いつか二人分の体温で温くなった床の上から酔っ払いを抱き起こし、少し高めのストールを諦めて窓際の席に座らせる。私はもう、この店の椅子に腰を下ろすつもりは無かった。
木製の背凭れのついた椅子からもずり落ちそうになる店主に、寝るように促す。覚束ぬ足取りで、彼がのろのろと珈琲を流しに置くのを確かめて、階段の上まで付き添う事に決めた。
居住区は二階だと言うのを聞いた途端、二階から滑落し喫茶店主死亡などと言う不吉な新聞見出しが、心に浮んでしまったのだから仕方ない。そんな事にでもなろうものなら、今後数十年、私は酒を飲む度に罪悪感を背負う事になる。そんなのはお断りだ。
小作りで急な階段を上り、こじんまりとした二階の居間の戸口に店主を押し入れて歩を止める。階段の終わりから、私は一歩も二階には足を踏み入れなかった。長沢君も、それ以上は何も言わなかった。
私は、じゃあと呟いて踵を返す。薄闇の向こうから耳に馴染んだ長沢君の声が、ご迷惑おかけしました、と応える。呂律の怪しい口調だった。
また、と言いかけた言葉の続きは、私は聞かなかった。
慌てて店をまろび出る。急な階段を駆け下り、どこかで滑ったのか、突き当りの壁で身を支え、夜気の中に転げ出る。一刻も早く、この場から立ち去りたかった。この場から。
この二十年余り忘れていた、甘い疼きから早く逃げ出したかったのだ。
駅まで歩くのが嫌で、手っ取り早く大通りに出てタクシーを拾う。Something Cafe自体は通りに面しているが、私が逃げ出した勝手口は裏になる。見上げた街灯の光がぼんやりと傘を被っていて、不意に、明日は天気が悪いのかと考えてかき消した。
傘を被っていると天気が悪いと言うのは、月の話だ。高層雲が空を覆っているから、月が傘を被る。ゆえに翌日は天気が崩れる。これは単に根拠のしっかりした道理と言う物で、気象学的にも正しい。
街灯がぼけているのはまるで意味が違う。これは単に、私の個人的事柄だ。
間近に停車したタクシーに転がり込み、我が家の住所を告げる。側まで来たら、また言うと告げて車窓の景色に目を移す。
ぼやける目を、片手で押さえる。
意味もなく。いや、きちんとした訳あって。
涙が出そうだった。
全く持って、情けない。何という混乱だ。まるで青臭い子供のような混乱だ。混乱の極みだ。私は。
抱こうとした人間に、軽くあしらわれ、戯れるようなやり方で拒否され、挙句言いくるめられて這う這うの体で逃げ出したのだ。これではまるで、手練れの芸妓と初心な学生のようではないか。色香に惑わされ、一人で舞い上がって先走り、挫けて逃げ帰るなどとは。何と言う。何と言う体たらくか。
不貞腐れて車外の夜景を睨み付ける。冷えて澄んだ空気の向こうで、街の色とりどりの燈りが瞬いている。
職場からの帰途と同じ夜景。生徒や活動仲間達と見る景色と全く同じ街々が、今日は全く違って見えた。
冷たくて尖っていて、腹立たしい。
何と言う事はない。私は最初から徹頭徹尾、二つ年下の彼に翻弄されっぱなしの一人芝居を演じていたのだ。無邪気な笑顔の街角の喫茶店店主は知りもすまい。勝手に転んでのた打ち回っている道化の姿など。ただ滑稽なだけで、見る価値もない。
夜景の冷たさに、湧き掛けた涙も乾いて行く。余りのみっともなさに、出るのは溜め息ばかりだった。
初めは、彼の雰囲気や会話が心地よくて、単純に良いと思い、次には知己の友を得られるのではないかと浮き足立った。しかし直ぐに彼を好色で汚い男だと断じて避け、誤解であると分ってからは劣情を抱いた。その後に改めて友情を感じ、今こうして意味も分らず怒っている。
情緒不安定な子供のようだ。いずれの想いも、私の勝手な思い込みで、時に暴走で、勘違いだ。
自分で言うのもなんだが、私は他人を見る目は有る方だ。相手がどう言う人間であるか、観察する力は人並み以上に持っている。軽口で適当に相手に合わせながらも、人となりを見て付き合う相手を選んでいる。だから、今までは人間関係で酷いトラブルはかろうじて避けて来られたのだ。
親しくなってからも節度を保つのは重要だ。生徒や仲間ともそれなりの距離を保ち、年が大きく違う相手でも、異性と密室で二人きりになるような事態は極力避けている。
