□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 

 

*** とある准教授の日々 2  ***


 酒が次の日に残る事など、数年前までは無かったのに。
 どれだけ痛飲しても次の日の朝は爽やかだった。記憶が無くなる事もまず無かったし、頭痛と頭重が次の日の夕刻まで残る事など絶対に無かった。年を取った。全く、年を取った。
 そう実感して虚しくなる筈の気分は、至って無事だった。どころか、逆に浮れていた程だ。
 2コマ有った授業も時間通りに済ませて、宿題のプレゼントも付けた。学生達から熱い声援をもらったので、百点満点で得点を付け、後期試験の点数とこの点数で後期の採点を出すと温かい言葉を付け加えてやった。連中は今週一杯悪戦苦闘する事だろう。愛の鞭は与える方も辛いものだ。
 気分は非常に良かった。
 人間、年を取るにつれ、拘り無く話し合える人間に出会う機会は減る。子供の頃に二桁いた仲の良い友達は、大人になると嘘の様に消えて行く。勿論、居なくなる訳ではないが、会う機会はめっきりと減ってしまうものだ。知己でさえそうなのだ。新しい友人を得るのは難しい。深く知り合える、知り合いたいと思える友人となればまずもって。
 奇跡に近い。
 僅か二三時間話したに過ぎないが、互いの一人称は"私"から"僕"へ、"僕"から"俺"に変った。互いの呼び名は慎先生と長沢君に決まった。
 何を話したか、正直な所細かくは良く憶えていない。だが、価値観が非常に似ていると感じた。
 私が行動型とするなら彼は思考型で、私が外交的なら彼はつまり引き篭りだ。タイプはまるで違うのだが、物の見方と感じ方が良く似ていた。短い会話で幾度と無くハモって、互いに驚いて吹き出した。
 そう言えば、連絡先は聞かなかった。名前以外、職業も住所も何も知らない。外食産業の人間とは言っていたが、どうもイメージが湧かなかった。食堂の親父にしてもラーメン屋にしても、はたまた高級レストランにしても料亭にしても、何か似合わない気がする。
 となれば、私の大切な本が得体の知れぬ人間に人質にとられて居る訳だが、気にはならなかった。私の話がもっと聞きたいと言う彼の言葉は嘘ではない。今週の講義に彼はまた来ずに居られぬだろう。それが分かっているからだ。
 一週間はいつも以上の速さで過ぎた。講義と抗議とデモと研究室と。気付けば、土曜のオープンカレッジは直ぐ翌日にまで迫っていた。
 一日の業務を終えてから、慌てて資料をかき集める。今はPCの検索機能のお陰で随分とこの作業が楽になった。欲しい本の書架Noは手元のPCで直ぐ調べられる。ちょいとNoを打ち込んで予約しておけば、図書室で予め揃えて置いて貰える。後は、受け取りに行くだけだ。目的の本を我が校が所蔵していなかったとしても、二三日も有れば取り寄せて貰える。実に便利だ。
 尤も。いつも資料を揃えるのがギリギリの為、取り寄せシステムはオープンのクラスには余り利用した事が無い。
 取り敢えずは目当ての本をピックアップして、さてでは受け取りに行くか、と腰を上げたタイミングで研究室の扉がコンコン、と鳴った。
 「どうぞ………と。おう、こりゃ。久しぶり。僕を忘れた訳じゃなかったんだな」
 答えるのとほぼ同時に扉が開いた。不似合いにオドオドと扉の中を覗きこんだ生徒が、私を認めて会釈をした。
 「失礼しま―…す。忘れるなんて、とんでも御座いませんとも。どうも、先生。
 本当〜〜〜に、そのぉ、この度はお世話になりまして。えー、色々と。本当に先生には頭が上りません。」
 少しばかり痩せた顔が笑って、改めて腰を折る。私は答えに窮して苦笑した。
 彼は、歴史文化部とは本来、全く縁の無い理学部の院生だ。
 "金属結晶物と民族文化"と言う、訳の分からない論文を弄くり始めた二回生の時に、私の所に相談に来なければ、恐らくは今も顔を突き合わせる事など無かった筈の生徒だ。
 それが、彼がそんな妙な物を弄くり始めたのをきっかけに、家の研究室との付き合いが始まった。気さくな奴で、お互いに陸上選手であった事と、彼が私の家の側のコンビニでアルバイトをしていた事から、良く話すようになり、ここにも良く訪れるようになり、教室の連中とも良い友達になった。
 そして先日は、ひょんな事から彼の就職の世話まで、私がする事になったのだから縁と言うものは不思議な物だ。
 そうだ。もう三月以上も前になる。彼が唐突に、決まっていた職場先から断りの電話を貰ったのは。
 断りの理由は、不況の所為で新しい人材を入れる事が不可能になった、と言う事だったから、彼に非は無いのだ。だが、丁度同じタイミングで傷害事件を起こしてしまったのはマズかった。
