「ひとときの休息」

                           byぷに



 
   次の日眼が覚めると、辺りはまだ薄暗かった。 体を起こすと、幾分かすっと軽く起き上がれた。
「っ、いてて・・・」
 その代わり、キリキリとした痛みが走り、胃の辺りを押さえる。 昨日一日何も食べられなかった上、胃が熱で焼けてしまった感じがする。
 枕元の盆から体温計を取り出し、熱を測る。
 三十八度六分。
 体温計を盆に戻し、その隣の眼鏡を取り上げて、掛ける。 布団から立ち上がり、壁際に掛かっている一揃いの黒のスーツへ歩み寄る。
「?」
 てっきり自分のだと思っていたらそうではなく、しかもそれは真新しい買ったばかりのもののように見えた。 それでも内ポケットを探ってみたら、仁木の携帯が出て来た。 料亭で会食した時に設定したままにマナーモードになっている。 道理で携帯のことを忘れていられたのだ。
 ここで初めて仁木は現在時刻に気付いた。
 十六時五十九分。
 仁木の眉が寄る。 この薄暗さは朝ではなく、夕方だったのだ。 ということは、丸二日間食事をとっていないことになる。
 着信履歴を確かめると急を要する用件があり、 事務所がどう対応したか知りたくて事務所の電話番号を選択し、携帯を耳に当てる。
 お、と沙門が出た。 名乗りゃしない。 しかもこっちが用件を言い出す前に、てめえはまだ病欠してやがれと電話を切られそうになった。 慌ててそれを引き留め、これこれこう言う人が電話してきただろう、どうした、と聞くと、 教えてやらねえと返された。
「てめえ、まだ熱下がっちゃいねえんだろう? ふやけた頭でミスられちゃ堪ったもんじゃねえ。出直しな」
 ガチャン!と切られた。 仁木はチッと舌打ちをし、通信を切った。
「もう、お仕事? 熱は下がったの?」
 不意に背後から声を掛けられ、驚いて仁木は振り返った。 すらりとしたスカート姿が間近に立っていた。 澪は一人分用の土鍋を運んで来たところだった。
 仁木へ歩み寄り、彼の手から携帯を取り上げ、電源を切り、スーツの内ポケットに戻す。
「これは?」
 仁木がスーツを指差す。
「お気に召さない?」
「いや、そうじゃなくて・・・」
「あなたのはクリーニングに出しちゃったの。 それとも、クリーニングから返って来るまでここに居る? 一週間くらい掛かるわよ」
 そう言われてどう反応すべきか困っている仁木に微笑みかける。
「安物の既製品だけど、使ってね。 それより、お粥を作ってきたの。食べられるかしら?」
 仁木はまだ食欲は無かったが、空腹感はあったので貰うことにした。 澪はお粥を土鍋から茶碗によそい、梅干を添えて仁木に手渡す。
 そんなにたくさんはよそわなかったつもりだが、仁木は半分ほど口にしたところで箸を置いた。
「すまん、胃が痛くて入らねえ」
「無理しないで。胃薬持って来ましょうか?」
「後で頼む。今は病院のをくれ」
 昨日のように粉薬と錠剤を一緒にしてやると、一度に口の中に入れて水で流し込む。
 ほっと一息、溜め息をつく仁木に澪が言った。
「少し気分が良いなら、今日は体と髪を拭きましょうね」



 仁木は澪の前に引き据えられ、まず髪から拭かれた。 水を使わないシャンプーなど初めての体験だった。 髪など風呂に入れるようになってから洗えば良いことだったのに、澪は許してくれない。
 目の粗いブラシで梳かれたあと液体を振り掛けられ、手で揉まれて、濡れたタオルで拭き取られる。 ヘアトニックみたいなすっとする感じは嫌ではなかったが、かなりしつこくタオルで拭かれた。
 拭き終わったら仁木の前に来てブラシで分け目を作る。 いつものように左分けにしようとしていた澪が、何を思ったか髪をくしゃくしゃっと元に戻す。 そして右分けにしてみたり、真ん中で分けてみたり、沙門みたいにオールバックにしてみたり。 完全に遊んでいる。
「やっぱりこれが仁木さんね」
