□ SOMETHING CAFE □
■ SOMETHING CAFE ■

 

 

*** とある准教授の日々 5 ***


 私の視線に気付いたのか、長沢君は慌てて目許を拭った。拭ってから小さく吹き出して、すみませんと言う。
 「すみませんすみません。酒入ってるの忘れてました。昔はここまで弱くなかったんですが、それにしても俺、前っから、酒が入ると泣いたり笑ったりでうるさいと言われてまして。これは癖みたいなモンです。気になさらないで下さい」
 手で目許を拭っている長沢君に、卓上のナプキンを勧める。彼は小さな礼と共に目許にそれを当てた。
 気にするなと言われても、それは無理と言う物だ。不惑を越した良い大人の泣きべそなど、中々拝む機会も無いし、また自らを振り返るに、拝ませたくなど無い物だ。不恰好だし、第一、沽券に関わるではないか。半世紀近く生きて来て、泣きべそを晒すのは…日本気質が良しとはしない。
 私でさえそうなのだから、秘密主義の長沢君ならなおの事だろう。だと言うのに。それをこう無防備に見せられれば、多少なりともうろたえるのが当たり前と言うものだ。
 零れる吐息が、小さく良かった、と呟く。いたたまれなくなった私は、大きく手を振った。
 「とんでもない!良いもんか。良い訳がないよ。大人げ無い事をしたと反省してる。まったく、先週の僕はまるで子供じみてる」
 眼鏡を外して目許を拭う。黒縁無しで向けられる瞳は、潤んだ大きな褐色の球だった。表情豊かで、暖かい。
 「いえ、そうじゃなくて。俺が良かったと言ったのは、自分の事で。……その、この年になってですね。
 俺の一方的な思い込みで、先生にはご迷惑とは思いますが。その…、先生は久々に友達になれたら良いなと思った方なんですよ。ですから…」
 どきり、胸郭がわめいた。
 「ああ、いや。妙な意味じゃなく。何と言うのか。
 俺は元々上手い方じゃ有りませんが、……人間は、年を取れば取る程、友人を作るのが下手になると思うんです。出会う機会も減るし、子供の頃のように無防備で近づけなくなる。仕事や環境や、色々な条件が増える。だから俺、近年ではとんと居なくなりました。それが久々に来たかー、と、ガラにも無く凄く楽しくなりましてね。
 ですから、その人に軽蔑されるのは辛い。仕方ない事かと凹んでた所に、先生ご自身の口からそれは無いと言って頂いたんで。……いや、社交辞令でも、良かったなーと、つい……」
 黒縁眼鏡が、決まり悪そうな笑みを浮かべる。私は思わず机を叩いていた。
 「――じゃない!」
 予想外に大きな音がして、ビールを湛えたコップが、机の上でぼん、と弾んだ。長沢君が慌ててコップを掴む。大きな目が驚いたように私を伺う。私は反応が出来なかった。
 「社交辞令なんかじゃありませんよ。僕は本当に反省してる。軽蔑なんて、とんでもない……そんな、とんでもない…」
 コップを押えたままの髭面が、じっとこちらを伺っている。黒縁の向うの上目遣いの瞳が、ゆっくりと笑みを浮かべる。人好きのする暖かい笑みだった。
 「有り難う御座います」
 心臓の拍動を感じる。胸が騒ぐ。違う。そう思った。
 社交辞令でなぞあるものか。軽蔑なぞ、されるのならばむしろこちらだ。凹んでいたのはこちらなのだ。それに。
 勝手な思い込みでなどある物か。一方的でなど、あるものか。
 私こそ思ったのだ。奇蹟だと。浮かれた気分の中でそう思ったのだ。
 この年になって、得難い知己を得た。話していると知的歓喜の得られる、一風変った友を得た。恐らくは何十年会わなくても、会った時に肩を抱き合える、そんな存在に久しぶりに会えたと、そう思ったのだ。思ったのに。―― それなのに。
 私にはその一言が口に出せなかった。
 
