by 大樹
伯芳は荒い息を必死になって整えていた。 まだ「敵」の気配は消えてはいない。必ずどこからかこちらの様子を探っているはずだった。くやしいが、今の伯芳には相手の位置や人数まで察知するだけの能力はなかった。 今はただ、自分が守るべき李朝民からできるだけ「敵」を引き離す事だけが伯芳にできるすべてだった。 街中と違い、灯りがほとんどない夜の波止場に追い込まれたのはかなり痛い。恐らく、ひとつしかない出入り口はすでに押さえられているだろう。 伯芳は右手に持った銃を見る。すでに弾倉は空だった。それでも捨てずに腰に挿すと、代わりにナイフを取り出した。 朝民のために命を投げ出す覚悟はあるが、今がまだその時でない事はわかっていた。だから最後の最後まで生き残るために伯芳は動いている。 命を落とすならば、「敵」の正体を見極めた上でさらに後の禍根を絶つのが何よりも朝民のためになると思ったからだ。 今回、朝民の外出先での襲撃は用意周到なものだった。明らかに内部の「敵」だろう。伯芳には「敵」の心当たりは考えるのも億劫なほどにある。だが一番の有力候補はやはり黄玉月(ホアンユイユエ)だろうと思った。 香主の座を狙う者達の中で、一番朝民に敵対する位置にあの男はいる。実力も才能もある朝民だが、現在の姿はまだ子供だった。成長期が始まる前に手を打とうという魂胆が丸見えだ。 幸いにも襲撃は失敗に終わり、朝民は無事に滞在先に帰れただろう。しかし、敵を引き付ける役を買った集団は一人減り、二人減り、今では伯芳一人となっていた。 さて、どうやってここから脱出するか・・・とそこまで思考を巡らせていた時、伯芳の耳にかすかだが足音が入る。 一呼吸おいて、伯芳は積み上げられた材木の上に乗り、影に隠れる。 やがて二人組の男が周囲を探りながらやって来た。 その内の一人が自分の方に近づいてくるのを見て、伯芳は息を殺して待つ。相手が自分の真下に来ると音もなく背後に降り立ち、振り向く間も与えずに、左手で口を塞ぎ、右手のナイフを前に回して肋骨の間を縫うようにして心臓を一突きする。肉にめり込む確かな感触が伝わると手首を捻ってからナイフを抜いた。心臓を抉られた男は声も立てずに絶命する。 倒れる男の体を数瞬支えて、ゆっくりと地面に降ろしてからもう一人の行動を伯芳は窺った。幸いな事に、相手はまだ異変に気がついていないようだった。足元に転がっている男の上着を探ると一丁の銃が出てきた。伯芳はそれを手に入れると弾を確かめてから、先ほどまで腰に挿していた銃と交換する。 伯芳は空の銃を手にしたままで、ようやく相棒の姿が見えなくなった事に気がついた男の後背に木材の影を利用しながらゆっくりと回った。 相手との距離を測り、充分に踏み込める位置にまで来ると手の中の銃を宙に放り投げる。どこかしらに当たり、静かな闇の中に音を立てる。 一瞬、男はそちらに気を取られる。伯芳にはそれで充分だった。 勢いよく相手の懐に飛び込むと素早い動作で口を塞いでから、ナイフを心臓に突き立てる。 仕留めた事を確認すると、この男からも銃を捜して同じ種類だと分かると弾倉だけを抜き取った。それから手際よく上着を剥ぎ取る。やや大きいが伯芳はそのまま上から上着を羽織った。いつもの白いスーツでは夜目に目立ってしまい不利だからだ。 こちらの位置を悟られる事のないように、出来るだけ銃の使用は避けたいところだった。そうなると必然的にナイフか拳法による接近戦、しかもゲリラ的攻撃方法に持ち込まなければならず、現在の伯芳の実力ではかなりの無理がある。 夜明けまで持ちこたえれば、この人気のない波止場にも否応なしに人はやってくる。それまで、隠れ潜むほかに伯芳には手立てがなかった。 どれくらい時間が経過しただろうか。 いい加減、伯芳の疲労もピークに達していた。材木に寄りかかり、闇の中の一点を見据える。手足の強張りを感じて、少し体を動かした。 大丈夫、まだ戦える。 伯芳は自分自身に言い聞かせた。 少年から青年に移り変わる途中の、まだ大人になりきらない優しい顔立ちが険しい表情になる。 その時だった。 伯芳の潜んでいた場所から近い所に積み重ねられた材木が大きな音を立てて崩れ落ちたのだ。その一瞬後に赤い火の手が上がる。 「! 炙り出す気か?」 炎と煙に巻かれては危険だと察して、伯芳は移動する。しかし、この場合煙を避けるにはどうしても風上に逃げなければならなかった。方向を探る側から次々と火柱が上がっていくのを見て、完全にしてやられた事を伯芳は悟った。 逃走ルートを限定するように火は放たれている。おそらくどの方向に逃げても、敵は待ち伏せているだろう。 