相手の器を見極め、適切な相手と、その対処法を知って上手く付き合ってきたのだ。
思想や言論、或いは感情でぶつかる事などは良くある。だがそうしてぶつかっても、最終的には大人として物事が片付けられるように、立ち回って生きて来たのだ。理性的に、理論的に白黒がつけられるように。互いに納得して折り合いがつけられるように。禍根を残す事がないように。ましてや。
欲望で、性欲で、情欲でぶつかったりせぬように、エゴで修羅場にならないように。上手く。
もう二十年近くも。
だと言うのに。
これは。このぶつかりは。何と言う事はない。このぶつかりは。
導かれる結論は、どうあがいたってやはり一つだ。昔も今も無い。これは恋だ。
私の、一方的で無様な。二十年ぶりの。
恋なのだ。
そしてそれが、今夜。
終わったのだ。
* * * * * *
家の少し前でタクシーを降り、家人を起こさぬように門を開け、中に滑り込む。
昔はここに娘と息子がいて、二人がどこからか拾ってくる犬猫の類もいて、随分と賑やかなものだった。だが娘が片付き、息子が大学に行って家を出てからは、ここに暮らすのは私と妻の二人だけだ。昼間は、学生や仲間や、妻の仕事関係の人間が出入りして賑やかな事もままあるが、夜はしんと静まり返っている。
キッチンに入って何となしに冷蔵庫を開ける。すっかり酔いも覚めてしまった事だし、気持ち良く寝る為に、適度なアルコールは必要だろう。
何となく肌寒いので、芋焼酎の緑茶割にする。冷蔵庫から小女子のくぎ煮とピーナッツ味噌をだして居間のテーブルに置き、TVを点けたところで、奥の廊下の燈りが点った。
「あなた…?」
妻の声が近寄ってくる。私は何となしに気まずくて、声の方を振り向かずに、焼酎を持った片手を上げた。えええ、という小さな抗議の声が上がる。
「今まで呑んでいらして、まだ足りないんです、か!」
ぴしゃりと頭に一撃を貰う。私はわざとらく大声ではいと答えた。
「呑み足りませ〜〜ん。だって、酔いが覚めちゃったんだも〜〜ん」
妻が後ろで、大袈裟に、ふむ、と言った。
「それなに?緑茶割り?」
「そお。さつま五代、黒。宮武さんが送ってくれた奴」
お礼状書いたかしらそれ。呟きが遠ざかる。胸の中がささくれ立っていた。
こんな年になって。
こんな年になって、よりによって同性に恋をするとは馬鹿げている。この年になって、同性にも恋出来ると思い知るなんてイカれている。信頼で、友情で、どう満足出来ないと言うのか。
身体の中に残る、満たされなかった欲望に腹が立つ。はっきりと形を成すまでは行かなかった劣情に憤る。しかし、例えばそれが晴らせたとして。
あの勢いのまま彼を抱いたとして、それで自分は満足したろうか。性的欲求は満足しても、それで納得したろうか。
例えばすべて満足しても。その先は有ったのか。次の段階が有ったのだろうか。いや。何も有りはしない。
私は家庭を壊す気はないし、自分と彼の関係を外部に公開する気もさらさらない。仲間達にも、更には生徒にも、気取られる事すら望まない。一切誰にも明かさず、友人として表を取り繕い、恐らくは二人の時だけ彼を恋人として扱うかも知れぬ。或いは。
ただ。情欲を晴らす相手としてだけ、彼に対するのかも知れぬ。だとしたら。そんなもの、何の価値があるのか。
欲望を持って、挿れて掻き回して射すだけの…生殖行動ですらない交わり。有るのは肉体的快楽だけだ。私はそれが欲しかったのか。
緑茶の香りと甘さが、芋焼酎のそれを強めて喉をすべる。そうだと思う。
それが欲しかったのだ。彼を征服して、彼を手に入れて従属させたかったのだ。DVDで見たように、細い腰を抱きいれて、もう許してと懇願するまで彼の身体を組み敷きたかった。後先の事など考えなかった。あの時はただ、彼が欲しかった。欲しいと、思った。
「はい。私の分、分けてあげる」
妻がテーブルの上に天麩羅と大根おろしを置く。漬物の小鉢が並ぶ。彼女の夕飯はこれだったのだろう。
恐らくは私と同じ緑茶割を手に持った彼女が、ソファの隅に腰掛ける。L字型のゆったりしたソファだから、男三人は余裕で横に並べる。細身の妻ならその倍は難いだろう。
私はそちらを見なかった。額に手を置いて面を伏せたまま、軽く頷いただけだった。
