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*** とある准教授の日々 6 ***


 ああ、この感覚は久しぶりだ。もう殆ど…忘れていた。そう思う。
 もう遠い遠い昔。これは幾度となく味わった感覚だ。心悸高進、脈拍上昇。原因は、その頃はこれを恋だと思った。
 相手はいつも、少しばかり気の強い女性であったと思う。自身で"おしゃべり"だと言う自覚がある私が、彼女の言葉に押されて黙った時などに、良くこれは訪れた。たった今まで、自らが紡いでいた言葉の代わりに、その人が染み入ってくる感覚。大抵は、くりくり動く大きな瞳に見つめられて、どぎまぎする感覚から始まるのだ。
 どぎまぎして、その人から目をそらして。改めて目線を戻したら最後、囚われる。――これはまるで。
 その時のまま、ではないか。
 
 潤んだ大きな瞳は、熱っぽくこちらを見つめている。二人きりの空間で至近距離にいて、私はそれを見返している。その時と違うのは。相手が可愛らしい女性ではないと言う、その一点だけだ。
 細い体を抱き寄せる。――だが、何の為に?
 「うぎゃ」
 ごとり、と音がしてはっとする。長沢君が床の上に転がっていた。
 「し……しどいですよぉ、慎せんせい〜。助ける振りして放り出すなんてぇ〜」
 酔っ払いが、しきりに肘の辺りをさすりながら不平を言う。鈍い音は、恐らくは彼の肘と、床がぶつかって立てた音なのだ。そうか。思い当たる。そうだった。
 「あ、すまんすまん。君を助け起こそうとしてたんだっけ、今…」
 椅子に座ろうとして転んだ酔っ払いを、引き上げて椅子に座らせる。そんな単純なミッションの途中だったのに。それをつい忘れ、自らの動揺に、腕の中の物を放り出してしまった。酷く熱い物に触れた気がして、慌てて手放した。
 熱いと感じたのは、だが決して気の所為ではありはしない。錯覚でなどある訳がない。その証拠に、まだ触れた掌がひりひりするのだ。
 馬鹿らしい。何をやっているのか。
 目の前にいるのは、私のオープンカレッジの受講生だ。二つ年下で博識で、面白い感性を持つ、しかしただの受講生なのだ。十数年ぶりに、友達になりたいと思っただけの、それだけの一般生徒だ。生徒なのだ。なのに。
 目の奥にちらつく。先週見た、薄っぺらい記憶媒体の映像が頭の中によみがえる。無駄な動揺が記憶を辿らせる。妙に、鮮明に。
 「せぇんせえ」
 床の上からかけられた言葉に彼を見て初めて、自分がじっと俯いていた事を知る。抱き上げようと床にかがみ込み、腕を伸ばした中途半端な格好のままで俯いていた。放り捨てられた格好の酔っ払いは、助けを催促して腕を伸ばす。酒に緩んだ声が呼ぶ。
 床の上に寝転がる人物は私の生徒だ。私の生徒で、生徒の暴行の被害者で。ぼやけた画像の中で生々しく喘いでいたその人だ。そうだ。
 つい先日、私の膝の上で腰を振っていた男ではないか。いや、違う。私の、ではない。いやそうだ。
 床に手を突く。寝転がる身体の顔を覗き込む。
 「先生、はやくぅ」
 甘えた声に鼓動が跳ね上がる。上気した頬の上の、大きな濡れた瞳が微笑んでいた。
 皮膚が朱に染まっているのも、目許が潤んでいるのも、酔いの所為だと分っている。甘えたような口ぶりも、誘うような仕草も人懐こさも、それらは全て酒の上の事なのだ。今のこれは、酔いが覚めると供に消える、ちっぽけな幻だ。それに過ぎない。