すべて条件が同じならば伯芳の選ぶ道はひとつだった。 「正面突破か・・・」 ナイフを仕舞って、再び銃を手にしてから伯芳は目の前の道を走り出した。 闇夜を照らす炎のおかげで、先程よりも視界は明るい。敵の方もなりふり構わないと見える。 こちらの姿が見える代わりに、相手の姿も容易に分かった。 「いたぞ! こっちだ!」 敵とてそんなに人数はいないはずだった。それを更に分けているのだ。その点だけが伯芳には有利だ。 銃声と怒号が響く中、伯芳は人影を見るなり銃を撃つ。自分以外はすべて「敵」という状況では確認する手間が省けるというものだ。 三人ほど倒すと、目の前から人の気配が途絶えた。 ここは一気に駆け抜けて、再度身を隠す場所を探すしかない。疲れた体に喝を入れて、走り出す伯芳の後ろで空気を切る音がした。 その動きはもはや本能以外の何物でもなかった。 背筋に悪寒を感じたと同時に、伯芳は体を屈めて横に地面を転がったのだ。小さな音とともに地面にめり込む物を視界の隅に捕らえる。 「指弾(ツータン)?!」 地面にめり込んだ棘の付いた小さな鉛の礫を認めるなり、伯芳は慌てて振り返る。しかし、次の攻撃は避け切れなかった。右手に鋭い痛みを感じ、銃を落とす。続いて左大腿部、右足首、左肩と激痛が走る。銃弾ほどではないが、当座の戦闘力を奪うには充分な衝撃と痛みだった。 思わず地面に膝を付いてしまった伯芳の前に部下を三人従えた男が現れた。 「相変わらずいい腕だな、広(コアン)。おやおや、誰かと思ったら小僧の腰巾着だったのか」 からかうように呟く相手は伯芳の想像した通りの敵だった。 「黄玉月・・・」 吐き捨てるように伯芳がその名を呼ぶと、いきなり黄の側に立っていた男が手元の礫を弾く。 「痛っ!!」 その礫は正確に伯芳の右上腕部にめり込んだ。広と呼ばれた男は指弾の名手であるようだ。 「口の利き方を知らんのはあの小僧と一緒だな」 黄が言う「小僧」とは無論、朝民の事である。実年齢からしてもこの時の朝民は20歳であり、40代の黄からすれば、やはり「小僧」の範囲内である。 「玉月様、こいつをどうします?」 礫を手で弄びながら広が聞く。すでに十人近くも目の前の「小僧その2」に殺されているのだ、ただでは済まさないと無言の内に言っている。 「ふん・・・どうするか」 圧倒的に優位の立場にいる人間はこういう時、実に余裕をもって残虐になりやすい。黄もその一人だった。 「あの生意気な小僧に首を送りつけてやろうか・・・それとも」 わずかに体を動かした伯芳を見逃す事無く、広はまたもや礫を弾く。 「ぐっ!」 傷口を押さえていた伯芳の左手の甲に礫が穿たれる。痛みに伯芳はうずくまった。 その様子を見ていた黄は部下に目で合図する。その意図を察した一人が伯芳に近づいて、やや茶色がかった長めの前髪を掴んで、顔を上げさせた。 白皙といっても過言でない伯芳の肌には汗が滲んでいる。疲労の色と苦痛に歪む表情が相まって、一種独特の艶がそこにはあった。 「思ったよりも整った顔立ちだな。それにまだまだ若い」 あまり間近で伯芳を見る機会がなかった黄は素直にそう言った。 「殺す前に、手間をかけた代償として楽しませてもらおうかな?」 黄の口元には下卑た笑みが浮かんでいた。 意味を察した伯芳は鳥肌が立った。咄嗟に立ち上がろうとしたところを側にいた男に気づかれ、腹を手加減なしで蹴られた。 「っ!!」 声にならない。そのまま、咳き込んだ。その直後無防備な後頭部に一撃を食らい、伯芳は意識を失った。 「うわっ」 まるでゴミを捨てるかのように床に放り投げられ、その衝撃に覚醒して伯芳は思わず声を上げた。両手、両足をロープで縛られてしまい、身動きが取れない。その上、広の礫を受けた傷と蹴られた腹、殴られた後頭部と思い出したように痛み出す。 伯芳は今自分が置かれている状況が理解出来ずにいた。 ここはどこだ? あれからどれくらい時間が経った? 目を開けても真っ暗で何も見えない。ただ、放り出された床が冷たい感触からコンクリートだという事しか分からない。 不自由な体をそれでも使って、伯芳は体勢を整えようとした。 その時、暗かった室内にいきなり灯りが点いた。 それほど明るい照明ではなかったが、暗闇に慣れた目には少々きつく、伯芳は目を細める。だがすぐに目は明るさに順応し、伯芳は連れ込まれた場所を見る事が出来た。 天井の低い一室。四方がコンクリートの壁。窓はない。家具らしい家具は隅に置いてある安物のテーブルとイス。 そしてこの部屋のただひとつの入り口に、黄とその部下の姿を認める事が出来た。 「おや、お早いお目覚めだな。まぁ、起こす手間が省けたというものだ」 楽しそうに黄は言う。 