この頃、朝民は忙しい。
そのことで穂邑は溜息をついた。別に朝民がかまってくれないから寂しいというのではない。
溜息の理由は、精力的に仕事をこなす朝民たちのせいで、仁木に渡している情報が次々と変更されているからであった。
頻繁には連絡の取れない仁木に、度々の変更を連絡するわけにはいかない。そのことで先日、仁木にクレームをつけられた。「なんとか、少し仕事を止めさせてくれ。こっちも今が正念場なんだ」と。
ここ数週間、朝民は、朝早く外出し、夜遅くまで戻ってこない。たまに早く帰ってきても、夜中まで執務室で伯芳たちと話しこんでいる。
穂邑が寝入ってから帰ってきて、目覚める前には出かけているらしい。「らしい」というのは、ベッドの隣に寝た形跡があるからから、かろうじてわかる。
真夜中、頬を撫でる暖かい手の感触とやさしいキスで穂邑がうっすらと目を覚ますと、暗がりに朝民の顔が浮かんでいた。
「チャオ…」
頬にある手に手を重ねる。
「起こしたか、キッド。すぐに出かける。寝ていろ」
何か言いかける穂邑の唇を指で軽く制して、朝民は音もなく寝室を出ていった。
そんな日が続き、この頃は寝室にも帰ってこない日が続いていた。
昼間、時折見かける姿からはもう何日も満足に眠っていないのが見て取れる。弱みなど見せない朝民だから、周りの者も気づいていないのかもしれないが、穂邑にはわかる。第一、ここのところ朝民はずっと穂邑を抱いていない。別に不満があるわけではないが、ここ厦門飯店に着てから三日とおかず、朝民に抱かれ続けた体には、何だか物足りない。我知らず自分の体を抱いていた手に気づき、一人苦笑して、もう一人の人物に目を移した。
朝民の傍らで書類を指し示しながら熱心に説明をしている伯芳を見る。香主である朝民に仕え、副香主として実務を引き受けている伯芳もまた、徹夜続きらしい。もともと色白な肌は、今はさらに青みがかっていて、陶器のように生気がない。少しこけた頬が、鋭い目許を更に際立たせていた。尖が亡くなってから、白紙扇としての仕事の一部は穂邑に任されていたが、日の浅い穂邑や部下たちがすべてカバーできるわけもなく、結局は朝民と伯芳に仕事は集中した。
つい先日、朝民をかばって負った怪我が癒えない伯芳に、再三、医者や部下たちが休むように言っても、朝民を差し置いて伯芳が休むわけがなかった。
穂邑は、小さく溜息をついて、二人から目をそらした。
その日の夕方、伯芳が朝民の部屋を訪ねた。
「キッド、朝民に呼ばれてきたんだが…。朝民は?」
朝民の名を使って、伯芳を呼び出したのは穂邑だったから、もちろん部屋に朝民はいない。
「それより、ちょっとこっちに来て、伯芳さん」
奥のベッドに横になっている穂邑が伯芳を手招きした。
「どうしたんだ?キッド、調子が悪いのか?朝民がいないなら俺は…」
そう言いながら、心配そうに伯芳が穂邑の顔を覗き込む。すかさず、穂邑は上半身を浮かせると、伯芳の首にギブスをしていない方の腕を回して伯芳もろともベッドに倒れ込む。その勢いのまま、伯芳の上に馬乗りになった。
体にかかる穂邑の体重に伯芳は僅かに眉を寄せた。
迷わず穂邑は伯芳の上着のボタンに手をかけた。穂邑に押さえ込まれるようにしてベッドに沈んだ伯芳が怪訝そうに目を細める。伯芳の力を持ってすれば、穂邑の手を振り解くのは簡単なことだったが、この青年を乱暴に扱いたくない伯芳は、結局されるがままになっている。上着のボタンをはずし終わった穂邑の手がシャツの中に入り込んできたところで、さすがに伯芳は慌てた。
「待て、キッド。何をする気だ」
焦って穂邑の悪戯な手を押さえる。その手に穂邑の震えが伝わってきた。
