「ひとときの休息」

                           byぷに



 
  今日は朝から何やら体調が思わしくなかった。 何処がどうと言うのではないが、何かおかしかった。
  しかし、だからと言ってスケジュールを狂わすわけにはいかず、 今日もいつものように沙門の外回りに同行していた。
 一日の大半を外で過ごした後、都内某所の高級料亭で某大手企業の役員との会食の席を設けていたので、 そちらへ沙門共々向かう。
 玄関へベンツが横付けされると助手席の若手が下り、後部座席のドアを開けた。 まず仁木から下りる。
 敷石を踏み締めて立ち上がった瞬間、珍しい感覚に仁木は襲われた。
 ここ何年と感じていなかった、久々の予感。
 立ち竦む仁木に、何してやがる、行くぞ、という沙門の声が掛けられた。 我に返り、運転手と付き人を残して慌てて後を追った。



会食の最中もどうも調子が出ず、何度か沙門に名を呼ばれてはっとすることがあった。 食欲も無ければ、料理の味が全くしない。 とうとう中座して手洗いへ向かう。 洗面台へ手を付いて寄り掛かった。
いかん・・・まずいな・・・。
目の前の鏡を見ると、案の定顔色が白い。 予感が現実になってきた。 何やら体の節々が痛い。 季節はまだ冬に差し掛かったばかりだったが、室内で冬物のスーツの上着をしっかり着ていても悪寒で体が震え始めている。
 今日の予定はこの会食で終わりだ。 鹿野組が騙る名義のみの会社の代表取締役としての沙門を引き合わせるために設けた席だ。 付きっきりで仁木が同席していなくてもいいだろうが、中座が長引くのはやはり印象的にまずい。
 後少しだ。
 くらくらする頭を抱えて、仁木は座敷へ戻った。



 夜も更け、商売相手を見送った後、待たせておいたベンツに乗り込む。 これしか手持ちの無かった薄手のコートを着込んだ仁木は後部座席の沙門の隣に座わり、シートに深く身を沈めた。 頭も背凭れに凭れさせ、眼を閉じた。
「えらくお疲れのようだな」
 沙門が気にする風でもなく、仁木に声を掛ける。
「・・・いや・・・・・・やってくれ」
 だるそうに仁木が言う。後半は運転手への指示だった。 この後、沙門と一緒に一旦事務所へ戻ることになっている。
 ベンツが震動も無く滑らかに発進する。
運転手が、信号が変わりそうになるのを見て、少しアクセルを踏み込む。 黒塗りの車体が赤信号になるスレスレで交差点に滑り込み、左折する。 いつもより強めの遠心力が掛かり、沙門は気持ち、体が傾いだ。
 ところが、横に居た仁木が遠心力に振られるままぐらりと倒れ掛かってきた。 沙門は咄嗟に仁木の体を支えた。 異変に気付いた沙門が驚いて仁木の顔を覗くと、真っ青な顔をして苦しそうに短く息をしていた。
 額に触れると、焼けるように熱かった。
「おい。病院に回せ。内科だ」