情けない。友人になりたいと思った相手に懸想して、欲望を抱いて、その癖萎えてここにいる。抱きたいと思った癖に、抱こうとした癖に、度胸が無くて後り込みしたのだ。挙句、慌てて古巣に逃げ帰ってきた。逃げ帰って。
――、実は酷く安堵しているのだ。
情けない。なんと、情けない。
とん、と膝を小突かれる。
ソファの背に肘を突き、凭れ掛かった姿勢のまま、自分の膝に目をやる。L字のコーナー部分に腰掛ける私の膝を、隅から伸びた妻の足がつん、つんと突いていた。
「大丈夫」
何が。とは聞かない。膝を見たまま目を閉じる。片手で顔を覆う。
「大丈夫。何も、変わらない」
ゆったりとしたリズム。つん、と小突かれて静寂が訪れる。その隙間に放り投げられる、ポエムのように短い言葉。
「世界は終わったり、しないから。何も変わったりは、しないわよ」
ああ。そう思う。思うだけで口には出さない。
私は今、よほど酷い顔をしているんだろう。何も知らない筈の彼女に、こんな慰めを言わせる程の、酷い顔をしているに違いない。そうでなければおかしい。だって彼女は。何も知らない。
「大丈夫……」
一言で、ほんの1ミリ救われる。逃げ帰ってきた、かくも情けない男にも取り得が有る。帰る場所はあるという事だ。
私の手の中と、彼女の手の中で湯気をあげる緑茶割り。その温もりが、彼女の言葉の中に揺れる。大丈夫。幾度か続いたその呪文の後に、あのね、と言う言葉が続く。まるで、御伽噺を語って聞かせる母の声のようで、私は目をつぶったままそれを聞く。
「……お帰りなさい」
つん。
「お帰りなさい。……あのね」
つん。
目を開ける。まさか、と思う。いやまさか。だって彼女は、何も知らない。知らない、筈だ。
私ね。俯き加減の口許が言葉を刻む。その先はとても見ていられなかった。
呼吸にためらいが混じる。ああ、と思う。何もかも、彼女は。
「私ね、待ってたの。……ずっと、待ってたの」
顔を覆う。
掌の中で目を閉じる。何という、自分は。情けなくて涙が出た。堪え切れずに嗚咽になる。みっともなくて顔を背けると、気配がそっと近づいた。おずおずと、手馴れぬ風に。すぐ横に座って肩をさする。
「帰って来てくれてありがと」
そちらを見る事は出来なかった。抱きしめる事も出来なかった。ただ、グラスを握った私の手にかかる彼女の指を、指でそっと捕まえた。それが唯一、私が出来た事だった。
私以外の吐息が、横で波打つ。笑うような泣くような、短い息が数回行き来する。やがて再開される短い呪文が、居間の底に折り重なる。大丈夫。大丈夫。
彼女が言うのだ。大丈夫なのだ。私は帰ってきた。これで良かったのだ。実感する。本当に良かった。
大丈夫。
ただいま。
………もう、どこへも行かない。
* * * * * *
一週間は矢のように過ぎた。
まったくもって矢のように。きちんと講座もこなし、臨時の街宣も行った筈の時は嘘のように通り過ぎ、あっという間に金曜になる。オープンカレッジの当日になる。
私はいつものように、木曜の夕刻に資料をかき集め、金曜にまとめて講義に立つ。何故いつも泥縄になるのだろうとわが身を戒めつつ、いつものように急造の講義手順を作り上げる。講義の命は情動喚起、時節、情報量の3J。生徒にその"J"は無理やり過ぎると言われたが、兎に角3Jなのだ。
本日の主題も見事に3Jに合致している。題して"鯨食文化と肉食"。
おりしも、シー・シェパードやグリーン・ピースと言ったNGOとは名ばかりのエコテロリストの蛮行と、それに対峙する日本捕鯨協会員と水産業従事者、猟師及び海上保安庁、保安官の苦悩と努力がWEBを騒がせており、受講生の反応は非常にビビッドだった。
国際捕鯨委員会に加盟する国は82ケ国。その内、捕鯨推進国は34ケ国も存在する。主要国としてロシア、ノルウェー、アイスランド、カナダ、そして日本などが上げられる。
1990年代初頭から2007年に掛けて、ノルウェイでもシー・シェパードの破壊工作が幾度も有った。「アジェンダ21」と名乗る団体が捕鯨船を破壊し、沈めたのだ。ノルウェイは国を挙げてこれらの行動をテロリズムとして非難した。そして今。
その矛先は日本に向けられている。