「キッド…?」
「クッ。アハハハハ。伯芳さん、焦ったでしょう?それとも期待した?」
「何言ってるんだ、キッド」
穂邑のあまりに屈託のない笑みに、詰めていた息を吐く。三歳も年下のくせに、はるかに経験豊富な穂邑はこの手の話題で伯芳のことをからかうのが好きらしい。またやられたと思いながら、穂邑につられて伯芳も微笑んだ。
「あ!痛い!痛いよ」
いつまでも笑いやまない穂邑の鼻を伯芳が摘みあげる。こういう応酬の方法もこの頃では手馴れてきた。
「おい。いつまでも調子にのるなよ。キッド」
伯芳が穂邑を睨む。しかし、その瞳には、昼間みせる剣のような鋭さはなかった。
「ごめん。ごめん。伯芳さん」
伯芳に摘まれた鼻をさすりながら、穂邑はまだクスクス笑っていた。
「キッド。大事な話って何だ?まだ、仕事が残っているんだが…」
そこへ朝民が入ってきた。
瞬間、伯芳が固まって朝民を見上げた。別にやましいことは何もないが、朝民のベッドに彼の愛人といるところなど見られていいわけはなかった。
「あ、あの朝民。これは…」
慌ててベッドをおりようと体に絡まるシーツと格闘している伯芳の隣で穂邑は声を殺して笑っている。
この二人の仲を疑うのも馬鹿らしいとわかっている朝民だが、さすがにこのところの疲労で不機嫌は隠せない。
「どういうことだ?キッド」
いつの間にきたのか、朝民はベッドのすぐ脇で二人を見下ろしている。
「怒らないでよ、チャオ」
穂邑はベッドを降りて、朝民に抱きつくと背伸びして朝民の唇に自分の唇を重ねる。侵入してくる朝民の舌に自らも舌を絡ませて、しばしディープキスを楽しんだ。
そんな二人の様子から伯芳は目をそらす。
『気をきかせろ伯芳。無粋だ』
いつかの朝民の台詞が頭をかすめる。そう言われないうちに、一刻も早くここから抜け出したかった。
久しぶりの濃厚なキスに自らも酔いながら、頃合をみて、穂邑は朝民を思いっきりベッドに突き飛ばした。普段なら穂邑がどんなに力を込めても鍛えられた朝民はびくともしないが、誘われたと思った朝民は、そのままベッドにしりもちをつく。
逃げ遅れた伯芳が朝民の下でうめいた…。
落ち着いた足取りで扉の方へ歩いて行った穂邑は、後ろ手に鍵をロックすると意味ありげに口元をゆがめた。
「二人とも今日はもうこの部屋から出さないよ」
朝民の下から這い出した伯芳は乱れた髪のまま、隣の朝民を見上げる。朝民の横顔からはなんの感情も読み取れない。
「ほら、そんな顔しないで。二人とも少し休んでよ。皆二人のこと心配しているんだから」
そう言いながら、穂邑はカーテンを引き、部屋の照明を落としていく。
「ここのところ、なぜがわからないけど、皆、僕に文句を言うんだ。香主も副香主もちっともお休みにならない。このままではお体に触るから、なんとかしてくれ。って」
穂邑が語気を強める。話しながら乱暴にベッドの脇に腰掛けた。サイドテーブルの電話の受話器をとって、朝民に突き付ける。
「さあ、チャオ電話して。これからと明日の予定はキャンセルするって。香主の命令がないとスケジュールの調整ができないでしょ」
いつになく強い口調の穂邑に、朝民は呆れたように頭を振って、受話器を受け取る。傍らの伯芳を見やってスケジュールの変更を部下に指示した。
「そう言うことなら、俺はこれで。ゆっくり休んでくれ朝民」伯芳がそそくさと立ち上がろうとするのを、穂邑が制した。
「何言っているの伯芳さん。ここを出たら二人分の仕事をする気でしょ。じゃなきゃ、徹夜で見張りをする気?どうせ、心配でチャオから目を離せないくせに」
