◆刺客◆
 
                    水無月しづむ


 
 「ごめんなさい。お引止めしてしまって」

 そっと声をかけると、伯芳は驚いたように振り返った。

 双龍頭の副香主と呼ばれてはいるが、顔立ちはまだ幼いと言えるほどに若々しい。二十歳をようやく過ぎたくらいか、心情を隠し切れぬ素直な表情筋の中で、色素の薄い瞳は世の中の澱を知らぬように澄み、ほのかに赤みの差した頬を子供のような産毛が覆っている。

 彼女がこれまでに身体を与え、首筋に刃を突き立ててきたどの権力者とも、まったく異質の存在感。白蘭もまた、初めて伯芳という男の顔をまじまじと見つめた。

「…いや、その、俺こそすまない」

 いたたまれぬように不意に視線を外し、伯芳は何にか、詫びた。それから、

「小姐はもう部屋へ帰っていい」

 ぼそぼそと辞去を命じた。

 彼はおそらく一晩、この部屋で香主の警護に当たるつもりなのだろう。この部屋へ姉弟を招じ入れる前、どのような口裏合わせがあったかは知らないが、李の命がどうあろうと伯芳はそのつもりだったのだ。

 とすれば、白蘭の役目は、彼を篭絡し霍乱することだ。或いは、香主の盾になるであろう彼を殺すこと。

「…帰れと言われましても、困りましたわ。こんな夜更けに街中へ放り出されるのは心細うございますし、一座が今晩どこに泊まっているかも存じません」

「宿は調べればすぐにわかる。人龍に言って、車で送らせる」

 こういうことには慣れているのだろう。こちらを見ようともしないまま、事務的な答えが返って来た。

「そんな後生な。今から戻っては座長に叱られます。弟とわたくし、二人の今宵の身柄が、香主のご所望の品。わたくしだけお役に立たなかったとわかれば、いったいどんな罰を受けるか…」

 見え透いた芝居とわかっていて、悲劇的に声を絞る。

「それでは…私の部屋を使え。向かいのドアだ。鍵は開いている」

 返答は、さらに素っ気ないものだった。

「伯芳さまのお部屋。ならば、伯芳さまがお休みになるときに、わたくしもご一緒に参ります」

 言葉の意図とは正反対の応対をすると、さすがに焦れて、伯芳が振り返った。

「違う。そういう意味じゃない。部屋は好きに使え。私はここにいる」

 やや声を荒げてから、切れ長の目を珍しく丸く開き、伯芳は慌てた。

「…何を、泣いている」

 涙にぼやけた視界の中で、伯芳が声を詰まらせる。

 濡れた星の瞳と、権力者たちが一目で虜になった彼女の眼差し。涙をためた風情が麗しいからつい手荒にして泣かせてしまうと、男たちの嗜虐性を煽ってきた花のかんばせである。白蘭は涙を拭いもせずに、真っ直ぐに伯芳を見つめた。

「わたくしがお傍にいるのは、そんなにお邪魔でしょうか?伯芳さま」

「いや、そういうわけでは」

 はかなげに目を伏せると、睫毛から涙が頬を伝い落ちた。

「身のほど知らずのはしたないことは、もう申し上げません。けれど伯芳さまに疎まれて去らねばならないのだと思うと…どうか身のほど知らずをお許しくださいませ、胸が切なくて、悲しいのです。

