□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 
 

 状況が掴めなかった。
 男が釣りを受け取って遠ざかるのを、何も出来ずに見つめていた。こめかみでばくんと心臓が波打った。何を。
 何を言ったのだ。何を聞いたのだ。今。
 この男は一体今、何と言ったのだ。
 大きなビジネスバックが遠ざかる。ドアを開けて、街の中に消える。
 よいづきさん。
 聞き間違いではない。確かに今、客がそう言った。
 「マスター!?」
 気づいた時は、駆け出していた。怪訝そうな内崎の声を無視してドアをくぐり、去りかける男の肘を掴んで引き寄せる。反動も無く振り返った男が、笑顔のまま鼻先に顔を寄せた。
 「呆れたな。とんだ愚かなド素人だ」
 楽しげな、笑顔。
 男の反応も、その言葉の意味も分からない。分かるのは、確かめねばならぬと言う事だけだ。男が何者で有るかと言う事を。それを確かめねばと言う、それだけの。
 「貴方は!……っあんたは、……あ……」
 秋津。言いかけて呑み込む。ギリギリで制御する。これは、口に出すべき言葉ではない。
 飲み込んで迷い、男の顔を見つめる。朗らかな笑顔のまま動かなかった表情が、微かに反応を示した。冷たい、嘲笑。
 「………ほう。愚かなド素人だが、脳味噌らしき物は有ったようだな。良かったなぁ、……命拾いをして」
 心臓が耳許で鳴っている。言っている意味は良く分からない。いや分かっている。良く分かっているが認めたくなかった。
 「良いか。あさぎりが居ないからと言って、目が無いなどと思わぬ事だ。貴様が裏切れば直ぐに消す。ヘマをしても同じ事だ。……このように。
 回りも見ずに私に馬鹿正直な接触をするようなヘマ、重ねるようなら貴様は害にしかならない。組織の為だ。いつでも消す」
 傍目から見るこの男の笑顔は、恐らくは変っていない。言葉や仕種に合わせて、自然な笑みがその顔の中で揺らいでいる。だが間近に見ると。
 笑顔でも恫喝は可能なのだと実感する。長沢は肘を掴んだまま凍りついていた。
 愚かなド素人。ゆっくりと言葉が入って来る。意味は分かる。良く分かっている。自分は今、失敗したのだ。愚かな失敗を、しでかしたのだ。血の気が引いた。
 冬馬が言っていた。秋津から何らかの接触を取って来るだろうと。確かに聞いた。聞いていたのに。
 予測がつかなかった。こんな形でこんなに大っぴらに、接触を試みるとは想像だにしなかった。しなかったから。
 大っぴらに反応してしまった。動揺を見せ付けた。秘密裡の組織の人員と触れたその時を、まるで辺りに喧伝している。何と言う不注意な行いか。何と言う浅はかな反応か。いい年をして思慮のない軽はずみな行動だ。たった一言に動転して、後先考えずに動くとは。滑稽だ。滑稽極まる。馬鹿め、大馬鹿め。
 客の目の前で、髭面が引きつったままぴくぴくと震えている。驚愕なのか動揺なのか、奇妙な無表情が自らの鼓動に揺れている。余りの無様さに、大笑いしたい気分になった。
 愚か者め。愚図め。これだから一般人は嫌なのだ。衝撃に弱く、脆くて馬鹿だ。容易く脅え、動けなくなる。猫に捕らえられた鼠のようだ。弱くて鈍くて、自らを助ける術も知らない。鋭い爪の前に、己の弱点を晒したまま、隠す術さえ持たぬのだ。少しつついてやれば命など盗るのも容易い。掴まれたままの肘に力をこめる。これを振り切って、たった今総てをご破算にでもしてやろうか。
 店主は、はっ、と大きく息をついて俯いた。掴んだ肘を一度だけ強く握り締め、一回さすって手を放す。強張った肩からゆるゆると力が抜け、最後に小さく吹き出した。