ここのところ、新宿の裏社会の動きが活発になってきていた。特に双竜頭に対しては、無謀とも言える攻撃が増えてきていた。過激だが組織的ではない襲撃では、たいした被害は受けないが神経は休まらない。出会い頭に切りかかってくる輩や、街中でも平気で発砲してくる奴もいて、1週間ほど前には、不意に切りかかってきた刃を伯芳は自らの肩に受けて香主を守ったこともあった。以来、一瞬たりとも朝民の傍から離れたくなかった。
腰を浮かした伯芳の肩に、穂邑とは比べ物にならない力が加わる。
そのままのしかかるようにして朝民が伯芳をベッドに押し倒した。
「朝民?」
「今日はキッドに完敗だな、伯芳。いいからここで眠っていけ」
「でも…」
「大丈夫だよ。伯芳さん。このベッド、広いから3人でも充分ゆっくり眠れるよ」
朝民の体の向こうから穂邑が身を乗り出して言う。
「いや、そうじゃなくて…」
かすかに伯芳が頬を赤らめる。思い当たって穂邑は笑顔をこぼした。
「大丈夫だよ。一晩くらいチャオだって我慢してくれるよ。心配しないで、隣で始めたりしないから」
「いや、キッド。そんなこと…」
あまりのストレートな物言いに、ますます伯芳は顔を赤くする。それには少し異議をはさみたい朝民だったが、あえて訂正はしなかった。
久しぶりに気分がほぐれて、自然な眠気がおとずれる。両脇にやさしい温もりを従えて、朝民は静かに瞳を閉じた。
夜半過ぎ、穂邑は僅かに差し込む月の光にふと目を覚ました。すぐ隣の温もりが消えている。月光を浴びて窓辺に佇む男が、こちらを振り向いた。
「チャオ?」
そっと囁いて、半身を起こそうとするとベッドがわずかに軋んだ。ベッドのもう片方で眠っている伯芳が、その振動に反応して身を起こす。闇に目を凝らして咄嗟に警戒体制を取る。
「伯芳、安心しろ。敵はいない」
朝民は落ち着いたバリトンで話し掛けながら、大きな手を肩にかけて、ゆっくりと伯芳をベッドに横たえる。
そうしながら、手を差し入れて首の後ろをもんでやる。
「伯芳、寝汗をかいているな。ずいぶんと代謝が落ちている」
そう言いながらシャツのボタンをはずしていく。
くつろげられたシャツからあらわれた体の肩から胸にかけて真新しい包帯が巻かれていた。その白い包帯に血がにじんでいる。
「まだ、傷が塞がらないのか」
ゆったりとしたリズムで上半身をさすりながら、朝民が訪ねる。
「大丈夫。もう痛みもひどくないし、じきに塞がる」
月光に浮かぶ伯芳の白い体には、いくつもの古い傷跡がある。
朝民は、直ってはいるがまだわずかに残る古い傷跡を確かめるように腕や手をもんでやる。
伯芳は朝民の熱くしっとりした手の感触に、静かに瞳を閉じて身を任せていた。
朝民の手が下半身にかかる。反射的にその手を押さえて、伯芳が目を開けた。
「どうした?マッサージをしてやるだけだ」
囁くような声色に伯芳が微かに微笑んで体の力を抜く。
安心しきって身を任せる伯芳と、いつになく穏やかな瞳で伯芳を見る朝民の姿は、見てはいけないような気がして、穂邑はそっとその場を離れた。
しばらくして、リビングの穂邑の元に朝民が現れた。
「伯芳さんは?」
「よく眠っている」
「そう」
穂邑は小さく呟いて目を伏せる。朝民は隣に腰掛けると、うつむいた穂邑の顎に手を掛け、上向かせて目をあわせた。
「妬いているのか。キッド」
黒いルビーの瞳に自分を映すように覗き込んで、口の端だけをわずかに引き上げて朝民が笑う。
「ぜんぜん」
穂邑は間髪を入れずに答えて視線をはずす。朝民の腕から抜け出して立ち上がる。
「お風呂の用意はしてあるけど、入る?」
首をわずかに傾けて穂邑が問う。