 と、やっと髪の毛の自然な流れで左分けに落ち着いてくれる。 ・・・かと思ったら、せっかく綺麗に流した前髪をブラシの先を使って少し解き、額に垂らす。 その仁木の顔を正面からまじまじと観察し、仁木さん、こうした方が若く見えるわ、と言い放つ。
「〜〜〜〜〜、澪・・・」
「こうしなさいよ」
「勘弁してくれ。俺はきっちりしてる方が好きなんだ」
「面白くない人! 今日はこのままでいて」
 勝手に話を打ち切り、澪はブラシその他を片付けに掛かる。
「次は体を拭くわ。お湯を替えて来るから待ってて」
 洗面器とタオルを手に澪はさっさと部屋を出て行った。 仁木は澪に垂らされた毛先を引っ張って、上目遣いにそれを見た。



「今日は背中も見せるのよ」
 澪が仁木へ言い渡す。 逆らっても無駄と思い、彼女のしたいようにさせることにした。
 後ろへ回った澪が帯を解き、襟を取って浴衣を脱がせる。 澪の前に仁木の背中が姿を現す。
 日頃から俺の専門はココだと頭を指差す仁木は、この世界にいて上背はありこそすれ、 その体付きは目立つ方ではない。 しかもその長身も、いつも沙門の隣にいるので全然印象に残らない。 傍に立ってみて、存外に顔の位置が高いのに気付いたのを覚えている。 まだ中年呼ばわりするには早過ぎる背中は、 それなりに筋肉も付いているし、無駄なところも無く、男らしかった。 そしてその背中を極道の証明が不自然に彩っている。
 仁木は下着一枚で布団の上に胡座をかいて座った。 澪はまず、背中から拭き始めた。 青い色素が沈着して久しい背中を、取り替えた熱い湯で絞ったタオルで少し強めに拭く。
「刺青入れる時って痛いんでしょ」
 両手でゴシゴシ力を入れて拭きながら聞いてくる。 タオルの畳み方を変えながら丁寧に汗を拭き取っていく。
「まあ。度胸試しに勧められるくらいだからな」
 澪に背中を拭かせながら、仁木は内心でそら来た、と思う。
「沙門に無くて仁木さんに有るなんて」
「せっかく彫っても、あんなに傷だらけにされちゃなあ」
 それを聞いてふふっと澪が笑う。
「どうして仁木さん、彫ったの?」
 案の定、単刀直入に核心を突いてくる。 この娘らしいやり方だ。
「彫り師がしつこく俺を彫りたがったんだ」
 無難なところを答える。
「そうね。仁木さんの背中、綺麗だし」
 仁木は言葉に詰まった。 こんな具合によく澪は返答に困ることを言う。
「彫った直後ってどうするの? 包帯でも巻くの?」
「そんな大袈裟にはしねえが・・・ガーゼ当てて薬塗らなきゃならねえ」
「血は出ないの?」
「出るぜ。瘡蓋になったりするな」
「みっともなくない?」
 確かに瘡蓋が取れるまではあんまり人に見せられるものじゃない。 最も、刺青は他者にひけらかすために入れるものではない。 自分を誇示するために彫る場合もあるが、だからと言ってそれを得意がってむやみに人目に晒すのは小物だ。 ただ仁木の場合、彼が人前で服を脱ぎたがらない理由は他にある。
 背中を拭き終わった澪が正面へ回って来る。
「後は自分でやるから」
 タオルを貸せ、と掴もうとすると、やらせなさいよとタオルを握った手を引っ込める。 そして、何照れてるのと畳み掛けられた。 加えて、病人なんだから大人しくしときなさいと叱られた。 仁木の顎を上げさせ、首周りから拭き始める。
 今日の澪は髪を下ろしていた。 癖のない真っ直ぐな黒髪が肩でわだかまることなく胸元へ流れている。 袖を捲った白いブラウスとカーディガンの襟元を金のネックレスで飾っている。 丈の長いAラインスカートの澪は中腰で仁木の体を拭いている。
「で、なんで彫ったの」
 仁木の眼を見ないで同じ質問を繰り返す。 やはり見逃しちゃくれない。
「もう堅気には戻らないって決意の証に彫る人もいるけど」
「俺はそんなに熱くねえ。当時の兄貴分に言われて彫っただけだ」
「主体性のない人ね」