 しなやかな指が私を招き、縋るように私の肩に留まる。シャツのラインに沿って頭の後ろに辿り着き。ゆっくりと力をこめる。微かに鼻腔をくすぐるのは、酒と、エチオピア・ハラボールドグレインの芳香だ。ホームメイドバージョン。
 頭の後ろに回った腕に引き寄せられる。軽い筈のその体重に引き寄せられる。支えられずに体を崩す。それが、重みに耐えかねた為の事故だったのか、別の意図を含む故意だったのかは……私には分からない。
 
* * * * * *

 かくん。
 肘が崩れて上半身が落ちる。着地した先は、冷たい床ではなかった。
 体重を掛けてしまわぬように、最低限身構えたが、それでも踏み止れずに頬から着地する。接したのは肌触りのいいニットと、その下の体温だった。
 決して広いとは言えぬ肩。厚いとは言えない胸。押し当てた耳の下で、心臓がとくとくと時を刻んでいた。
 ぷう。接する胸の奥で笑い声が破裂する。胸郭が笑いに揺れる。心臓の音と、笑いに行き来する呼吸音が耳許に響く。胸郭から鼓膜に直に伝わる楽しげで明るい声は、いつもの長沢君の声よりやや低く聞こえた。
 「慎先生、何やってんです。俺の事言えないくらいに酔ってるじゃないですかぁ」
 酔っ払いが笑う。熱い体温の掌が、私の頭から耳を辿り、頬に行き着いて力を強める。掌の熱が私の頬から脳に染み込む気がした。
 長い指と大きな掌は、長沢君が犬でも猫でもなく、前肢が器用に発達したホモ・ファビリスの末裔で、しかも雄であると私に知らせてくる。愛玩動物ではない。ここにいるのは、自らの向上の為に道具を使いこなし、思想を育てる人間なのだ。愛でるだけの存在ではない。欲求を叩きつけて良い存在でもない。ここにいるのは、恐らくは供に敵と戦える雄なのだ。だがそれでも。
 頭の中の媚態が私を惑わせる。
 私の頬をなぞる手に、耳の付け根に絡みつく手に、単なる親しさと違う物を感じてしまう。もっと直情的な、いっそ本能的な衝動を感じてしまう。熱い掌に導かれるまま顔を上げると、満面の笑みが私を迎え入れた。
 分っている。冷たい床の上に転んで立ち上がれない酔っ払いと、それを助け起こそうとして崩れ落ちた酔っ払いだ。それ以上でもそれ以下でもないのだ。
 互いの失態に、お互い酔ってるなあ、そう言って笑い合えば済む事だ。酔っているのだから、転ぶのも、もつれ合うのも仕方ない。そうだ。仕方ない事だ。
 両方の耳に添えられた長沢くんの手に指を掛ける。掌に指を差し入れて、顎にかかっていた両手を外し、胸の下に抱きいれる。そのままの流れで床に腕を突く。顔の真下に長沢君がいた。長沢君が――いた。
 人の好さそうな笑みが好きだ。表情豊かな大きな目が良い。
 黒縁の無粋な眼鏡は、ややずり落ちて小鼻の上に収まっている。黒縁の上に乗った裸眼は、近眼特有の瞳孔の大きな潤んだ瞳で、それが妙に扇情的に思えた。
 肘で体重を支えて、両手を頬に押し当てる。やわらかい毛が包む頬を両手で辿る。辿って、包んで。その中の唇に自らの物を押し付けた。
 感じたのは、酒の香り。柔らかさは男も女も変わらない。手の中にすぽりと納まる頬を掴んで、ゆっくりと唇で彼の亀裂を辿る。抵抗はなかった。
 押し付けて、触れるだけで離れる。反応を確かめて、再び押し付ける。
 一週間前。自室のTV画面の中に開かれた身体がここにある。画面の中で数人の男に犯された場所は、この身体の中にあるのだ。私が。妄想の中で自らを埋め込んだ場所は、今私の腕の中にある。
 「ん…」
 幾度か口付けて手の中の顔を見下ろすと、とろんとした瞳がこちらを見ていた。別段驚くでもなく、逆らうでもなく。さりとて迎え入れるでもない。顎を掴んで口を開かせ、舌を差し入れて口腔を犯す。柔らかい肉を軽く噛む。密着した胸から感じる脈動は、実に穏やかなままだった。