 大人しい彼の事だから傷害事件は冤罪で終わるだろうと思ったが、就職口はもう手に入らない。見かねて、私は手当たり次第に知り合いに就職先をあたって見た。何かよこせと言う乱暴でアバウトな要求だったが、これが功を奏した。"活動"の仲間に製薬会社の元重役がいて、彼の口利きで関連会社の研究室にどうかと言う話が寄せられたのだ。
 軽い気持ちで彼にその由を話すと、日頃明るい彼が眼を真っ赤にして、有り難うの言葉半ばで俯いてしまった。追い詰められていたのだなと、その時改めて知った気がした。
 彼の名は高樹友司。今期を限りにこの洋興大の研究室を去る、24歳の青年だ。
 「まぁ一休みして、好きな物でも飲んでくれ。場所は知ってるだろ」
 研究室の連中や、それで無くとも入り浸る学生達は、マイカップやマイ飲料、マイ調味料を置いている。彼は流石にそこまでではないが、ここに訪れたら勝手にお茶なり珈琲なりを入れて、飲みながら話すのが常だ。
 「そうします――けど先生、今どこかに行かれる所だったんじゃ?」
 ああ。いわれて思い出す。手の中のメモに目を落とすと、高樹君がそのメモをひょいと取り上げた。
 「あ、何だ、本の貸し出しですか。何だったら僕、受け取って来ますよ。もう予約してあるんでしょ」
 「お、本当か。そりゃ助かるな。その間にこっち纏められるし。じゃぁ頼めるか」
 「お安い御用ですよ。んじゃ、直ぐ受け取って来ます。荷物置いといて良いスか」
 勿論。頷いて顔を上げると、高樹君が扉を出て行くところだった。動きの俊敏さに、つい若さを感じてしまう。後ろ姿に頼むな、と声を掛けるとはぁい、と言う声が扉の向こうに消えていった。その声が呑気でほっとする。
 傷害事件の一件は、神田署の刑事が私の所に持って来た。曲者と言った感じの洒落者で、地方に居る両親に代わって身元引き受け人になって欲しいと、高樹君本人からのご指名なんですがどうしますか、と言う内容だった。勿論、私は直ぐに受け入れたが、刑事の方からクレームが付いた。表情豊かな目でこちらを値踏みするように、彼は言ったものだ。
 「僕ねぇ、先生。何年か前まで警視庁の公安四課にいたんですよ。先生はちょっとした有名人です。中国、韓国、フランス、アメリカの大使館や、台湾代表所の前で抗議デモしたでしょ。民団の中に座り込んだり。民団の時は入館証もちゃんと持ってて、手は出せないわどうやって入ったのか分らないわで大騒ぎだったそうじゃないですか。
 今の責任者は徳川でしょ。さぁて、どうかな―。くれぐれも高樹君の身元引き受けしてる間にタイーホとか、止めて下さいよ」
 思い出して苦笑する。傷害で逮捕される生徒に、公安で有名人の教師か。お似合いと言えばお似合いだ。
 一通り考えを纏めて、視線を上げると、椅子に放り出されたバックパックと携帯電話が目に入った。私は思い出して、彼の携帯を手に取った。
 以前、彼には呼び出し音を「ドリフの大爆笑」と言うのに変えられた事が有る。会議中にいきなりけたたましい音が鳴り響いて、しかもそれが自分の携帯だと思わなかった私は長々と放置し、随分と恥をかかされたのだ。
 仕返しのチャンスである。呼び出し音をちょっとばかり弄くってやろう。
 携帯を開いてメニューを開く。直ぐに出来ると思ったのだが、これがなかなか難物だった。初めて弄る他人の機種と言うのは実に分り辛い。弄っている内に音ではなく、画面がパカパカと変わりだした。イメージフォルダにアクセスしているのだとは分ったが、抜け出られなくて頁をくる。画面が肌色に変った。
 一瞬、息を呑んだ。
 そこに映ったのは、裸身だったからだ。
 一瞬は迷ったのだが、裸と分るとつい凝視してしまうのは性である。人間の本能だから、こればかりはどうしようもない。若い男性のイメージフォルダに裸身が溢れて居るのはむしろ健全と言って良いだろう。高樹君の趣味が私と合うとは思えないが、大きく外れていない事を願いながら画面を見る。違和感が有った。
 背後からの交合の画像だった。大写しになった滑らかな背中と尻。ぼかしなどの加工は一切無い。男性の性器が深々と埋まって居る場所は、女性器ではなかった。そこまではまだ良い。その裸身の持ち主はモデルでもないし、それどころか。女性ですら無い。画質も恐らくは、どこかからDLした物ではなく実際に撮ったものだ。違和感は戸惑いに変る。いわゆるこれは世間一般で言う……"ハメ撮り"と言う奴か。
 流石に、これはまずいと思った。
 高樹君の性癖は一切知らぬし、付き合いも知らない。誰とどう言う付き合いをしようが、私が口を挟むべき事ではないし、覗くのは余りに愚劣な行為だ。悪戯を諦めて携帯を閉じる。
 寸前、画面が次の物に変った。
 どきん、と胸が鳴った。
 画面に大写しになったのは、見覚えのある面相だったのだ。
 