 もう少し、もう少しだけ、お傍にお仕えすることをお許しいただけませんでしょうか」

 上目遣いに、おずおずと見上げる。大抵の男なら劣情に火をつけるに充分な、彼女の仕草だ。

 伯芳は、困惑をありありと顔に浮かべて、だが真っ直ぐに白蘭を見つめていた。

「その…大声を出してすまない。そんなつもりではなかったが、傷つけてしまったことは謝る。

 だが、私は今晩ここを動くわけにはいかないのだ。私に構わず、あなたは眠くなったら向かいの部屋を使えばいい」

 彼は真顔だった。こちらの気が抜けるほど。

 白蘭の演技を見抜いたわけでもないのに、彼女の意のままにはならない。

 予想を超えた彼の若さに、白蘭は袖で押さえて涙を拭った。泣いている女性にハンカチーフのひとつも差し出せないほど、彼は若いのだ。

「…取り乱したりして申し訳ございませんでした。もしも、もしご不快でなければ、どうかもう少しだけ、お傍にいさせてくださいませ」

 構わない、と小さく言い捨てて、彼は視線を外した。それから手を伸ばし、青磁の茶器に手をかける。狼狽に乾いた喉を潤したいのだろう。

 白蘭はその手に手を重ねて、そっと制した。

「お近づきの印に、どうか一献だけお受け取りいただけませんでしょうか」

 いちいち驚く伯芳には有無を言わせず、白蘭はソファを滑り降りてテーブルと伯芳の間に入り込んだ。床には、贅沢なムートンが敷き詰めてある。

 白蘭は手元を背で隠し、茶器ではなく、白磁の酒器のほうを持ち上げ、小振りの杯に注いだ。優雅な仕草で氷砂糖を摘み上げ、伯芳を振り返る。

「お砂糖は?」

「ああ、いや、私は酒は」

 伯芳の狼狽を嫣然たる微笑で無視し、白蘭は氷砂糖と、あらかじめ摘んでいた粉末を琥珀色の液体に落した。ブレスレットに隠していた、一座の秘薬である。

「すまないが、本当に飲まないのだ、私は」

「伯芳さまは嘘のつけないお方。わたくしのお酌など受けられないと、本音を仰ればいいのに」

「だから、そうではないと言っている」

 固辞する伯芳の右手を取り、ひるんだ隙に強引に杯を握らせる。

「でも優しい嘘をつく方は、憎らしいけれども愛しい。だからつい、意地悪してしまいたくなる。嘘でも、形だけでもよろしいんですわ。口をつけてはいただけませんの?伯芳さま」

 床に座った上半身を斜めに捻り、眉根を寄せて瞳をすがらせる。

 伯芳は困惑し、おっかなびっくり、だががぶりと一息に杯を乾し、これでどうだと白蘭を見下ろした。意識して作った微笑の下から、思わずの微笑が込み上げる。

 何と面倒くさい、だが面白い男だろう。

 白蘭がこれまでに篭絡してきた男は、最初の流し目だけでもう彼女の身体を組み敷き、思うさまに征服して、そして簡単に彼女の手にかかった。それが、この男と来たら、一の流し目では身じろぎもせず、百の甘言、千の微笑を弄してさえ、ただ一杯の酒を飲ませるのがやっとなのだ。

 白蘭は愛想よく、さらに酒を注ぎ足した。

「いや、小姐。私は本当に」

 そしてはずみのふりで、床に座した彼女のちょうど胸の高さにある伯芳の膝頭に、ふくらみを押し付ける。年齢からすれば、未だ熟さず青い、未発達な四肢である。それでも刺客の武器として数々の男に嬲られてきた彼女のからだは、奇妙な色香を帯び、他の何物にも例え難い女性特有のやわらかさは、たしかに伝わったはずだった。

 まるで熱いものに触れたように、伯芳は豪奢なソファごと数センチ飛びのいた。

「あ、これはご無礼を。伯芳さま、お召し物にご酒が零れましたわ」

 何が無礼であったかはあえて自覚のないふりで、白蘭は傍らのティッシュボックスを引き寄せた。伯芳の白い上着の胸元から腹、ズボンの太股にまで、色の深い古酒が点々と飛び散っている。

 構わなくていい、と喘ぎながら、右手には空の杯を手にしたまま動けずにいる伯芳の、太股から腹、胸の服地の表面の水分をティッシュで吸い取り、白蘭は男の身体を這い登った。

 胸に顔を寄せるようにして、そっと見上げる。

「すぐに染み抜きをしませんと、上等の白絹に染みが残りますわ。どうかお召し物をお脱ぎくださいまし。…わたくしがいたします」

 睫毛を震わせ、吐息混じりに囁きかける。口にしている言葉には到底そぐわぬ、蟲惑の微笑。

 白蘭は華奢な指を、男の上着の留め金にかけた。脅かさぬよう音も立てず、慣れた手際で外していく。外しながら、驚いて口も聞けずにいる男の唇に、彼女は珊瑚色のそれを合わせた。

 ただただ強張っていた男の唇がほどけ、応えたかと思った刹那。彼女は両肩を掴まれ、そっと引き剥がされた。

「…伯芳さま?」

 しばし、そのままの姿勢で見つめ合う。伯芳は頬を上気させ、今しがたの口付けの甘さをまといつかせながら、だが不可思議なほど生真面目に、白蘭の視線を受け止めていた。きっぱりと彼女を拒んだはずの、肩口を掴む指先にも、傷つけまいという気遣いが感じられる。

「その、あなたはまだ、若い。あなたの将来を金で購うだけの資格が、私にはない。私には、朝民の他に誰かを、守っていけるほどの自信はまだないのだ」

 何を言っているのだろう。

 金で一夜の身を売る、芸妓の将来を言い出した男など、これまでに見たことがない。おそらくこの先もそうそうは見ないだろう。一夜の夢が欲しければ、一夜限りの代金を支払い、楽しむ。それが権力者の常であり、心もなく媚を売り篭絡し、金と命をこぼして行ってもらうのが、彼女たち支配される者たちの常だったはずだ。