 肘で身体をかき抱く。歯を立てずに彼の唇を味わって歯列を舌で辿る。頬から離した手で背をまさぐり、細い腰のラインをなぞってジーンズに辿り着く。挟み込まれたシャツを乱暴に引き出し、むき出しの背に掌を合わせる。
 暖かい。暖かくて滑らかだ。
 片腕で頭を支え、もう片腕を背に滑らせる。背中と、ジーンズの中の腰と、その先の……
 つ、と口を塞がれた。
 熱い、体温。
 口を塞いだのは、彼の左手だった。
 
 
* * * * * *

 動きを止める。
 床の上の身体に巻きついた状態のまま、動きを止める。
 壁のどこかで、かちり、と機械音がした。
 恐らくはどこかに時を告げる鐘があるのだ。壁掛けで、本来は時を伝える音を出す機械。その為のスイッチが入った音だと思うのに、続く時報は聞こえなかった。壊れているなら修理すべきだ。
 時が止まる。長沢君の掌で。
 奇妙に熱い掌が、私の口に押し当てられていた。
 「先生……俺……に」
 酔いの所為でぼんやりした瞳が、間近から私を見上げる。呼気が濃い酒分を含んで胸元に蟠った。
 「俺に合わせる必要、……無いですよぉ、先生はぁ」
 合わせる。言葉が耳の中で空回りする。合わせる、とは何を?今、思った事柄なら、合わせたいのは身体で、そうしたいのは他でもない、自分自身だ。
 腕の中のその人は、いつもの笑みに、ほんの少し困った色を混ぜて表情を作った。媚びるような、戸惑う表情。
 「俺、良く言われるんですよねぇ。何を物欲しげに誘ってんだって。酔うと特に節操ないって。キス魔だし、抱き付き魔だし〜〜。すみませぇん」
 あはは、と髭面が笑う。
 心臓がどきりと跳ねた。
 「先生は"そっち"の人じゃないですもんねぇ、俺に合わせちゃ駄目だ。俺、節操ないし、"そう"なるとしつこいんですよ。俺ストーカーなりたくない〜〜」
 赤く染まった目許に、冷や水を被せられた気がした。
 私は今、何をした?
 長沢君の背中から慌てて腕を引き抜く。弾かれて上半身を起こし、改めて床に転がる。長沢君の横の床にごつんと頭を打ちつけて、その痛みに頭を抱える。横で長沢君がケタケタと笑った。
 急速に覚醒する。酔いが引いていく。
 今、自分は一体何をした? どんな気持ちだった?やれる、そう思ったのか?
 背筋が寒くなる。そうか、そう思ったのか。DVDの中で数人としまくった挙句、その元となった高樹君を許した男だから、自分も許されると、そう思ったのか。
 彼にとってはあんな事は、豊富な経験のほんの一部でしかあるまい。恐らくは今までに多くの男女と交わって、その交わりを楽しんで来た男なのだ。だから、自分はその中の一人になるだけの事だ。
 だったら軽く出来る。後腐れなく楽しめる。誰にも知られず、環境も生活も壊さずに、一夜限りの情事を味わえる。酔いに任せてこの体を開き、その奥に思うざま突き立て、揺すり上げて放てば良い。上手く行こうが行くまいが、一夜限りの事なのだし、多少逆らわれても抗われても、勢いで押し流せる。何しろ先に誘ったのは、彼の方なのだから。
 そうだ。単純な身体の交わりでSEXで、興味本位の行為だ。種族の雄の本能の発露だ。
 人体の中で一番温度の高いそこは、埋め込んで揺さぶるとどんな感覚なのだろう。本来消化管の筈のそこは、どんな手応えなのか。――長沢君のそこは。
 具合が良さそうだ。細い腰の奥は恐らくは狭くて、動画の男達が言うように締め付けて来るのだろう。強引に開いても良い物ならば、心憎く思われていない自分が開くなら、さぞかし良い物に違いない。