* * * * * *

 携帯を閉じようとしたのは嘘ではない。
 他人の性生活を覗く趣味も私には無い。だが、そこに大写しになった人の顔に、私は再び画像に見入ってしまった。携帯を閉じる事は適わなかった。
 心臓が痛いくらいに早く打つ。我が目を疑った。そこに映っていたのは。――映っていたのは。
 
 笑顔が良いと思った。穏やかで、温和で、こちらの心の柔らかい部分を照らしてくれるような笑みが。
 
 その人の顔だった。
 笑顔はそこに無かった。思い切りの黒縁眼鏡だと思った眼鏡も、かけてはいなかった。鼻から口許にかけて血が零れて居るのは殴られたからだろう。髭を汚す半透明から透明なしずくは、唾液や涙や精液や…恐らくそんなものだろう。笑顔が似合う顔が浮かべていたのは、苦悶の表情だった。
 後ろから頭を掴まれ、恐らくは車のシートに縋るようにして、目線をこちらに向けていた。背中にたぐまったグレーのシャツ以外、何もつけていない身体を押さえつけて居るのは別の男の裸身だった。
 混乱する。
 これは一体、誰の性生活だ。何故彼がここに居るのか。彼は一体何をして居るのか。何をされて居るのか。これは彼の望んだ事なのか、これは……
 SEXか?
 画面が切り替わる。今見ていた画像とほぼ変らぬ画像から、画面がガクガクと動き出す。動画に変ったのだと気付く前に、携帯が呻いた。
 た、すけて。……助けて。
 画面の近くに、近過ぎてピントの合わない場所に。手があった。彼の手がすがって、縋りついて。その身体を揺する振動がそこから伝わって……
 携帯が取り上げられた。
 驚きに動かない頭の先端、視界に一人の青年が写っていた。
 高樹友司。携帯の持ち主。
 互いに何も言えずに、瞬間睨み合う。
 頭の中にある言葉は一つだけだった。
 何故?
 
* * * * * *

 張り詰めた空気を揺るがしたのは、私の呼吸だったと思う。
 息を止めていた事に気づいたのは。自らの大きな呼気が手許のレポート用紙を動かしたからだ。驚きを吐き出して、空になった胸にたっぷり空気を吸い込み、やっと言葉になる。
 「……スマン。ドリフの大爆笑の仕返しをしようと……その。」
 勝手に君の携帯を覗いてすまない。きちんと言い切ろうとした言葉が途中でつっかかる。本当に唱えたい言葉はそれでは無いからだ。
 物凄い勢いで、私から携帯を奪った筈の腕は、今は力なくだらりと垂れていた。一瞬はこちらを睨んだ目も今は恥じ入るように伏せられていた。状況はばっちり彼に伝わっている。私が何を見ていたのか、彼は分かって居るのだ。
 彼の手が、無言のまま数冊の本を机に置く。図書室のラベルのついた本を確かめて、有り難うと唱える。言葉は酷く空虚だった。
 突っ立ったままの彼を見上げる。距離を埋める為の言葉が必要だった。
 「その……。画面の中に私の知り合いが、いたんだ。それで目が離せなくなった。……ええ、と、長沢君が……」
 瞳が持ち上がる。不思議に静かな瞳だった。携帯を握り締めたまま、暫くは私を見て、諦めたように側の椅子に蹲る。上に置かれていた自身のバックパックを片手に掴んでそのまま蹲る。大きな溜息が零れた。
 「そうですか……先生もSOMETHING CAFEの客なんですね、あそこで会った事無かったけど……」
 「サム……何だって?」
 「SOMETHING CAFEですよ。猿楽町の喫茶店。そこのマスターでしょ」
 「いや、それは知らない。長沢君は今、家のオープン・カレッジのクラスに……」
 「ああ……そうなんだ。なるほど」
 なるほど。私も同じ言葉を胸の内で唱えていた。
 喫茶店のマスター。なるほど。彼の言うとおり、外食産業だ。ラーメン屋や牛丼屋よりずっと彼のたたずまいに合っている。あの笑顔と一緒に供される珈琲や軽食は悪くない。
 続けようとして言葉がつまった。聞きたいのはそこではなかった。
 何故。聞きたいのはそれだったのだ。
 何故、その「マスター」のデータが君の携帯の中にあるんだ。何故、そのデータが彼の痴態で、何故、彼はそんな痴態を演じているのだ。一体全体、どう言う場面で、君はどう言う関与をして居るんだ。
 疑問が頭の中で膨れ上がった。疑問点を列挙して、相手をやり込める事などディベートの初歩だ。やり慣れている筈の事が出来ずに凍り付く。何故だ。一体何故だ。その一言ばかりが頭の中で渦を巻き、言葉にならない。
 ……ふ。俯く高樹くんの口許から笑いが零れた。恐らくは…自嘲の。
 「―― 僕が傷害事件を起こした相手です。
 僕が乱暴して、傷つけたのは、SOMETHING CAFEのマスター。先生の仰る"長沢君"なんですよ」
 