 本人を目の前にズケズケ言う。 激昂していたとは言え、沙門に張り手を飛ばすくらいの女だ。 仁木くらいなんぼのもんだろう。
「・・・組に入り立てのペーペーが逆らえるか」
「なんだ、イジメられたの」
 明け透けに言われて、二の句が告げない。 そう快活に言う単語ではなかろう。
「どうせ理屈ばっかりこねてて目を付けられたんでしょ」
 いつになく仁木の触れて欲しくない部分を穿り出そうとする澪に、仁木は閉口していた。
大体、体にこんなものを刻み込んで自分の力を誇示するのなど愚にも付かないと思っている。 その愚にも付かないものを、もう元には戻せないものを、しかも人に促されて仁木は自分の体に刻んでしまった。 それも不完全な奴を。 人目から隠したくもなろう。
「あなたには似合わないわ」
 肩口の、彩りの欠けた青い痕跡を指で突付く。
「彫りかけがか」
「刺青がよ。・・・ううん、渡世にいること自体、似合わないわ」
「・・・興味が湧いた。中から見たくなった。それだけだ」
「だから物好きだって言ってるのよ」
 澪にやり込められるのはいつものことだが、こう扱き下ろされては仁木の立つ瀬がない。 仁木は返事に窮して黙り込んだ。
 胴体の次に両腕を拭き終え、澪が左足を出してと指示を出す。
「怒った?」
 憮然としているのを分かってか、更に澪が突っ込む。
「俺は結構気に入っている。いろいろと策を巡らすのは楽しい」
 そして仁木の弄する策が外れることは滅多にない。
「恐い人」
 次、右足、と催促される。
「頼もしいわ」
 こういうのが非常に困る。 どう切り返せば良いのか、容易に答えが見つからない。
 仁木が悩んでいる間に、澪は足も拭き終えた。
「それも脱いで」
 と、下着を指差す。
「えっ」
「脱がなきゃ拭けないでしょ! 恥ずかしがってないで脱いで」
 澪が仁木の下着の端を掴む。 本気で脱がせようとする彼女に仁木は慌てた。
「い、いいって、よせ!」
 仁木が咄嗟に澪の手を掴んで自分の腹部から引き剥がした。
 仁木に手首を掴まれ、澪は仁木の顔を間近に見上げた。 切っ掛けは何であれ仁木の方から澪に触れてくることなど皆無に近いことで、 澪は驚いて嬉しくて感動したが、肝心の仁木の様子がおかしい。
 仁木も驚いていた。 澪の了解を得ずにその手を掴み、彼女との至近距離に今更ながら激しく動揺し始めた心に驚愕した。 間近に迫る澪の顔に心臓の鼓動が跳ね上がった。
 気まずい沈黙が二人の間を流れる。
 どちらかと言えば今まで女性は遠ざけてきた仁木にとって、 元々自分から積極的に女性に触れることなど滅多に無いことだったが、 それにしても手を掴んだくらいでここまで見苦しく動揺するとは自分でも思ってもいなかったことだった。 澪の手首を掴んだ手の処理に困り、仁木は彼女の手を掴んだまま途方に暮れた。
 澪の瞳が逃げることなく、固まったままの仁木をじっと見詰める。
「・・・このまま引き寄せてはくれないの?」
 澪が呟く。
 女性にこういう台詞を言わせる自分が無様で情けなかった。 澪が動いて、自分の手首を放す機会を逃してしまった仁木の手を解放してやる。
 安堵したのも束の間、澪の白い腕がするりと仁木の首に巻き付いてきた。 今日の澪はいつもより余計に仁木を驚かす。 動転している仁木へ更に身を乗り出し、 仁木は首に腕を巻き付けられたまま後ろへ押し倒されてしまった。
「また私から誘わなきゃダメなの?」
 仁木の胸に半身を預けた澪が囁く。 上から見下ろしてくる澪の顔に、ますます動悸が激しくなる。 澪の下ろした髪が仁木の頬に首筋に落ち掛かる。 右手で流れ落ちる髪を耳の後ろで押さえ、澪は仁木へ唇を寄せた。 仁木は澪の肩を掴んでそれを押し留める。
「感染るぞ」
 澪の体を気遣うフリをして、なんとか止めさせようとする。
「キスで感染るっていうなら、あなたに口移しでポカリ飲ませた時に感染ってるわ」
 女の細い指先が唇を撫でる。 そのまま頬を撫で、澪はことん、と頭を仁木の肩に置いた。