 だから抱きたい。感じたい。人間ではなく獣として"したい"のだ。どうせ彼は。
 拒まない。
 「大丈夫ですか、先生?」
 胸を突かれて振り返る。謝罪の言葉は山ほど有った。だが何を言えば良いのか分らない。頭を抱えた体勢のまま振り返ると、酔っ払いが小さく吹き出した。
 「相当痛かったんですねぇ、すっごい音しましたもん〜」
 そちらか。何も言えずに息を呑む。
 「大丈夫ですかぁ?」
 「あ、ああ、大丈夫……」
 うふふ。髭面が笑う。ごろん、と床の上で寝返りを打つ。私の方へ。あの笑顔のままで。
 酔いの覚めた頭の中は、すっかり混乱していた。
 
* * * * * *

 潤んだ瞳が真っ直ぐに私を射る。髭に包まれた口許がくすくすと笑う。
 雰囲気に流されて、彼に行為を募ろうとした私を前に、長沢君は少しも態度を変えない。暢気で、楽しげだ。そしてやはり。
 私には彼が私を誘っているようにしか見えないのだ。
 「先生、聞いてもいいですかぁ」
 間延びした声が言う。私は無言で頷いた。また上りそうになる頭の血を下げられるなら何でも良い。話に熱中出来れば気も紛れる。会話は何でも大歓迎だった。
 「先生の奥様はどんな方ですか」
 虚を突かれる。言葉を呑む私に、酔っ払いは楽しげに続けた。
 「あ。いや。先生をお送りした時、お姿だけはお見かけしました。酔っ払った先生を支えておられる姿とか、駄目じゃない、と叱る姿とか。先生が全然動じてなくて、ああ、仲のいいご夫婦なんだと感じました。でもぉ。如何せんこっちも酔ってて、殆ど覚えてないんです。
 奥様は小説家先生だとお聞きしました。この所俺、偏った読書しかしてないから、読みたいと思ってぇ。きっと素敵な方なんだろうなぁ……」
 ああ。息をつく。日常で数多く繰り返される会話には、私なりのマニュアルがある。マニュアルのある会話は、混乱した頭脳でも何とかこなせるものだ。
 「素敵かどうかは個人の価値観しだいだけど、僕には出来過ぎた嫁ですよ。それと、嫁さんの作品は万人にお勧めだ。じわっと来ますよ」
 私は妻の宣伝マンの一員だ。言い慣れた答えを唱えて反応を探る。長沢君は深々と溜息をついた。
 「いいですねぇ。才能あるご夫婦で、お互いにその才能を認め合ってるなんて、理想的だ。仲良さそうでしたもん、夫婦円満ですか?……ああ、いいなぁ」
 うなづく私に、長沢君は溜息を重ねる。それで私はやっと思い当たった。
 先程、長沢君は細君の話をしていた。珈琲を良く淹れていたのは嫁で、新鮮な豆が良いと言っていたのも嫁だった。まさか自分が淹れる立場になろうとは。行間に、彼の溜息の意味を知る。つまりは、そう言う事なのか。
 「君の"奥さん"……と、言うのは、過去の呼び方なのかな?」
 彼の、細君に対する形容は全て過去形だ。加えて彼からは、余り家庭の匂いと言う物がして来ない。となれば、離婚しているか死別しているかと考えるのは妥当だろう。酔っ払いは楽しげな顔のまま、くすりと笑った。
 「そうですねぇ。もう過去なんでしょうねぇ…。俺はバツ1で、娘には新しいパパが出来る…そんな状況です。
 ああ、いや。分ってるんですよ〜。俺は駄目な夫で、駄目な父親でしたから、嫁の選択は正しいんですよ。でもねぇ〜、でも〜」
 酔っ払いがにじり寄る。床の上をごそごそと、肩でもってにじり寄る。器用だなあと頭の片隅がぼんやりと感心した。
 「俺はまだ嫁さんに未練たっぷりなんですよ。それにね、それに。娘もね」