* * * * * *

 息を、呑む。
 慣用句では無く、本当に息を呑んだ。自分で自分の単純さに呆れるが、今の今まで私の中で高樹君と傷害事件と言うものが全く繋がっていなかったのだ。
 勿論、傷害事件があった事自体は知っていた。だからこそ彼の為に一肌脱いだのだ。だがそれは。
 傷害事件は冤罪だと、私がハナから信じていたからだ。思えば。
 高樹君の口から、事件と言う言葉自体、初めて聞いた気がする。当然ながら、事件がどう言った物で、被害者や加害者が誰であるか、そうした仔細を私は一切聞いていない。何と言う事か。
 私は信じるという言葉に逃げていたのだ。皆まで言うなと、彼に事の仔細を尋ねる事すらしなかった。信じて居ると言う一言で、彼をある意味切り捨てていたのだ。気付かなかった。たった今迄、その事にすら。
 事実でも、冤罪でも、私が彼に手を差し伸べただろう事に変りは無いのに、何故そんな事から逃げていたのか。
 私の反応を見守っていた彼が俯く。覚悟を決めた、と言わんばかりの静かな深呼吸。私も彼に習っていた。
 「先生の期待を裏切るようで言えませんでした。すみません。冤罪だろって言ってくれたけど…正確にはそうじゃなくて……」
 いや。首を振る。高樹君の顔が持ち上がるのを待って、私は頭を垂れた。
 「すまなかった。謝るのは僕の方だ。信じるだの何だのと戯言を言う前にきちんと聞くべきだった。事をしでかしてたのなら尚の事だ。私の態度は間違ってた」
 青年の瞳が大きくなって、失望に俯く。どうやら私の言葉を誤解したらしい。それも良いと思った。
 失望は必要だ。何かを失敗した時、そこに失望や挫折が無くては、失敗の意味が無い。人は、失敗して挫折してこそ初めて、次は上手くやろうと思うのだ。自身の力不足と不甲斐なさに失望するからこそ、成長があるのだ。私は彼が沈み込んで、唇をかみ締める暫くの時間、彼の落胆をゆっくり待った。待ってから、改めて続ける。
 「だが誤解しないでくれ。僕は何も、君が無実だから助けただけじゃない。しでかした事は残念だが、今までの君と君の努力ははきちんと報われるべきだ。だから僕は君に就職先を紹介したんだ。
 良いか高樹君。私は君を信用して紹介し、君はそれを承諾した。今君が為すべき事は、新しい職場での責任を胸を張って果たす事だ。分るか」
 居住まいを正した青年が、かみ締めるようにゆっくり、はい、と答える。
 済んでしまった過去の事より、若者はまず未来だ。過去の過ちは、未来に同じ轍を踏ませぬ為にある。私達は、恐らくはその為の指標だ。我々が厄介事から逃げては駄目だ。揉まれてやわらかくなった布の方が衝撃を受け流せる。我々に出来るのはそれくらいの事なのだから、精々こなさせて貰おうじゃないか。
 「そこさえ押さえて置けば、これからの君は大丈夫だ。明日からの君の事は応援するよ。だが今日は、まずはお仕置きだな」
 彼が持ち越すのは、自らの失敗と挫折。それだけで良い。過去に囚われる必要は無い。囚われるのは、我々、盛りを過ぎた夕暮れ時の人間達の役目だ。
 「全部、洗いざらい、正直に吐くこった。悪行の、数々をね」
 