* * * * * *

 おまたせー、と聞きなれたおばちゃんの声が言う。
 冷えたビール、炙ったほっけ、ぬた、軟骨の唐揚げ、青菜炒めが小さい机に次々に並ぶ。長沢君が愛想よく、美味そうだとおばちゃんに応え、机の上の箸箱から箸を取ってくれる。私はそれらに曖昧に合わせていた。頂きますの声、箸先の動きと器用そうな指。行動と思考は完全に分離していた。
 友達になりたい、そう思った。いや、思ったではない。今も思っているのだ。
 一時は汚い男だと断じた癖に。その男の苦痛で一晩楽しんだ癖に。その後も、私は同じ事を思い続けている。この男と友達になれたら。今もそう思っているのだ。自分の思考が不思議だった。理不尽で、我侭だ。それに。
 友達と言うのはどう言うものだったろう。
 子供の頃の友達なら良く分かる。日が暮れるまで街中を共に駆けずり回り、帰って来ないと共に親にどやされた、あれがそうだ。学生時代の友達も良く分かる。慣れぬアルコールに共に潰れ、代返をし合ったり同じ女の事で揉めたり、あれがそうだったと思う。だが。
 今の私に新しい友が出来るなら、そうした物では有り得ない。新しい友を得られるなら、それは一体どんな物になるのだろう。
 「――― んだったんですね」
 何かを盛大に咀嚼しながら、くぐもった長沢君の声が言う。
 麻痺しかけた思考を、その言葉が引き戻す。私はゆっくりと顔を上げた。
 「―― え? 失礼、今何と?」
 ああ、と呟いて口の中の物を飲み込む。穏やかな表情で居住まいを正す。
 「失礼しました。えっと。高樹君は、先生の生徒さんだったんですね」
 「ああ……」
 そうだ。
 私は今日、その状況説明をしようと彼を呼び止めたのだ。そうしてここまで連れて来た。状況を説明して、納得して貰う。極普通の講師と受講者に戻る。その為の手続きを踏む事が今日の目的なのだ。
 そうだ。それが目的だったでは無いか。気付いて深呼吸をする。
 友達などと言うちっぽけなキイワードに捉えられている自分に気付いて、つい苦笑が漏れる。しっかりしろ、浅井 慎一。やるべきは、まずは目的の完遂だろう。他の事はその後だ。お前は今日、どうかしている。
 「そうそう。そうだ。その説明をしないと始まらないな。
 同じ大学の教師と生徒ではありますがね、厳密には学部も何も違います。だから、いわゆる師弟の関係はありません――本来なら。
 ただ、彼はちょっと特別です。奇妙な論文の相談をされた事がきっかけで、教師と生徒として知り合いになり、住んでいた場所が近かった所為でコンビニ店員と客で知り合いになり。気付けば僕の教室に入り浸っていて、いつの間にか教室の連中と良い仲間になってた。
 師弟未満、と言った所ですね。好青年で、僕も目をかけていた。曇りなく、良い奴だと思ってましたね。
 この一件を知るまでは」
 黒縁眼鏡が小さく頷く。
 「思い返せばね……」
 互いのコップに長沢君がビールを注ぐ。私はそれを半分ほど呑み込んだ。
 「傷害事件が有ったと言う事は知っていた。けれど僕は"高樹君が巻き込まれた"と勝手に思い込んでいて、彼が加害者などと言う事はこれっぽっちも考えなかった。教育者なら有るまじき怠慢だ。彼本人は語りたがったのに、僕はそれを聞かなかった。"言う必要は無い"そんな言葉で誤魔化していたんでしょう。
 ……だから」
 「初めて知った時、俺の方が悪者だと思われたんですね」
 言葉を先んじられて息を詰める。
 その通り、と言う声が上ずった。向いの席で、黒縁眼鏡が思考に沈んでいた。箸でぬたを弄びながら、道理だ、と呟く。
 「当然の意識です。善悪に関わる事件があった時、知り合いの味方をするのは至極道理だ。良い人間だと思って付き合っているのだから、事件が起きていきなり知り合いを誹るような人間は信用出来ません。貴方は"良い奴"を庇い、"知らない人間"を疑った。当然の事です。
 俺の……予測不足でしたね……」
 私に向けられていると言うよりは、自身の思考を確認している呟きに聞き入る。最後の一言に違和感を感じて聞きなおすと、驚いたような瞳が持ち上がった。
 「ああ、失礼。俺の予測不足と言うのは、ええと。
 同じ洋興大なのだから、高樹君と慎先生の関連性を予測出来ても良かったのに、俺は全く予測してなかった。そう言う意味です」
 それは、無理も有るまい。洋興大と一口に言っても人数は膨大だ。
 「長沢君の店は神保町に有るんだろう?となれば客に洋興大関係の人間は山ほどいるだろう。それを関連付けろと言っても、なかなか難しいんじゃないか?」
 遠慮がちに言うと、長沢君は考え、唐突に吹き出した。
 「あははは、そうですよねぇ、そりゃそーだ!」
 驚いて固まる私の眼の前で、一頻り笑って溜息をつく。コップの中身を煽って、一人で頷く。その後で満面の笑みを浮かべる様子に私は確信した。
 「でも俺ねぇ、こう見えても割と物覚えは良いんですよ。洋興大の生徒さんで家の常連、全員名前いえますよ。慎先生、何人くらい知ってるかなぁ。
 ええと、例えば中野尚志君って知ってます? 2004年卒業」
 「いや、知らない…」
 「国文科って言ってたと思いますよ! じゃ、林園子ちゃんは」
 「あのね、長沢君…」
 「在学中です。理学科です。学部違いますもんね。じゃですねぇ」
 「おばちゃん、お茶頂戴」
 「俺、焼酎の梅割りー」
 「長沢君、君、相当回ってるだろ!」
 にこやかに注文に応える店のおばちゃんと長沢君の間に入って慌てて制する。これは酔っている。相当に出来上がっている。確実にこのペースで行けば、酒の強くない人間など、即行で潰れる。クールダウンの意味で茶を差し出す私を、とろんとした目が見上げた。
 「はぁい」
 先程までの苦渋の表情が嘘のようだ。無防備で楽しげな表情に、何となく和んでしまうから性質が悪い。
 たまには良いじゃないですかぁ。ねぇ。楽しげなその声に、瞬時に説得されながら、脳の片隅がまずい、と思った。
 まずい、楽しくなって来た。
 