 ぼうっとする意識の中、病院に着いたぞと起こされた。 沙門が一人連れて行けと言うのを断り、自力で受付へ行く。 歩くのも定まらない感じでふわふわする。 少し歩いただけで指先が痺れた。
 ここは患者が例えヤクザでも来るもの拒まずの精神がウリの私立の総合病院だ。 腕はどの診療科も一級なので、一般の患者も多い。
 夜間受付で受診できるか尋ねると、快諾され、保険証はお持ちですかと聞かれた。 いや、無い、と答えると、ご提出が無ければ医療費を全額頂くことになりますがと問われた。 構わない、と無愛想に答えた。
 夜間なので廊下の照明は薄暗く落とされていて、非常口のサインだけが浮かび上がっている。 夜間専用の処置室の前の廊下には一人掛け用の椅子が数個並べてあるだけだったが、 名前を呼ばれるまでの間、そこでもいいから横になりたくてしょうがないのを、 コートの前を掻き合わせながら我慢していた。
 処置室から出て来た看護婦に渡された体温計を脇に挟む。 直に電子音が鳴り、引っ張り出して見ると、三十九度八分だった。 その数値になぜか感動を覚える。
 再び処置室から出て来た看護婦に体温計を返す。 そのままもう少しお待ち下さいと言って消える。
 ・・・寒い。 ただでさえ具合が悪いのに、こんなところで長いこと待たされてはますます具合が悪くなってしまう。 ぐらぐらする頭を前屈みになって組んだ両手で支えていると、さっき受付で適当に告げた名前が呼ばれた。
 診察では問診の後、上半身裸になるよう言い渡された。 あまり人目に晒したくないものを背負っている仁木はできれば脱ぎたくなかったが、 医師の診察ともなれば拒むわけにはいくまい。
 受付から回ってきたカルテの保険証の番号記入欄が無記入だったので、 医師は察しがついていたのか、刺青を見ても全く無反応だった。
 医師が手早く診察を終えてくれたので、仁木は早々に衣服を身に着けた。
「体の節々が痛い。まあ、詳しく検査しないと断定はできないが、インフルエンザだろうね」
「・・・はあ」
「抗生物質は効かないから、解熱剤だけ出しておきます。 二、三日は熱は下がらないだろうから、暖かくして安静にね。 アルコールも控えとくように」
 処方箋を書きながらそう医師が言ったのは、仁木から酒の匂いがしたからだろう。
「・・・はい」
 病気とは言え静かな居住まいのヤクザに、こちらも眼鏡を掛けている医師がちらりと仁木を見遣る。 多分、姿から受ける印象と背中の刺青のミスマッチが気になるんだろう。 熱でぼうっとする頭で考える。
「解熱剤、一回分ここで飲んで行きますか?」
 余程辛そうに見えるのか・・・実際辛いが・・・医師が気を使ってくれる。
「できれば・・・」
 看護婦が差し出した薬とコップを受け取る。
「錠剤が解熱剤ね。粉薬は胃薬だから」
 納得して、二種類の薬を一度に口の中へ放り込み、水で飲み下した。
コップを看護婦に返し、医師に一礼し、処置室を出る。 間もなく受付から架空の名前を呼ばれ、精算を済ませる。 薬局で薬を受け取った後、仁木は病院の駐車場へ向かった。
 沙門の付き人が仁木の近付いて来るのを察し、車から下りて後部座席のドアを開けて待った。 目眩を誘うのを承知で、ドサリと熱でだるい体をシートに投げ出した。
 ドアを閉めた若手が助手席に乗り込み、ベンツは再び走り出した。
「・・・インフルエンザだと」
 目眩をやり過ごしてから短く結果報告をする。 駐車場まで歩いて来たことで、落ち着いていた手の痺れがまた強くなっている。 意識して呼吸を遅くし、過呼吸の状態を緩和するべく努力する。
 沙門が火を付けたばかりらしい煙草の火を灰皿で揉み消す。
「ドクター(てめえ)がインフルエンザだあ? フン、感染(うつ)すなよ」
 沙門が鼻で笑う。 仁木は窓枠へ頭を凭せ掛け、沙門の方をじろりと見た。
「けっ。あんたに感染ろうってえ度胸のある病原菌なんて、いんのかよ」
 自分で言った長い台詞に酸欠になる。 眼鏡を掛けているのも辛くなって、外す。 指の腹で眼を揉み、一つ大きく息を吐き出して、シートへぐったりと凭れ掛かった。



 高熱のせいで息が浅く短く、胸で呼吸しているのが自分でも分かる。 過呼吸は治まったが、体がだるくて重くて仕方が無い。 一度体を落ち着かせてしまうと、次に動くのが酷く億劫に感じる。
 高熱を押して受診して疲れたせいか、仁木はうつらうつらし始めた。 走行する車の震動にも程好い催眠作用があった。
 微睡む中、沙門が何やら黒い上着の内ポケットを探っているのが分かった。 拒絶するのもだるくて、させるがままにしていた。 仁木の携帯を探していたようで、それを取り出すと、送信先を仁木のアドレスから探し始めた。 おいおい、プライバシーの侵害だぞ。 そう思ったが、喋るのもきつくて、口には出さなかった。
 何か、また悪寒がしてきた。やたら寒い。 仁木はコートの襟の中に首を竦め、片手でもう片方の腕を擦った。
 沙門が仁木の携帯を耳に当てる。 相手が出たらしく、名乗った後で何事か伝えている。 何を話しているのか良く聞き取れなかった。
 頭が熱でぼやけてるのと睡魔とで意識が途切れ始め、沙門がいつ内ポケットに携帯を戻したのか分からなかった。