 「ごめんなさい、ごめんなさい。貴方の動きが早いものだから慌てちゃいました。駄目ですねぇ、年取ると反応が鈍くなっちゃって。…これ。お渡ししようと思ったんですよ」
 肘を掴んでいたのと逆の手を、そっと男の鼻先に近づけて、開く。中には一口大のマドレーヌが入っていた。今度は男が驚く番だった。
 「これ、オマケです。またいらして下さいね」
 マドレーヌを受け取る。男がまた小さく笑った。なるほど、と店の中に目をやる。レジには先程、男にズルイと呟いた女性が立っていた。
 「なるほど。あの女性に渡すつもりで持っていた……と言う訳か」
 ふふん、と男が鼻で笑う。長沢は曖昧に微笑んだ。動揺の所為で正しい反応が分からない。そんな時の緊急避難はこれに限る。
 「運よく救われたなぁ、…よいづき。君の行動の理由付けは、これでギリギリ自然……かな。次の時はどうなるだろうね。
 良いか。総てに細心であれ。総てを疑い、変化は総て兆しだと思え。君の身辺に変った事は無いか?……有ったとしたら探る事だ。知る事だ。それが出来ぬ人間に次は無い。私は君など要らないんだ。役立たずに構う時間は無い。害は取り除く。それを忘れるな。………じゃあ」
 ご馳走様。最後に良く通る声でそう言い、小さなマドレーヌを手に、くるりと背を向ける。長沢はそれに合わせるように腰を折った。
 愚か者め。自らに毒づく。ゆっくりと見送る時間、腰を折り、そのまま目線も残さず店に戻る。きつく握り締めた掌に、自らの爪が痛い。だが、胸の中の方が痛かった。
 丁度戸口で女性とすれ違う。長沢は、同じ手順で女性の肘を取った。今度は優しく、ソフトに。
 「ごめんなさい。ちょっとだけ。ちょっとだけそこで待っていて下さいね」
 奴が言ったのは、図星だ。
 正しくこの女性に渡そうと、長沢は菓子を取った。それをエプロンのポケットに入れてレジに立った。たまたまだった。たまたまそう言うタイミングだったから、あの男に菓子を渡すと言う言い訳が出来たのだ。偶然で、どうにか取り繕う振りが出来たのだ。単なる偶然だ。
 女性に同じ物を渡し、にこやかに秘密、と付け足して送り出す。小さなオマケに嬉しげに笑う女性を見送ってカウンタに戻る。店主の胸の中は波立っていた。
 内崎が、大丈夫ですかと気遣ってくれるのに、自然な笑顔で首を振れたかどうかも定かではない。
 自らの動揺を誤魔化す術など、幾らでも有ったろうに。曖昧な笑みを浮かべたままそっと俯く。鼓動の音が耳にうるさかった。
 身の周りに変化は無いかだと。笑わせるな、変化ばかりだ。
 

 緩やかに、時は過ぎた。
 昼のラッシュを乗り越えた後は、穏やかな客の入りと共に時が流れて行く。それでも例年より依然として客数は多いのだが、一時に固まって訪れる事が無い為に穏やかな印象なのだ。精々が四人〜六人組の学生がわいわいと入ってくるのが上限だ。前後のない六人は、それ程対処に困るものではない。
 冬の早い日暮れを終え、夕闇が振り降りる。ネオンが街を占領する頃には、そろそろSOMETHING CAFEは閉店で有る。北村を帰した一人きりのカウンタで、長沢はそっと溜息を吐いた。
 いい加減に慣れねばなるまい。秋津と言う組織に。組織に入れず、部外者でもない、孤独な状況に。一人でここを切り抜けねば、そこから先の事など到底出来よう筈も無い。国家を相手に一戦始めようとしているのだ。力の無い者は消えて行くのが道理なのだ。
 消えて堪るか。こんな状況で。何もせぬ前に。出来ぬ内に。消されて堪るものか。