* * * * * *

 
 昔から、酒が入ると泣いたり笑ったりでうるさいと言われた。長沢君はそう言った。その評価は実に的確だと、私は現在しみじみ実感している。
 話題のスライドが瞬時だ。時折はこちらの反応も待たず、或いは完全に無視して話が進む。前回の控え目で理知的で、シニカルな話しっぷりが嘘のようだ。脳天気で…だが朗らかだ。
 困るのは、余りに楽しそうに話すので許してしまうし、話題自体は中々興味深かったりもするので、ついつい聞き入ってしまう事だ。話すのが本業のこちらとしては、酔っ払いの話に魅入られると言うのは、少しばかり悔しい。
 「珈琲です、珈琲。珈琲ベルトと言うのがありまして、大体それがコカインベルトと重なってると思うんですよ。先生、コカインは?」
 「どう言う質問だいそれ?」
 「やった事、有りますか?」
 「………有ると言ったら」
 「知り合いに警察官がいますので、通報します」
 言いながら、一人でくすくす笑っている。私は頭を振った。
 「残念ながら、この年まで経験は有りません。マリファナなら、オランダに行った時、アムステルダムのパブでやったが、喫煙の習慣の無い者には煙いだけだったなぁ」
 長沢君は相変わらず笑っている。楽しそうなのは良い事だが。
 「俺は多分…有ります。でも自覚は有りません。相手が勝手に使った事で、俺の感覚は痛みが遠のいたくらいの事。世に言われる高揚感とか快感とかは憶えにありません」
 どきりとする。言い方に含みがあった。
 相手が使ったとはどう言う事だ。痛みが遠のいたとはどう言う状況だ。私の想像は一つ方向にしか動かなかった。使われたのはベッドの上。相手と言うのは……
 「でね、そのコカインベルトと、珈琲の生産地のベルトはほぼ重なってるんです」
 言いかけた所で先手を取られる。長沢君にその意識は無いだろう。屈託の無い笑みが彼の心情を良く現していた。
 「まぁ…ね。珈琲の産地として理想的なのは、熱帯から亜熱帯の、気温の差が有る肥沃な土壌、と言う代物ですから、大概の植物にとってはいい環境です。コカノキが群生するのも、不自然じゃないとは思います。
 コカノキはフクロウソウ目、珈琲はアカネ目。原産地も違います。両者とも交感神経刺激の働きを持つけど、薬効部位は、葉と実。ぼんやりそう思っているときに、コカノキの実を見ました。驚いたなあ。
 珈琲そっくり。赤くて小さくて可愛い、まるで珈琲チェリーそっくりの実なんですよ」
 へぇ。
 植物に興味を持たない私は素直に驚いた。コカノキの赤い実に思いを馳せる。コカインは無臭で、やや苦いという。その実はどんな味がするのだろうか。そもそも、珈琲の実の味だって、私は知らないのだ。
 「実ですか?さぁ、どんな味がするのだか。珈琲チェリーは熟せばちゃんと甘いんですよ。ただ実はほんのちょっとで、食べでがないんです。コカノキの実も甘いのかな」
 「ちょっと待った。―― 何故?」
 「……は?」
 「僕は今、何も言ってない。何故僕の言おうとした事が分かったんです」
 私は本気で驚いていた。一瞬、私は胸中の疑問を口にしたのかと、自分自身を疑った程だ。だが落ち着いて考えてみても言っていない。その通りの事を確かに考えたが、口に出してはいないのだ。
 堪りかねて問うと、目を丸くした髭面がこちらを見る。私に言われた台詞を、検証してから頷く。そうして改めて吹き出されて、私は心底参った。
 「すみません。仰いませんでした?聞こえた気がしたんですよ、先生の疑問が。でも、そう仰る所を見ると、合ってたんですよね?いいなぁ、俺達リンクしてますね。心がつながってるかな、今」
 何とも返答のしようが無くてうろたえる私を後目に、長沢君は楽しげに笑う。同じ朗らかさでおばちゃんに手を振って、ライムサワーを追加で注文する。
 「絶対超能力者だ、君は」
 「違いますよ。先生の顔にかかれてたんです。ここらに。"実の味は?"と、五文字」
 そんな訳無いよと応えながら、その図を想像しておかしくなった。薄緑色の粟立つ液体と、その向うの、ピンク色に染まった長沢君の顔。その顔に書かれている五文字。実の味は?身の味は?滑稽だ。
 「君が超能力者でも、僕の顔に書かれてるんでも良いよ。分かるなら当てて貰おーか。今僕は何を考えてる?」
 私自身、何を考えているのか良く分からない。ただ、細かい所が酒でボケて、感じるのは得体の知れない快感だ。楽しいとか、美味いとか言う類の。黒縁眼鏡がこれ見よがしに私の顔を覗き込んだ。
 上目遣いに覗き込んで、ゆっくりと目を細める。
 「イカンですねぇ。先生とも有ろうお方が――なぁんも考えて無いでしょ」
 御明察だ。
 