 虐げる者と、踏みしだかれながら抵抗する者、互いに行き来する情はない。相手に、守るべき家族があり、温かい血が流れていることさえ考えたこともなかった。

「明日、なんて申しませんわ。ただ今宵限り、お傍においていただければそれで…」

「それは、できない」

 伯芳はきっぱりと言った。

「あなたの名は、白蘭。…私の母と、同じなのだ」

 体から、力が抜けるような気がした。

 それでは生涯、この男は白蘭というごくありふれた名の妓女を、一人も抱かず過ごすつもりなのか。李朝民の他には誰一人、彼のうちに招じ入れられることはないのか。

 そっと、彼女は抱き上げられた。

 これほどまでに軽々と、高く抱き上げられたのは初めてで、白蘭は自分がいかにも小さく、羽根のように軽く、風にも耐えない花にでもなったような錯覚に陥った。事実、彼女はまだ温かい庇護の必要な、そんな年齢ではあったのだが。

 先ほどまで李が座していた上座のソファに、白蘭は降ろされた。

「もう私に気を遣うことはない。眠くなったら向かいの部屋を使うといい。ここにいたいのなら、それでも構わないが」

 伯芳は相変わらず無表情だったが、事務的な物言いの底にたゆたう思いやりと、気恥ずかしさが白蘭には伝わった。

「…お召し物が染みになりますわ」

「いい。もう乾いた」

 伯芳は素っ気なく応え、元の自分の座席、白蘭から最も離れた、はす向かいの数センチ後退したソファに戻った。

 それから少し疲れたように閉じた瞼を指先で軽く揉み…そのまま動かなくなった。

「…伯芳さま?」

 頃合を見計らって小さく呼ぶ。応えはない。

「伯芳さま」

 少し声を大きくしても、同じだった。白蘭はソファを滑り降り、そっと近寄る。頭を支える腕に触れると、呆気なく肘掛に崩れた。閉じた瞼に前髪がさらりと散り掛かる。

 昏睡している。先ほどの、氷砂糖に混ぜて溶かした睡眠薬がようやく効いたのだ。

 鈍い男は、薬の効きも鈍いのね。

 深く眠り込んでいる端正な顔に、白蘭は嫣然と微笑みかけた。ただちに命を奪う毒薬でも、刃でとどめを刺す痺薬でもなく、ただの睡眠薬を使ったのは、こうして寝顔を眺めるためだったのか。

 白蘭はのろのろと男の頬に指を伸ばし、触れる前に手を引いた。

 彼女には、果たさねばならぬ使命がある。

 白蘭一人であったならば、或いは使命を投げ出し、己一人の命を捨てる覚悟でその素性を晒し、ここに留まることも出来たかもしれない。

 だが、刺客として残った白蘭の行動は一座の者の命をも危うくする。現に伯芳は、一座の者の宿くらい調べればすぐにわかると言っていた。それはつまり、そのような事態への彼ら組織の備えでもあるのだ。名も知らぬ他人から香主殺害の依頼を受けたというだけでも、彼らが黒社会の制裁を免れるとは思えなかった。幼くして親に死に別れた姉弟を、刺客という呪われた家業であれ、育ててくれた一座の者には、少なからず恩義がある。

 そのうえ彼女の弟が、冷酷非道の噂を持つ双龍頭の香主の掌中にある。

 大人しくやさしい気立てで、姐々(ちぇちぇ)、姐々と年齢の変わらぬ白蘭の背に隠れてばかりいた。死に別れた両親のためにも、燕飛を一人前の大人に育て、ささやかながら家名を残さねば。

 燕飛は今頃、震えながら李の夜伽を務め、刺客の使命を果たそうと一人闇に闘っているはずだった。

 白蘭は部屋の照明を落すと、奥のドアに忍び寄り、耳をつけた。木製に見える黒塗りのドアは、防音措置が施されているのか、中の物音は聞こえてこない。

 数秒逡巡して、音を立てぬように袖口の布を絡め、ドアノブを回す。鍵はかかっていないようだ。用心して僅かな隙間をこじ開け、様子を窺う。室内に灯りはなく、慣れるまでに時間がかかった。

 寝台の周囲には、天蓋というほどではないが、薄い紗が張り巡らされていた。窓に映る街の灯に、人影が影絵のようにうごめいている。

 枕らしきものが向こう側に見えるが、載っているのは足先のようだ。室内を埋めているのが、風の音ではなく、変声期の燕飛のかすかに喘ぐ吐息だと気付き、白蘭はぎくりと身を強張らせる。