宗教問題、海洋生物のバランス問題、食文化問題、そして、食にまつわる経済問題。そこらを40分講義し、残り50分をディスカッションに使う。受講生の食いつきが良い時は、講義を駆け足で30数分にしても喧々諤々のまま時間が過ぎるが、駄目な時は、講義を一時間に引き伸ばしても早く終わる。今日は前者であった。
100%エコテロ非難の意見で、ディスカッションの主旨はいかにエコテロに対応すべきか、報復すべきかに尽きた。エコテロ団体が如何に綺麗事を並べようが、この情報化時代、そんな物は凡てバレているのだ。彼らの追及するものは自然保護でも海洋生物保護でも何でもない。いかに無知で愚かな民衆を騙し、金を巻き上げられるかと言うビジネスの利潤だ。彼らが守りたいのは地球の環境ではなく、自らの懐の温度だ。
予定時間を十数分オーバーして、参加者の熱気の中、講座は終了する。誰からともなく、"頑張るぞ"シュプレヒコールが起き、拍手喝采の中終了を告げる。まぁまぁ、講座は大成功と言えたろう。
各自が各々の荷物を片付けて散会となる。雑音がハーモニーを作る講堂の中、いつものように、呑みに行きましょうと声が掛かる。快諾して顔を上げると、教室の後部から走り寄る人影が目に入った。
長沢君だ。傍目にもはっきり分る程慌てている。僅かな距離を駆け寄る間に、手持ちの荷物を二つ落とし、一回は転びそうになった。
ちょっとすみません、ほんのちょっとだけ良いですかと言う様子が非常に切羽詰っていて、これを断るのは気の毒に思えた。少しばかりの警戒心は有ったものの、私も立派に優柔不断な日本人なのだ。
どうせすぐ、学生達との飲み会なのだ。彼と少しばかり語らう事に何の問題もある筈が無い。学生達を先に行かせて教室に残る。馬鹿話に盛り上がる若い声が廊下に去って行くのを、鞄の中に荷物を詰めながら聞き流す。作業を終えて目を上げると、目の前の二つ年下の受講生に、いきなり頭を下げられた。
「すみません、本当に申し訳ありません!心から謝罪します!!」
腰から折れるお辞儀という物は、これでなかなか見られない物だ。どうしても上半身だけのお辞儀になる。その点、長沢君のお辞儀は見事だった。流石、日頃から人に礼を尽くす接客業は違うのだなと感心する。
いや、感心する場所が少々違うかもしれない。
「……はい? 一体何事?僕は何か長沢君に酷い事されたんだろうか?」
黒縁眼鏡が上目遣いに私を伺う。私の様子を確認してからため息をつく。つかぬ事を伺いますが、と言い掛けて言葉を呑む。私は続きの言葉を促す意味で掌を差し出す。長沢君は先程よりもかなり深いため息をついた。
「慎先生は、先週のこと全部覚えておられますよね、その、呑みに行った時のこと」
当然である。
私にとっては、なかなかに驚天動地の事柄が山盛りあった時間なのだ。忘れられよう筈が無い。
幾つもの言葉を飲み込んで笑みを作る。恐らくは、少々情けない笑みになった筈だ。しかし、その私よりずっと情けない表情になったのは長沢君の方だった。
「? 勿論。覚えてますよ。楽しい一時でした。またいづれ、是非」
「い、いやその。先生にそう言って頂けるのは恐悦至極なんですがその、俺からはまた是非お願いしたいんですがその。えーとその。俺、送って頂きましたよね?」
「送ったと言うか、君が美味しい珈琲をご馳走してくれると言うから、のこのこお邪魔したよ。本当に旨かった」
恐悦至極です。黒縁眼鏡が繰り返して俯く。俯いて、言いたい言葉が言えないと言わんばかりに、もじもじしている。ただ見ている分には面白いのだが、私の立場と長沢君の風貌を考えると、これは第三者から見て明らかにパワーハラスメントだ。それは私には理不尽が過ぎる。
降りかかる火の粉で、これ以上の火傷は勘弁願いたい。彼にとっても私自身にとっても、助け舟を出すしかあるまい。
「で?」
「え?は、はい」
「長沢君はどこから覚えてないの」
髭面が上目遣いに見つめ、がっくりと項垂れる。両手で面を覆う。
「殆ど全部、覚えてません〜〜」
その動揺っぷりで、容易に飲み込んだ言葉の予測がつく。彼が慌てているのは覚えていないからではない。恐らくは。
「殆ど、ねぇ。じゃ、こう聞こうかな。何を覚えてるの?」
部分を覚えているからだ。
彼にとっては非常に都合の悪い場面を、恐らくは覚えているのだ。前後の脈絡が無く、都合の悪い場面だけを覚えていると言うのは、なるほど、恐怖に違いあるまい。