 今まで楽しげに笑っていた表情が、急に曇る。曇ると殆ど同時に、ぐすん、と鼻がなる。
 「そりゃもういい子なんですよぅ。親の欲目を抜いたって本当〜〜〜〜〜に良い娘なんですよ。本当ですよ。可愛いし、気立てだって良いし。それなのにね。それなのに俺、そんな良い子をもうず〜〜〜っと放って置いて……」
 涙になる。潤んでいた瞳はそのままに、ぽろぽろと目頭から雫が滴り落ちる。先程の長沢君の言葉が脳裏に蘇った。
 
 前っから、酒が入ると泣いたり笑ったりでうるさいと言われてまして。これは癖みたいなモンです。気になさらないで下さい。
 
 ああ、これは。
 「気づいたら、嫁ごと娘ごと失う羽目になるなんてぇ。も〜〜、先生、羨ましい〜……」
 気になさらないで下さい、ではない。これは…タチが悪い……。
 長沢君は、鼻をこすって、盛大に泣き始めた。もともと酒で赤い顔をさらに赤くして、ぐすぐすと泣きじゃくり始めた。しかも、床の上を肩で移動して私に擦り寄り、子供のように胸元に頭を押し付ける。私は非常に混乱した。
 一体。一体これは。どう言う状況なのだ。
 長沢君が、私の胸元にすがり付いてぐすぐすと泣いている。
 形式的には。いや違う。どこからどう見ても。これは彼が私に泣き縋り、抱擁を求めている状態だ。他の解釈は、ほぼ不可能だ。だからこそ、私は混乱した。
 私は先程、いや、つい先程、この男を抱きしめて、あまつさえ口付けまでした男だ。
 つい一週間前、この男の痴態が納められたDVDを見た男だ。そしてそれは、当の長沢君自身、承知している事なのだ。
 彼が知らないのは、それで私が自らを慰めた事だが、それにしても。抱きしめて口づけ、素肌に触れるまでした男だという事は分っている筈だ。そこから、私が彼に抱いた性的欲求の概要は、同じ男なのだから推測がつく筈だ。つく、筈なのだ。だと言うのに。
 何故この状況にあって、こうまで無防備でいられるのだ。
 意味が分らない。誘っているのか。いや先程、それは完全否定されたではないか。では何だ。何だこの状況は?
 凍りつく私に、酔っ払いは不満そうに身をゆする。
 「先生は恵まれてます。俺は惨めです……。慰めて下さい」
 いやいやいやいやいや。
 すっかり酔いは引いていた。酔いの覚めた頭に、ひたすら混乱が渦を巻いた。答えを導き出すとすれば、彼が滅茶苦茶な酔い方をしていると言う事だけだ。
 「慰める……って……」
 頭をぐいぐいと押し付けられる。彼がもし子供なら。
 これは「撫でて」と言う事だろう。
 恐る恐る、その頭に掌を当てる。ゆっくりと撫で下ろす。無反応なので、何度か繰り返すと、胸元でむふー、と満足げな鼻息が漏れた。
 「俺ねぇ、先生」
 胸元にすがり付いていた腕が、自然に背後に回される。時を経た、つるつるのフローリングの上で酔っ払いが体温に縋りつく。腕を回す。混乱した私の頭は、それでもこの時には、彼に性的意図は全く無いのだと理解していた。
 「今すご〜く、素直なんです」
 胸元に、ワイシャツとTシャツと、幾枚かの布切れで遮られた声色がたぐまる。穏やかな音色だった。
 「年取って、色んな事があって、色んな事や物や感情を知ると、どんどん言えない言葉が増えるじゃないですか。いや、違うかな。こう言えば丸く収められる言葉を知り過ぎて、そればっか言う内に、言いたい事や言うべき事が埋もれてしまう……そんなん、在るじゃないですか」
 ああ。答えられずに、私は頷く。