 暗くて状況が見えない。既に李を仕留めたのか、それとも身を任せ息を殺してまだ隙を窺っているのか。

 紗の向うに見えていた華奢な影が、身悶えして堪えきれぬ嬌声を上げる。燕飛が、李に跨っているのだろう。白蘭はいたたまれずに目をそむけ、意識して無感動な視線を戻した。

「何故、私に従わぬ」

 李の声が響いてくる。わずかな息の乱れはあるが、燕飛の尋常でない呼吸音に比べ、ひどく落ち着き払っていた。

「力ない者は、力ある者からより力ある者へと、服従先を変えていけばいい。それが生きる術ではないのか。流れに逆らえば死を招く。わかっているだろうに、愚かな事を」

 燕飛は上下に揺さぶられ、喉を掠れた悲鳴と忙しない吐息とに喘がせている。そんなにも下から突き上げては、経験の少ない燕飛には辛いばかりであろうに。息も絶え絶えに、燕飛はうわごとを漏らしている。

「…あ、あなたに、殺されたい、と思ったから。

 何人もの、人を、殺してきて、僕を殺して、くれる人を、ずっと探してた。それが、あなた、だ。…朝民、朝民!」

 どうも、様子がおかしい。燕飛は標的に何を言っているのだ。

「朝、朝民…っ!」

 燕飛と思しき華奢な影が、紗の向こうで仰け反り、異常な動きでがくがくと震える。

 胸騒ぎにドアを押し開いた白蘭の鼻先に、血のにおいが流れ込んだ。

「燕飛っ!」

 我を忘れて寝台に駆け寄る。

 紗を引き剥ぐと、闇に黒い血の花が、燕飛の胸一杯に咲いていた。

 いつから刺さっていたのだろう、宝剣に縫いとめられた不吉な死の花は黒々とした花弁を下方に広げ、脈々と滴り、そのまま李朝民の腹の上まで落ちている。闇に輝く宝剣の柄を握り締めた燕飛の両手には、李の手が重ねられていた。

 燕飛は、失敗したのだ。李に跨り、その喉笛に獲物を突き立てようとして、そのまま自分の胸に返されたのだ。

「李朝民、覚悟!」

 電光石火で白蘭は襲い掛かった。もとより、部屋に入る前に剣の鞘ははらってあった。

 ここで李を殺し、役目を果たせば、燕飛の胸を貫く毒の解毒剤を座長にもらえるかもしれない。傷は深いが、時間をかければ癒えぬこともあるまい。

 だが、燕飛を抱き、無防備なはずの李の喉笛に、振り下ろした刃はついに届かなかった。阻んだのは、瑞々しく幼い白い背。

「ごめんね、姐々…」

 不可思議に冴え冴えとした視界の角で、燕飛のまだあどけない顔が笑いに引き歪む。その背に深々と刃を突き立てているのは、他ならぬ白蘭の手。

 目の前の事態が、見えてはいるが、把握できない。

「燕飛、どうして…?」

 ふらつく白蘭を、背後から誰かが支えた。

 逞しい筋肉の感触は伯芳だろう。睡眠剤の効果はまだまだ切れておらぬだろうに、寝所の異変を聞きつけて起きてきたのか。

 そういえば、何度も繰り返し彼は言っていた。今晩ここを動くわけにはいかない、と。あれはそうか、このような事態を察知していたのだ。白蘭に見せた思わぬ優しさも、誠実さも、同じ源に持ちながら、彼の穢れなき魂は李朝民を守るためだけに存在するのだ。

 李が身を起こし、こと切れた燕飛の身体から自身を無造作に引き抜く。

「伯芳、刺客だ。その女も始末して、今すぐに座長を洗え。末端の暗殺団だろうが、どこの組織から依頼を受けたか突き止め、徹底的に潰せ。

 李朝民の怒りに触れた者は、一人も生かしてはおかん」

 是的、と冷たく無機質な返事が背後で響く。

 そこにあるのが、酷薄な修羅の顔であるのか、若く純潔な青年の顔であるのか、白蘭は振り返ろうとした。だが、その目に映るものを認識するより早く、彼女の意識は途絶えていた。
 


 

沈夢さんのお家に行ってみる!!

………だからどうした?
まあ、貴方にとってはこれは日常ですかね。分かんねーよな〜、腰巾着君の判断基準は。可愛いお姉ちゃんに心ときめく事だって有るだろうに、李のが大事?
腰巾着とお前に言われる筋合いはない! ……当たり前だ。俺は朝民の為に有るのだから、敵の始末は当然の使命だ。
身内でも殺せますか。例えば、妻や子供が出来たとして、その人達も。
……当然だ。
一番ひでーのはあんただわ。
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