「だってあなた、もう一眠りしたら、まだ熱が下がってなくても仕事へ戻ってしまうわ。・・・そうでしょう?」
 さっき携帯を操作する姿を見てしまった澪はすでに悟っていた。 それが面白くなくて仁木を困らせていたのだが、そんな澪の女心は多分仁木には通じていまい。
「・・・そうね。あなたはまだ熱があるから、寝てないといけないわ」
 そう言いつつも、澪は仁木の上から退こうとはしない。
「あなたがいなくて沙門が困るのはいい気味だけど、寝込んでるあなたは様にならないわ。 寝間着なんかより黒いスーツ姿が素敵。 猛者達の中にいて、指示を飛ばしてる方がずっと素敵だわ」
 仁木は澪が肩にしがみ付いてくるのを何処か遠くで感じていた。
澪がすっと半身を起こした。
「もう浴衣を着た方がいいわ」
 澪は仁木の上から退こうとしたが、腰に回ってきた仁木の腕に引き留められる。 背中を支えられて、仁木の上から布団の上に下ろされた。
 波打つ黒髪の中で白い顔が映える。
「・・・本当に感染るぞ」
「・・・もう、感染ってるわよ」
 澪は、上になった仁木の顔を両手で挟んで引き寄せた。 唇を合わせてから腕を首に巻き付けた。
「多分・・・看病できない」
 仁木の詫びが耳に直接呟かれる。
「いいのよ。・・・分かってるわ」
 瞳を閉じながら、首筋を愛撫する唇と吐息の向こうで、 反らせた背中に手を這わせながらブラウスの裾が捲られるのを感じていた。
 中へ忍び込んでくる仁木の手に、 やっとその気になったのね、世話の焼ける人。 と、澪は心の中で思った。







 髪をいつものように整髪料できっちり整えた仁木は、 澪の用意したスーツのスラックスを履き、 ワイシャツを羽織ってネクタイを首に掛けた姿で携帯を操っていた。 ここ二日ほど連絡が取れなくて失礼した、今日にでもお会いしたい、 などと溜まった用件を簡潔に済ませていく。
 仁木の足元では澪が仁木の脱いだ浴衣などを畳んでいる。 それが済むと仁木の前に立ち、当たり前のようにワイシャツのボタンを詰め、ネクタイを締める。 そこで仁木の用件は一通り済んだようだった。
 仁木から携帯を受け取り、スーツの内ポケットに収めた後、 ハンガーから取った上着を仁木の背に翳す。 ワイシャツの裾を整えてスーツに袖を通した仁木が襟を正す間に彼の前に戻り、スーツのボタンも詰める。 ネクタイの歪みを整え、澪は少し体を離して仁木の姿を眺めた。 もうすっかり鹿野組組長付きの策士の表情に戻っている。
「安物の黒でごめんなさいね。あなたのは後で事務所へ届けるわ」
「すまない。そうしてくれると助かる」
 仁木がそう言うと、澪は目を細めて頷いた。 昨夜抱擁し合った情景が脳裏に浮かぶ。 好いた人に触れられるというのは真に心を震わせられる。 肩を流れる髪までが仁木の愛撫を覚えているようだ。
 あれから夜半になり、仁木が何か食べたいと言うので、今度は雑炊を作ってあげた。 だが、結局仁木は思うほど口にしなかった。 胃が痛いとまた訴えるので、市販の胃薬を飲ませた。 やはり具合の悪い仁木に無理をさせたかと、少し自責の念に駆られた。
 今朝になり、心配された熱は、実はまだ微熱が残っている。 それを理由に引き留めたい気持ちを抑え付け、澪は出掛ける仁木のために朝食を用意した。 胃薬が効いたのか、昨夜よりは食欲も戻って来たようだった。
「あー・・・、その、澪・・・」
 仁木が策士の表情を崩し、言いにくそうに視線を外す。 澪はすぐに察し、仁木を助ける。
「私なら大丈夫よ。この通り元気だわ。もし具合が悪くなったら、私には母がいるし」
「すまん・・・」
 決まり悪そうに、頭を下げる。 強引に無理をさせたのは澪の方なのに、仁木は律儀に謝ろうとする。
「鹿野夫人にはよろしく伝えておいてくれ。 無断でお邪魔したことを本当は直接伺って詫びなきゃならねえが・・・」