* * * * * *

 それから暫くは、長沢君の珈琲講釈を聞いた。珈琲は元々、その実をそのまま食べたり、すりつぶした実を固めて携帯食として用いたり、種子を豆として煮て食べたりしていたそうだ。それが南米から中東に渡り、豆の煮汁を飲むようになり、それが民間医療に用いられるようになった。
 飲むと覚醒する、ハイになる。そんな効果が認められて、珈琲は愛飲されるようになったのだと言う。ヤギが食べてハイになったからと言う逸話もあるようだが、それは子供の寓話レベルだと言う。大体、ヤギのハイってどう分かるんでしょうね。
 コカノキも同じです。髭に包まれた口許が言った。元々は、薬効成分を最も多く含む葉の部分を揉んでガムのように噛んでいたらしいが、今の人間がそれをやっても恐らくは何も感じないレベルです。けれど、昔の人間には充分な刺激だった。だから葉を噛み、いつかそれがコカインになった。
 昔の人は、と、しみじみとした声が言う。
 「色々な刺激に敏感だったんですねぇ。少しの刺激で楽しめたし、充分余韻があった。でも俺達は、日常的に珈琲を飲み、刺激の強い食物や飲料や煙草や……匂い、音、光…凡ての刺激的な物を身体の中に受け入れ、直中に住み。きっと凄く……鈍感になっている」
 とろんとした口調で長沢君が呟く。妙に納得した。深く頷く。カップの中で解けかけの氷がかろん、と良い音を立てた。
 「刺激……そうだなぁ。我々は進化して、鈍感になった。感覚が退化した。つまり、進化とは退化と言う事かな」
 「大いなる矛盾ですね」
 何回目かの乾杯をする。
 気がつけば、何とはなしに話す言葉が小声になっていた。
 酔えば大声になりそうなものだが、狭いテーブルの上の物は粗方食い尽くし、互いに片手に酒のコップを握ったまま、小声で話していた。
 店はそれなりに騒がしく、小さな声は通り辛い。だから自然、互いの話を良く聞けるように近付いて話す事になる。狭いテーブルに肘を突いて、互いの耳の直ぐ傍らで口許をよせ、そこで話した。酔って間延びした声が耳朶を打つ。私の声もきっと同じように呂律が怪しいのだろう。
 「うん…。何も嗜好品だけじゃない。時代が進むにつれ、娯楽は多様化した。娯楽を楽しむ場所も時間も状況も多様化し、その恩恵に預かる人間自体も多様化した。それは進化かな、退化かな」
 「政治はどうです」
 「それは明らかな退化だな」
 私の言葉に、隣の髭面がくすりと笑う。待ってました、そう聞こえた。
 「日本は紛れも無い先進国だ。GDP、世界二位。おっと、今は3位かな。もし、政治が進化しているなら、単純にこの法則に従うかと言うと、それは全く持ってナン…」
 「ナンセンス」
 長沢君が言葉を継ぐ。二つの語尾が短い笑いに消える。短い笑いの後に息を吸い込んで、吐く息で続けたいと思った。
 もっと冴えた頭で、冷えた空気の下で。
 私が「もっと話したい」と思うのは、それ即ち、長沢君の「もっと聞きたい」なのだ。不思議だが、そう確信した。そして恐らくは、私がそう感じた事を長沢君も悟ったに違いない。小さく吐いた溜息を、私以外の人間の溜め息が継いだ。
 「………珈琲かぁ」
 はい。くぐもった声が言う。
 「珈琲ですよ。俺の、一応、本職です」
 かろん、と氷を鳴らしてカップを置く。
 「琥珀色の悦楽……か。カフェインと、独特な苦味と酸味。芳醇な香り。この頃美味い珈琲飲んでないなぁ」
 私の言葉に、間近でとろんとした目が持ち上がる。間近だからこその、眼鏡を通さぬ"素"の目許が覗く。長い睫毛と大きな双眸は、レンズを通すと印象がまるで違うのだ。この目をあれ程に変えるのは、どんな度の凸レンズなのかと酒の回った頭で考えた。長沢君は相当の近視だ。
 「先生はどんな珈琲がお好きですか?」
 「どんな……って」
 「苦いのが好き、軽いのが好き、酸味が重要、華の様な香りが大事。或いはエスプレッソ、カフェオレ、ドリップ、etc…」
 「さぁ…普通にモカやコロンビアを買って、中挽きにしてドリップで呑んでた。それで満足するレベルだ、僕は」
 でしたら。
 言いながら長沢君が立ち上がる。…つもりだったらしいが酔いの所為で身体が泳ぐ。反射的に腕を伸ばした。
 長沢君は痩せすぎだ。だから良い様に扱われてしまうのだ。
 男の身体を支えるのだからと踏ん張った足に、殆ど力は要らなかった。重さを覚悟した腕は、軽さに跳ね返りそうになった。女性一人を支えるより楽だった。そうだ、私の妻を支えるより……。
 腕の中の身体が身もがいて、慌てて机に手を突く。ごめんなさい、そう呟きながら見上げる。
 「先生、でしたら俺の店に行きましょうよ。お口に合う珈琲、淹れさせて頂きます」
 軽い。
 媚びるように見上げられる赤い瞳を見下ろしながら、はっきりと我が胸中を確認する。ただ願うのは。
 こんな時だけは、今だけは。考えを読まれませんように。
 
* * * * * *

 
 
