、ね。そうすれば多分、秋元さんが俺に色々教えてくれる筈です」
 医師が目を丸くする。温和な丸顔に浮かぶのは、正直な驚きの表情だった。
 「マスター、慣れてるなぁ。流石、かつて殉徒総会を放逐しただけの事は有るねぇ。分かった。毎晩定期報告をするから、その時に言ってみるよ」
 楢岡から与えられた写真の価値は非常に高い。あれは「動かぬ証拠」と言う奴なのだ。
 元旦の栗東大学講堂でのシンポジウム。そのいわゆるコンパニオン。時も場所も役柄もはっきり示す写真は何よりも強い。この女性を返せと言う一言の重みをがっちりと裏付けてくれる。当然、先方はのらりくらりと言い訳をするだろうが、妄想と言う言い逃れは効かない。証拠があるからだ。
 誰にも気付かれぬように、長沢はそっと息をついた。楢岡の写真がもたらした動かぬ証拠は、美也だけではなかった。他にもう一つ……。
 カラカラと戸口のベルが鳴る。その音にびくりとしない自分に、長沢は少なからず驚いた。
 医師と話して居る短い間にも、幾度も玄関のベルは鳴っていた。その度に逸早く内崎が反応してくれるので、気付けばすっかり楽になっている。ワンテンポ、ツーテンポ遅れても、或いは挨拶すらしなくても、客はおろそかにされたとは感じぬのだ。
 僅か一週間で油断し過ぎだと、気付いてひやりとした。適度ではなく、ずば抜けて優秀な人材が、場末にいつまでも留まる訳も無い。こんな慣れ方は非常に危険だ。
 慌てて、戸口を見る。席に収まってメニューを見ている男の姿に覚えがあった。
 「ちょっと失礼」
 医師に声をかけてカウンタを離れる。水を運び終えた内崎に、自分が行くと手で合図をする。扉側の壁際、手前から二つ目の席に着いた男の脇にそっと立つ。人影に自然に視線が持ち上がるのを待って深々とお辞儀をする。男が頭の上で、ん?と声に出した。
 「先日は大変失礼致しました。札を直し忘れていたもので、ご不快な思いをさせてしまって」
 男の目が大きくなる。次の言葉は予測が出来た。
 「憶えてたんだ。顔合わせたのなんてほんの一瞬だったのに。凄いねぇ」
 予想通り。人の顔の覚えは良い方だと自負しているが、それだけではない。特徴的な大きなビジネスバッグは顔以上に存在感が有ったのだ。今現在、目の前の椅子に放り投げられている、まさしくそのバッグである。
 「いいえ。忘れられませんよ。本当に申し訳有りませんでした。良くいらして下さいましたね。一週間ぶりです」
 そうだっけ。短く切り揃えられた頭は、生え際に沿ってツンと持ち上がり、恐らく、見た目よりは若いのだろうと感じさせる。老けていると言う訳ではないが、落ち着いた雰囲気が30代後半を感じさせる。実年齢は-5才程だろう。
 「ええ。いらしたのは4日ですから。先週の月曜日です。お詫びに、今日は一割引にさせて頂きます」
 へぇ。良く通る声で客が言う。
 「凄いサービス良いじゃない。次もまた来なくちゃと思っちゃうね」
 「ええ、是非」
 ブレンドの注文を取ってカウンタに戻る。内崎がすかさず、常連かどうかを尋ねて来る。長沢は頭を振った。
 「お客様としては、初めて…かな。今日は俺が担当します」
 ブレンドを淹れて、プチケーキを共に差し出す。二つ向うの机の女性が冗談めかして、ズルイ、と言うのへ、お初の方へのサービスですからと付け足す。店の印象など、ほぼ80%近くが一回目の来店で決まるのだからサービスしてし過ぎる事は無いのだ。そう言う意味では、これもサービスで有る、とアピールするきっかけを作ってくれた女性に礼を言いたい所だ。帰り際に小さなプレゼントでも提供しよう。