う。長沢君が唸って黙り込む。俯いて考え込み、意を決した顔は真っ赤に染まっていた。にじるように近寄って、声を低くする。
「先生に抱きついてキスしまくった挙句、頭を撫でて貰ったのは覚えてます」
吹き出しそうになった。心の底が愉快になる。言葉にすれば、ざまぁみろ、と言う感じだ。ざまぁみろ。私の先週の動揺のかけらでも、味わって見るが良いのだ。
笑いを堪えて神妙な顔を作り、彼の次の言葉を黙って待つ。赤かった顔が、今度は徐々に白くなるのを意地の悪い楽しみで見守った。
「その、ほ。本当に申し訳ありません。これはその、僕の趣向がどうこうと言うのではなく、昔から酔うと笑ったり泣いたり騒がしいわ、人によるとキス魔になるとかなんです。昔もこれで失敗した事有るんです。だから、酔い潰れないように、き、気をつけてはいたんですが。その、本当に、その、失礼の段、何とお詫びしたらいいか…」
「酷いな…」
私の呟きに、長沢君が、へ、と顔を上げる。すっかり毒気を抜かれた頓狂な表情だった。
「酔ったから、ね。キス魔、ね。そうか。君のあれは全部酔いの所為だったんだ。そうか……君は酷い人だな…」
私が俯くのに合わせて、長沢君が体を低くする。私の顔を覗き込めるように、じりじりと身体を下げる。上目遣いに見上げる顔の血の気が、面白い程に引いていく。紙のようだとは良く言った。大きな目は零れんばかりに眼鏡の中で広がって、髭に包まれていない顔の部分は紙のように白い。
後しばらく様子を見れば、恐らくはその不自然な体勢に耐えかねて、長沢君が膝を突くのは必至だ。
ぷ。
吹き出す。そのまま笑う。堪えきれずに声を上げて笑う。長沢君が改めて驚愕する。既に見開いていた目をパチクリさせて、こちらを信じられぬ物を見る目で睨み付けている。胸の奥が踊った。
ザマをみろ。
「ええええええええええ、先生!? ど、どう言う事ですか?」
笑い転げる。文字通り、迸り出る笑いに対抗出来るように、教壇につかまる。腹が痛い。呼吸が苦しい。
「先生、慎先生。俺、何しましたか、何をいいました?」
口の前に一本指を立てる。黙れ、と言う無言の呪文だ。
「聞きたいかね。聞きたいなら、今からの打ち上げに参加しなさい。学生が一緒だが、文句は言わせない。若い人と語り合うのは君こそ得意だろ。ただし。酒には飲まれないように。家の学生に、"あんな事"をされては困るから」
私が意図した言葉に、黒縁眼鏡が面白いように反応する。手を口にやったり、髭を引っ張ったり、頭を振ったり。その挙句に慌てて頷いたり。
「いいい、行きます。学生さんさえ良ければ。で、でもその前に教えて。俺、何したんです」
「学生の方は文句は言わせない。大丈夫、大丈夫」
「"あんな"が何を指すのか分らなくては、度胸が出ませんよ、せめて先にヒントだけ下さい」
長沢君の言葉には答えずに、大手を振って教室を出る。廊下でたむろしている打ち上げの残党に、参加人数の追加を申し出て、供に教室を後にする。後ろから、まろぶように着いて来る長沢君にウインクを一つ送ると、他の受講生に並んだ。
恨めしげな声が、先生、と後ろで呼んでいる。振り返れば、きっと黒縁眼鏡が情けない表情を湛えてこちらをにらんでいる筈なのだ。楽しくて、意地悪く無視する事にした。
二歳年下の、変り種の受講生。思えば私は、彼と始めて会話を交わした時から、奇妙な運命を感じていたのだ。
惹かれた。興味を持った。そして感じた。魅力を、その能力を、可能性を。恐らくは。何らかのキイパーソンとなるであろう彼の存在を。
そうと分るまでに翻弄された、先見の明のないちっぽけな私の能力は笑い飛ばして置くとして、今は楽しもう。
温和で人好きのする笑顔を持つ、一癖も二癖もある黒縁眼鏡の、予想外の動揺を。
そして、これから起こるであろう頓狂な日常を。
楽しもう。
* * * 了 * * *
追記:
一月後。
妻の記念すべき10冊目の書籍が上梓された。
あれよあれよと言う間に、初刷りから僅か数ヶ月で二桁の増刷を重ねた「おかえりなさい」と言う作品を、私はまだ読んでいない。
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