 ここからならば歩いても30分なんて掛かりませんよ、歩きましょう。
 そう言い募る長沢君を半ば無理矢理にタクシーに詰め込んで、神保町交差点に向かった。
 確かに日頃なら歩く距離だ。30分どころか15分程で踏破出来る距離なのだから、タクシーに乗るなど不景気の現代にはそぐわない。散歩がてらゆっくり歩いて、物足らない距離なのだ。だが今は、場合が違う。
 もとより酒に弱い男が、立ち上がるのが怪しい状態で歩いたらどうなるか。まず、早々に潰れて辿り着けないのが関の山だし、辿り着けたとしても、肝心の店につく頃には酔いが回って、珈琲を淹れる事など叶おう筈もない。それでは意味が無い。全く持って意味が無いのだ。
 長沢君の淹れる珈琲を飲む。
 それがこの度の命題なのだからして、長沢君に潰れて貰っては困るのだ。せめて珈琲が私の目の前に姿をましますまでは。
 タクシーに押し込み、歩きたかったのに、と不貞腐れる長沢君を無視して運転手に行き先を告げる。取り敢えず神保町交差点。そう告げると、運転手の後ろ姿が微かに驚いた。
 苦笑交じりに、車窓の夜景に目を運ぶ。見慣れた御茶ノ水の街が、酔いで僅かに霞んでいた。
 気分は良かった。不思議な程に、良かった。
 脇に、髭面の四十男を据えて、気分は妙に高揚していた。いつもなら血気盛んな学生達が占める位置に、今日は痩せっぽちの酔っ払いがちょこんと納まり、楽しげにはしゃいでいる。不貞腐れた次の瞬間には笑い、次には大あくびをし、いきなり、そこを右!と叫んでシートに転がる。神保町の交差点が分らぬタクシーの運転手など居ないのに、ご大層に騒ぐ様が可笑しくて、つい笑った。
 僅かワンメータ。札入れを出そうとする私を押しのけて、長沢君が硬貨を運転手に渡す。
 恐らくは握り締めていた硬貨が、温まっていたのだろう。或いは汗で湿っていたのかも知れぬ。何とも言えぬ表情の運転手が、それでも愛想よく笑って毎度ドウモと言ったものだから、酔っ払い二人は路上で暫し動けなくなった。
 転びそうになる長沢君を支える。身体を屈める私を長沢君が支える。聞こえるのは、お互いの笑い声だった。
 笑いの理由は明確には、ない。何と言う事の無い表情と、間と、その場の空気。大概、笑いとはそんな物だ。
 一頻り笑って息をつくと、長沢君が軽く顎をしゃくった。そこが店ですよ。そう言う意図を感じて彼に続く。
 移動距離は僅か数歩だった。角から数歩進んで、見上げた先に見慣れた風景が有った。学生の街、神保町。猿楽町。古ぼけた小さな店舗と、建ったばかりの近代ビル。寄り添うように軒先を並べるすすけた街の一角に、レンガと木造の古ぼけた店が有った。
 知っている。
 この界隈で長年暮らしているのだから、当たり前と言われればその通りだが、店には覚えが有った。だが同時に、違和感が私を支配した。
 「SOMETHING CAFE……?いや、違う……」
 懐かしい店の造りに似合うのは横文字ではなかった筈だ。もっと当たり前の、いかにも珈琲店で有った筈だ。そう名前は珈琲店だった筈だ。