 途切れ途切れの意識の中、車が止まって誰かに負ぶわれたような気がする。 そのままどこかへ運ばれ、布団の上に下ろされた。 誰かがコートと上着を脱がせてくれ、ネクタイを解いて襟元を弛めてくれた。
 体の右側を下にして丸まる。 枕の高さが気持ち良かった。
 毛布が肩に掛けられるのを感じ、仁木は安心して眠りについた。



 途中、何度か意識が戻りかけた。
 夢現の中で、誰かが傍にいることは分かった。 時折額や頬に触れてくる。
 その優し気な仕草を感じながら、何度も眠りに落ちた。







 どのくらい経ったのか、ふと仁木は眼が覚めた。 障子越しに清々しそうな陽の光が斜めに差し込んでいる。
 朝か? ・・・それよりもここはどこだ?
 ぼやけた視界の中、見慣れぬ天井と照明器具に記憶を手繰り寄せるが、分からない。
何かが額に貼られていて、凄い薬品臭がしている。 触った感触ではフェルトのようで、分厚くて少しぷよぷよしていた。 仁木はそれを剥ぎ取って、目の前に翳した。 いわゆる熱冷ましシートだった。
 ふと遠くから足音が近付き、障子が静かに開かれた。 現れたのは女性らしかった。
 仁木が眼を覚ましているのを見て、澪の顔が柔らかく綻んだ。
「具合はどう、仁木さん?」
 澪が畳の上に敷いた布団に寝かされている仁木の枕元に歩み寄って座った。 澪は淡い色の細身のセーターにブーツカットのジーンズを履いていた。 頭頂部の髪をバレッタで押さえ、後ろへ垂らした部分を項で一つに束ねている。 彼女にしては地味な格好をしていた。
「熱冷ましシート、剥いじゃったのね」
 仁木の手からすっかり温まったシートを取り上げ、手を仁木の額に当てた。 澪の手が冷たく感じる。
「まだ熱は高いわね。はい、体温計」
 枕元に置いてある盆の上から電子体温計をケースから取り出して仁木に渡す。 盆には昨夜総合病院から貰って来た薬袋と水差しが揃えられていた。
「・・・すまねえ」
 何がすまないのかよく分からないが、澪の手から体温計を受け取り、ボタンを外されていた胸元から脇へ差し込む。
澪が静かにじっとこちらを見ている。 計測終了の電子音が鳴るまで、かなり長い時間が掛かったような気がした。 脇から引き抜くと、仁木が数値を確認する前に澪が仁木の手から抜き取った。
「少し下がったわね。四十度」
 数値を聞いて昨日の感動が新たになる。しかも、それで下がった?
「仁木さん、昨夜は四十二度まで上がったのよ」
 澪が体温計をケースに仕舞いながら真相を明かす。
熱冷ましシートをまた貼るかと聞いてくるので、臭くてかなわねえと断った。 それならと呟いて、澪が席を立つ。 障子を閉めて出て行き、程なくして洗面器とタオルを数枚持って再び戻って来た。 畳の上にタオルを一枚敷き、熱い湯を零さないようにそっとそこへ洗面器を置く。
「服、昨日のままだから着替えた方が良いと思うんだけど・・・」
 薬袋を置いてある盆の横に、浴衣が一揃え用意してある。
「昨夜はとても着替えができる状態じゃなかったから、仁木さん」
 部屋の中へ視線を巡らせると、鴨居にコートとスーツの上着と思しき黒い物体が掛けられているのがぼんやり見えた。
「起き上がれる?」
 澪の催促に、何で自分が澪に介抱される事態になったのか分からぬまま、仁木は起き上がろうとした。
「・・・・・・」
「? どうしたの?」
 仁木がなかなか起き上がらないので、澪が訝しんだ。
「・・・すまん。起き上がれねえ」
 起き上がろうとする気力はあるのだが、体が付いて来ない。 頭をまず、枕から浮かせない。