 「俺ねぇ、丸く収められる言葉ば〜〜っか、言ってんですよ。でね。それに絡めて要求を出すのは割りと上手いんですよ〜。相手がね。気がつくと条件を飲まされてた!なんて言うの、上手いもんですよ。でもねぇ、それだけに。
 これだけ、言う、って時……、ひとっつも言葉、出てこない……」
 熱い吐息が、胸にかかる。
 彼が今は素直だと言うのは、きっと本当なのだろう。彼が言う通り、彼はいつも、素直ではないのだろう。人の良さそうな、人に与し易いと思われがちな人柄を装っているのかも知れぬ。あの仮面の下に、本当の自分を隠しているのだろう。だがそんなのは。
 多かれ少なかれ、誰にだって当て嵌まる事だ。彼だけが特別で、何枚も欺瞞の皮を被っていると言う訳じゃない。
 私が被った"准教授"だって一つの皮で、本当の私は、そんな名詞に合わない、野卑で下品な人間かも知れぬのだ。
 「街中でアジる言葉と、家の中の言葉は違うでしょう。前者は理性で考える。多くの聴衆を意識して、計算して、組み立てられる歌劇(オペレッタ)の一幕だ。でも家庭で奥さんや子供さんに言う貴方の言葉は、きっと本能で出来ている。素直で、もしかしたら、攻撃的だったり情けなかったり……するかも知れない。
 ……先生は」
 胸元から彼が見上げる。少しばかり身を離して、上目遣いに私を見る。
 「奥さんには必要なこと、言ってますか?
 ――― 言えてますか?」
 息を呑む。
 彼の言った言葉にも、彼自身にも。
 密着した熱い身体と、涙と、私の頭の中の記憶は、下半身に繋がる。しかし、彼の言葉は、私の心に呼びかけてくる。どちらを優先すべきなのか、どちらがより勝るのか。私にあるのは混乱だった。
 一押しすれば。彼の身体を味わうのは容易いだろう。ここまで無防備で、弱くて、無力なのだ。恐らくは押し入って、或いは快感を共有する事も出来るだろう。
 だがそうすれば。彼に求めた友情と、知的興奮は掻き消えてしまうだろう。話していて奇妙に共有出来る、思想的感覚も理屈も屁理屈も。二度とぶつけ合い、絡め合う事は出来ぬだろう。
 私にとって重要なのは。私にとって、より価値があるのは。
 「外向きの言葉と、素直な、言葉。…どちらが」
 身体か、思想か。性的興奮か、知的興奮か。どちらが。
 「あなたにとって、価値があるんだろう、先生」
 上目遣いの顔に、腕を掛ける。力いっぱい引き寄せる。
 遠慮しなかった。思い切り彼の唇に深く食いついて、舌を絡めた。
 背中へ腕を回して、肉の薄い尻を両手で掴み、自分の身体に引き寄せた。
 「んっ……」
 押し付ける。全身を。
 口内を犯す。舌を絡め、吸い付く。―― と。
 彼がはっきりとそれに応えた。
 背に回された両腕が絡みつき、貪り易いように顔を動かす。腰を密着させ、こすりつける。
 「ん、ん」
 両腕が互いの尻から背中へ、這い登る。背中を掴んで、じりじりと摺り上り、肩、首、顔へと辿り着く。頬から、互いの顔に絡む腕を取り合う。熱い息が絡まり合った。
 そして、ため息。
 「……はっきりしてるよ。僕にとって価値があるのは」
 思想で、知的興奮で。理屈で屁理屈で。
 「芯が通ってなきゃ、この人生も、活動も、御国の為にも、あるものか」
 髭面が、ゆっくりと笑顔になる。先程までの涙の余韻が残ったままの、やわらかい笑みだった。
 「……ええ」
 友情だ。
 この人に対しては。
 「やっぱり、俺の惚れた慎先生ですよ。流石」
 抱き合った耳許で、長沢君が楽しそうに、そう言った。  
* * * * * *
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