「母も分かってるわ。第一、あなたは古田さんのところの人間だし。 私達親子に義理を感じることは無いわ」
仁木のスーツの襟についた埃が気になって、指先で抓んで取り除く。
「表にもう迎えが来てるわ。沙門直々よ」
 ほう?と仁木は怪訝そうに澪を見遣る。 さっき携帯で迎えを寄越すように連絡した時にはそういう話は出なかった。
 本当よ、と目配せをし、澪は仁木のコートを腕にかけ、玄関まで案内するために仁木の先に立った。
「澪」
 名を呼ばれて振り返ると、黒いスーツの胸に抱き寄せられた。 思いきり期待を込めて顔を上げると、果たして仁木が唇を寄せてきた。 澪の方が緊張して、仁木のリードに任せる。 仁木の背丈に合わせようと背伸びする澪の背に仁木の腕が回り、 澪の手が黒いスーツの腕に縋る。
 唇を離しても、二人は口付けの余韻の中でしばらく抱き合っていた。 澪は仁木の胸に、仁木は澪の髪に、互いに顔を埋め合った。
 ふと、澪がくすくす笑い出した。
「普段からは絶対想像のつかないあなたが見られて、私、嬉しかったわ」
 仁木の胸から離れながら澪が言う。 やっぱり澪の言うことには言葉が詰まる。
 澪は苦笑した。
「病み上がりなんだから無茶しちゃダメよ。  病院から貰った薬も上着に入れてるから、ちゃんと飲むのよ」
「ああ、分かった」
「私、気を付けてって言葉は嫌いなの。頑張ってね」
 極道に頑張ってねもないと思うけど、と澪は自分で思ったが、 そんなヤボは意識して思考の外に追いやる。
 仕度の整った仁木を先導し、玄関まで連れて行く。 玄関へ仁木が姿を現すと、沙門の付き人の一人が一礼して仁木を出迎えた。
「私はここまでで」
 仁木の肩にコートを掛けながら澪が言うのに、振り返った仁木は何か言いかけて、やめた。
「何?」
 一応、促してみる。 少しためらった後、口を開いた。
「世話になった。助かった」
 短くそれだけ言うと、仁木は澪の微笑みを背に受け、付き人を従えて玄関を潜って行った。



 ドアを開けて待機しているベンツの後部座席に仁木は黒いコート姿を滑り込ませた。
「組長直々のお出迎えとは痛み入る」
 そう言ってシートに身を落ち着かせた仁木の鼻先へ、彼のシステム手帳が突き付けられる。
「お嬢さんに感染してきたか?」
 その台詞に思いきり不快な色を表情に浮かべ、じろりと横目で睨み付ける。
「嫌な言い方するなあ、あんた」
 澪のところまで負ぶって連れて行ってくれた礼を言おうと思っていたが、きっぱりやめた。 嫌悪を露にした視線にも動じず、沙門は煙草を燻らせている。
「てめえから初めて女の匂いがするぜ」
 沙門がニタリと笑う。
「・・・やかましいや」
「さあ、休暇は終わりだぜ。今まで以上に働いてもらうからな。 昨日、てめえが電話してきた件な。今から先方と会う手筈になっている」
 何と言う事はない、沙門は出掛ける道すがらに仁木を拾いに鹿野邸へ寄ったのだ。 だから沙門直々に出迎えるということになったのか。
「はいはい」
仁木はそう了承すると、いつもの仕草で眼鏡の位置を直し、組んだ足の上でシステム手帳を捲り始めた。
 沙門と一緒に仁木を乗せたベンツは、新宿の街に向かって静かに走り始めた。


 
 

………(不機嫌な顔をしているが、とても嬉しそう)
ムカつく。(怒) オメー大概にしろよ。いい年した男が、一回りも下の女にリードされてんじゃねーよ、イライラする! 子供じゃねーんだからしっかりしろよな。鈍いのにも程がある。澪ちゃん滅茶苦茶可哀想。
な、何であんたが怒ってるんだ。
当たり前だ馬鹿たれが。本気で澪ちゃんに愛されてる事、きちんと分かっているんでしょうね。あんたが「こいつの為になら死ねる」って言うのは澪ちゃんだけで良いの。沙門の為になんか、身を張るなよ! 張ってくれるなよ! そう言ってもどうせ、聞きゃしないんでしょ。
入れた点数は「仁木が酷い」点です。
…………。
  評価点(10点満点) A/T酷点:10仁木怒点:2