 八時を10分ばかり過ぎて、最後の客が店を出る。送り出し、BOX看板を引き寄せ、シャッターを降ろす。頭上ギリギリまで降ろしたタイミングで、上機嫌の刑事が一人やって来た。
 当たり前のように、降り掛けたシャッターをくぐって店の中に入り込む。SOMETHING CAFEのシャッターは手動であるから、長沢がきちんと下ろし切って店に入ると、逆に客に迎えられた。きょとんとした表情の長沢の顎を取ってキス。ついでハグ。そしてやっと挨拶になる。
 「ハイKちゃん、恋人が来たよ。まずはお出迎えのキスね。はいサンキュ」
 力が抜けた。
 「………あ、はぁ、どうも。いや、もう来たの分かってるけど、その。…それ、毎回やるのか」
 何か問題でも有るのかと言わんばかりにあっさりと肯定されて、抵抗する気も失せる。楢岡は長沢よりきっと気が若いのだ。或いは元々脳天気なタチなのか。付き合うと決まってから数日経つのに、楢岡はずっとこんな調子だ。
 一通りの掃除を済ませて店の電気を落す。住宅スペースに移ろうとした所で、楢岡が自慢げに黒いデイパックを見せ付けた。
 「?何?」
 楽しげな笑み。階段を上って居間に落ち着いてからも、その表情は変らない。人の良さが良く分かる、この表情は嫌いではないのだが、訳が分からないのは癪に障る。何だよと重ねると、恭しくバックを開いた。
 「お泊りセット」
 「はぁ?」
 バッグの中身は下着とワイシャツ、部屋着のトレーナー上下、タオルと歯ブラシセット。電気剃刀とコロン。そして。……潤滑剤とコンドーム。長沢は深々と溜息をついた。
 「高校生の女子かよ?でなきゃOLの温泉旅行か。……何だこれェ」
 「えー何で?良いじゃんよ。合理的でしょ。俺ここから明日本庁行く。それまでずーっと一緒だ。そのための最低限の用意がこれね。別に二日同じシャツでも良いんだけど、噂好きな女に色々言われるとKちゃんアレでしょ。だから。あ、Kちゃんは体と時間とシャワーを俺に貸してくれれば良いから、何も準備要らないよ」
 呆れた。本当に呆れた。
 「もー言ってれば良いよ。付き合いきれません、君には。俺は腹減ったから飯にします」
 「何か有るの?」
 「これから作るんです」
 ひょいと鼻先に折り詰めが垂らされる。警視庁からここに来るまでには様々な店舗が有る。鼻先につるされた折り詰めから零れる、暖かい香りに長沢はあっさりと軍配を上げた。
 「良い匂いだなぁ。美味そぉ。俺も食って良いの?」
 「当然。Kちゃんと食おうと思って買って来たんだもんな。たっぷり三人前あります」
 「有り難う。――……じゃ、汁だけ作るかな」
 並んで同じ物を食い、一日の何と言う事の無い報告をしてその場で寛ぐ。TVをつけて座椅子に蹲る。ろくな番組がやっていなくて不満気な長沢の頭に楢岡が掌を載せる。重い、と呟くと楢岡が笑った。
 「元気でた?Kちゃん」
 「え……?」
 長い睫毛の目が、長沢の表情を認めてにんまりと笑う。
 「何が有ったか知らないけどさ。何か落ち込んでたろ。盛り上げるのに頑張っちゃったぜ、俺」
 スーツが皺になるからと、上下を壁に掛け、自ら持ち込んだトレーナーで寛ぐ楢岡は、いつもと雰囲気が違った。眠そうにも見えるのは、表情が柔らかい所為だろう。
 座椅子の横の壁に寄りかかる。とろんとした目が、長沢の動きをゆっくりと追った。
 「俺、何も言って無いぞ」
 「そォねェ」
 「じゃ、何で分かってんだよ。俺が……何か凹んでたの」
 「分かりますよ、そんなの。Kちゃんが多少嘘つきでも、俺だって馬鹿じゃないもん。良ーっく見てれば嘘も見抜けます。
 っつか、この頃のKちゃんは素直だよ。会った途端しょんぼりした顔してればそりゃ分るでしょ」