「熱のせいね」
 くす、と澪が笑う。
「ちょっとごめんなさい」
 そう言うと、澪は仁木に掛けられている毛布を捲った。 寝ている仁木の傍に向かい合わせになるように座り、仁木の上に覆い被さって、 枕と首の間に両側から手を差し込み、指を組んだ。 間近に寄った仁木からは整髪料の匂いがした。
 立てた片膝を踏ん張って、仁木の上体を起こす。 一体澪は何を始めるのかと戸惑っているうちに澪が助け起こそうとし始めたので、仁木もつられて彼女の背に手を回した。 もう片方の肘を付き、最後は澪に背中を押してもらってようやく半身を起こした。 ぐらり、と視界が揺れる。 思わず額に手を当てる。
 枕元で澪が熱い湯でタオルを絞り、それを仁木へ渡す。
「これで顔を拭いて。さっぱりするわ」
 具合の悪さに無言で受け取り、顔を拭く。
「まだ体を拭くのは無理ね。早く着替えて横にならなきゃ」
 仁木は、澪に仕切られる自分を朦朧とする頭で変なものを見るように感じていた。 だが、澪にワイシャツのボタンを外されかけ、慌ててそれを止める。
「いや、自分でできる」
 仁木の仕草を見て、意図を察した澪が微笑んだ。  素直な笑みだった。
「隠しといてあげるわ」
 澪が手を伸ばし、浴衣を手に取る。
「ごめんなさい、お客様用といったらこれしかなくて」
 バサッと広げて仁木の背中に翳した。
「ワイシャツ、脱いで」
 実際、昨日から着たままのワイシャツはよれよれで、蒸れていた。 澪の言うなりにワイシャツを脱ぎ、それで首の周りだけ拭ってから澪の翳す浴衣に袖を通した。
「掴まって」
 仁木の脇に膝を付き、自分で自分の肩を叩いて見せる。
「私の肩に手を付いて立ち上がって」
 仁木は片膝を立ててから澪の肩を支えにして重たい体をゆっくりと持ち上げた。 自分より遥かに上背のある男の力が澪の肩に掛かるが、踏ん張って堪える。
 仁木は立ち上がったところで目の前が白くなりかけて、ふらついた体を支えるのに半歩下がった。 澪が大丈夫かと気遣う。 それにただ頷いて答える。
「下着、急いで組の若い人に調達してきてもらったの。柄は文句言わないでね」
 そう言うと、後ろを向いてしまった。 仁木の脱いだシャツをざっと畳む。
 仁木は体がよろめくのを、後ろを向いた澪の肩に手を付いて支えながら、 こちらも皺になったスラックスを脱いで下着を新しいのに履き替える。 浴衣の前を合わせていると、澪が男物の浴衣帯を持って仁木の前に回って来た。 きちんと前を合わせ直し、仁木の胴体に腕を回して帯を結ぶ。
 浴衣の布を通して仁木の尋常ではない体温が伝わってくる。 目の前の仁木は高熱のために口で息をしている。
「・・・すまんが、もう横になりたい」
 仁木が訴える。 立ち上がらせた時と同じように澪は膝を付いて、自分に掴まらせて座るのを助ける。 仁木が疲れ切ったように頭を枕に埋める。 眼を閉じて辛そうに眉間に皺を寄せた。
「吐きそうなの?」
 心配そうに澪が尋ねる。
「いや・・・吐き気は無えが・・・」
「ない・・・けど?」
「ああ、すまん・・・大丈夫だ」
 しかし声に全く覇気が無い。
「お薬飲んだ方が良いと思うんだけど・・・食後に飲むんだけど、食欲無さそうね」
「薬だけ、くれ」
「せめてポカリくらいでも飲みなさいよ」
「あー・・・・」
 言葉が続かない。
「水分はとった方が良いわ。ちょっと待ってて」
 そう言って消えると、すぐにペットボトルとコップを持って戻って来た。 小気味の良い音を立てて栓を開ける。
「・・・なんでこうなった?」
「え?」