 ああ、長沢君が笑う。
 「先生は先代をご存知の方なんですね。昔はここ、竹下珈琲店と言ったんですよ」
 「ああ、やっぱり。何とか珈琲店だったよ。いかにもな金属の看板で。…二三回は入った気がする。遥か昔の事だけど……」
 「ええ。偉丈夫のマスターが居て、無口で無愛想な癖に、若い客が途切れない店でした。店主が変って俺はその跡を継いだけど、その域には全く達してません」
 今まで笑っていた酔っ払いの顔に、複雑な表情が宿る。相も変わらず静かな笑みのままなのに、その後ろに何かが透けて見える。恐らくそれは年月とか人と人のしがらみとか、記憶や慕情と言った形にならぬものなのだ。不確かで、目に見えぬ物。その存在すら証明は出来ぬのに、自らを捕らえて話さぬ物。名を付けるのも難しい。
 若い内はピンと来なかったそれらの感覚は、いつしか深い実感として私の中に在る。何十年もの年月を恐らくは無為に生きて来て、多くの人と出会い、別れ、多くの物を得、得た以上に多くの物を失って来た。単純に差し引き計算をすれば、0かマイナスの筈なのに、体の奥底に膨大な澱が残っている。淀んでいる。――よく分る。
 尋ねずに頷く。長沢君も、何も言わずに頷いた。
 彼の導きに従って店の裏に回り、ちっぽけな廊下を通って店に出る。思った通りの内観が私を迎えてくれた。
 昔ながらのレンガの壁。マホガニーのカウンタと、古びた木枠の窓ガラス。磨かれて飴色になったフローリングと、店の端に置かれているピンク電話。店の中だけ時が止まっているかのようだ。店の窓から覗く風景が、恐らくは近代的な街並で有るのが不思議な程だ。
 閉められたままのシャッターを眺めて苦笑する。長沢君が、どうぞ、とカウンタを指し示した。
 「何に致しましょう、お客様」
 酔っ払いが、恭しく腰を折る。胸許に片手を置き、空いた片手で席を示す。その様が妙に似合っていた。
 少し高めのカウンタ席に腰を落ち着けて、客の立場から長沢君を見る。なるほど、と思った。
 営業時の長沢君は、恐らくこんな赤い頬はしていないだろう。髪も装いも、恐らくはもっと小奇麗で、営業ベースに則っているのだろう。だが、容易に想像が出来た。…そう。判る気がした。
 珈琲が美味しい店だと言う。そうなんだろう。雰囲気が良いと言う。それもそうなんだろう。だがきっと。
 この店主だ。このマスターなのだろう。自分が客であるならば、このマスターの許へなら、通うかも知れぬ。
 「では。マスターのお薦めを一つ。基本、ブラックで飲めるやつ」
 「かしこまりました」
 人懐こい笑みと、穏やかな空気。赦しと寛ぎ。珈琲の馥郁たる香りと緩やかな時間。そんな物をきっと、この店主が提供してくれる。そうであるならば、ここへ。一時の非日常と、束の間の寛ぎの一時を求めてここへ、通うだろう。
 恐らくは。私は考えた。ぼんやりと、だが奇妙な確信を得て思った。恐らくは。
 高樹君もそうだったのだ。寛ぎを求めてここに来たのだ。
 その寛ぎの主が、やがて自らを翻弄する等とは思わずに。そう、ゆめゆめ思わずに。
 