「気がきくな。キッドは」
朝民も立ち上がって風呂場に向かう。脇を通りすぎがけに、穂邑を腕に巻き込んで、強引に唇を重ねる。舌を絡ませて、更にきつく抱きしめる。はっきりと意思を示すそのキスに穂邑の腰が砕けた。
「あ…あん。チャオ。だめだよ…」
「もちろん、一緒に入るだろ。キッド」
朝民は自信たっぷりに告げて、穂邑を風呂場に連れ込んだ。
「あ…あん。チャオ。だめだよ。聞こえちゃう」
「同じベッドではないからいいだろ。キッド」
喘ぎながらも穂邑は目の前のタイルに手をついて体を支えているが、ただでさえ片手が使えない上に、腰を激しく揺すられて、掴みどころがないタイルの上を手がツルツルすべる。お風呂場ってよけい声が響くんだけどな。と思いながらも、もう声を止められない。
いつしか穂邑も目前の快楽のことしか考えられなくなっていた。
翌朝、通常の起床時刻より、かなり遅く目を覚ました伯芳が、久しぶりに感じる目覚めの爽快感に、思いっきり伸びをする。その拍子にシーツから現れた自分の体が何もつけていないことに気づいて固まる。
ここが朝民の部屋であること思い出した伯芳が、恐る恐る隣を見ると、抱き合って眠る朝民と穂邑を発見して、一瞬、息をつめる。
そそくさと落ちている自分の服を拾い上げると、急いで身につけはじめる。その背中越しにクスクスと笑うキッドの声が聞こえた。
その声に、伯芳は手を止めて振り返ると、隣の朝民の肩も揺れていた。
「だめだろう、キッド。そこで笑っては」
「チャオだって笑っているじゃないか。だって、伯芳さんたら、そんなに慌てなくたっていいのに。その格好ったら、アハハハハ…」
こらえきれずに大声で笑いはじめる。穂邑の視線をだどって、クローゼットの鏡の中の自分の格好が目に入る。
焦っていたせいか、シャツのボタンを段違いにとめて、スラックスの逆足に足をつっこんでいるその姿は、乱れた髪とあいまって、かなり情けない格好である。
真っ赤になった伯芳は、後ろを向くと急いで服装を整えた。
「朝民までそんなに笑うことはないだろう」
すっかり、意思消沈した伯芳が小声で抗議する。
「悪かった。伯芳、そんなに拗ねるな。しかし、随分、体が楽になったのではないか?」
言われてみれば、ここ数日間感じていた倦怠感がない。傷の痛みもほとんど感じない。確かめるように自分の肩に手を置くと、不意に昨夜の朝民の手の暖かさが蘇ってきて、体中に広がった。
伯芳は一瞬瞳を閉じて、その感覚を確かめる。深く息を吸い込んで、小さくうなずくと、2人に向き直った。
「おかげで、しっかり休ませてもらった。これなら、すぐに仕事に取り掛かれる」
二人を振り返った伯芳の瞳は、すっきりと澄んでおり、いつもの副香主に戻っていた。
「ああ、頼む。伯芳、私も午後から戻るから準備しておいてくれ」
「わかった」
伯芳が軽く頷いて部屋を出て行く。隣で穂邑がニコニコしながら、朝民を見ていた。
「良かったね。伯芳さん、元気になって」
伯芳の出ていったドアを見て微笑する。こんな時の穂邑は、本当に幸せそうに笑う。手放したくないと思わせる穂邑の表情の一つだった。
「今度は私を元気にしてくれ。キッド」
押し付けられる体の一点に熱さを感じて、穂邑が慌てて体を離す。
「そんな、チャオ。昨日、お風呂であんなにしたのに…」
「やっぱり、ベッドでないとした気がしない」
ニヤリと笑って、朝民はキッドをベッドに押し倒した。
朝民は午後の執務に戻るまでしっかり楽しんで、穂邑はその後、寝不足と疲労感で溜息をついた。
結局、二人の仕事を止められたのは、たったの1日。これでは、仁木は許してくれないだろう。