「広」 名前を呼ばれると、広は前に進み出る。その手にはナイフを手にしていた。先ほどまで伯芳が使っていた物だ。 現在の伯芳は銃とナイフ、そして細い針などを仕込んだ上着と靴などが取り上げられた状態であり、身にまとっているのは白いシャツと下着だけである。 「これで仲間を何人も殺してくれたわけか・・・」 刃先を見つめながらそう呟くと、広は伯芳に近づいて身を屈めた。ナイフの先端を首筋に当てる。 気圧されまいと伯芳は広を睨み付けた。 「可愛げのない小僧だな」 そのふてぶてしいまでの態度は黄の気に触る。その言葉が無言の指示となり、広はナイフを瞬時に持ち帰ると、伯芳のシャツを襟元から一気に切り裂いた。布の裂ける耳障りな音がやけに生々しく伯芳の耳を打つ。 広が手を上げて合図をすると入り口に立っていた他の部下達が入ってくる。 改めてその顔を見直すと、どれも伯芳には見知った顔だった。計4人の部下達は間違いなく黄と行動をともにする5人組だ。 「意外と綺麗な肌をしてますね」 素直な感想を一人が述べる。他の者達もにやにやと口元に笑みを浮かべて、伯芳を観賞していた。 「よくもまぁ、好き者の香主や龍頭に目を付けられずにいられたな」 露わになった伯芳の首から胸、下腹部のラインに沿って一同の視線が移動する。普段は詰襟のスーツを身につけて、滅多に着崩す事もない伯芳なのでこの姿は妙にそそるものがある。 「それはどうかな? 案外裏で小遣い稼ぎくらいしてんじゃないのか?」 「あるいは生きた貢ぎ物か? あの李がここまで早く上にきたのもこいつと一緒になって媚を売った成果とか、な」 この一言は伯芳の逆鱗に触れるには充分だった。 「朝民はそんな真似しない! すべては実力と才能だ! それが必要なのはお前達の方だろ!!」 言い終わるが早いか、広の痛烈な平手が伯芳の頬に飛んだ。再度、伯芳の体は床に倒れこむ。一瞬気が遠くなりかけたが、伯芳は気力を振り絞って何とか気絶しないで済んだ。 「まったく、自分の立場をわきまえん奴だな」 苦々しく広は吐き捨てると、伯芳の顎に手をかけて無理矢理自分の方を向かせた。 「少しは可愛げのあるところを見せてみろ。今、お前の命は玉月様の手の中にあるんだが?」 目の前にナイフをちらつかせながら冷たく広は言う。 「俺の命は朝民の物だ」 躊躇いもなく、伯芳は言い切った。 この態度にはさすがに誰もが唖然とする。目の前に転がっているのはまだ20歳にも満たないはずの「子供」であるはずなのだ。いくら双龍頭の人龍といえども、経験は浅い。 しかし、この伯芳のために命を落とした仲間が大勢いるのも事実だった。 「玉月様。私はこいつの泣きっ面を俄然、見たくなりました」 振り返りながら広が黄に言う。 「そうだな広。私もだ」 潔癖とも言える伯芳の精神を完膚までなきに貶める。そんな背徳めいた欲望に黄達は駆られた。 伯芳の体を二人がかりで押さえつける。 一端うつ伏せにして、腰を高く上げさせる格好を取らせた。 「離せ!!」 もがいて逃れようとするが、手足を縛られた状態の抵抗はたかが知れている。 「人龍としての戦闘術や暗殺術、対拷問訓練などは受けているようだが」 広は伯芳の下着をナイフで切り取った。他人に見せる場所でない部分が露わになり、羞恥に伯芳は赤くなる。その反応を横目に楽しんで広はゆっくりと目の前に突き出された尻を撫でる。その気色悪さに伯芳は思わず息を呑んだ。 「『房中術』の訓練は受けていないようだな」 一度部屋を出て行った男が何やらケースを持ってきた。手にしていたのはケースを開けると何やら怪しげな道具ばかりが納められている。その中から軟膏などを入れる容器を取り出し、それを広に手渡す。広はその蓋を開けると匂いを嗅いで中身を確かめた。 差し出された容器から中身をすくうと、初めて広は笑った。 「これから房中術をその体に教えてやろう」 広はそう言うと伯芳の後ろに薬の付いた指を沈める。 「やっ! 貴様!」 塗りこめられる薬が何なのか、これから何をされるのか、それくらい伯芳は分かる。房中術は敵の懐に「夜の伽役」として潜り込んで暗殺する方法だ。人龍の中にはそれを専門とする者もいるが、当然ながら伯芳はその訓練を受ける事はなかった。朝民が必要としたのは「副官」だったのだから。 それに広達がやろうとしているのは「訓練」ではない、ただの「陵辱」だ。相手の思うままになるくらいなら、いっそ舌を噛んで自害するべきか、と伯芳は考えた。 その意図を警戒してか、手の空いていた一人が素早く伯芳の口の中に先ほど切り裂いた下着を丸めて突っ込む。 「ぐ、ぁ」 くぐもった抗議の声は無視されて、行為は続行された。 |