* * * * * *

 ほんの一瞬、俯いて考えた後、それでは、と言う言葉と供に長沢君が動き出す。
 何物かを冷蔵庫から出してきたと思えば、それは水に浸された布で、何かと思えばドリップ用のフィルターだった。いわゆるこれが巷でよく聞くネルと言う奴だろう。
 「何で冷やしておくんだ?冷やしといた方が抽出できるの?」
 器用な指先でネルを絞り、三脚に設置してコーヒー豆に取り掛かる。
 「違いますよ〜。ネルは乾燥させてはいけないので水の中に浸し、不潔になってはいけないので冷やしておく。それだけのことです。
 先生は、フローラルなアロマが好きってタイプじゃないですよね。苦味は割りと嫌いじゃないが、特に苦味が好きって訳でもない…って感じですかね」
 よく分らずに曖昧に頷く。余り考えた事もなかった。
 ビールを好んで飲むのは気軽に酔えるからで、特に苦味が好きな訳じゃない。程よい苦味は歓迎するが、舌にこびりつくような、イギリスのビタースタウト系の苦味は苦手だ。苦味を楽しむと言う事はない。トラピストビールが割と好きなのは、その所為も有るだろう、あれは物によっては甘くて美味い。
 私の反応を横目に見ながら、長沢君は珈琲を選び、豆をミルに放り込む。お世辞にも快いとは言えない騒音と供に、鼻をくすぐる香りが拡がった。
 「そうですよね。俺も、昔は味に拘る方じゃなくて……ましてや珈琲の味やら香りやら…全く興味は無かったですね。…ああ、嫁は珈琲が好きで、良く家でも淹れていました。豆は新鮮なのが一番と、小さい袋で豆を買って来ては淹れてました。
 俺はもっぱらインスタント。まさか自分が珈琲を淹れる側になろうとはね。……奥様は飲まれますか?」
 またか。嫌悪感ではなかった。むしろ半ば快感に近い感覚で思う。長沢君は人の心の動きを、確信して物を言う。
 〜と思いましたか?ではなく、〜と思われる通りです、として話が続く。しかも彼のいわば「決め付け」が間違っていないから恐れ入る。まるで心を読まれていて、それがまた不思議に快感なのが困るのだ。
 「うん。飲んでるな。奥さんは味にも細かいし、拘りも有るみたいですよ。最近ではフレーバー?とか、クオリティ?とか、何だか色々有るらしい」
 あはは。短い笑い声が零れる。
 ネルの中に納まった粉に、ポットから湯が注がれる。丸を描くように、細く穏やかに差し入れる。粉が湯を含んで泡立ち、膨らむ。ネルの中に丸く膨らむまで湯を注ぎ入れると、長沢君はポットを置いた。感心して、ポッを支える腕の持ち主の顔を見上げた。
 先程まで酔っ払ってはしゃいでいた表情は、今はアルカイックスマイルに隠れて見えない。上気した頬と、輪郭を包み込む柔らかい髭。伏せ目がちの表情。温和で優しげで、そして。恐らくはセクシーなのだろうとふと思う。
 再び、ポットから湯が注がれる。サーバーの中に、琥珀色の液体が滴る。二回、三回と湯が注がれ、やがてポットが軽い音と供に置かれる。
 髭面がにんまりと笑った。 
 思いの他早く、ネルを支える三脚を取り去り、長沢君はサーバーを手に取った。湯を注がれて温まったカップに、出来立ての珈琲を注ぎ入れる。不思議に甘い香りが鼻腔をくすぐった。
 「どうぞ。エチオピア・ハラボールドグレイン。ホームメイドバージョンです」
 生成りのソーサーと、大き目のカップ。珈琲シュガーとミルクはお好みで。しなやかな指が、私の目の前にソーサーを滑らせる。突いたままの肘に、暖かな湯気が立ち上った。