* * * * * *

 ガスライターのキャップを払う。親指でドラムを回転させる。鑢とフリントがしゅっと音を上げて火花を散らす。点火。
 居心地の良い自らの書斎で、何十年と馴染んだライターを弄り回す。別に煙草に火を点す訳ではない。その習慣は数年前に卒業した。
 ただ、使い慣れたライターの奏でるこの音からは卒業出来ない。単調な音の繰り返し。生まれては消えるオレンジ色の炎。私の指先が生み出すちっぽけな誕生と消滅からは卒業出来ない。特に、途方に暮れた時などは、私にはこれが絶対に必要なのだ。
 火か。人類最大の神からの賜り物。プロメテウスはこれを人に与えたばかりに、残虐な罰を受けたのだったな。ぼんやりと、脳の表層でそんな事を考える。思考の中心は、生徒との会話だった。
 幾度と無く、短い会話を反芻する。
 時間にして十数分足らず。高樹君が話し、私はほぼ、聞いていただけだ。ただ初めの口火は、私が切ったのだ。
 
 「さて。では改めて聞かせてくれ。君のその」
 「傷害事件」
 そうだ。そう答える代わりに頷く。高樹君は逡巡した後、深い溜息をついた。
 「きっかけは。僕の内定取り消しと、一つの再会でした」
 高樹君が淹れてくれたインスタント珈琲のカップが、互いの手の中で丸い波紋に揺れる。一口ゆっくりそれを飲む彼に合わせて、私も口をつける。味はさっぱり分らなかった。
 「就職先が消えて、僕はむしゃくしゃしてました。それが凡てのきっかけだと思います。
 SOMETHING CAFEのマスターは……僕はそこの数年来の常連です。珈琲が美味いし、落ち着いた雰囲気の店で…レポートを書くのに良くて通い始めたんです。それでよく、マスターと話すようになりました。
 マスターは気さくで、優しい人です。僕の話を良く聞いてくれて、力付けてくれる。でもあの時は、マスターに話して、何だか、何かが食い違ったんです。それで僕は一方的に不信感を抱いて。何だか凄く気に入らなくて……その内、何か報いを受けるべきだと思うようになりました。今思えばあれは……
 何だったんだろう。僕の八つ当たりだったのかな。どう考えても、マスターに落ち度なんか無いのに、あの時はそうは思えなかったんです。無性に腹立たしくて、許せなかった。
 そんな時、中学の時の知り合いの清水に再会しました。どこでだったか、商店街だったか、どこかの店先だったか、良く憶えていません。もしかしたらSOMETHING CAFEを出てきた時に会ったのかも知れません。そうなると、僕を待ち構えていたのかも知れませんが、僕は偶然の再会だと思ってました。
 中学の時の清水は大人しくて陰気な奴でした。だから、特別仲が良かった訳じゃありません。でも、久々だなぁとなつっこく言われて、知り合いの話とかが出て、飲みに誘われて。あいつは羽振りが良くて、全部おごると言われたから、ホイホイ着いて行っちゃったんですよね。
 居酒屋で飲んで……気がついたら僕の愚痴大会になってました。あいつは聞き上手で、僕を励ましてくれて、僕は凄く……楽しかった。それで話している内に。
 あのマスターが気に入らない。痛い目に遭えばいいんだ。そんな事を言ったと思います」
 どきり、とした。
 痛い目、と言う言葉と、さっき私が携帯の画面に垣間見た情景が符合する。
 ではあれが、その「痛い目」なのか。
 「あいつは僕に同情してくれました。そりゃどう考えてもそいつが悪い。なぁ、ちょっとばかり痛い目に遭わせてやろうぜ。なぁに、ほんの悪戯みたいなモンさ。中坊気分に戻ってさ。
 僕は……。最初は何だかんだ言って笑い飛ばしたり、否定したりしたけれど、あいつが楽しげに話す"悪戯"の計画に結局は逆らえなかった。罪の無い悪戯で、ごめんごめん、と一回言えば許される気になってそれで」
 ごくり、と言う音を立てたのが自分の咽喉だと、高樹君の目が私を凝視するまで、私は少しも気付けなかった。
 「あの人に、乱暴を、しました」
 
 
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