 馬鹿どころか。
 長沢からキスをする。嬉しげにそれを受けて、おかわりと唇を尖らす仕種につい吹き出す。座椅子の上に凭れ掛る。男二人の体重に、座椅子が堪えられようが堪えられまいが大した事じゃない。のしかかって抱き締める。
 「俺、しょんぼりしてたかな。自分じゃ分らなかったけどな」
 「大丈夫。腹一杯になったら良い顔色になった。元気も出たでしょ」
 それでは欠食児童のようではないか。小さく吹き出して溜息をつく。自分はちっぽけだ。一人の人間が投げかける、幾つかの言葉で簡単に救われる。腕の中の暖かさが勇気になる。ちっぽけな虫だ。
 昔から言うではないか、一分の虫にも五分の魂。何の何の。自分はまだ闘える。いやむしろ、闘いはこれからだ。
 「仕事してれば色んな事有るし、大した事じゃない。ただ、サンキューな楢岡くん。君にはホント、適わないなぁ」
 大きな掌が、頭から背中をゆっくりとさする。その暖かさが心地良くて目を閉じかけ……がばと上半身を持ち上げた。
 「何?」
 「あ、忘れてた。今夜さ、秋元さんから電話来るかも知れないわ。いや、酒井先生がジレてたから、今週動きが無かったら、殉徒総会の支部か本部に乗り込むぞって脅したんだ俺」
 うわ。彫りの深い顔が一瞬渋面を作ってから苦笑する。洒落にならねぇ、と笑い声で言う。
 「本当に次から次へとあんたは」
 「で、でも。急いだ方が良いと楢岡くんも言ってたろ。俺だけの所為でもないぞ」
 「はいはい、そうね。じゃ、ほら、秋元の邪魔が入る前にほら」
 苦笑する長沢を、有無を言わさず畳に転がす。細い身体を組み敷いて両手でまさぐり、髭を唇で辿る。咽喉許に舌を這わせてシャツをたくし上げ、素肌に噛み付く。敏感な体が熱を持ち始めるのが嬉しかった。
 大きな掌で熱の在り処を握り締める。自らの快感に、素直な反応をするようになった長沢が愛おしい。元々快感には正直な癖に、意地や沽券や年齢が邪魔をする。楢岡はそんな物は無駄だと言う替わりに、可愛いと言った。意地っ張りの長沢はそれを馬鹿にしていると取った。本当は。
 長沢とて分かっていたのだ。初めて抱き合った時から、この男にそんな詰まらない拘りなど通用しないと言う事は。意地張っちゃって、可愛い。そう言われてしまえば、意地を張るだけ馬鹿らしい。だから。
 今は素直に、快感は快感として認める。必要以上に構える事も、隠そうとする為に返って弾けてしまう事もない。素直に求めて、与えられた物を受け入れる。そして出来れば、相手にも同じ物を与えてやろうと思うだけだ。
 楢岡は、その体の奥を指で辿りながら思う。今日はどうして愛してやろう。どうして喜ばせてやろうかと。
 前回抱いた時は、もっとと強請られた。今回はどうしてやろうか。求める事に総て応えて、それ以上に与えたい。止めてくれと言うまで愛してやるのはどうだろう。
 「Kちゃん、声、我慢しなくて良いよ」
 返事が途中で喘ぎ声に消える。そうだ。それが良い。
 
 そうだ、最初は流された。それでも、最後は確かに自分で選んだのだ。
 きっかけは単純だ。SEXの良さ。それに溺れた。愛だの恋だのと言う甘ったるい関係では断じて無い。ただ、抱き合っていると気持ち良いと言う関係だ。こちらも満足し、向うも満足するなら拒否する必要は無いという、それだけの事なのだ。
 そうして出来上がる関係が、例えば目的の為に多少有利で、それを利用できる立場に居たとして。それを利用したからと言って。
 責められても心は痛まない。
 痛まない。
 

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