 カウンタに戻ると、酒井医師がそろそろランチを平らげるタイミングだった。毎度思うが医師と言う人種は早食いだ。
 「でさ、もし行く事になったら、その時はマスター行ってくれるの?SOMETHING CAFE有るから無理か…?」
 「大丈夫。ラッシュを避けて2-5時の間の二時間くらいなら抜けられますよ。早紀ちゃん辺りに特別手当、請求されそうだけど、何の何の」
 長沢の言葉に、医師が申し訳なさそうな表情になる。長沢は頭を振った。医師が少しでも、長沢に対して申し訳なく思う必要は無い。実の所、礼を言わねばならないのは長沢なのだ。
 楢岡がもたらした写真に、"確信"を得た時から。その写真の中に見慣れた灰色の頭を見つけた時から。長沢の意思は変った。
 それまで、"出来るだけ協力せねば"と言う、単純な義務感で動いていた物が、"これを足がかりに食い込もう"と言う、野望になった。獲物は殉徒総会では無い。殉徒総会に噛み付こうと背後からにじり寄る怪物なのだ。その大きさも、強さも素早さも、何も知れていない秋津と言う名の怪物なのだ。
 長沢の抱えていた三つの問題。1冬馬、2楢岡、3殉徒総会。
 その三つが、あの写真を見た瞬間、全て綺麗に重なった。殉徒総会と言う組織を軸に、凡てストレートに重なった。方針は決まったのだ。
 三つの問題は解くのに非常な努力を要するが、たった一つならどうとでもなる。ハマって、のめりこんで、頭の上まで浸かり切ってしまえば良いのだ。溺れてしまえば、後は脱出法を見つけるか死ぬか、二つに一つしか有り得ない。
 つまり。
 条件付けもオッズも取っ払ってしまえば、単純に生きるか死ぬか。生存率は50%と言う事だ。成功率も同じ事。半分は成功するのだ。それならば。
 悲観する必要は無い。進むだけではないか。
 医師が、ごっそさんと言いながら立ち上がる。手数かけるねと言う医師に、俺の方がもっと散々お手数かけてますと言い返す。本当なら有り難うと両手をきつく握り締めたい所だが、流石にそれは不自然なので我慢する。
 世間一般的に、長沢は酒井の善意の協力者だ。常連客の苦境に心を悩ませる喫茶店店主。お人好し故に厄介事に巻き込まれた部外者。それが一番自然で、且つ傍目から見て好意を持たれる立ち居地だ。であるなら、そう有らねばならぬ。不自然な行いは一切避けるべきだ。
 去り行く医師の姿を窓越しに見送る。長沢は心中で確認した。今日は動き無し。以降明日。
 ほぼ同じタイミングで、先程のサラリーマンが立ち上がった。長沢がレジに立つ。男は伝票を差し出しながら、一割引きね、と確かめた。
 「勿論。大丈夫ですよ。約束は破りません」
 客が財布を探りながら苦笑する。珈琲しか飲んでいないから、元々大した値段でもない。SOMETHING CAFEは庶民価格だ。
 「珈琲は勿論だけど、ケーキ美味かったですよ。甘い物好きだって何で分かったのかな。プティ・オレンジだっけ?」
 釣りを渡しながら、つい動きが止まる。奇妙な違和感を感じた。
 確かにメニューにはケーキを提供してくれる店名は明記して有る。ウインドウの中にも、ケーキの名と共に店名が書いて有る。だが、初めて来た客で自らそれを口に出した者は居ない。そんな細かい所まで、チェックしないのが普通だ。随分と、注意深い……
 「ご馳走様。……よいづきさん」
 頭の中が。
 しん。となった。
 釣りを受け取った手は、既に素早く引き戻され、取り付く島が無い。客の後ろ姿に凍り付く。
 今、何と。
 何と言ったのだ。
 

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