「White square」

                           by弥耶



 俺は今までなかなか苦労してきた方だと思う。
 自由奔放に生きている弟を羨ましいと思いながらも、重くのしかかる親の期待に応えて進学校に進み、現在はこんなでかい病院で確かな地位を築いた。
 努力というのを惜しんだ覚えはない。
 なのに何でいったい俺がこんな目に遭わなけりゃならいんだ?!
 
 

 都内でも指折りの大病院『鹿野総合病院』。そこで仁木和尋は外科医を務める。
 院長の娘・澪と婚約。東大出のエリートの将来は約束されていた。
「仁木先生!」
 看護士・穂邑霧人に呼び止められ、少し気が重くなりながらも仁木は振り向いた。
「どうした?」
「ナースコールなんですけど…。」
「…またあの人か?」
「はい…。」
 ひとつ深い溜め息を吐いて仁木は答えた。
「わかった、今行く。」
 
 ノックを軽く二回。中に入る。
「よぉ、ドクター。」
「今度は何だ、沙門さん。」
 最近VIP待遇でこの個室の病室に入ってきた患者・沙門天武。その正体は不明。全身は傷だらけで、かなり大柄なこの男。
「あんたが暇してんじゃねえかと思ってな。」
「暇なわけあるか。用がないなら俺は行く。
 たいして用も無いのにナースコールを鳴らしては看護婦に手を出したりするので、その被害を無くす為に担当医である仁木が毎度毎度病室を訪れることになったのである。
 そして、それだけに留まらず。
「俺は用があんだよ、あんたにな。」
「な…?!うわっ!!」
 突然右手首を引っ張られバランスを崩した仁木は沙門の上に倒れ込む形となった。
「!…っ痛…!!」
 その右手首の脈の上を、沙門が噛んだ。
「何する!あんた、何考えてんだ?!」
「俺には随分冷たいドクターにも、血が流れてんのか確認しようと思ってな。」
「馬鹿野郎!ふざけるな!俺はもう行く。」
 掴まれた手を振りほどき、仁木は病室を出ようとした。
 その瞬間。
「仁木。」
 名を呼ばれて、仁木はなぜだか一瞬動揺した。
「また呼ぶ。」
 
 沙門はこうして仁木を呼び出す度に、なにかと手を出してくるのである。
 沙門の傷は刺し傷だと明らかだった。
 加えてこのVIP待遇。
 正体不明のこの男を、仁木には無視することは許されなかった。担当医になってしまったのは、上からの命令である。逆らえるはずもない。
 用もないのに呼ばれるのは、人命を預かる身としては歯痒くて堪らない。一分一秒がどれだけ重要かわからないわけではないのだ。
 だが。
 本当に無視できないのは、それだけの理由なのだろうか。
「…っ。」
 右手首が、疼いた。
 見ると、くっきりと刻まれた歯形が残っていた。
「…くそ…。」
 心の中の小さな波に、仁木は気付かない振りをした。
 
 

「検温の時間です。」
「…なんだ、またボウヤか。」
 沙門の看護は看護婦が可能な限り付かないようになった。それに代わって院内唯一の看護士・穂邑が、ほぼ沙門専任とも言えるべく看護に当たっていた。
 ある意味これは生贄であった。
 穂邑の容姿―それはとても魅力的なものだった。美青年、あるいは美少年、見方によっては美少女のようにさえ見える穂邑に、沙門が興味を持ったとしても仕方がない。節操などという言葉、知っているような男ではないのだ。
 しかし、これは誰もが予想しなかっただろう。
 沙門と穂邑、二人の力の差など明らかである。沙門が強引に穂邑をベッドに押し倒しても、穂邑には逃げられない。出来るとすれば弱々しい無駄な抵抗だけである。
 ところが穂邑はその抵抗を、しなかったのである。
 いや、出来るはずがなかった。
「随分と従順だなボウヤは。“あいつ”とは大違いだ。」
「…沙門、さん…。」
 穂邑は、この下衆な男に魅せられていた。理由などわからぬ。説明がつくものではなかった。
 “引力”。
 他に言い様がなかった。
 沙門の持つ、独特の空気。
 大きく、重く、強く、鋭い。
「う・ああっ、沙門さ…ああ!」
「…ふん、女みてえに啼きやがる。」
「ふぁ・あああっ…んああ!さ…んさ…さもっ…さぁ・・!」
 どこまでも飲み込まれ、落ちてゆく。
 穂邑は心のどこかで絶望を感じながら、至福の快楽を貪り続けた。
 
 

「久し振りね、こうしてゆっくりお食事なんて。」
「そうだなぁ。最近ずっと休みも取れずにいたしな。すまない、澪。」
「仕方ないわ。仁木さんが忙しいのわかってる。だから今日…すごく私、嬉しい。」
「澪…。」
 式まであと半年。仁木には婚約者・澪と過ごす時間が掛け替えのないものだった。あと半年で、この時間が当たり前の日常になる。式の準備に忙しい今がもどかしい。早く半年が過ぎればいいものを。
 出会ったときは患者と担当医だった。そして見合いを経て、二人は『将来有望なエリート』『院長の娘』という肩書きなど忘れてしまうほど惹かれ合っていった。
「あら、どうしたの仁木さん、その手首。」
 突然澪に右手首の絆創膏を指された。
 仁木は、気付かれないくらいだが、小さく息を呑んだ。
「…ああ、少しな。どこかに引っ掛けたらしくてな、大したことない。」
 ならいいんだけれど、と言う澪に柔らかい笑顔を向けながら、仁木は少しだけ薄くなった痕跡が疼くのを感じていた。
 

 次の日、院長の秘書・塚本が刺された。そのせいで院内が騒がしくなってもおかしくもないのに、
 院内は何も変わりはなかった。傷害事件になるはずの塚本の負傷を院長は隠したのだ。
 塚本の手術に当たった仁木は、術後院長室に呼び出された。
「仁木です。入ります。」
 中に通され、勧められ仁木はソファに腰を下ろした。
「どうだった、塚本は。」
「左上腕部が20針、出血が少し多かったので輸血しましたが、命に別状はありません。」
「そうか。」
 何となく、察しはついた。
 事情など仁木は全く知らぬ。が。
 ――院長は、命を狙われている。
 今回の塚本の件は内密に、と改めて念を押されて仁木は院長室を後にした。
 
 それから数分後、仁木の呼び出し用PHSが鳴った。鳴ったとは言っても当然バイブレーションにはしてあるのだが。
「はい、仁木です。」
「先生、穂邑です。」
 …用件など、今更聞かなくてもわかる。
「…今行くから。」
 しかし仁木はこのときまだ気付いてはいなかった。
 これから自分の身に何が起こるのかを…。
 
 

「俺は暇じゃないんだ、沙門さん。そう用もないのにちょくちょく呼び出されちゃ困るんだ。いい加減にしてくれ。」
「今日も相変わらず冷てぇなドクター。それに、今日の勤務は終わりだろ。そこのボウヤが言ってたぜ。」
 (なんてこった。)
 仁木は穂邑の方をじろりと見た。
「すみません、仁木先生…。」
「これからは言わないでくれ、頼むから。」
 仁木は一つ溜め息を吐いた。沙門の迫力を前に穂邑が怯えるのはわからないでもなかった。
「先生、すみません。」
「いや、もういいから。」
「すみません…っ!」
「!?」
 突然穂邑が仁木の口を布で塞いだ。
 強烈な、薬品の匂い。
 (クロロホルム!?)
 遠のく意識の中、仁木は澪の顔を思い出していた。


 
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