 差し出されたのは、珈琲と笑顔。
 私はカップに手をつけた。
 湯気を吹いて、香りを楽しむ。口に含んで、また香りを楽しむ。苦味はあるが、尖っては居ない。まろやかで、爽やかだ。ゆっくり一口味わう。思わずこちらも笑みになった。
 「……うん。美味しい」
 「本当ですか?」
 「嘘をついても仕方ないよ。うん、美味い。すっきりしてて、苦味も残らない。……ホームメイドバージョン?」
 ああ。長沢君が笑いながら、自分のカップにも同じ物を注ぐ。サーバには、まだ二杯分くらいは残っている。多めに淹れてくれた事が有り難いと感じた。
 マホガニーのカウンタから、珈琲を抱えて歩み出す。両手を温めるようにカップを抱える仕種が、妙に目の前の男には似合っていた。
 「ええ。同じアフリカのリージョンでブレンドしてますが、店でお出ししては居ないので、ホームメイド、かな」
 「何故、店で出さないの。これ、美味いよ」
 「その時に余った豆を入れてるので、微妙に毎回味が違うんですよ。ボールドグレインは日本人にウケると分ってるんですが、一定しない味は店に出せないですからねぇ。……うん」
 一口のみ、自らの淹れた珈琲に満面の笑みになる。恐らくはプロにとっても、改心の出来と言うのが有って、今回はそれに近いのかも知れない。そんな感じの笑みだった。私の横のテーブルに珈琲カップを置き、つられて笑う私の目の前で、唐突に長沢君は姿を消した。
 笑みのままで固まる。酔っ払いの思考は不思議な物で、あれ?と思ったまま、答えが見つからず、珈琲をもう一口啜る。
 と、楽しげな笑い声が起こった。私の目線のずっと下から。
 「…何やってんの君?」
 「あはは、椅子に座ったつもりなんですけど、何だか世界が低い〜ですぅ。先生、でっかくなりました〜?」
 酔っ払いが床の上で笑っている。ああ、そう言えば長沢君は相当酔っていたんだっけ。
 「ちゃんと珈琲は淹れられるのに、椅子に座る事が出来ないのかよう」
 いやいや、と酔っ払いが笑う。
 「本当はサイフォンで淹れたかったんですよ。でも絶対アルコールランプ転がすと思ったんで、ネルドリップにしました〜。俺、ナーイス判断! ね。ね」
 ね、ではない。床の上に転がったまま、楽しそうに笑われても、それはそれで対処に困る。その笑顔が実に楽しげで、可愛らしいのがまた困る。
 長沢君が犬や猫の類なら、問題は無かったのだ。可愛い可愛いと撫でまくって、キスしようが一緒に寝ようが、そのものずばり癒し系であったのに。
 いい年をした男では、可愛いという単語さえ憚られる。妙齢の女性なら……、ああそれは、もっと問題だ。
 「冷たいなぁ先生、起こして下さいよう」
 えええ。一応は抗議の声を上げるが、それはもう諦めていた。酔っ払いはこうした物だ。立てないとなったら、立てないのだ。
 「ああもう、しょうがないねぇ。酒に飲まれるからいかんのだ」
 椅子を降りる。肩に手を掛ける。このままの姿勢では腰を痛めるからと、屈みこむ。長沢君の両腕が私の肩に掛かった。
 「ごめんなさぁ〜い」
 柔らかい毛が顎先に触れる。暖かい体温が、隙間から這い登る。下げた目線の先に、大きな瞳が有った。
 
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