 コップに中身を注いでから、再び仁木を助け起こそうとする。
「いや、いらねえ」
 眼も開けずに拒絶する。
「何言ってるの。水分とらなきゃ熱も下がらないわよ」
「いいって」
「そう。そんな我侭言うなら・・・」
 スポーツ飲料の入ったコップを傾けてから、澪が仁木の顔を両側から挟む。 何事かと眼を開けた仁木の視界一杯に澪の顔が迫って来た。
 苦しい呼吸のせいで半開きになっている唇へ澪の水分を含んだ唇が重ねられた。 その水分が仁木の口の中へ移され、染み渡る。
「ほら、こんなに唇が乾いてるわ。水分とらなきゃ。それとも、ストロー持ってきましょうか?」
 まだ仁木の年齢で寝たまま食事をとるのはぞっとしない。
「・・・分かった。起きる」
 しかし一度完全に寝てしまったので、再び澪の介助が必要だった。 重たい体を二人で起こし、澪からコップを受け取った。 良く冷やされていたので咽越しが気持ち良かった。
「はい、お薬」
 胃薬の入った袋を破いて飲みやすいように形を整え、その中に解熱剤の錠剤を混ぜてくれている。
「すまねえ」
 仁木がそれを受け取ると、今度は水差しのコップを差し出す。
「ふふっ。さっきから仁木さん、謝ってばっかり」
 コップの水を半分ほど飲む仁木の様子を見ながら澪が言う。
「沙門が、あなたは私のところへ隔離、ですって」
「・・・沙門さんが?」
「全く使えん奴、さっさと熱を下げて戻って来やがれ、だそうよ」
 澪は仁木が薬を飲み終えたのを見て、コップを仁木の手から引き取る。 仁木が身を横たえようとしているのに手を貸し、毛布を掛ける。
「ああ・・・そうか・・・」
 途切れがちだった記憶の場面がようやく繋がる。 病院から真っ直ぐ澪のところへ運ばれたのだ。 仁木の呟きに、澪が後を引き取る。
「驚いたわ。あなただと思って電話口に出たら沙門なんだもの」
 その言い草に、熱に浮かされている仁木の口元が笑う。 仁木はふと、じゃあ俺を負ぶったのはと思い出して、すぐに考えるのを止めた。
「・・・寝てていいか」
「熱が下がるまでいいわよ」
 澪が皺くちゃになったワイシャツとスラックスを畳んで重ねながら言う。
「枕元に子機を置いとくわ。内線で通じます」
 何かご用があったら呼んでと言い残し、トン、と障子を閉めた。



 子機は使わなくて良かった。 用事がある時は必ず澪が良いタイミングで姿を現すので、その時に頼めた。 水が欲しい、トイレを貸してくれ、汗をかいた、等々。
 昼過ぎになると、熱は三十九度前半まで下がった。
しかし、せっかく澪が運んでくれた食事は咽を通らなかった。  気を利かせて作ってくれた卵酒も全く味がしなかった。



 陽が沈む頃になると、また仁木が四十度近い熱をぶり返した。
 もう昨夜みたいにうなされる事は無かったが、相変わらずその姿に覇気は無い。 それでも昨夜とは打って変わった穏やかな寝息が澪を安心させる。  これならば昨夜みたいに一晩中起きて様子を見ていなくても大丈夫だろう。
仁木が熱冷ましシートを拒んだので、氷と水をビニール袋に入れ口を結んでガーゼに包んだものを二つ作り、 仁木の耳の下に当てて頚動脈を冷やしてやる。
 整髪料を落としていないままの髪がごわついていた。 少し解けて額に掛かっている毛先を指先で撫で付けてやる。
 明日は食事をとってくれるだろうか。
 澪は仁木を起こさないように静かに立ち上がり、仮眠をとるために自室へ戻った。




 
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